撮影/山田秀隆
電気グルーヴのメンバーとして、DJとして、国内外のフェスやクラブでオーディエンスを絶頂に導く石野卓球さん。そのルーツや、相棒・ピエール瀧さんとの出会い、奇抜すぎた!?インディーズ時代を振り返る。(文・中津海麻子)
◇
――最初に音楽に触れたのは?
幼稚園のころ、オルガン教室に通っていました。今もそうなんだけど左利きで、その矯正のために通わされてたんです。オルガンで利き手の矯正、っていうのがわからないけど(笑)。当時は正直、喜びは見い出せなかった。でも、小学5年か6年でYMOが好きになったとき、家に電子オルガンがあったからすぐにマネできた。それはよかったなと思います。
――YMOのどんなところにひかれたのですか?
歌謡番組に出ているロックバンドよりも洋楽的だったところですね。ビジュアルを見る前に音楽を聴いたんだけど、どんなふうに演奏しているのかがまったく想像つかなかったことにも心をつかまれました。何人でやってるのかもわからないし、ドラムを人間がたたいているとも思わなかった。とにかくあれこれ想像をかき立てられて、「これは未来の音楽だ!」と衝撃を受けたんです。
――自分で音楽をやるようになったのは?
高校のころになると安いシンセサイザーが出てきたので、バイトして手に入れ、バンドを組んで地元静岡のライブハウスで演奏するようになりました。僕、高校に全然なじめなくて、学校大嫌いだったんです。だから、友達はほかの高校のヤツが多かったし、放課後のライブハウスで活動している方が生活の中心だった。
――ピエール瀧さんと出会ったのは?
高1のときでした。瀧は野球部だったんですが、彼のチームメートが僕の幼なじみで、その幼なじみのさらに友達が「お前ら話が合うと思う」と引き合わせてくれた。瀧にはお姉さんがいて、その影響で、YMO経由で海外のニューウェーブのバンドが好きだったんですね。そんなこんなで、よくうちに遊びに来るようになって。
――そして高校時代、ピエール瀧さんらと一緒にテクノバンド「人生」を結成しました。
それまでやっていたバンドよりももっと自由な方向はないだろうか、と。ステージ上で演奏する必要は必ずしもないと思い始めていたんです。というのも、当時の僕はジャーマン・ニューウェーブの前衛的なバンドにすごく影響を受けていたから。たとえばデア・プランは、ステージで自分たちの音楽を流しながら着ぐるみを次々に脱いでいくというパフォーマンスをして、進化論を表現していた。アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンは、楽器じゃなくて電気ノコギリや工事現場に落ちてるような廃材を使って演奏していた。そういうアバンギャルドなバンドにいたく感銘し、楽器をそろえてみんなで演奏するということに全く興味が持てなくなっていたんです。
じゃあ正攻法じゃないスタイルで、と結成したのが「人生」です。僕一人で始めて、多い時には10人ぐらいがステージに登ることも。ライブのたびにメンバーが入れ替わるような変則的なバンドでした。そういうわけで、楽器ができない瀧も誘ったんです。
――音楽もステージもかなり奇抜なバンドだったそうですが、奇抜なメイクもしていたとか?
メイクと言っても、ビジュアル系のアレじゃなくて、ドーランの白塗り。瀧はドラえもんとかゴルゴ13のコスプレとかしてましたね。理由は、素顔でやるのは恥ずかしかったから。仮面みたいなもので、メイクやコスプレという仮面をつけることでちょっと自分に勢いをつける、みたいな気持ちはありましたね。
――そして86年、インディーズでデビューします。きっかけは?
ケラさん(現ケラリーノ・サンドロヴィッチさん)のバンド「有頂天」が静岡でライブをするときに、前座として参加したんです。その後も何回か一緒にやったら、ケラさんから「うちからレコード出さない?」と。で、ケラさんが主宰していたインディーズレーベル「ナゴムレコード」からデビューすることに。それが高3の12月で、これは渡りに船だと、卒業と同時に上京。翌年にナゴムからデビューしました。そのころの僕の中に、音楽以外の仕事に就くっていう選択肢はまったくなかったので。
――「音楽で行くぜ!」みたいな?
そうですね。ゆくゆくはト音記号になりたいな~、まぁ最悪ヘ音記号でもいいけどね、みたいな。バカだったから他の道を考えられなかっただけなんだけど(笑)。もちろん音楽だけで食っていくのは難しいのでバイトを探すんですが、なるべく音楽と関係ない仕事にしよう、と。たとえばレコード屋とか楽器屋で働くと、その仕事が音楽との接点になって、それで満足しちゃいそうだった。本当にやりたい仕事に就くまでは、やりたくないことをするのが仕事だと、なんとなくそんなふうに考えていた。結果的にそれでよかったと思っています。で、化粧品の積み下ろしとかして食いつないでいました。
――デビューした「人生」の反響は?
ちょうどインディーズがブームだったので、それにうまいこと乗っかることができた。ナゴムは変わったバンドが多く、ナゴム系のファンからは受け入れられました。ただ、いわゆるちゃんとしたバンドの人たちからは、「あ、いたの?」みたいに冷ややかな目で見られたり、逆にすげぇ目の敵にされたり。
――ところが、89年に解散します。
地元静岡に戻るメンバーが出てきたこともあったけど、大きかったのは、バンドブームもあってバンド形態になっていってしまったこと。これはあまり未来がないな、と。自分の音楽的な思考や興味が、そのころ盛り上がり始めたヒップホップなどに移っていったこともありました。だから、解散した。
――その後すぐに電気グルーヴを結成します。
ヒップホップに興味はあったけれど、ヒップホップがやりたかったというよりは、テクノもテクノポップもダンスミュージックもエレクトロも……と、あらゆるものを一緒くたにしたような音楽がやりたかった。ちょうど安い値段のサンプラーが出てきて手軽にサンプリングができるようになり、アシッドハウスでいうところのジャックスタイル、つまり、人のものに乗っかっての表現の仕方もすごく新鮮に感じていました。
でも、やりたいことが見えていた一方で、「人生」ではバンドブームに乗り切れず、「プロになれなかった」という誤算があった。だから、音楽を生業(なりわい)にしようとは思わなくなっていた。エロ本の編集者でもやりながら、趣味でやっていこうという気持ちになっていました。趣味ならサンプリングも権利なんか気にしないでガンガンできるんじゃないか、と。
ところが、バンドブームがあまりにも盛り上がったがゆえに、その反動か、世間が「バンドじゃないもの」を探し始めたんですね。3回目か4回目のライブで、ソニーから声がかかった。そしたら不思議なもんで、ほかのレコード会社からも次々と声がかかったんです。「オリジナルどのぐらいあるの?」「まぁ、30~40曲ぐらいっスかねぇ」なんて、本当は6、7曲しかなかったんだけど。そんな感じでだましだましやってたら、結局ソニーが最後までだまされた(笑)。決め手は寿司。担当者と新宿の寿司屋で会って、帰り際に「おみやいいですか?」ってお願いしたら買ってくれたんです。貫一お宮のダイヤモンドじゃないけど、おみやのすしに目がくらみました(笑)。で、ソニーからめでたくメジャーデビューに至った次第でございます。
(後編は8月15日配信予定です)
◇
石野卓球(いしの・たっきゅう)
1967年、静岡県生まれ。1989年にピエール瀧らと「電気グルーヴ」を結成。95年、初のソロアルバム『DOVE LOVES DUB』をリリースし、この頃から本格的にDJとしての活動も開始。97年から海外での活動も積極的に行い、98年にはベルリンで開かれる世界最大のテクノ・フェスティバル「ラブ・パレード」で150万人の前でプレイした。99年から2013年までは、1万人以上を集める日本最大の大型屋内レイヴ「WIRE」を主宰。15年、ニュー・オーダーのニューアルバム「Tutti Frutti」のリミックスを唯一の日本人として担当。16年8月、6年ぶりとなるソロアルバム「LUNATIQUE」をリリース。
石野卓球オフィシャルサイト:http://www.takkyuishino.com/
[PR]
|
クーラーボックス、保冷の極意
ピリ辛「台湾まぜそば」