きょうは「山の日」です。ことしから国民の祝日になりました。国土の大半が緑に包まれたわが国ですが、その恵みに甘えてばかりもいられません。
 
 「山の日」というと、登山などのスポーツ、レジャーが真っ先に頭に浮かぶかもしれません。
 
 ですが二年前、国会で十六番目の祝日と認められた時、改正祝日法には「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する日」と、その趣旨が定められました。
 
 登山としての山の枠を超えて、山々がもたらす自然の多様な恵みについて考える機会にしよう、という考え方です。
 
◆人との関わりに変化
 たしかに山の日を祝日にする運動は、登山関係の山岳団体などが主導してきました。
 
 けれど、制定活動を進めるうちに、山と人との関わりをあらためて見直していく必要が次第に増してきたのでしょう。
 
 国土のおよそ七割を占めている森林や山岳地域で、登山なども含め、「山の恩恵」を取り巻く状況に変化が見られ、ある意味で心配な事態が起きてきたのです。
 
 では、感謝すべき山の恵みとは何を指すのでしょうか。
 
 富士山を抱えた静岡や山梨県をはじめ、岐阜、千葉県など、自治体が条例などで独自に設けている事例がけっこうあるのです。
 
 その一つ、県土の約八割が森林という長野県の取り組みは、山の恵みについて考えるうえで、大いに参考になります。
 
 論議を重ね、県民の声を吸い上げ、一昨年から七月の第四日曜日を「信州 山の日」と決め、さまざまな活動を始めています。
 
 山岳環境学などが専門で制定作業の初めから尽力した信州大理学部の鈴木啓助教授は、こだわりを持って言い切りました。
 
 「山が水源になる水こそが動植物の命をはぐくむ大本」と。
 
 雪国・山形に生まれ育ち、北海道の大学で学び、今また雪深い信州で仕事をし、短期とはいえ南極観測の経験もある鈴木教授にとって、水は、すなわち山に積もる雪や氷と同義語かもしれません。
 
◆動植物の命はぐくむ
 水は循環します。日本列島でいうなら、冬はシベリアで発達した冷たく乾いた空気が日本海という暖流の上に流れ込んで対流が起こり、積雲が次々に発生します。積雲は列島中央に背骨のように連なる山脈にぶつかり、特に日本海側ではたくさん雪が降り積もる。それが春になって解け、土に染み、川になって流れるのです。水はやがて海へと巡り、蒸発し、再び…というように。
 
 中でも山に雪が多い北国の日本海側は、夏でも水不足に悩まされることは少ない。天然のダムとしての雪のおかげなのです。
 
 こうして、山が源の水が森の枝葉や土に染み渡って、よりおいしい水になる。森のちりやほこりを取り払い、光合成を促して新鮮な空気を運んでもくれます。
 
 植物や動物の命をはぐくみ、私たち人間に季節の食材を提供してくれます。農林業など人々の暮らしの営みの支えとなっています。登山やスキーなどのレジャーや、自然との触れ合いも満たしてくれているのです。
 
 水が、健全な森や山々の営みの現在や未来を生かしも殺しもします。その逆もまたしかりです。
 
 ところが近年、山の手入れ不足などが原因とされる森の保水力の低下で山崩れや河川災害への影響が顕著になっているほか、シカやイノシシなど野生鳥獣の食害の拡大など、山の多様性が脅かされている事態が目につくようになってきています。
 
 一見、水には関係ないような事柄でも、水や山が傷つき、悲鳴を上げている兆しかもしれません。
 
 森林県の信州の子どもでさえ、山や自然と触れる機会が減ったという危機感があります。ですから長野の「山の日」は親子で自然体験ができるようにと、夏休み期間中の日曜日を選びました。
 
 「本格的な山でなく、親子で裏山を歩くだけでもいいんです。あるいは手入れが行き届いた山とは全然別世界みたいな所へ」と、鈴木教授が勧めます。
 
◆森がつくる味と匂い
 別世界−。たとえば南極のような所へ行けば、森や木々のありがたみがよくわかるでしょう。
 
 鈴木教授と同じように南極観測隊経験がある名古屋市科学館の学芸員、小塩哲朗さんは「雪を溶かした物質としての水はあっても、味がありません」「大気はかなり清潔だけれど、匂いがない」と言います。
 
 まるで無菌室。森林のように樹木も落ち葉もないからです。
 
 水も山も補い合っています。同様に、山と海の文化も補い合い、次代へ継承したいものです。
 
 
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