少年が抱いた大きな夢
12年前の夏、長崎県から上京したばかりの1人の体操少年は、下宿先の部屋のテレビでアテネオリンピックの体操男子団体決勝にくぎづけになっていました。
15歳のその少年は、自分が不得意だった鉄棒で、冨田洋之さんが「伸身の新月面」で着地を決めて、日本が28年ぶりの金メダルを獲得したその瞬間、「体を雷が走ったような衝撃」を感じたといいます。
少年の名は内村航平。そのときから「最後に鉄棒で着地し、団体金メダルをとる」ことが追い求める夢となりました。
史上最高の体操選手
個人総合では、ロンドンオリンピックで優勝し、世界選手権は前人未踏の6連覇。
国際体操連盟技術委員会のブッチャー委員長は「高い技の難度と出来栄えを両立し、世界中の体操選手の目標となる存在で、歴史上最高の選手だ」と内村選手に最大限の賛辞を送ります。
遠い五輪団体金メダル
その内村選手が唯一手にしていなかったのがオリンピックの団体金メダルでした。
オリンピック初出場で「右も左もわからず、がむしゃらだった」という、チーム最年少で臨んだ北京大会は中国に及ばず銀メダル。
チームを引っ張るエースとして臨んだロンドン大会。技の難度で勝る中国に1人で対抗しようと、大会直前に難しい技を取り入れた影響で練習のときから余裕をなくし、本番ではみずからもミスを連発。連鎖して相次いだチームメートのミスを食い止めることも、嫌なムードを払拭(ふっしょく)することもできず、中国に大差をつけられた銀メダルでした。
内村選手は「『世界一になるには、世界一練習をする』と思って突っ走っていたけど、周りの選手はそこまで思っていなかった。本番は仲間を支える余裕もなく、雰囲気を立て直せなかった。みんなを鼓舞していかなきゃ、金は取れない」と反省し、それからの4年間、常に団体金メダルを目標に掲げ、仲間を引っ張り続けました。
ロンドンの教訓を胸に
練習では積極的にアドバイスを送る姿が目立つようになり、内村選手の強い思いが、徐々に浸透していきました。
去年の世界選手権の直前、内村選手は、次のエースとして期待される加藤凌平選手が左足首のけがで出場を迷っていた際、「俺なら痛くても出る。団体で勝つにはお前の力が必要だ」と伝えました。
加藤選手は、覚悟を決めて大会に臨み、痛む足で着地を止めて37年ぶりの団体金メダルに貢献しました。
仲間の成長を促す一方で、みずからも極限まで演技を磨く練習に力を入れて取り組みました。それが6種目すべてを試合どおり演技する「一本通し」。どんな時間、どんな場所でもいつも同じ演技ができるよう、熟練度を高めます。
ロンドン大会で落下のミスがあったあん馬では、「ここは体育館じゃなくて、崖の先端。絶対落ちることができない」とプレッシャーをかけて臨んできました。
すべてはリオデジャネイロでの団体決勝のために。体操選手としてはベテランの27歳になり、「起きていても寝ていても、何をしていても常に腰が痛い。足首はねんざのしすぎで、テーピングをしていないとぶらぶらする」という満身創いの体ながら、12年前に描いた夢のため、ひたすら練習を重ねました。
ミス相次いだ予選
優勝候補筆頭として臨んだリオデジャネイロオリンピックの団体予選。チームは序盤からミスが相次ぎ、内村選手自身も鉄棒で落下して、予選は4位。決勝に不安を残したかに見えました。
しかし、内村選手は「失敗の原因は、それぞれがわかっている。何が何だかわからなかったロンドンとは、状況が違う」と話し、修正に自信を見せていました。
決勝までに何が
予選と決勝の間の1日、練習場には、黙々と課題に取り組む、5人の姿があったといいます。
アテネ大会でも団体金メダルを支えた森泉貴博コーチは「内村には鉄棒の落下について技術的な指摘をしたが、本人もわかっていて、淡々と修正していた。加藤はストレッチだけ。山室は1つ1つの技を丁寧に確認していた。それぞれやるべきことをやっていて、ここまで来たら、できるのは選手を信じることだけだと思った」と最後の練習を振り返りました。
翌日の決勝、1時間半前。予選で内村選手が落下した鉄棒に、日本の水鳥寿思監督と畠田好章コーチが、必死で滑り止めの粉をすり込む姿がありました。「少しでも不安なく、自信を持って演技させたい」というスタッフの思いでした。
いざ決勝
迎えた決勝。最初のあん馬、一番重圧がかかる1人目は内村選手。「一本通し」で磨き抜いた安定感を発揮し、ほぼ完ぺきな演技で滑り出します。
しかし、続く山室光史選手が落下。ミスが相次ぎ崩れた4年前のロンドンを思わせる嫌なムードになります。
しかし、次の加藤選手が「航平さんの信頼に応えたい」と鍛え抜いた、ミスのない演技で、嫌な流れを断ち切ります。
続くつり輪は山室選手。ロンドン大会では跳馬の着地に失敗して左足を骨折、その後長くけがに苦しみながら、「大学からの同級生、航平と一緒に戦いたい」と努力を続けて、オリンピックの舞台に戻って来ました。得意種目の最終演技者としてしっかり着地を止めて役割を果たし、その後は、仲間の演技に声援を送り、雰囲気を盛り上げました。
跳馬では、内村選手が「この種目の競技人生のゴール」と位置づけ、リオデジャネイロの舞台へ修正を重ねてきた大技「リー・シャオペン」で高得点をマークします。
さらに、初出場の19歳、白井健三選手が、みずからの名前がついた3回ひねりの大技を完ぺきに決めて、チームを勢いづけます。
後半、勝負へ
後半に入って、最初の種目は平行棒。1人目の演技者は、田中佑典選手でした。予選はこの得意種目でミスが出ましたが、「団体金メダルのためにロンドンから4年間やってきた。この特別な舞台で思い切ってやるだけ」と気持ちを切り替えていました。
内村選手が、「足先まで伸びた姿勢。正確な技は日本で一番美しい」とたたえる世界トップレベルの演技で着地まで完璧に決めました。
田中選手はうまさと勝負強さを発揮して、完成度を示すEスコアはこの種目で全体のトップをマークし、流れを一気に日本に引き寄せました。
このあと、内村選手が平行棒でバランスを崩し、鉄棒では車輪が逆回転になるなど、ふだん見られないミスが出ました。それでも、加藤選手と田中選手がしっかりカバーし、5種目を終えてトップに立って最後のゆかへ。
ゆかの最初は、白井選手。持ち味のひねり技を見せつけ、16点台の驚異的な得点を出し、勝利を決定づけました。
最後はエース、内村選手。鉄棒を終えてすぐの演技となり疲れ果てた状態でしたが、それでも意地で着地まで成功させ、2004年アテネ大会以来12年ぶりの団体金メダルを決めました。
仲間とつかんだ金メダル
悲願の金メダルは、12年前に内村選手が思い描いた、「鉄棒で決める」形にはなりませんでしたが、仲間と支え合った末に生まれた最高の結果でした。
オリンピックの表彰台の真ん中に初めてメンバーと上がった内村選手は、金メダルを胸に、「この金メダルはこれまでの頑張りが加わりとても重く感じる。僕たちの歴史を作り出すことができた」と満面の笑みを見せました。
内村選手は、「太『平』洋を『航(わたる)』ような活躍をしてほしい」という名前に込められた思いを体現し、太平洋を渡ったリオデジャネイロで偉業を成し遂げました。
この勝利は、内村選手1人の力ではなく、同じ夢を追い求めたメンバーが一丸となってつかんだものです。そして、この団体金メダルは、内村選手が12年前感じたのと同じように体操少年をはじめ多くの人に夢と感動を与え、4年後の東京、さらにその先の未来へとつながっていくと思います。
体操ニッポン、復活。そして、新たな黄金時代への第一歩となることを、期待したいと思います。
- スポーツニュース部
- 高橋 直哉 記者