保守とリベラルというアメリカ方言でものを考えるのはもうやめよう
今一番いきのいい政治思想研究者の宇野重規さんと、神出鬼没の山本一郎さんが対談しているんですが、
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/08/1-19.php(「保守」「リベラル」で思考停止するのはもうやめよう~宇野重規×山本一郎対談)
いやだから、何よりかにより、近代社会の基本構造では、保守の反対語は革新、進歩主義であり、リベラルの反対語はソーシャルなのだから、こういう本来対にならないのを対にして「もうやめよう」とかいうのもそろそろもうやめたいところなんですけど。
つうかさ、だいたいリベラル・デモクラティック・パーティ(自由民主党)から分裂してできたいろんな政党の一つのなれの果てが「自由党」(リベラル・パーティ)と名乗り(いわゆる自自公政権)、それがさらに分裂して「保守党」(コンサバティブ・パーティ)になった(いわゆる自公保政権)んだから、20世紀末の日本でも、ほぼ「保守」≑「リベラル」だったはずなんですけどね。
(参考)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-787c.html(自民党は今でもリベラルと名乗っている唯一の政党である件について)
・・・「左翼=リベラルというイメージがしっかり張り付い」たまま、「リベ=サヨ」を目の敵にするいわゆるネトウヨの諸氏は、やはり一度、自由民主党の英語名を復誦してみるところから始めた方がいいのかもしれません。
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コメント
社会学者アンデルセンの福祉国家分類はこれにこそ利用価値がありそうで、リベラル、コーポラティズム、ソーシャル・デモクラシーの3つにいずれの国が属するとしているかで”めざめ”の気付け薬として有効かもしれせんねえ。当然政治思想は各国でその文化的価値観を含め姿を変えて存在しておりますから、俯瞰で観るにはいいかもしれませんね。
ただ、日本の政党は右から左まで”ある唯一の存在への見方”以外はソーシャルではないでしょうかね。
投稿: kohchan | 2016年8月10日 (水) 10時52分
確かに保守対リベラルという「アメリカ方言」は随分と混乱の元凶になってきたように思いますが、この問題、存外奥が深いというか底知れぬ諸論点が凝縮しているかも知れないと、いまさらながら、ふと思いついたところです。まずもって、何が保守で何が革新かという対立軸は歴史的にというか、時系列的に変化することもあるだろうというのが、思いついたひとつです。リベラル=自由主義の起源というのもおそらく諸説あるのでしょうが、さしあたりホッブスとか、特にロックの社会契約説における財産の自由(蓄積と処分の自由と保護)あたりに時点を定めると、明らかにブルジョワ的自由主義が革新であって、アンシャンレジウムに郷愁を持つ勢力が保守ですわな。これが19世紀中葉くらいになって、ブルジョワ的社会契約からは何も得るところのない庶民、無産階級のみなさんが表舞台に登場してくると、街頭の圧力で議会を締め上げるこの方々のソーシャルが革新でリベラルは保守の位置に移動しちゃうわけですね。そしてこの19世紀中葉移行の枠組みが概ね今日まで続いているとも見られるわけですが、これが多分アメリカでは18世紀に輸入された自由主義思想が独立宣言に反映されて、無産階級の洗礼を受けることなくズルズルっと今日までリベラルは革新だって神話のまま来て、いまやっと民主的社会主義者サンダース一派によってソーシャルとの対抗関係が見えはじめたってところでしょうか。ただここに政治体制または思想としてのデモクラシーという軸を据えると、話がまた少しややこしくなって、かつてかくしんであったリベラルはアンシャンレジウムの封建的ないしは王権神授的秩序に対してデモクラシーを対置したわけですが、ソーシャルから攻勢を受けたあともリベラルはデモクラシーを「堅持」していて自由民主党などという政党もあるくらいなのですがソーシャルもまた社会民主主義を標榜することで、いわば民主主義の本家争い、元祖と本家の鞘当みたいことになっていたのが四半世紀ほど前までの話。ここにネオリベラリズム=新自由主義という新参者が介入して一層混迷が深まったのが全世紀末から21世紀の現状でしょう。まったくの私見ですが、このネオリベというのは民主主義と相性の悪い、政治的にはアンシャンレジウムに先祖がえりした、つまり政治権力と体制の経済的基盤が癒着して民衆を搾取するシステムだとみなされます。すると何が革新で何が保守なんでしょうか。よく分かりませんが、はっきりしているのは、わたしは革新犯だということだけ。
投稿: Hayachan | 2016年8月10日 (水) 15時44分
本ブログ・エントリをもろにまるごと受け入れると事実上の無謬結社の様相を呈しますから、是は是、非は非部分を明確化され(たまにはおちゃらけで・・・私を「おまえだろ」とご批判ください)コメントされるとよろしいかと存じます。
私見ですが新自由主義と冠付けただけで、簡易に遡ってもクセノポンの時代=プラトン時代にはすでにその息吹はありましたし、そもそもソーシャリズム自体が進歩かどうかは別次元のお話しで、これすら誰が支配するかどうかのレベルでそれが階級等々でその思想家が自説に都合よく合わせ、誰かが都合よく利用し、誰かが都合よく共鳴した時間軸解釈で要は”自文化中心主義”の様相と考えると意図は理解できます。
ただ、”一派”等々のおそらく業界用語はお使いにならないほうがよろしいかと存じます。本ブログが”アゴラ”に相似してしまいますから。はまちゃん先生が本望であればよろしいですよ(笑い)。揶揄したようにHayachanさんがお感じになられたとしたら私の語彙力の貧弱さであって、真実は興味深く読ませていただきました。
投稿: kohchan | 2016年8月10日 (水) 18時51分
いやいや、それはhayachanさん、仰るとおりではあれど、そういう思想史的な話をするためにいるのが宇野さんなんかのはずで、私の言っているのは市井のごくごく普通の素人な皆さんの単純な言葉遣いが、ほんの20年か30年前とがらりと変わってしまたことなんですよ。
それこそ、今から40年くらい前に、リベラル・デモクラティック・パーティを守旧的だと批判して飛び出した人々が名乗ったのが、ニュー・リベラル・クラブだったわけだし、ほぼ同じ頃、やはりジャパン・ソーシャリスト・パーティを守旧的だと批判して飛び出した人々が名乗ったのが、これまたソーシャル・デモクラティック・フェデレーション(かな?)だったわけですよ。
そういう、出て行こうが残ろうが、リベラルの側はリベラルと名乗り、ソーシャルの側はソーシャルと名乗る、ごくごく普通の欧州的言語感覚の通用する社会だったんです、日本は。
それが今や・・・・・・
投稿: hamachan | 2016年8月10日 (水) 20時01分