次世代へ伝える使命…被爆2世と今年認定
石川県白山市の池田治夫さん(61)は、初めて遺族として平和記念式典に参列した。広島で被爆した父が病死したのは、被爆者健康手帳制度の開始直後で、被爆者の申請をしないままだった。池田さんは今年6月、被爆2世としての自らの立場を明確にしようと、広島市に申請して認められた。焦土で父は何を見たのか。残りの人生をかけて事実に近づきたいと考えている。【石川裕士】
父昭さんは当時20歳。1945年2月に海軍に召集され、5月から広島県大竹市にあった潜水学校で、潜水艦乗組員になるために訓練していた。8月6日午後、軍の任務として被爆者救護のため広島市に入り被爆した。
57年5月に昭さんが亡くなった時、2歳だった池田さんには父の記憶はない。被爆体験は母から伝えられ、子どもへの影響を心配していたとも聞いた。だが、詳しい状況は分からず、10代のころは気にも留めなかった。
考えが変わったのは金沢大の学生だった20歳の時だ。いま日本原水爆被害者団体協議会代表委員を務める岩佐幹三さん(87)が政治学を教えていた。夏休み直前にあった政治思想史の授業で、岩佐さんは90分を全て使い、崩れた自宅の屋根の下敷きになった母を救えなかった自らの壮絶な被爆体験を語った。「そんなことになっていたのか」。原爆を自らの問題と捉えるようになった。
仕事の傍ら地域の被爆者団体「石川県原爆被災者友の会」を手伝い始めた。だが、父は公的には被爆者ではない。「自称被爆2世」は、被爆者とどう接すればいいか、距離を測りかねていた。昨年、友の会の事務局長に就いたのを機に、父の軍歴簿などを取り寄せて申請した。
友の会は昨年から、石川県内の被爆者の証言を聞き取り、録画する活動に取り組んでいる。陸軍に召集されて広島で被爆した人にも会い、被爆死した遺体の処理に携わったと聞き、父の姿が重なった。同僚はまだ見つかっていないが、父が広島で何をし、その身に何が起きたのか、解き明かしたい。
この日、初めて父の名前が記された原爆死没者名簿が納められる様子を見て、「ようやく気持ちの整理ができた。被爆2世として親の世代の体験を次世代に伝えていかなければいけない、という自覚がより強くなった」。被爆71年を迎えた広島から新たな一歩を踏み出すつもりだ。