気が付けば・・・
ジュエリー業界では
東の横綱、西の横綱
両横綱から声をかけて頂いて
他の業界からは世界の誰もがその名を知っている
日本国を代表する企業からも今まで声をかけて頂いた。
他県の様々な技術研究機関からも。
皆様、信じられないことに
誰もがこのブログ見てである。
スクール風景もない。講師の写真すらない。
酷いことに住所すら載せてない。
連絡先としてメールと携帯電話番号
ライノで描いたいくつかのデータ画像
それだけしか載ってないこのブログで判断して。
そんな得体のしれない者に
なぜ故、超一流の企業の方々が
興味を持って下さるのか?
やっぱり一流の方々は見る目があるのか?
それともどんなところにも分け入って
情報を集めているのか?
大海を知る者は、ともすると大局しか見ず
井の中の蛙が井の中で密かに何やってるか知らないが
大海の「本質」を知る者は
井の中の蛙の事も全部知ろうとするのかも知れない。
何はともあれ、それらの方々の名前は誰もが知っているので
この私と関係がある事で、その名を貶める可能性もあるので
私の口からその名は出せない。
勉強出来ない、スポーツ出来ない、空気読めない
女性にモテない、人望もない。
そんな私がただ私の強運だけで
そんな「つながり」を引き寄せられるわけがない。
私の何かが良いのだろう。
(ここでは沢山の方々のお蔭があったという話を
抜きにして考えてみる)
自分の何が良いのか?分析しても全然解らない。
自分の欠点はすぐに挙げられる。
もしかしたら物事には善し悪しがあるので私の欠点が
上手く働いて功を奏しているのかもしれない。
ストライクゾーンが異常に狭い。
不純な者を極度に嫌う。
よって友達少ない。
とっても社交的な家内の主婦友つながり
その旦那同士のつながりで
かろうじて日常楽しく暮らしている。
もちろん、私に今まで興味を持ってくれた人は
単に「ライノが上手そう」ということで声をかけて頂いてるだけで
それがなければ、ただのおっさんには間違いないのだが
勉強出来ない私がじゃあなぜそこまでライノを極められたか
ということになると、ストライクゾーンが極度に狭い
不純な者を極度に嫌うという私の性質が何かしら功を奏した気がする。
ともすれば「社会性、協調性が無い」という欠点が
なぜ仕事では今まで功ばかり奏しているのか?
そこを一度ジックリ自己分析してみたい。
どーも最近、「その気」が続かない。
世間はオリンピック。
CADの話なんて・・・(笑)
ブログをまるっきり休止にすると
色んな風の便りがあります(笑)
たまには書いた方が良いのかなぁ。
正しい「風の便り」をお待ちしております。
本来のCADブログに戻ろうかと度々試みましたが
そうしようとする度に
益々CAD関連の事が描けないというか
大事をとって何も描きたくなくなるというか
そういうつながりが増え
それはそれで非常にありがたいことですが
このブログどうしましょ?と最近悩んでいました。
どーでも良いネタを連発して
無理に続けることもないので
当分の間、お休みに致します。
何かありましたらコチラへ
axis@my.email.ne.jp
お盆も近いので
ある人にお盆の事を聞かれた。
たぶんご自分でネットで調べても
「仏教の行事の一つで・・・」というような
答えが多くてなかなか本当の答えにたどり着けないから
答えることにした。
そもそも本来の仏教に「お盆」などというものは全く存在しない。
もっというと先祖供養関連の教えさえ全くない(笑)
仏教が弘まる前に中国、朝鮮半島、日本に儒教が弘まってしまったせいで
仏教をそれらの国に弘めるには親や先祖を大事にする儒教の教えに
迎合するしかなかったから、純粋な仏教の教えにそれらが
混ざってしまったことによる。
仏教は本来、生きてる人のための教え
正しく言うと
生を受けている期間の人のための教えで
「生きたようにしか死ねない」
「しかもそれが来世まで続く」
としか説いておらず
新しい生を再び受ける準備段階に入った
「中庸」期間の立場の人の事さえ説いておらず
死後の世界、死んだ人の事を考えてもしょうがない
というほど実は仏教は超現実的な教えなのだ。
そんな仏教が「死んだご先祖様を供養しなさい」などというわけがない。
そもそも子孫である自分が仏でもない、悩める衆生なんだから
そんな自分が先祖を供養出来るわけがない。
そこで僧侶が登場となるわけだが
「僧侶に読経してもらって先祖供養しなさい」
などという教えも本来の仏教には全くない(笑)
ただ、生きてる人の行いによっては、その福徳が先祖まで回向される
ことは仏教でも説いているが、そもそもかつて先祖であった人は
今はどこかで自分と赤の他人として生きてるのだから
その赤の他人に回向されるということになる(笑)
「死んだ人を供養したい」
これは人間の人間的な自然な心からの発露であるから
無視することはなかなか出来ないが
本来の仏教とはそういったものからかなりズレるところがある。
なぜなら仏教はあくまで3世(過去世・現世・来世)を
見通してどう生きるべきかを教えているので
それがなかなか実感出来ない、信じられない人々の
心象からズレてるのは当然と言えば当然なのだ。
むしろ三世に疎い儒教の教えの方が
人間的な心の自然な発露に近いから受けいられ易い。
色々な事、色んな事情が混ざって出来た古来からのイベント
として「やらなきゃ、なんか寂しい」程度でウチでも毎年やっている。
最初はCADに対する世間の無理解さから
「それをワザワザ手作りする必要がないんじゃないの?」
というところから時代は始まって
あっという間に、どんどんCADに対する依存度が高まって
ともすると
「それはワザワザCADで作る必要がないんじゃないの?」
という時代を通って来た。
そして今では
「本来ならば手で作った方が早いけど
そこだけ手作りというのも余計手間がかかる」
というところまで時代は来てしまっている。
もうそれを「依存」とは呼べない。
「手作り」でやることはCADにはどうしても無理なことだけ
「特殊」な分野のみになってきた。彫、色揚げとか・・・。
(鍛金しなきゃ出来ないことも、今じゃスーパーな地金が
出て来てるのでその必要も無くなりつつある)
あと特殊じゃないが石留、かしめ、磨きとか・・・?
象嵌すらCADで出来なくもない。
(やったことあるけど、地金コストがかかって実際には
採算には無理なレベル)
鎚目だって後で手作りで入れたのかCADで入れたのか
「判る人には判る、それが手作りの良さ」なんて言う人もいるけど
大体その「違いが判る男」が少なくなってきてるんだから(笑)
15年前には想像もつかなかった自分がここにいる。
仕事場にはパソコンしかないのにジュエリーの仕事をしている。
次来る未来の事も今いくら想像しても
想像と違うんだろうね。
ウチのやり方が馴染んだ生徒さんらは皆
ファッションリングを描くのが楽しいみたいです。
長野にお住いのTさんも
随分前から開眼してますが
「最近こんなの描いてみました」
と画像を送ってくれました。
見た目のシンプルさよりも結構難しい
シングルサーフェスのリング。
嘘だと思ったら描いてみれば解る。
でも・・・
これだと無理すればまだまだポリサーフェスでも描けそうだから
もうちょっとデザイン凝らして、これでもかというくらい
「シングルならでは」にしてしまえば、もっと良いですね。
「別にポリサーフェスで描いたっていいじゃん」
ていうケチつける人、絶対いるから(笑)
そういう人を黙らせるには
もっと突き抜けてしまう必要はあります。
しかし、でも・・・
なかなか解ってるというかスジは良いですね。
何が解ってらっしゃるかというと
こういうのになると、コマンドで形を調整というわけにはいかない系
というのが解ってるということです。
ライノと他のCADを併用してる人も多いです。
私も表面をお化粧するときはZブラシを併用してます。
ただ、私の様にライノの最新版と旧バージョンを併用してる人は稀。
全く違うCADの操作方法を一から覚えて併用するよりも
ずっと楽で、しかも結構効果的なんですが
それがなぜか誰も理解出来ない。
アドビのソフトの場合、最新バージョンにアップグレードすると
旧バージョンの仕様権利は無くなります。
ところが、ライノセラスの場合、昔からライノを使用していて
その都度、アップデート版買ってバージョン上げてきた人は
過去のバージョンも併用して使って良いことになっている。
せっかくそれが認められているんだから
昔からライノ使って来た人の
最大の強みなのに誰もそうしない。
もったいないとしか言いようがない。
バージョン上がれば全てにおいて良くなってると誰もが思ってる。
スクールやってる人はウチは特殊ですが
普通は初心者相手だから、最新バージョンしか受講生さんは
手に入らないわけだから、講師、受講生さん共々
旧バージョンに興味を持ってもしょうがないけど
昔からライノ使ってCADオペレータで飯食ってるような人は
旧バージョンに見向きもしないのは物凄く手落ちしたこと
をやってると思う。
5.0じゃ上手く出来ないことが4.0や更に過去のバージョンじゃ
良い結果が出ることは沢山あり過ぎるほどある。
その反対も当然ある。どのバージョンも作業結果が違う。
設定の問題じゃない。設定を変えればなんとかなるというレベルじゃない。
旧バージョン持ってる人は最新と色んな作業結果を比べたら良い。
物凄く世界が広がるというか作業手段が広がることに気が付く。
ウチのスクールで、そういうことも人に教えてやりたいんだけど
流石にスクールでやることじゃない(笑)
良く考えれば・・・
寿司もラーメンも日本のファーストフード。
特に東京のある寿司店。
それの修行が10年というのも格式上げ過ぎる気はする。
修行で身に付けるというより
個人の心意気や才能の問題でしょう。
志高くない人が
いくら10年修行したところで意味がない。
まぁ、辛い修行に10年耐えるってことは
ある程度志ある人なんだろうけど
別に我慢比べやってるわけじゃない。
耐えさえすれば将来バラ色か?
お寺の住職の朝のお勤め
昔は辛い正座に耐えて修行することにも意味があるとされてたけど
今じゃ椅子に座ってやるの当たり前。
録音流してる生臭な住職も問題だけど(笑)
私は絵はアレだけど習字の才能が全くない。
その証拠に娘の才能が全く解らない。
ウチの娘はしょっちゅう習字で賞状もらってる。
つい最近、とうとう凄い賞をもらってきた。
娘の左利き治すために行かせた習字。
結局、エンピツは左利きのまんま習字は右利き。
パパは行かせた甲斐が無いと今でも思ってる。
しかも娘が習字やってるの見てると手本を
あんまり気にしないで書いてる。
手本見て、上手く書こうとか全然思ってない。
「ぜんぜん手本と違うじゃないか!手本を良く見ろ!」
といつも横でイライラするから、それから娘が習字やってるの
見ないことにしている。
でもそれでいつも賞をとる。
じゃあ手本て何のためにあるん?
たしかに、娘は伸び伸び書いている。
手本なんて参考程度で手本に似せようとしてない。
チマチマしてないところは私も解るけど・・・。
私なんか小学校の頃、不正働いて
こっそり手本をトレースしたりして
でも
それでも習字で賞をとったことは一度もない。
才能が無い人って、私の様に
どこを目指すべきなのかすら全然解らないんだね、きっと。
今現在到達してなくても、目指すべきところが解ってる人を
才能がある人というのだろう。
今まで
エキセントリック(変わってる)とか
シーラカンス(旧バージョンも併用)とか
言われたけど、それって必ずしも褒め言葉ではない(笑)
ライノじゃナンバー1とかも色んな方々から言われたけど
それってあっちこっちの方面に角が立つ。
「唯一無二」
最近、そう言われた。
これ、良いですね!
これは完全褒め言葉でもあるし
各方面にもあんまり角が立たない。
「ナンバー1」って強烈過ぎの言葉だし
自分で自分をそう思ったら終わりだとは思っていても
そう言われる度に嬉しさのあまり
「また言われてしまった」と書きたくなる。
「唯一無二」
あざ~~~す!
「オンリ~ワン♪」のあの唄
少しは見直そうっと。
随分前に
いくつかの都合で作ったホームページ
制作途中で放置してたら
編集ページにもたどり着けなくなって
消すに消せず・・・。
あちらは古い情報です。
いい加減ですみません。
検索されてるんですね。
どーしましょ。
以前は
「ライノセラス総合コース」と
聞きたいところだけ聞く「スポットコース」がありました。
「無料体験コース」をご用意してなかったので
それ代わりに、スポットコースで「体験」されて総合コース
を受けられる方が8割、本当に聞きたいことだけ聞いて終了の
人が2割という感じでした。
それ以外の人は、当ブログでの私の描いたデータ画像で信用して
いきなり総合コースを望まれた人も少なくありません。
その後
スポットコースのみ(2割の方)を受けられた人の中で
「また聞きたいことが出て来てしまいました」
という人が大半で、また有料でスポットコースを受けられる人
メールで「ヒントだけでも」と聞かれる人様々でした。
私も以前生徒さんだった人から尋ねられると
有料無料でもそれにお応えしたくなるのは人情というもの。
ただ、私と同じような事が出来る様になるには
人に教えただけじゃ無理で、その人の熟練も必要という
ことを感じるようになり、自分と同じレベルというか
同じ事が出来る様になってもらうためには
教えっぱなしじゃちょっと心配ということで
「スポットコース」は終了しました。
(スポットコースのみで終わる人が少なかったことも理由です)
その代り、頼まれればいつでも
一時間程度の無料体験講習を行うことにしました。
今でもそれは望まれたらやっています。
「総合コース」の意義は
「私と同じことを皆さんにも出来る様になってもらいたい」
言い換えれば
「教えただけじゃ出来ない、熟練が必要な部分は
生徒さんが出来る様になるまで永遠(私が健康な限り)
に面倒を看る」
ということです。
もちろん、講習を受けられる期間が無期限だと
講習半ばの生徒さんがどんどん溜って把握し切れない状況に
なりつつあったので、講習期間は講習時間が満了にならずとも
1年過ぎる毎に部分失効することに決めさせて頂きました。
しかし、ウチの生徒さんだった限り
メールや電話等でのサポートは無期限に受け付けています。
当初、総合コースは今よりもずっと講習時間も多く
料金も高かったのですが、最近の人の傾向として
あまり質問をしてくれないで、私が一方的に教える時間が
多くなりましたので、大目に見ていた時間を削減し
講習料金も減額致しました。
ウチの生徒さんは、永くライノに従事している人ばかりなので
教えれば(やり方を紹介すれば)すぐに出来る部分は
すぐに会得してしまいます。
なかには、どんどん身に付けてしまって
講習時間が余る人もいますが、私とCAD談義などして
楽しんでもらっています。
その反面、そんな呑み込みの良い方々でも
講習終了後も私からのアドイバイスを受け続ける
必要がある部分もあるかと思います。
カリキュラムをこなすのではなく、講習時間がどうのこうのではなく
講習期間中、講習期間後に私のレベルにまで到達してもらうことを
目的としていますし、生徒さんにも納得してもらっています。
決して安くもない講習料金ですが、あなたの求道心次第
では格安な講習料金だと思っています。
あっ、別にスクールのアピールする気はありません。
問い合わせあれば
それをブログネタにさせてもらってるだけです。
一般論として語り直します。
ドキっとされる方々多そうだし(笑)
エーデルワイスの心でいきます。
外で不倫していても妻にはバレず
仕事ちゃんとしていれば家庭円満。
でも実は妻にも子供にもバレていて
あなたは家にお金入れてくれるだけの存在。
実は家庭円満ならぬ家庭崩壊。
ムムっ?
実は私もお金の存在?
なら、どーせなら不倫しなきゃ損でしょ?
なんてね(笑)
私のこと、妻はどう思ってるのか知りませんが
私は妻一人で満足です。
っていうか妻に
「あなたの稼ぎでよくまぁ自分の事
お金の存在と言えるよね」
と言われそうかも(苦笑)
妻に一生着いて行きます。
ウチの家内は気が強い。
だけと思ってたら
心の芯が強く
何があっても大事なことを忘れない
人を幸せに出来る強さがある、また自分自身もそうなる
とても尊敬出来る人だと最近感じた。
今まで、気が強いので喧嘩した時などは「鬼嫁」なんて
彼女のことをののしってたけど、大変な間違いだったことに気が付いた。
今までの反省も含めて、今、妻の事が非常に愛おしい。
とても尊敬出来る。
たとえば・・・
年内にヨーロッパのある国に家族で旅行をしたいなんて
その彼女の話に対しても
「バーロ!その国の歴史もろくに勉強もせんで
珍しい建物見に行ったって浅い楽しみしか出来んだろ」
とか
なんだかんだでいつも妻を下に見てた。
私自身もなんも勉強してないのにね。
最悪の夫だったね。
まるで妻を私の所有物扱いなんだから・・・。
これに懲りて一生妻を大事に致します。
彼女の一番の宝は我が娘。
私の一番の宝はわが娘も含めて
全てを私に与えてくれてる我が妻です。
一家の母は全ての源
太陽です。
仕事とか、大事なこと以外
いろいろ興味なくなったのは
妻と少しでもいたいからです。
手作りの場合
ほとんどが練習し熟練を要する技術が多い。
その点、CADの場合はほとんどが熟練を要しないことが多い。
中にはライノをスクールに通って勉強しながら
人からお金取ってライノを教えてた人も実際にいる。
そんなレベルの人でも「教えて欲しい」という需要があるなら
お金もらって人に教えられる。
そんなこともCADならではの話。
Zブラシのようなスカルプト系のCADになってくると
手作りの場合と同じ要素が色々出てくる。
熟練が必要な部分が多くなる。
ということはライノで描く物は
元々熟練を要しないレベルの物とも思える。
でもかといってそうでもない所もある。
その非常に微妙な「所」を正確に理解してくれる人はなかなかいない。
その微妙な所は出来上がったデータで
やっと一目瞭然とはなるというところは
手作りに近いんだと思うけど
Zブラシのそれとはまた全然違う。
言葉じゃなかなか説明出来ないから
たとえば・・・
私が以前シングルサーフェスからサイの頭描いた。
角を生やすだけなら簡単だけど、耳まで生やした。
ああいうことは一般的には必要ない作業だけど
たまにライノでああいう習作をやると
(ブログネタでやると)
というか楽々出来る様になると・・・がある意味熟練。
それはどれだけ便利なことか。
少々厄介そうなリングが仕事出来ても
楽しく、意外と楽々描けてしまう。
本当の便利さというのはそういうことではなかろうか?
久しぶりにCADのお話
普通、スクールで教えることは
全然何も解らない初心者に「知識」として教えれば
すぐに出来る事を教えます。
他のスクールでは教えていない裏ワザレベルの高度なテクニックでも
「知識」として教えれば初心者でもすぐに出来る事も沢山あります。
そういう知識は忘れたらテキストで補えます。
そのレベルだったら
スクール終了したら、スクールでやったことは
大体テキストで補えます。
それ以外に
実務でかなり描いて来て、ライノの操作方法や数々の知識を持った
ベテランの人でも、「やり方・裏ワザ」の「知識」として
教えただけでは、理屈は解っても身につかない「技術」があります。
要するに熟練を要する技術です。
ウチのスクールは前者後者、それらの割合が半々くらいです。
教えても私のようにはなかなか描けない。
でも教えない限りは私の真似出来ない。
テキストで伝えられるのは知識だけです。
ですから、結局スクール終わっても
その人が熟練するまではウチが永遠、面倒を看る必要があります。
そんなわけで、一度テキストを作ろうと致しましたが
どんなに頑張ってもテキストで伝えられることは
大したことないことばかり・・・。
しかも、ウチに来られる方々はベテランの方々ばかりなので
テキストに出来るようなレベルのことは
教えたその場で身についてしまうから益々
何をテキストにしたら良いのか困ってしまいます。
かなり色んなことを割り切らないと
テキストとして形にはなりませんでした。
しかし、テキストをお約束した生徒さんも
数多くいますので、出来る限りウチならではのテキストを心掛けた
つもりではありますが、ついにそろそろお配り出来そうな感じになりつつあります。
(まだ言い切れないのかよって感じですが)
途中、一般販売向けに路線変更なんて話もあって調整に次ぐ調整で
遅くなってしまいました。
今回を最後に
もうこんりんざい、テキスト作ろうなんて思いません。
最近、縄文時代にちょっとハマっている。
近年、日本の縄文時代が世界的に注目され見直されている。
稲作が始まる前の狩猟民は遅れた文明だと思われていたが
そうではないことが解って来たのだ。
狩猟民でありながら生まれて死ぬまで同じところに定住出来る
システムを持ち、その時代が約1万年も永続出来たことは
世界的に他に例を見ないのだそうだ。
多彩な土器や土偶を作り、村の中心には大きな建物が建っていて
立派な道も整備されていたのだとか。
同じ狩猟民のブッシュマンとは似て非なるものだった証拠が
近年、次々と発見されている。
クリやドングリなどの苗木を村の周りに植えて
稲作をする必要が無い豊かな生活をしていたんだとか。
ところで、私はここでも今の今まで勘違いをしていた。
原始人、原始時代といえば、はじめ人間ギャートルズの漫画のイメージ
だったが、実は原始人とは青銅器や鉄器を使う様になってから
の人間の事を指すのだそうだ。
石斧や槍を振りかざしてマンモス追ってた頃は
「先史時代」もしくは「石器時代」というのだそうだ。
ギャートルズに登場する人々は
正しくは「先史時代人」ということになる。
「先史時代」
「原始時代」
「有史時代」
の順番で、確かに原始という言葉の意味を考えると
そろそろ人間による人間的な歴史が始まる時代ってことで
類人猿の時代じゃ全然ないことが解る。
なんで私は今まで勘違いしてたのだろうか?
原始人をマンモス追ってた頃の時代だと
どこで擦り込まれてしまったのか?
この歳まで勘違いしてることってまだまだありそう。
ライノセラスを友人から勧められても
JCADから始めた理由は
和製ソフトを応援したかったからということと
友人と2人で同じことやれば2人でライノを
深く掘り下げられるけど
まだまだそういう時代じゃなく
2人でお互いに違ったことやった方が面白そう
ということもありました。
あと、その当時JCADに絡んでた田辺研電の人が
優しくしてくれたってのもあります。
結果JCADからはじめて正解だったと思ってます。
ライノを勧めてくれた友人にも
少なからず良い影響を与えることも出来ました。
その後、人にライノを教えるようになって
JCADからライノに移行したい人にとっては
私はベストティチャーだったかも知れませんが
請われてとはいえ
常に後ろめたさというか何というか・・・。
田辺研電さんの話題を聞くたびに
私のCADオペレータとしてのスタートは
Kウノの社長さんに勧められて
友人と行ったあの時の
あそこの部屋だったのかな?と
懐かしく思います。
現在まで続けられてるとは・・・
あの時は思わなかった。
すでに私の頭の中では
セピア色になってしまいました。
あの時すでに私は40歳まじか
青春時代は遠の昔と思ってましたが
今となっては、あの頃も充分青春してました。
人生、振り返れば全部が全部青春時代ですね。
現在の自分からしてみれば自分の過去は
全部青い(笑)
きっと人は死ぬまで青春なんでしょう。
考えてみれば40過ぎてからライノ始めて
ライノのCADオペじゃナンバー1(自称じゃありません)
と言われるようになれたのは、私の才能というより
JCADから始めて、ライノで描きまくれる環境を
すぐに手に入れて、また改めてJCADを検修する機会を
与えられてと・・・辿って来た道がたまたまこの上ない
ベストコースだった私の強運がなせる業だったと思います。
もちろん偏に私の「運」といっても
それは全て周りからの「縁」であって
関係者の皆さまには感謝しております。
今も今で非常に良い環境で、良い精神状態で
CADオペを続けさせてもらえてることに感謝です。
フラッシュモブみたいなサプライズなこと
色々やるの好きな人がいますし
そういうことされて感動する人もいます。
でも作られたサプライズというか・・・
フィクションというか・・・。
サプライズさせる方はサプライズされる方の
リアクション期待してるっていう所がなんか嫌らしい(笑)
本当のサプライズは誰にとっても
サプライズな出来事であって欲しい。
日常の普通のことを真面目に
一生懸命やってるから
そういう感動的なノンフィクションサプライズ
があるんじゃないのかな?
安っぽいサプライズが最近多い。
人生自体、誰でもサプライズなこと多いはず。
そこの感覚がマヒして感じられなくなって
非日常にサプライズ求め過ぎるのは良くないですね。
「何でもないようなことが幸せだったと思う♪」
そういうの大切ですよね。
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