「20代は遊んどかないと後悔するぞ」
「20代でやるべきことは、合コンと飲み会だ!」
「20代で結婚して、家族を持って、一軒家を30年ローンで買うのが一人前だ!」
上記のような過ごし方を「一人前の姿」だとじじい達はよく言う。
だが、単刀直入に言えばこれは社会のガンだ。
悠長なことを言っている場合ではない。非常に危険な感染力があるのだ。
恐るべきは、転移する力がべらぼうに強く、次々に若者を「終わった人間」にしてしまう。
あなたも放っておけば、「モンテローザの居酒屋で過ごすこと」が人生の楽しみになる病気や「服は全身ユニクロでいいじゃないか!」と激怒する病気に感染する。
本当にまずい。
実際、世の中の20代の99%がこの過ごし方を「あっ!これが一人前の人間なんだな」と考え真似をしていると思われる。
20代にして「ユニクロ人間」「30年ローン人間」「読売巨人素人評論家」へと仲間入りしていく人間を私は数多く見てきた。
社会全体で「愚か者」を作り出すサイクルがここまで整ってしまうと、まともな人間ほど狂人ということになってしまうことがまたこの病の恐ろしさでもある。
彼はそれまで何度も考えたように、はたして自分は狂人ではないのかと考えた。ひょっとすると狂人はたった一人の少数派そのものかもしれない。・・・・だが、狂人であると考えてもそれほど動揺しなかった。怖ろしいのは同時に自分が間違ってもいるのではないかということだった。
『1984』
私は全世界を敵に回しても、オヤジが提唱する生き方を「くだらない」と断罪する。
あなたも社会のデタラメに抗うべきだ。
その際、相手が多数派であるがゆえに、ウィンストンが恐れたような「自分が間違っているのではないか?」という考えを抱いてはいけない。
この恐るべき病気になることを防ぐ方法は1つだけある。
それを理解するためには、まずどういう生き方が求められるのかを知る必要がある。
それについてはすでに賢者が述べているので、今日はそれを書きたい。
1.「食べていけること」「大企業に入ったこと」はなんら誇るべきことではない
福澤諭吉は『学問のすゝめ』の中で以下のように述べる。
もちろん、独立して生活するのは、人間にとって重要なことであり、「自分の汗で飯を食え」とは、古人の教えではあるけれども、私の考えでは、この教えを達成したからといって、人間たる者の務めを果たしたとは言えない。この教えはただ、動物に負けていない、というだけのことだ。
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蟻・・・は、・・・・穴を掘って住処を作り、冬の日に備えて食料を蓄えるではないか。・・・世の中には、この蟻レベルで満足している人もいる。
『学問のすゝめ』
福澤諭吉の考えに基づけば、食べていけることは確かに重要であるが、それはなんら誇るものではないとのことである。
食べていけることは、その他動物と同等程度になったということしか意味しない。
ただ、現実を見回してみると、「自分で食べていける俺は偉大な人物だ」と言わんばかりの人間で溢れている。
そういった人間の特徴は一つである。
彼らは新たに何も学ぼうとしない。
性欲や食欲を満たすだけの下等生物への道を歩むんでいる。
「誰にも迷惑かけてないんだからいいじゃないか!」
とあなたは言うかもしれない。
申し訳ないがその考え方が二流なのだと福澤は述べる。
衣食を求め家を建てる時には、額に汗したこともあっただろうし、悩んだこともあっただろう。古人の教えに対しては恥じることはない。とはいえ、その達成したことを見れば、万物の霊長たる人間としての目的を達したものとはいえない。
以上のように、一身の衣食住を得てこれに満足するべきだ、とするならば、人間の生涯はただ生まれて死ぬだけだ。死ぬ時には生まれてくるときと何も変わらない。
『学問のすゝめ』
2.人として生まれたからには国の歴史に何かを刻もうという志を持った生き方が必須
では、どうすることで偉大な人物であると言えるのか。
それについて福澤は以下のように述べる。
要するに、われわれの仕事というのは、今日この世の中にいて、われわれの生きた証を残して、これを長く後世の子孫に伝えることにある。これは重大な任務である。
どうして、数冊の教科書を読み、商人となり職人となり、小役人となり、年に数百程度の金を得てわずかに妻子を養って満足していられようか。これでは、ただ他人を害さないというだけだ。
『学問のすゝめ』
「他人に害をなさないこと」
確かにこれは間違っていない。
ただ、何度も言うようにそれは最低条件でしかないのだ。
偉大な生き方とは到底言えない。
その成否はともかく、国の歴史に何か刻むことを目指すことこそが、偉大であるための必須条件だ。
3.国の歴史に名を刻むために学問をする
ここでようやく福澤の有名な冒頭の言葉の意味がわかってくるはずだ。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。
しかし、この人間の世界を見渡してみると、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人も、金持ちもいる。・・・こうした雲泥の差と呼ぶべき違いは、どうしてできるのだろうか。・・・・賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによってできるものなのだ。
『学問のすゝめ』
人間として何も成すことなく終わるかどうかは学問をするかどうかで決まると言っているのである。
では、学問をすると何がいいのか?
それは、「世の中に溢れるあらゆるものに対して、疑いを持つことができる点にある」と福澤は言う。
信じることには偽りが多く、疑うことには心理が多い。
試しに見てみよ。世間の愚か者たちは、人の言葉を信じ、本に書いてあることを信じ、うわさ話を信じ、うわさ話を信じ、神仏を信じ、占いを信じる。・・・・このような社会に真理が多いか少ないか、と言われれば、多い、とはとてもいえない。
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信じる、疑うということについては、取捨選択のための判断力が必要なのだ。学問というのは、この判断力を確立するためにあるのではないだろうか。
『学問のすゝめ』
冒頭に記載した
「20代は遊んどかないと後悔するぞ」
「20代でやるべきことは、合コンと飲み会だ!」
「20代で結婚して、家族を持って、一軒家を30年ローンで買うのが一人前だ!」
といったものを疑えないのは、あなたがユーチューブばかり見てるからではないか?
今あなたがすべきことは、まっとうな価値観を学問を通して修得し、大衆社会が作り出した醜悪な価値観への隷属を断固として拒否することである。
面白きことなき世をおもしろく