2016年07月31日

囲碁における運の要素

囲碁の勝敗が棋士の実力によることは、自明のことのように思われる。勝つ確率の高い人を強いというのであるから、強い人が勝つのは当然である。

それでも、今のところ必勝の手筋が初めからわかっているわけではないのだから、下手でもまぐれで勝つことはあるかもしれない。

しかし、碁ほど棋力の差が明らかなゲームはない。初心者が有段者に互先(ハンディキャップなしの試合)に挑戦して勝つ見込みは、万に一つもないものだ。したがってこのゲームには、運の要素はほとんど介入する余地はなく、ほとんどすべての勝敗が囲碁に関する知性の差であるように思われよう。

先日、ゼミの学生とその点で議論になった。私は囲碁で運の要素が顕著にかかわることがある、という議論をしようとして、学生から反撃された。

ここで、囲碁を知らない人のために、ごく簡単に説明しておこう。このゲームは、白黒の石を順番に打ち合って、互いに自分に石で囲った領域(地と言う)の広さを競うゲームである。ゲームが進んで石が複雑に入り組んでくると、どっちがどっちを囲んでいるかわからなくなるかもしれない。たとえば、白石が四角い地を囲ってみたとしても、その周りを黒がぴったりと包囲し、「四面楚歌」ということになれば、内側の地は白地なのか、黒の地なのか、という問題が出てくる。

実際の戦争でも、北条に対する秀吉の包囲戦では、内側の連中は最後には降伏している。しかし、北条の地がもっと広く、たとえば関東一円を万里の長城で囲ったようであったとしたら、北条も降服する必要はなかったであろう。つまり、一国が包囲されても、自給自足するに十分な広さがあれば、その包囲には意味がないことになる。逆に、包囲戦を展開している石がさらにその外から迫るテキに包囲されれば、その石はたちまちあえなく討ち死にということにあいなろう。包囲してるつもりが包囲されていることになりかねない。

そこで、石の生き死にが厳密にルール化されている。詳細は略すが、それはつまりは生き残るために最小限必要な広さを規定するものだ。

さて、かなり強い人がそれよりも弱い人と対戦する場合、どのようなことが生じるであろうか? 弱いといっても初めから申告するわけではないから、どの程度の棋力かは、実際に対戦するまでは、対戦しても初めのうちはわからない。なぜなら、ふつう強い人の打ち手の意味は、弱い方にはわからないものだからである。一見悪手に見えた手が、実は恐るべき狙いを秘めたものであったことが後々わかるなどといったことがざらにある。だから、名人戦などを素人が見ていても、ほとんど意味不明である。我々下々の者たちは、プロの大盤解説とか、新聞の観戦記者の言葉を聞いて、「これが鬼手か」とか「これが敗着か」とか、さもわかったようなことを言っているだけである。もちろん記者も大先生から聞いて解説を書いているだけであるが。

さはいえ、このようなことを物知り顔で言いながらいっぱしの批評家のようなことを語り合うのも、碁仲間の楽しみというものである。私などは、もっぱらこの楽しみのためにのみ、名人の碁を熱心に研究しているのである。なぜなら、彼らの碁は我々下々の者の棋力向上には、全く役に立つものではないからである。

昔、大岡昇平が現代思想における数学の重要さに気づいて、友人の数学者に教えを乞うたとき、数学事典を取り上げられたという(『成城だより』)。素人が見ても数学事典はちんぷんかんぷんだからである。それでも一から勉強した大岡昇平はさすがである。

その分で行くと、私は名人戦の棋譜を取り上げられそうである。それほど、名人たちのやることは玄妙なものである。

さて、ある程度強い打ち手は、相手の強さがわからない間は、相手が最強の打ち手だと想定しておかねばならない。ということは、(実際には弱い)相手が繰り出す手が、上手から見てとんでもない悪手に見え、あるいは意味不明と思えても、ひょっとしたらその深い意味を自分が気付かないだけかもしれない、という警戒を怠ってはならぬということだ。かくてそれに対して、十分に防御を固めることになる。

防御を固めることは、攻撃の手が緩むということでもある。

悪手が悪手であるのは、その手をとがめだて、その隙に付け込むことを許すからであり、それだけの甘さがあるということだ。

しかし、もしそれを適切にとがめだてることなくそのまま見逃してしまうなら、敵はそのまま居直り、結果的にその甘い見通しをまんまと実現させてしまうのであり、軒を貸して母屋まで取られる、ということにあいなる。

普通下手は、自分勝手な甘い見通しから、とかくこのような無理筋の手を打って、しばしばずたずたに分断され、どの石も孤立無援となって万事休すことになりがちだ。これを碁では「打ちすぎ」という。つまり、「打ちすぎ」の石を的確に見抜き、それを咎めだてて返り討ちにすることによって、勝利が転がり込むのである。

さて、このようであるから、手の良し悪しは初めから決まっているわけではなく、相手の対応によって悪手とも妙手とも変わることになる。あるいは、善悪不明の手が、その後の自分の打ち方いかんによっては、よい手になる(良い手であったことが判明する)こともあるわけだ。これを囲碁では「その石の顔を立てる」と言う。

強い打ち手は、当然初めは相手を最強の打ち手と想定してかからねばならないから、実際には下手の悪手が、ひょっとしたら気づかない妙手であるかもしれないと思って、かえって相手の悪手を妙手にしてしまうことも有り得るわけである。

何といっても碁のだいご味は、盤面に並ぶ石たちが描きだす形の意味が、単純に固定されたものではなく、続く一手一手によってさまざまの異なる意味を帯び、変幻自在に意味を変え得るというところにある。

当面の石の配置も、少なくとも敵味方二様の異なる意味理解に開かれており、場合によっては、そのゲームを見守る観客にとっても開かれている。対局者より観客の方が局面を理解できることもあり、これを「岡目八目」(第三者の目で見れば、通常より八目ほど棋力が上がる)と言う。

こういうわけで、棋力が高ければ高いほど、相手の棋力を高く想定することができるから、慎重な打ち方になるのである。

ところが、いったん相手が弱いと分かってしまえば、何もそれほど慎重な打ち方をする必要はないことになる。どんな手でも、相手の方から勝手にこけてくれるから、圧倒的な大差で勝つようになる。実際、強い相手には通用しない戦術や奇策も、弱い相手だとことごとくはまることになる。弱い相手にこのような碁をしていると「碁が荒れてくる」と言われる。「嵌め手」がよく決まるので、深く考えて打つことをしなくなるからだ。

私は、一緒に読書会をする仲間のN氏と、以前は読書会のあと碁を打ったものだ。初めのころは6:4くらいの割で私が負けていた。これで見る限り、ほぼ互角である。

ところがある時期から、ほとんど十中八九勝てなくなってしまった。それは、私の本当の弱さがテキによく知られてしまい、私を相手に何の慎重さもいらぬことが知れ渡ったためである。私は根が正直なものだから、テキの邪悪な目論見が見抜けず、狡賢い罠にいともたやすくはまって、奮戦むなしく次々にアッツ島玉砕、サイパン陥落とばかり討ち死にすることになる。

こうなっては、私としても面白くない。また、N氏にとっても「碁が荒れてくる」というわけで、私たちはらちもない話をするばかりで、碁の真剣勝負をしなくなって久しい。


この記事へのトラックバックURL

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/easter1916/52466543