さて、この作品についてはエネルギー問題だとか、震災からの復興がテーマだとか大仰な話になっているようですが、個人的にはそうは思いませんでした。ゴジラ自体が戦争や核の問題というテーマを内包するものであり、また、あの震災からの影響を受けずにクリエイトされているものは今の日本にないだろうということを考えると(※真正面から取り組むにせよ、あえて関連性を消すにせよ)、そこはそんなに大事でもないのかなと。
基本はエヴァと同じというか、監督のライフワークというようなテーマが、いつもと同じように描かれているのではないかと感じました。エヴァで言う「使徒」なのか「人類」なのかという話。一個の完全な生命体であるところの使徒と、バラバラで不完全な個体であるがゆえに悩みや衝突や無理解を内包する人類と、そのいずれをより幸せと見るかという価値観の問題なのではないかと。
ゴジラは死をも超越した完全生命体。一方、人類は何をするにも会議と手続きが必要で、意志決定すらままならない不完全生命体。初期エヴァでは、そうした人類の不完全さを「人類補完計画」によって一個体にまとめあげることで補おうとする動きが描かれていました。
しかし、今回描かれていた巨災対であったり日本政府であったりというのは、不完全ながらもそれをむしろ長所として完全生命体であるゴジラに立ち向かいます。バラバラの意思をそろえる「会議」という手法はちゃんとある。一個体としての弱さを補うための「協力と団結」がある。そして、一個の完全生命体では決して選べない選択肢「自己犠牲」がある。
ヤシオリ作戦においてはもちろんのこと、作中のあらゆる場面で「死を覚悟して」仕事に臨む人々が描かれます。一個体としては「死」によって終わりを迎えるわけですが、バラバラの個体であるがゆえに「人類」としては死滅に至らない。「死ぬことと引き換えにできる難しい仕事」と「生きていることで可能となる仕事」を、人類の個体間の役割分担として両立させている。完全生命体は「自分が死んだら終わり」ですので、決してできないことです。
バラバラの個性を束ねることで可能となる仕事がある。
前線で戦う者もいれば、その人にメシを作る人もいる。ワイシャツを洗濯する人、お茶を入れる人、ゴミを掃除する人、すべての人に役割があり意味がある。だから、誰かが死んだとき、すぐさま次のリーダーを選ぶこともできるし、そうした非常事態にこそ適応した個性の持ち主もいる。平時は「無能な人物」と思われていた臨時首相代理が、実は有事の大決断を行なうことができる胆力の持ち主である、といったような。
今は活かされていない個体、活かされていない能力にも、ちゃんと意味があるのだ、そういうことを繰り返し繰り返し語りかけるような作品であると感じました。それを結び付ける「会議」「連絡」「報告」「報道」「メール」「遺書」といったコミュニケーションの手段。たくさんの人物が登場し、たくさんの言葉が交わされました。言葉は個体を結び付け、意志を作ります。執拗にコミュニケーションのさまが描かれるのは、それこそが「人類」の血流だからではないでしょうか。
そうしたたくさんの個体の活躍、あれだけ濃密に詰め込まれた作中の登場人物だけでなく、その背景にあるものをも想起させるために、しつこくしつこくしつこくコミュニケーションが描かれ、何故それが必要なのかという理由付けが都度添えられる。法律でこの人しか決められないと決まっているから、とか。
そうした積み重ねのはてに「無人在来線爆弾」を見たとき、いろいろ思うことも増えるわけです。単に「超法規的措置」で片づけず、「JRにも話を通したんだろうな」とか「そのための計画書とかちゃんと作ったんだろうな」とか「たくさん会議もあったんだろうな」とか、ひとつのステップの背後に莫大な手間と個体のかかわりが想像されてくる。
世界中のコンピューターを並列につなぐこと。
日本中の化学製造プラントを一斉稼働させること。
すべての人間をひとつの仕事に向かわせること。
個ではあるけれども束ねることはできるんだ、束ねればスゴイことができるんだ、という人間賛歌のようなものが根底にはあるのではないかと思いました。
そして、個であるがゆえの骨太さというか、したたかさのようなものも、また描かれている。ヤシオリ作戦で二の矢・三の矢があったように、ゴジラ攻撃へのカウントダウンがいまだ止まっていないことも、「人類」という集合生命体を生かすためのしたたかさなわけです。一の矢であるヤシオリ作戦がもし失敗したなら、いくつかの個を切り捨ててでも二の矢を撃つ。それもまた、人類が一個の完全生命体であったならできないことなわけです。
最後に流れるエンドロール。本当にたくさんの人の名前や組織の名前が流れます。映画を作るだけでもこんなにたくさんの個体が必要とされているのだ、と改めて驚きます。映画どころではない「社会」という巨大なものならば、なおのことです。「社会」という作品のエンドロールには自分の名前もある。どんな役割かはともかく、必ず成すべきことがある。
「自分も、あの頑張っている人たちのひとりなんだ」
そういう気持ちで、よし頑張ろうと思えるような作品でした。もちろんそんな押しつけがましいところはないんですけど。ドンパチやってプギャーするだけで十分なんですけど、エンタメの素晴らしい効能である「よし頑張ろう」がすごく満ちている、とてもイイものでした。2回、3回、見ても「よし頑張ろう」ってなれるイイものなんじゃないですかね。「無人在来線爆弾」だけでも見たらいいのに、と思います。夏休みのお楽しみのひとつとして。
昨日観に行きました。本当に楽しめました。
興奮した、笑えた、「無人在来線爆弾」は凄かった。
フモさんが書いておられるように、一つの事象のうしろに
多くの人が動いている様が感じられる造りになっていることが
嬉しかった。地味な社会人としては。
自分はエヴァを三回くらいしか観てないから結びつけて語ることはできないけど、十分楽しめた。又みたいと思うほどに。
それにしてもフモさん文章素晴らしいです。
久しぶりですが読みに来てやっぱり良かった。
と思った作品でした。
そして、今この2016年に、なんだかんだここまで生きてきてよかったなと。
庵野監督は
「エヴァでは見た人を元気にする事が出来なかったから
見た人を元気にする様な作品が作りたかった」
という様なことを言っていたと目にしましたが、
あんなに監督自身が好きなものを宝箱みたいにギッチギチに詰め込んで、
今この時代に作るべき意図を強く持った話を作り上げ、
その本人なりの課題も華麗にクリア。
やっぱり天才でした。