2016年7月18日、カテドラル(大阪玉造教会)
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 ▼死海の先にヨルダン川
 洗礼受けて何がある?(笑い) 「あなたは人生の中でほんまもんの洗礼を受けているんだから…」。それでも、どうしても洗礼受けたいと求めてきた人は26年間で2、3人くらい。大体は「なら、いい」。洗礼というのはお水をチョロチョロっとひたいにかける。あれが洗礼と思うでしょ! だけど、洗礼について3回ヨハネ福音書、マルコ福音書に出てくる。
 最初に出てくるのはヨルダン川のヨハネによる洗礼です。だけど、洗礼者ヨハネ自身が「いやいや、私はたかが水で洗礼を授けた。だけど、私の後から来る方は聖霊の火に身を沈めさせる洗礼を授ける」。だから、ほんまもんの洗礼は洗礼者ヨハネ自身が「私のは単なるしるし」と言っているんです。
 ほんまもんの洗礼は聖霊の火の中に身を沈めさせる。これはキリストの働き。ですからイエスの弟子たち、抜け駆けしようとした二人の弟子ヤコブとヨハネ。ねえ、夜こっそり、自分の母親まで同伴して、時が来たら、教壇に一人は左、一人は右に、右大臣、左大臣みたいに、そういう抜け駆けしようとした訳でしょ! で、それを知ったほかの弟子たちはカリカリになって怒った。そこまで書いてある。
 その抜け駆けしようとした時のイエスの答えは何だったか? 「私の飲む杯を飲むことができるのか? 私の受ける洗礼を受けることができるのか」。教会で受ける洗礼は一回でいいって教わっているでしょ! 間違いじゃない。あのイエスは間違いなく洗礼者ヨハネから洗礼を受けている。ヨルダン川に身を沈めて、上がってきた時に、空が裂けて聖霊が鳩の姿で降ってくるのを見たって、そこまで描写しているくらいだから、イエスは洗礼受けたんでしょう。

 何でいまさら「私が受ける洗礼をあなた方は受けることができるのか?」って。つまり、人生の中での洗礼。ヨルダン川というのは、海抜下、最初ガリラヤ湖の海抜の下200㍍、それからずんずん下って行きつく先は有名な死海。あそこで泳いだことあるんですが、足が浮いちゃうんです。ばた足しようとしたら、空を見上げてばたばた…。。
 その死海。生き物が全く棲めない所、汚れきった所。洗礼者ヨハネが洗礼運動を起こしたのは、ガリラヤ湖のすぐ流れ口じゃないんです。ずーっと、ずーっと下って、もう少し行くと荒れ野の先の死海なんです。一番汚れた所、そこでね、この水面の下に身を沈めよう、くぐらせよう、それが洗礼なんだ。つまり、人生の中で自分の担う苦しみ、寂しさ、悔しさ、怒り、そんなものを受け止めて、そこで立ち上がる。これが洗礼なんです。
 だからパウロは「洗礼は埋葬である」と書いた。遺体を墓に埋めるのを埋葬。キリストとともに埋葬される。神の子キリストは復活された。埋葬された自分自身がその瞬間にキリストの復活の命に与る。これが本来の洗礼なんです。

 ▼軽い気持ちでは……
 人生の中でほんまもんの洗礼を受けている先輩たち、仲間たちに軽い気持ちで洗礼を授けるなんて言えないんです。私なんか、たかだか水の洗礼しか受けてないんですよ。11月生まれですけど、1月か2月にもう洗礼を受けたんです。
 そんな程度のこの私が先輩たちに向かって、イエスの杯を飲む。「はい、分かりました。洗礼ね、はい、授けましょう」なんてとてもじゃないけど言えない。
 こんなことやるから司教さんに怒られる。今の司教さんにお会いしてないですが、前の司教さんね、私のアパートに訪ねてきてね、文句言ってきました。「洗礼を断るとは何ですか。まだ洗礼を授けていない人に御聖体を授けるのはなんですか‼」
 そのときね、私は「司教さんね、あのオ、釜ケ崎ではアルコールを断とうとがんばっている仲間も隠れた存在としている。その人たちが気まぐれかなんかで日曜日の礼拝に参加して御血を受ける時、アルコールを一口なめるだけで場合によってはスリップの原因になるでしょう。だから、釜ケ崎では葡萄酒を使わないようにした。葡萄ジュースにした」
 シスターには葡萄ジュースをお願いしているんですけれども、その葡萄ジュースの方が高いんですって。へーって思ったんです。イエス様だったらどうするかな、って。そんな思いですね。

 ▼「労働者のミサ」で学ぶ
 あっ、今、11時47分。「主の祈り」ね! (冊子「労働者のミサ」を手にして) これ! 返してくださいね。ほしい方はこっそりお持ち帰りくださいね。はい、11ページ。
 「天におられる私たちの父よ」
 「天にまします我らの父よ」と覚えました。
 神様は天におられる。だけど、天というのは神様の仕事場を表す言葉なんですよ。アッ シャーマイム、尊敬の複数語。天と空は違いますよ。バビロニア、メソポタミア地方のチグリス・ユーフラテスの大きな川が流れていて、川と川の間を運河が無数にある。被造物ができる前の水浸し、水の中から神様は天をつくり、地をつくり、ね。そんなイメージ。
 だけどオ、天というのは「前から後ろから私を囲み、み手を私の上に置いていてくださる」。詩編の139編にあるように。神はみ座を高く置き、低みに下って天と地をご覧になる。新共同訳ね。昔は「神はみ座を高く置き、天の高みから天と地を見下ろされた」。神様って上だって言う。そんな信仰理解だった。ところが新共同訳の翻訳にあたって、聖書学者たち、これはあんまり原語通りじゃないって。低みから、天と地をご覧になっているという。どのくらい低みかというと、「塵の中から弱った人を引き上げ、芥の中から貧しい人を高い所に持ち上げられる」

 神様は私たちと一緒に塵と芥、ホコリとゴミのことでしょ、低い所、障子の桟とかでいつも働いておられる。それが神の仕事場。だから、さあ皆さん一緒に主の祈りを唱えましょう。「天におられる私たちの父よ」と言う時の天。右見て、左見て、前見て、後ろ見て、頭さわって、ね。復活した後、イエスは天に昇られた、と。特にルカ福音書に詳しく書かれている。ずーっと、上に昇ってって、雲に覆われて見えなくなりました。そこまで書いている。
 あれはひとつの文学的表現。天というのはここなんだけれども、見えない。だから、イエスが受難前に言ったことがあるでしょ。「私はあなたたちをみなしごにしない。みなしごにはしておかない」。もしイエス自身がどこかへ行っちゃうとしたら、みなしごになるでしょう。でも、一度もあなたたちから離れてませんよ、って。

 「私は世の終わりまであなたたちと共にいる」。皆さん、一人ひとりつながった存在。支えられ、守られ…。隣にちゃんとイエスがいてくれる。隣にいる友達を通して働き、支えておられるのが神様。好きなタイプの友達もいるでしょう。顔も見たくない友達も引っ付いてくるかもしれない。でも、前も後ろも上も下も主がおられる。それが天。「天におられる私たちの父よ」空のかなたでなく、万物を支える見えない世界、天において、人の世から、低みから働かれる私たちの父である神様。これが「天にまします我らの父よ」の中身ですよね。
 「み名が聖とされますように」。この「み名が聖とされますよう」は何ですか? 神のみ名ですか? 私たち漠然としか理解していない、ということです。「神のみ名」って何? あのね、原文理解にもとづいた「オノマトペ」とは、その人自身、これ以外の何物でもない。名前だけ、タイトルだけ。意味がない。だから、私たち「父と子と聖霊のみ名によってアーメン† 主は皆さんとともに」でミサが始まるでしょ! あれも「み名によって」なんです。
 どういうこと? プロテスタント教会でお祈りをした後、「父と子と聖霊のみ名によって、このお祈りを捧げます。アーメン」と。ここでも「み名」。名前は出せばいいんですか? イエス・キリストって言えばいいんですか? 聖霊って言えばいいんですか? 父なる神って言えばいいんですか? 父である神、聖霊……イエス・キリストと一体のものにつながって祈ります。

 ▼慈しみの心でつながる
 そういうことです。「私は葡萄の木で、あなた方は枝です」。つながっていなければ、枯れてしぼんで、焼き捨てられるだけ。キリストにつながっているというのは、教会に熱心に通うことですか? どうもそうじゃないみたい。教会に通える人は通ったらいい。ミサね、日曜ミサは9時か10時でしょ! 早起きするからそれなりに健康にはいい。だけど、教会に通うことがキリストにつながることと狭く考えない方がいい。
 イエスは「私が飢えていた時、自分が食べていけるようにしてくれたよね」「私が渇いていた時、自分で飲めるようにしてくれた」「私が裸の時も、病気の時も、牢にいた時、居場所がない時、よそ者としてうろうろしていた時、迎える家がない時…『やあ~、イエスさん、私はあなたを見たのは今が初めてです』と……」
 何だろう。人生でそんなことありません? そうじゃないよ、あなたの傍にいた、一番小さくされていた仲間にしたのは私にしてくれたのだ、ってそこまではっきり教えてくれている。だから、イエスにつながっているんです。皆さん、ご自分の家庭で介護を必要としているご家族がいらっしゃるでしょう。病気になった時、お友だちの中にもいるでしょう。

 その仲間に慈しみの心でかかわり続ける。キリストとつながる。つながっている中でお祈りする。「主のみ名によって」この祈りを捧げます。だけど祈りが聞き届けられたのに、「主キリストの名によってこの祈りを捧げます」と言わないと、単なるあなたの独り言に終わっちゃう。
 祈りであるために「主イエス・キリストの名によって」捧げます、と言わないとダメなんだ、とそんなレベルの名ではないんです。本当の価値観、イエス・キリストとつながる、大事にしたものを優先する。そういう自分として祈ります。詩編の中にたびたび出てくる。「神は貧しい人の祈りを聞かれる」あるいは「困った人の声を聞き届けられる」。
 何でそんな風に限定的におっしゃるのか? すべての人の祈りを聞き入れると、おっしゃってくれないのか。イエス・キリストの名によって祈る。
 「み国が来ますように」。私たち「み国が来ますように」って祈るけど、どっかでね、「み国に行けますように」って、そういう祈りにすり替えているんじゃないか。あのオ、カトリック司教団なんかも、メッセージでね、社会問題に目を向けてください、と。仲間を通して広げていくことを忘れないように。はい、これで終わります(笑い)。

【注①】カトリック教会では現在、一部の教会や修道院を除いて葡萄酒・葡萄ジュース(ファンタ類を含む)による拝領は行っていない。パン(3センチ四方)による拝領のみ。本田神父の「ふるさとの家」のパンと葡萄ジュースの両形態拝領は、日本のカトリック中央から見れば異端なのだ。
【注②】パンと葡萄酒の「両形態」による聖体拝領を私は最近、某女子修道会で受けた。金属製の杯に入ったワインを回し飲み。飲んだ杯の縁を神父さんが一回ごとに袱紗で拭く。千利休はこれを堺のキリシタン教会で見て、茶の湯に取り入れた、とその時ガッテンした。ラストの私は残りのワインを少しだけ飲んだところ、神父さんが「全部飲んでください」。一気に飲んだ。ちょっぴり甘め。良質のワインと感じた(梅酒のようでもあった)。「これが本当の聖体拝領!」と感激した。
【参考】マルコ福音書14章22節≪主の晩餐≫。マタイ福音書26章にも同様記事。
【聖体拝領とはWikipedia➡http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1118176576

【感想①】本田神父に対する大阪司教区からの批判は、洗礼者を量産していることだとこれまで思っていた。しかし講演(説教)によれば、違った。洗礼を授けていない人に聖体拝領を授けていることに対してだった。
 考えてみれば、大阪司教区のほとんどの教会の聖体拝領は一形態、つまりパンのみ。A教会の重鎮は「聖体拝領はふるさとの家の方式が聖書に近い。ここの教会の聖体拝領は変則」とはっきり言った。これに関しては重鎮の指摘が「正鵠を射」ているように思う。司教さんは本田神父に忠告する前に、まず大阪の教会を総点検し、手抜きミサの改善・改革(いえ、元に戻す)に手を付けるのが先決だった。
 本田神父はよく「今のカトリック教会は権威主義、形式主義に陥っている」と言うが、手抜きミサはそれ以前の話のようだ。繰り返しになるが、ミサのベストは某女子修道会、ベターは釜ケ崎の「ふるさとの家」、教会は? (グー、とは言えない)。手抜きミサをキリストが見たら何と言う?
【感想②】昨年のX'masは奇しくもこの玉造教会の別館で開かれた。前田大司教も参加、私たち4、5人と椅子に座って懇談した。私は思いきって、「ふるさとの家」の話をした。本田哲郎神父のミサ中の「主の祈り」はきちんとした教えがあるのに、小教区(教会)では教えない。「これはおかしい」と。同じ玉造教会で開かれたシニア勉強会でも進行役が「主の祈り」を教会や司祭が「自明の理」として解説しないのは問題だ、との発言があったことも付け加えた。
 大司教様は穏やかな表情で聴いていた。「小教区が基本教理を教えないのは問題だ」と私。まさか、カテドラルでこんなに早く本田神父の説教が実現するとは思わなかった。私の意見が反映されたのか、偶然か。どちらにしろ、風通しが少しよくなったと考えたい。

★これは悪口ではありません。感想と指摘です。


 『新・ブッダ伝』
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