2016*7*18、カテドラル(大阪玉造教会)

▼教会で拍手は……
(司会者から紹介されて、参加者が拍手) 教会で拍手をもらったのは初めてです(爆笑)。みなさん、おだてるのがお上手(笑い)。ありがとうございます。実は私、(カトリック大阪教区)南地区のこういう研修会に出るの初めてです。こんなに大勢来られるとは思っていなかったんです。
資料としてお配りさせていただいた『労働者のミサ』の中の11ページ「主の祈り」という所だけご一緒に見ていただく。これをちょっとずつ考えていただいたらいいなと思います。えっ? あ~~そうですか? あの~~プリントが足りない。こんなに大勢来られるとは思っていなかった(小聖堂が満員。立ち見が出るほど)。だから、資料がなくても分かるようにゆっくり読みます。読んで、ご自分が覚えていらっしゃる所と重ねながら、あそこだなと、分かっていただけたら、と思います。
今、11時11分ですね、終わる時間が12時でしたよね。あのオ、その間に一回くらい休憩を取った方がいいんでしょ。トイレ休憩。いらない? 神林さんの鶴の一声で各自勝手に行っていただく。私も勝手に行きます(大笑い) 近いんです(笑い)
私はボーンクリスチャン。生まれて3カ月目くらいに洗礼を受けて、親たちも、爺ちゃん、婆ちゃん、ひい爺ちゃん、ひい婆ちゃん含めて家族みんなカトリック。そういう雰囲気の中で育った私です。だから、よっぽどクリスチャンとして素晴らしい教育がなされたのかな、と誤解されることがある。
▼教皇メッセージに驚く?
親は一生懸命教育してくれた。教会の神父さんたちも、宣教師さんたちも一生懸命、あの~オ、かかわってくださいました。そういうことで文句はないんですね。だけど第2バチカン公会議以前の信仰理解で一生懸命教育してくれた。涙が出るほど感謝しています。(でも以前と以後では大きく違う) 宣教師さん、神父さん、亡くなった親たちが今、生きていたとしたら、フランシスコ教皇のあのメッセージを聴いて度肝を抜かすのではないか。
それと、第2バチカン公会議が他宗教の人たちと一緒に祈ろうということです。そういうことを勧めていることについて、びっくりするはずなんです。なぜなら私たち、子どものころから教わったカトリックの教えっていうのは「他宗教はみんなインチキだよ」「サタンにコントロールされた宗教なんだ」って。たとえプロテスタント教会であっても、礼拝の席に立ち会ったら、後で必ず告解を受けなさい、と。とんでもないことを一生懸命、熱心に熱心に教えた。それがカトリックの教会でした。
そういう中で育った私ですから、当然そういう価値観をしっかり受け止めていました。けれども第2バチカン公会議が何と言ったか。私たち一生懸命にね、信者でない人たちを信者にさせようと、やたら努力しませんでしたか。年輩のクリスチャンの方たち。だけど、第2バチカン公会議は「教会の外にも救いはあります」「教会の外にも福音はあります」芽生えています。実を付けています、と。
▼タコやウニの島で育つ
じゃあ、私たちがあれほど必死に思い込んでいたのは何だったのか? 私の生まれは台湾の台中です。そこで生まれて、戦後、両親の故郷奄美大島に引き揚げてきました。その奄美大島に着いた時は3歳。
島の周りはほとんど珊瑚礁。そこで潮が引いたときに、岩場のタコを引きずり出して大喜びした。お年寄りを含めてね。貝拾いとか、ウニとかね、いっぱい取って楽しんでいた。そういう生活環境の中に宣教師がいた。「わー、ここには宣教の材料がすべて揃っている」と。洗礼が成立するためには何が必要か? 子どものころから教わっていたのは「父と子と聖霊のみ名によってあなたを洗う」この言葉、それと自然水。缶コーヒーとかジュースは駄目なんです。
自然水は飲めなくてもいい。海の水でもいい。だから、みんな自然水の中に浸って貝拾いをする。あと足りないのは父と子と聖霊の名によってあなたを洗う。それだけ言えば、この人たち全部に洗礼を授けたことになる。洗礼を授けるためにわざわざ外国から宣教師としてやってきた。そういう純粋な思いで救おうと思っていた。
▼教会の外にも救いはある
その頃、何て言われていたか? 「教会の外に救いはない!」。これ一辺倒です。しかもそれはカトリック教会。カトリック教会の外に救いはない、と。これが信仰の土台みたいだった。何がなんでも騙してでもいいから教会に連れてきて、洗礼を授けるところまで持っていくことがとても大事なことだ、と言われていた。ところが第2バチカン公会議は「教会の外にも救いは芽生えていますよ」「神の国はもう始まっていますよ」と。
ですから、私の亡くなった父や母たち、その世代クラスが教皇フランシスコのメッセージを聴いたら、「えっ? 教会はどうなっちゃったの?」となるでしょうね。
「教会が教会らしくない方向に突き進んでいるんじゃないの」と心配したでしょう。教会の外にも神の国、すなわちイエス・キリストの働きがある。ぐんぐんぐんぐん行われますよ、と。そして私たちはクリスチャンである私たちの側からキリストのこと、教会のことを伝えたいために、それは相手の心の中に入っていかないと、と。だから私たちが出掛けて行って福音を宣べ伝えよう、伝道しましょう、信者をつくりましょう。どっか、そんな強迫観念を植え付けられた私たちだったと思います。
▼聖書に書いてある
ところが違っていた。私たちが教会だと思っているその教会と無縁の仲間たち、お友だち。クリスチャンとして努力して努力して到達したはるか以前に、自然体で実践している信者ではないお友だちがたくさんいるじゃないですか。
それは聖書の間違った理解から出た。第2バチカン公会議以後、聖書を読み直してみると、原文からの翻訳を一々辞書を引きながら、確かめたら、ちゃーんと聖書に書いてある。すべての人が神が直接神の思い、願い、望みというものを分からせてくれてますよ、と。
あのオ、「主の祈り」はどうなったの?と思っている人もおられるでしょう。聖書ってすごいな、と思います。勉強はもう要らないだろう、なんて言うから司教さまに怒られる。
えー、エレミヤ31章33節
「わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれをしるす。わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知りなさい』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も、大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」
▼大好き! 今の教皇
第2バチカン公会議の大きなうねりが始まったとき、世界中でかなりの宣教師たちがやめちゃった、という出来事がありました。何のために神父になったの? すでにキリストと合体しているのに、自分自身で確認できなくなって、やめた。神父だけじゃない。シスターもかなりやめた。それくらい衝撃的な出来事だった。発想の転換が第2バチカン公会議で求められた。それに根差したのが今の教皇フランシスコ。わたし大好き。通りすがりに、道端で寝っ転がっているホームレスの人たちを見て、その人たちに対する痛み、憐れみの心を起こすだけじゃ、何の足しにもなりません。この人たちが道端に出なくてもいいように正義の旗を実践してください。これは教皇フランシスコ様が言っていることです。
これまでの信仰理解ではやらなくていい、国に任せればいいじゃないだった。だ~けどっ、教皇フランシスコは違う。ヨーロッパでは難民がいっぱいいるでしょ! 泊まる場所も食事する場所もない。怯えた人、国に帰りたくても帰れない人がいる。そういう人があふれている。それで教皇フランシスコは、教会や修道院、空いている部屋いっぱいあるじゃないですか、と。 今、幸か不幸か修道者が減ってきています。そこを難民の生活の場に提供したらどうですか、と。教皇もそこまで言うからねえ。嫌われはじめているんです。バチカンで段々浮き初めているんです。
でも教皇の言っていることは本当に正しいと思います。あのオ、それ以外の解決策はないと思います。しかも第2バチカン公会議の教会の新しい方向に沿っている。だけど、これまでの教会の信徒養成の価値観からいくと「いくら何でもそこまでは無理でしょう、教皇様」となる。あのオ、日本の『カトリック新聞』が教皇フランシスコのメッセージを紹介し始めたころ、4人の枢機卿が反教皇という分厚い本を出した。
最初のころはたった4人だったけれど、今は何十人の枢機卿が反フランシスコ教皇という形で動き出しているみたい。だからこそ私たちは今の教皇を支えていく。「私はあなたが言っていることで元気をもらっていますよ」ってね、伝えてあげなくては、と思っています。
▼「私はここにいる」と神
すでにみんな何らかの形で、親鸞聖人の浄土真宗あるいは日蓮宗という形で、理解しているかもしれない。あるいは無宗教であっても、仲間を大切にしなきゃ放っとけない、という熱い仲間を思う気持ち、それはまさにキリストの父である神の働き以外のなにものでもない。でしょ!
「神様!」と、ほかの宗教の名で呼んだとしても、キリスト教の側から見たら「父である神の働きだ」と。そういう信仰の視野を広げておきたい。もう一つ『イザヤ書』65章1節。こう書いてありますよ。
【救いの約束】
わたしに尋ねようとしない者にも
わたしは尋ね出される者となり
わたしを求めようとしない者にも
見いだされる者となった。
わたしの名を呼ばない民にも
わたしはここにいる、ここにいると言う。
そういうことなんです。神様ってそういう方なんです。私の名を呼ばない民にも「私はここにいる」と言う。ちゃーんと神はいるんです。
これまでね、私たちがキリスト教を広めなければ、教えてあげなければ、そういう気持ちがいっぱいいっぱいあるんですよね。そして、まあ、そのあたりからちょっとずつね、何を求めているか、本人は気がつかない。漠然と救い主を求めているってことじゃないの。だから、何か探し求めている。教会を尋ねてくる人は間違いなくキリストの心、すなわちキリストの父、神の心、それを自分のものにしておられる。理解の幅を広げてもいい。
だけど求めようともしない、私に尋ねようとしない。私は尋ね出される者、私を求めようとしない者にも見出だされる者となりました。私たち、ねえ、信仰の世界、あるいは人間として体の中に積み込まれている私たちのスタンスとして、へー、みんなキリストにつながっているの……。だもんだから、あのオ、釜ケ崎でよく言われるんですよ。「本田さん、洗礼というのあげてよ」ってね、私なんて答えるか。「洗礼は受けない方がいいよ」(笑い)。
以上は前編。後編は数日後です。
▼教会で拍手は……
(司会者から紹介されて、参加者が拍手) 教会で拍手をもらったのは初めてです(爆笑)。みなさん、おだてるのがお上手(笑い)。ありがとうございます。実は私、(カトリック大阪教区)南地区のこういう研修会に出るの初めてです。こんなに大勢来られるとは思っていなかったんです。
資料としてお配りさせていただいた『労働者のミサ』の中の11ページ「主の祈り」という所だけご一緒に見ていただく。これをちょっとずつ考えていただいたらいいなと思います。えっ? あ~~そうですか? あの~~プリントが足りない。こんなに大勢来られるとは思っていなかった(小聖堂が満員。立ち見が出るほど)。だから、資料がなくても分かるようにゆっくり読みます。読んで、ご自分が覚えていらっしゃる所と重ねながら、あそこだなと、分かっていただけたら、と思います。
今、11時11分ですね、終わる時間が12時でしたよね。あのオ、その間に一回くらい休憩を取った方がいいんでしょ。トイレ休憩。いらない? 神林さんの鶴の一声で各自勝手に行っていただく。私も勝手に行きます(大笑い) 近いんです(笑い)
私はボーンクリスチャン。生まれて3カ月目くらいに洗礼を受けて、親たちも、爺ちゃん、婆ちゃん、ひい爺ちゃん、ひい婆ちゃん含めて家族みんなカトリック。そういう雰囲気の中で育った私です。だから、よっぽどクリスチャンとして素晴らしい教育がなされたのかな、と誤解されることがある。
▼教皇メッセージに驚く?
親は一生懸命教育してくれた。教会の神父さんたちも、宣教師さんたちも一生懸命、あの~オ、かかわってくださいました。そういうことで文句はないんですね。だけど第2バチカン公会議以前の信仰理解で一生懸命教育してくれた。涙が出るほど感謝しています。(でも以前と以後では大きく違う) 宣教師さん、神父さん、亡くなった親たちが今、生きていたとしたら、フランシスコ教皇のあのメッセージを聴いて度肝を抜かすのではないか。
それと、第2バチカン公会議が他宗教の人たちと一緒に祈ろうということです。そういうことを勧めていることについて、びっくりするはずなんです。なぜなら私たち、子どものころから教わったカトリックの教えっていうのは「他宗教はみんなインチキだよ」「サタンにコントロールされた宗教なんだ」って。たとえプロテスタント教会であっても、礼拝の席に立ち会ったら、後で必ず告解を受けなさい、と。とんでもないことを一生懸命、熱心に熱心に教えた。それがカトリックの教会でした。
そういう中で育った私ですから、当然そういう価値観をしっかり受け止めていました。けれども第2バチカン公会議が何と言ったか。私たち一生懸命にね、信者でない人たちを信者にさせようと、やたら努力しませんでしたか。年輩のクリスチャンの方たち。だけど、第2バチカン公会議は「教会の外にも救いはあります」「教会の外にも福音はあります」芽生えています。実を付けています、と。
▼タコやウニの島で育つ
じゃあ、私たちがあれほど必死に思い込んでいたのは何だったのか? 私の生まれは台湾の台中です。そこで生まれて、戦後、両親の故郷奄美大島に引き揚げてきました。その奄美大島に着いた時は3歳。
島の周りはほとんど珊瑚礁。そこで潮が引いたときに、岩場のタコを引きずり出して大喜びした。お年寄りを含めてね。貝拾いとか、ウニとかね、いっぱい取って楽しんでいた。そういう生活環境の中に宣教師がいた。「わー、ここには宣教の材料がすべて揃っている」と。洗礼が成立するためには何が必要か? 子どものころから教わっていたのは「父と子と聖霊のみ名によってあなたを洗う」この言葉、それと自然水。缶コーヒーとかジュースは駄目なんです。
自然水は飲めなくてもいい。海の水でもいい。だから、みんな自然水の中に浸って貝拾いをする。あと足りないのは父と子と聖霊の名によってあなたを洗う。それだけ言えば、この人たち全部に洗礼を授けたことになる。洗礼を授けるためにわざわざ外国から宣教師としてやってきた。そういう純粋な思いで救おうと思っていた。
▼教会の外にも救いはある
その頃、何て言われていたか? 「教会の外に救いはない!」。これ一辺倒です。しかもそれはカトリック教会。カトリック教会の外に救いはない、と。これが信仰の土台みたいだった。何がなんでも騙してでもいいから教会に連れてきて、洗礼を授けるところまで持っていくことがとても大事なことだ、と言われていた。ところが第2バチカン公会議は「教会の外にも救いは芽生えていますよ」「神の国はもう始まっていますよ」と。
ですから、私の亡くなった父や母たち、その世代クラスが教皇フランシスコのメッセージを聴いたら、「えっ? 教会はどうなっちゃったの?」となるでしょうね。
「教会が教会らしくない方向に突き進んでいるんじゃないの」と心配したでしょう。教会の外にも神の国、すなわちイエス・キリストの働きがある。ぐんぐんぐんぐん行われますよ、と。そして私たちはクリスチャンである私たちの側からキリストのこと、教会のことを伝えたいために、それは相手の心の中に入っていかないと、と。だから私たちが出掛けて行って福音を宣べ伝えよう、伝道しましょう、信者をつくりましょう。どっか、そんな強迫観念を植え付けられた私たちだったと思います。
▼聖書に書いてある
ところが違っていた。私たちが教会だと思っているその教会と無縁の仲間たち、お友だち。クリスチャンとして努力して努力して到達したはるか以前に、自然体で実践している信者ではないお友だちがたくさんいるじゃないですか。
それは聖書の間違った理解から出た。第2バチカン公会議以後、聖書を読み直してみると、原文からの翻訳を一々辞書を引きながら、確かめたら、ちゃーんと聖書に書いてある。すべての人が神が直接神の思い、願い、望みというものを分からせてくれてますよ、と。
あのオ、「主の祈り」はどうなったの?と思っている人もおられるでしょう。聖書ってすごいな、と思います。勉強はもう要らないだろう、なんて言うから司教さまに怒られる。
えー、エレミヤ31章33節
「わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれをしるす。わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知りなさい』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も、大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」
▼大好き! 今の教皇
第2バチカン公会議の大きなうねりが始まったとき、世界中でかなりの宣教師たちがやめちゃった、という出来事がありました。何のために神父になったの? すでにキリストと合体しているのに、自分自身で確認できなくなって、やめた。神父だけじゃない。シスターもかなりやめた。それくらい衝撃的な出来事だった。発想の転換が第2バチカン公会議で求められた。それに根差したのが今の教皇フランシスコ。わたし大好き。通りすがりに、道端で寝っ転がっているホームレスの人たちを見て、その人たちに対する痛み、憐れみの心を起こすだけじゃ、何の足しにもなりません。この人たちが道端に出なくてもいいように正義の旗を実践してください。これは教皇フランシスコ様が言っていることです。
これまでの信仰理解ではやらなくていい、国に任せればいいじゃないだった。だ~けどっ、教皇フランシスコは違う。ヨーロッパでは難民がいっぱいいるでしょ! 泊まる場所も食事する場所もない。怯えた人、国に帰りたくても帰れない人がいる。そういう人があふれている。それで教皇フランシスコは、教会や修道院、空いている部屋いっぱいあるじゃないですか、と。 今、幸か不幸か修道者が減ってきています。そこを難民の生活の場に提供したらどうですか、と。教皇もそこまで言うからねえ。嫌われはじめているんです。バチカンで段々浮き初めているんです。
でも教皇の言っていることは本当に正しいと思います。あのオ、それ以外の解決策はないと思います。しかも第2バチカン公会議の教会の新しい方向に沿っている。だけど、これまでの教会の信徒養成の価値観からいくと「いくら何でもそこまでは無理でしょう、教皇様」となる。あのオ、日本の『カトリック新聞』が教皇フランシスコのメッセージを紹介し始めたころ、4人の枢機卿が反教皇という分厚い本を出した。
最初のころはたった4人だったけれど、今は何十人の枢機卿が反フランシスコ教皇という形で動き出しているみたい。だからこそ私たちは今の教皇を支えていく。「私はあなたが言っていることで元気をもらっていますよ」ってね、伝えてあげなくては、と思っています。
▼「私はここにいる」と神
すでにみんな何らかの形で、親鸞聖人の浄土真宗あるいは日蓮宗という形で、理解しているかもしれない。あるいは無宗教であっても、仲間を大切にしなきゃ放っとけない、という熱い仲間を思う気持ち、それはまさにキリストの父である神の働き以外のなにものでもない。でしょ!
「神様!」と、ほかの宗教の名で呼んだとしても、キリスト教の側から見たら「父である神の働きだ」と。そういう信仰の視野を広げておきたい。もう一つ『イザヤ書』65章1節。こう書いてありますよ。
【救いの約束】
わたしに尋ねようとしない者にも
わたしは尋ね出される者となり
わたしを求めようとしない者にも
見いだされる者となった。
わたしの名を呼ばない民にも
わたしはここにいる、ここにいると言う。
そういうことなんです。神様ってそういう方なんです。私の名を呼ばない民にも「私はここにいる」と言う。ちゃーんと神はいるんです。
これまでね、私たちがキリスト教を広めなければ、教えてあげなければ、そういう気持ちがいっぱいいっぱいあるんですよね。そして、まあ、そのあたりからちょっとずつね、何を求めているか、本人は気がつかない。漠然と救い主を求めているってことじゃないの。だから、何か探し求めている。教会を尋ねてくる人は間違いなくキリストの心、すなわちキリストの父、神の心、それを自分のものにしておられる。理解の幅を広げてもいい。
だけど求めようともしない、私に尋ねようとしない。私は尋ね出される者、私を求めようとしない者にも見出だされる者となりました。私たち、ねえ、信仰の世界、あるいは人間として体の中に積み込まれている私たちのスタンスとして、へー、みんなキリストにつながっているの……。だもんだから、あのオ、釜ケ崎でよく言われるんですよ。「本田さん、洗礼というのあげてよ」ってね、私なんて答えるか。「洗礼は受けない方がいいよ」(笑い)。
以上は前編。後編は数日後です。
コメント