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shi3zの長文日記 RSSフィード Twitter

2016-08-07

シン・ゴジラがウケてよかったなあ 04:25

 週末もダブルで仕事が入っていて隙間がなくてシン・ゴジラを見に行けない。

 初日は比較的空いてたのに、いまやバルト9のレイトショーも埋まり気味である。


 会社に行くと、社員から声をかけられた。


 「あの・・・シン・ゴジラ、見ました」


 名前も知らない新人の女子社員だった。僕が全体会議で「シン・ゴジラ」を見るべしといったのを覚えてくれていたらしい。


 「そうか。どうだった?」


 「もう一回見に行きます」


 ふむ。背中を向けて小さくサムズアップした。


 グルコースの安達社長は演説シーンで泣いたという。


 シン・ゴジラはなんていうか、いわゆるひとつの「趣味映画」である。


 名前が似てるシン石丸も、「ゴジラなんてそもそもつまんないじゃん」と馬鹿にしていたのだが、昨日見に行ったらしくこんなコメントを残している。


https://i.gyazo.com/500bd0fd12d87c98ec46d43f457288a2.png



 わからん。

 もはやわからんのだ。


 シン石丸は特撮マニアではない。

 だから彼は84年ゴジラも、ゴジラvsビオランテも「つまらん」と言う。


 どちらかというと、僕にとってのゴジラシリーズは「我慢して良いところを探す」映画だった。


 いいところがぜんぜんわかんなくなったので、それでゴジラを見るのをやめた。



 12年前につくられた最後の「ゴジラ」シリーズ、「ゴジラFINAL WARS」は、なるほどゴジラが作られなくなるわけだと納得する出来の、ひどい映画である。


 艦首がドリルであり、地底、海底、空中を自在に飛ぶ「海底軍艦 轟天号」がいきなり登場。

 ゴジラとの一騎打ちのシーンからスタートする。


 無駄に豪華なキャストが大真面目な顔でゴジラと戦うが、これがチャチい。

 2004年てそんなに昔じゃないイメージだけど、21世紀になっても特撮は金曜午後五時半みたいなチャチなミニチュアでやらなきゃならんのかと絶望する。


 FINAL WARSの5年前に作られた平成ガメラと比較するのも失礼なレベルだ。


 そして轟天号の攻撃とは全く関係なく、突然地震が発生して地割れに飲み込まれていくゴジラ。

 轟天号いらないじゃん。なぜこのシーンを挿入した?


 すると唐突にYENショップ武富士のような集団ダンスが始まり、どうもなにかの地殻変動で過去の東宝作品に出てきた怪獣が全て復活してしまったため、なぜか人類は日本人だけで地球防衛軍を組織し、さらにその地球防衛軍には、ミュータントとして超能力に目覚めてしまった者達を集めた組織、M機関を組織する。どうもこのYENショップ武富士的な集団はM機関の人たちらしい。


 スタートから10分で脳がクラクラしてくる。ビデオドラッグか。



 そういう目線で改めて「シン・ゴジラ」を見ると、やはりものすごく急激に「庵野秀明樋口真嗣による同人映画」であり、「コレがウケちゃう日本はまだ捨てたもんじゃない」と思わなくもない。



 誤解を恐れずに言えば、僕は庵野秀明は特撮映画に関してはアマチュアだと思う。


 総監督として関わった特撮作品としては短編「巨神兵東京に現わる」があるけれども、あれも一種の二次創作みたいなものだった。


 反面、樋口真嗣はプロである。高校生の頃からプロとして特撮に関わってきた大ベテランで、周囲はみんな年上、という世界で助監督、特技監督、そして監督に上りつめた。


 「シン・ゴジラ」の随所に見られる「同人作品っぽさ」を指して「エヴァじゃん」という指摘は計算通りというか当たり前であって、それを根拠に批判するのはそもそもおかしい。



 ただ、「シン・ゴジラ」は個人的に最も楽しいゴジラ映画ではあったが、果たしてゴジラファンというのはこれを評価してくれるのか、そこが不安でならなかった。


 なにしろ、過去に無数のゴジラの名を冠した怪獣プロレスが作られ続けたわけである。

 

 そしてなぜか現れる未来人、地底人、宇宙人に超能力者、そういうものが現れた時にもうなにもかも台無しにしてしまうのだ。


 ちなみにいうと平成ガメラも、なんか唐突に勾玉が出てきたり超能力者っぽい話が出てきたりするところが好きではない。なぜみんな怪獣というと超自然的なものを出したがるのだ。それは求めてないよ。


 ガメラが玄武ってのは面白いけどさ。



 シン・ゴジラは非常に危ういバランスの上にある作品だと思う。


 庵野秀明のアマチュアリズム・・・好きなものはなんでも臆面もなく取り入れる、しかも分かるように取り入れるという作品の作り方は、手法の是非はともかく、もはや庵野作品のお家芸であって、アイコンでさえある。庵野ファンは元ネタを探してニヤニヤするのだ。


 そう考えると、新劇場版:Qは、そういう要素がまるでなかった。いや、あったのかもしれないけどぜんぜん伝わってこなかった。「見たことのない話」ではあったけど、「見たかった話」ではなかった。


 まあ強いて言えばデビルマン的世界観だろうか。



 Qが僕にぜんぜん刺さらなかったのに、若い連中は「ああ、この投げっぱなし感がテレビシリーズ最終二話のエヴァなのね」と勝手に勘違いをして感動していて、「庵野ファンはチョロいなあ」と傍から見ていて思ったものだ。



 僕はQの続きが全然見たくならない。

 QはマクロスIIと同じくパラレルワールドで起きた惡夢ということにしてしまえばいいのではないか。


 それともとっくに結末は決めてあって、ちゃんと話に決着が付くんだろうか。その可能性はある。



 エヴァの旧劇場版を映画館に見に行った時、衝撃を受けた。

 あの頃はエヴァについて語らない日はなかったし、カラオケにいくと誰が「魂のルフラン」を歌うかで喧嘩になった。


 なぜ衝撃を受けたかといえば、見たことのあるものばかりで、見たことのない話を表現していたからである。


 監視カメラらしき映像や、過剰にディティールを書き込まれた電車や駅、ワイヤレス公衆電話(受話器を盗まれないのか心配になった)、S-DATなどの小道具。もろに日野のトラック、自衛隊ネタ、エビスビール(テレビシリーズではエビチュではなくちゃんとエビスだった)。


 そこにあったのは、圧倒的なリアリティであり、「アニメで表現しちゃいけないとみんなが思い込んでいたことの表現」だった。


 精神汚染されるアスカや、いきなり元カレと本番を始めるミサト、テレビ局に抗議が殺到し、担当プロデューサーのクビが飛んだとか飛ばないとか。


 途中でセルが足りなくなって放送事故一歩前のとまったままの画面、毎週毎週「来週は大丈夫なのか?」とハラハラドキドキしながらテレビを見ていた。



 そして映画で見せられたのは、NERV本部が人間によって襲撃されるという物語だ。

 

 これはアツい。映画的にアツい展開である。

 ワクワクするような映像の応酬と、容赦無い戦略自衛隊の方々。ホールドアップしているNERV職員を容赦なく撃つ残酷描写。血だらけのNERV本部。


 意識を失ったヒロインを前に自慰にふける主人公。

 「それをやっちゃまずいだろ」ということの連続が、否応なしに映画に引き込んだ。


 そして「なるほどサードインパクトとはそのようなことなのか」という圧巻の映像。

 綾波レイがひたすらデカいという、ただそれだけで生まれる強烈すぎるインパクト。


 そういう諸々がエヴァを不朽の傑作たらしめたが、逆に言うとエヴァは1997年の目線でみた時の「世紀末最後のアニメ」であり、その頃の文脈を知らないと面白さは半減してしまう。


 今の若者に「S-DAT」を見せてもリアリティがないし、緑の公衆電話もほとんど見かけない。

 そもそも2015年を舞台としたエヴァにはスマートフォンが全く出てこない。でもそんなの不自然でしょ。


 まあQみたいになった世界ではAppleも滅んでるだろうしどうにもなんないかもしれないけど。


 ある意味でエヴァはそういうツッコミがやってくることを予定して作られた作品であり、むしろ公開から20年近く経っても、まだ語られる文脈がある大傑作になるとは誰も予測していなかったのではないだろうか。


 そこでシン・ゴジラを振り返ると、やはり庵野作品は庵野作品であっても、「同人映画作家」の庵野秀明作品という性格が強い。


 意図的な引用の演出、異常なまでのディティールへのこだわりは、往時のエヴァを感じさせつつ、当代一の特撮映画監督である樋口真嗣が挿入する巨大生物災害シーンは圧倒的な量感とリアリティでもって観客を引き込む。


 そのバランスが、前半はテンポの良い会議シーンの間にところどころ挿入される巨大生物シーンとのコントラストによって退屈になりがちな会議シーンを躍動感あふれるものにして、たかがコピー機を並べるだけでもかっこ良く見せる、という手法は、ギャグとしても機能しているし、同時に緊張感を高めることにも成功している。


 これを「プロの映画監督」である樋口真嗣が単独でやれば、あまりにドラマ的な作りであざとくなってしまう。だから「庵野秀明」という文脈を導入することによって、同じ画面でもあざとさが「計算通り」だと分かる作りになっている。


 そして庵野秀明の持ち味である「見たことのあるものを過剰なディティールで引用する」ことと、樋口真嗣の得意分野である「見たことのないものを見せる」ということが、極めて高いバランスでシーソーゲームを繰り広げる。


 たとえば自衛隊のヘリコプターが出撃するシーンだとか、会議するシーンだとかに聴いたことのある音楽が使われているのは「この映画はこう楽しんでくれい」というひとつの記号でありメッセージだ。


 そして怒涛のラストに向けて全ての準備が整い、あらゆる理屈をブッ飛ばして「うおおすげえ!!」という庵野樋口コンビのユニゾンとでもいうべき真骨頂が炸裂する。


 これがこの映画最大のカタルシスであり、Qで失望した庵野ファンであった僕も、進撃で悔しい思いをしていた樋口ファンであった僕も、「やってくれたな」という心地良い読後感とともに、思いを共有していた(かどうかは知らないが)であろう他のファンたちと一緒に、スタッフロールを最後まで見て、思わず拍手した。


 試写会でもない映画で、舞台挨拶もない映画で、最後に拍手が出る映画は本当に珍しいと思う。


 しかし実際、素直に拍手したくなる映画なのだ。



 だが同時に、どうしてもこれは特撮マニアや庵野樋口マニアでなければ楽しめない要素が少々強いとも思った。

 それがものすごく不安だったので、シン・ゴジラを他の人が楽しんでくれるかどうか、そこまでマニアックじゃない人が楽しんでくれるかはわからなかった。


 ただ、エンターテインメントに関わる仕事をしている人間は見るべき映画だと思った。

 


 ちなみに言わないのももしかしたらフェアじゃないかもしれないから、言っておくけど、僕はシン・ゴジラにエキストラとして出演している。自分ではなかなか見つけられないが、多数発見報告があるのでたぶん分かる人にはわかるのだろう。0.5秒も映ってないので気にしなければ気にならないと思う。


 その程度には、シン・ゴジラに対して元々思い入れがある。

 そして現場の助監督さんたちや他のエキストラさんたちも含めて、極めて真剣にこの映画を作ろうとしていたことを知っている。


 それでも、この映画を見た時はビックリしたし、僕が出たシーン云々という話は関係なく、控えめに言ってこの映画は傑作だと思う。


 特撮マニアが特撮を再構築した作品であり、日本発のゴジラとして堂々たる内容だと思う。


 あとはこれが海外で評価されるかどうか。年末公開らしい。

 できれば評価されてほしいし、初代ゴジラのように、「日本にゴジラあり」という認識が広まって欲しいなあ。


 この本もオススメ

ゴジラとエヴァンゲリオン(新潮新書)

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