日本語上古代文字(神代文字)考 |
(最新見直し2013.12.25日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
通説は、漢字渡来以前の日本には文字がなかったとしている。しかし、万葉仮名を経由して平仮名、カタカナが発明されつつ次第に日本語が形成されていった経緯を読み取るとき、逆に不自然なことになる。万葉仮名自体が、それまでの日本語をベースにして漢字が当てはめられており、これを逆に云えば漢字渡来時点で確固とした上古代日本語が確立されていたことになる。このように理解しようとしない言語論が信じられない。 それでは、上古代日本語がどのようなものであったのだろうか。今日となっては判明しないが、その手がかりとして神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)と呼ばれる古代日本で使用されていたと思われる古代文字があり寺社に遺されている。伊勢神宮の神宮文庫に約百点奉納されている。これをどう理解すべきか、実在か後代の捏造かが問われている。 そのことはともかく、神代文字の研究で必要なことは、神代文字をも弁えていると思われる日本語のアからンで終わる50音がいつどのようにして獲得形成されたのか、その起源をどこまで遡ることができるのか、これが最大の関心となるべきではなかろうか。れんだいこの神代文字への関心は実にここにある。れんだいこの従来の神代文字研究への疑問は、50音の起源を語らないことにある。 神代文字時点で既に50音が有り、それに記号文字を当てはめた風が認められるが、ならば50音の発生過程を検証することこそ真の神代文字考になるべきではなかろうか。且つ50音の獲得こそ日本の神代文字の最大功績であり、日本史が諸外国文明を受け入れるに当り母国言語を失うことなく受容し得た秘密であると看做すべきではなかろうか。こう捉えない研究はいささか物足りない。 2008.5.1日、2008.7.2日再編集 れんだいこ拝 |
【神代文字の種類】 | |||||||||||||||||||||||||||||
現存するところの神代文字は次の通りである。れんだいこは、これを、1・哲理文字系、2・図形(象形)文字系、3・線文字系、4・草文字系に分類する。「神代文字総覧」、佐治芳彦「謎の神代文字」(徳間書店、1979年)その他を参照する。
古史古伝の多くに、神代文字が登場する。『上記』は豊国文字、『秀真伝』や『三笠紀』は秀真文字で書かれており、全文でなくとも神代文字が使われている古史古伝は多い。『九鬼文書』には春日文字など、『竹内文書』には百種以上、『宮下文書』には阿祖山文字、『物部文書』には物部文字、『東日流外三郡誌』には津保化砂書文字などが出てくる。また、対馬の卜部・阿比留(あびる)家において発見され、平田篤胤によって「日文(ひふみ)」として紹介された阿比留(あひる)文字・阿比留草文字がある。静岡の浅間神社、神奈川の大山阿夫利神社、埼玉の三峰神社などの神璽や、洞窟や岩などにも神代文字と言われる文字が記されている。このように神代文字には多くの種類があり、形態も象形的なものから幾何学的なものまで様々であるが、問題はそれが本当に神代から存在していたものなのか、日本固有のものなのかという点にある。 |
1・哲理文字系 |
【カタカムナ図象文字 、上津・化美津文字】(別章【カタカムナ文字考】) |
昭和25年頃、科学技術研究家「楢崎皐月」が兵庫県の六甲山のふもと金鳥山で「平十字」(ひらとうじ)と名のる力タカムナ神社の宮司と遭遇し、彼から“力タカムナのウタヒ”て書かれた巻物を筆写することを許される。楢崎は、これを解読し力タカムナ文献として伝える。書体は字とゆうよりは、丸と十字を基本(ヤタノカガミ、オクタント図象)として、それをとり囲むハつの小丸で構成された書体で表記される。また図象を複数組み合わせて、意味を持つ言葉となる。 |
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【伊予文字 、秀真(ホツマ)文字】(Re別章【ホツマツタヱ考】) |
「秀真(ホツマ)文字」は伊予城下ハ幡社(愛媛県)所蔵文書より伝承されている。これにより伊予文字とも呼ばれる。ヲシテ文字とも云われる。後に丹後国の熊野郡鹿野村の旧家に伝わる「神事記」にも用いられている。また、近江の散所村「三尾神技士」には「秀真伝」が所蔵されているが、そこで用いられている“秀真文字”と書体は全く同じ物であるが、「秀真伝」を発見した小笠原家の子孫は、伊予の出身であることから何らかの因果関係があることは否定できない。 「秀真(ホツマ)文字」は1音1字の文字で、母音要素と子音要素の組み合わせで成り立っている。現在の「あいうえお」の原点となる48文字の基本文字があり、変体文字を含めると197文字が確認されている。アワ歌が原形で、アからワで終わる。アワ歌については別途検証することにする。 書体の形式は、決められた図象を組み合わすことによって作られ「秀真伝」によれば母音となる五つの図象は、宇宙を構成すると云う。その宇宙と人間の身体が相関しているとの認識の下で、アの「*」は人の頭、イの「*」は人の肩、ウの「*」は人のみずおち、エの「*」は人の小腸、オの「*」は人の「骨盤」を象徴しているとも読み取れる。全48文字がそのように意味づけられているとされており、かなり高度な文字(ひょっとして人類が獲得した最高の文字の一つ)と云う事になる。 |
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【出雲石窟文字、トヨノ文字、書嶋字】(別章【出雲石窟文字、トヨノ文字、書嶋字考】) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
島根県の出雲大社近くの書嶋(フミジマ)の石窟で発見されたと云われている(現存場所不明)。神代に大己貴命が創った文字とも伝わる。高知市天神町にも伝来され伊勢神宮にもこの書体で書かれた奉納文あり。竹内巨麿氏の『神代の万国史』による古い伝承によれば、この文字は“トヨノ文字”と呼ばれイザナギの命より何代も前の豊雲野天皇によって創られたと伝わる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2・図形(象形)文字系 |
【山窩(サンカ)文字】 |
山窩研究家で知られる 「三角 寛」氏によれば、昭和7年、山窩の首の協力を得て始めて世に出た文字。サン力文字は普通「あぶり出し」で記載され、その秘密を一般に知られればリンチという激しい掟のある社会で、外部とは接触を立ってきたため、その文字の秘密も今まで知られていなかった。神代文字を基にした三角寛の創作とも云われる。 文字種は、絵文字で表記されており興味の引くことは、“豊国文字”や“越文字”に類似している点にある。(越文字 項 参照)このことは、サン力文字が秘密にされてきた背景と古史古伝との伝承に、真偽は別としてのなんらかの因果関係があることを喚起しなければならないだろう。 |
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【豊国文字】 |
「上記」(うえつふみ)、「竹内文献」原文に使われている文字。また宮崎県天岩戸神社境内より出土の岩戸蓋石にもこの文字が刻まれている。書体には豊国古体象字と豊国新体象字が存在しており、古体象字は一種の象形文字であり、越文字やサンカ文字に酷似している。新体象文字は力タカナと類似点があり、47文字のうちの半数が通底している。平安初期に吉備真備が力タカナを作ったと云われているが、彼が「上記」の豊国新体象字を参考にしていたことが十分考えられる。 |
豊国古体象字
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豊国新体象字 |
【春日(カスガ)文字】 |
九鬼文献より伝承。九鬼家の遠祖、天児屋根命時代にに記録された神代文字の原文を奈良時代に藤原不比等が漢字に書き改めた。力スガ文字はその中の一部。書体は、象形文字で、”豊国文字”に類似している。 |
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【アソヤマ文字】 |
宮下文書(富士古文献)より伝承。文字というより符号のような絵文字で表記されている。生活に関連の多い単語(名詞)が31個、数を表す符号(数字)17個にて表現。記数法は五進法から十進法への進化を示し、千単位までの符号(数字)まであり、かなり進んだ文化が背景にあったと考えられる。 |
【越文字】 |
竹内文献内で見られる文字の一つ。越の国(北陸から新潟県)に伝えられたというが、竹内文献を世に公にした“竹内巨麿”がこの国の出生だというのもおもしろい。 文字種は象形文字の部類であり、『上書』の“豊国文字”に一部を除き酷似している。また、以前から独自の社会を持つ山の民「山窩」に密かに伝承されて来た“サン力文字”との類似性にも言及する必要がある。 |
サンカ文字・越文字・豊国文字 比較
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3・線文字系 |
【アジチ文字、守恒(モリツネ)文字 】 |
茨城県下の皇祖皇太神宮のご身体でもある「モーゼの十戒石」に刻まれた文字。昭和34年、竹内文献研究家酒井勝軍が、御身体の包みを同神社より発見した。文字種としては、「神代の万国史」に伝わる"守恒文字”と酷似しており、ア行の「イ」「エ」が違うだけである。また、古代へプライ語また梵字にも似ていなくもなく、やはり摸倣して作られたと疑われても否定できない。 酒井勝軍は、「モリツネ文字こそギリシャ字、ヘブライ字の母体であり、その草書体がサンスクリットの母体である」、「皇祖皇太神宮の御神体にのみ使用されている」と述べている。酒井とは逆に「ギリシャヘブライ語の模倣ではないか」と疑われてもいたしかたない。“アジチ”の由来に関して、竹内文献には、“アヂチ唐・アジチイタナ国・天須加利登大金主尊(アジチオキンヌシ「黄金を採掘する神の名」)などの関連記載があるが、“竹内巨麿”が竹内文献の公開をした当初、モーゼの十戒石はまだ発見されていなかったことに注意したい。 |
モリツネ文字 草書体
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【斎部(イムベ)文字】 |
斎部(忌部)、橘両家に代々極秘裏に伝わる文字。他見は決して許されず、代々世襲されてきた文字でもある。平安初期 朝廷に仕えていた「斎部広哉」が著した『古語拾遺』には、「上古の世、未だ文字あらず」と記しており、以前は国学院大等の教科書にも使われていた。しかし、これは「未だ漢字あらず」という意味で「漢字以前に、何かしらの文字があったのでは」といった説が浮上してきた。 その後 古語拾遺が出て、五百年余り後の南北朝時代、後村上天皇(南朝方)に仕える「忌部正通」という人物が『神代巻口訣』にて「神代の文字は、象形なり」と述べている。おもしろいことに、忌部家は斎部家の直系の子孫であり、斎部広哉は斎部家に、極秘裏に伝わる文字を隠匿するためワザと「漢字はない」と記したのではないかと憶測されている。 |
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【惟足(コレタリ)文字】 |
吉川惟足が発見、提示し吉川家にて伝承された文字。落合直澄によれば「コレタリ文字は、錯乱はなはだしきにより訂正を加えたもの」と、『日字考』で述べている。が、この文字と同種の守り札が江州伊吹神社に、使われていることから、あながち「全くの疑字である」という結論は避けなければならない。 |
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【筑紫(ツクシ)文字、重定石窟文字、ヤソヨ文字】 |
筑後国生葉群上宮田村字重定という場所(今の福岡県浮羽群と思われる。)に石窟があり、その壁面に彫られている文字。また、竹内文献では、この文字をヤソヨ文字と呼称し上古第九代二十二世の御代に作られたと伝える。 |
【天名知鎮・阿奈伊知文字 (アナイチ文字)、磨邇字(まにな)、六行成文字】 |
江戸時代、薩摩藩より出版された『成形図説』により初めて報告されたが、その後 江戸時代の神代文字存在論者の鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)によれば、河内国平岡泡輪社の土筍に彫られてあった『大成経』の所伝に付会されて流布したが、後世の調査の結果この神社は存在せず、もともとの起原などはっきりしない。現在では、鶴峯が著した『嘉永刪定神代文字考』や『楔木文字考』にのみ伝えられる。 この書体は文字としての最も原始的な「結縄(キープ)」とともにあげられる「楔木」(組み木で出来た古神道で使われる一種の占い)の発展したもので、別名“磨邇字”の由来は“占”に使用した字という意味である。また、“阿奈伊知”とは「アナイチ」という称する当時の遊びに使われた遊具の形がアナイチ文字の基本図形に似ていることより称する。また、囲碁で使われる用語で「六行成」という名称がある定石の配列がやはりこの文字の型こ、似通っていることから“六行成文字”とも呼ばれている。 |
【阿比留文字 日文 肥人書(こまひとのふみ)】 |
対馬の卜部-阿比留家に伝えられたことからアヒル文字と呼ばれる説(神字日文伝・平田篤胤)とト部家がアヒル文字を伝えて阿比留家となった説(竹内義宮氏)がある。 書体は、横組みと縦組みがあり、その構成はハングルと似通った文字種であるが模倣したものならアヒル文字の出現は、ハングルの制定1446年 李朝世宗時代以降となる。しかしそれ以前のものと思われる古い神社に伝えられる神札や石碑などにアヒル文字が使われていることに疑問が残る。宮崎県の円野神社(創建703年)にアヒル文字で刻まれた石碑が出土しているが、どういうわけかその石碑の存在自体も無視されている。 |
阿比留文字 縦組み
阿比留文字 横組み
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【イスキリス文字 、タネマキ文字、種子文字】 |
昭和6年 竹内家に伝わる秘蔵品から見つかった「イエスの生涯を綴った遺言書」 に使われている文字。原文は、イエスが“タネマキ文字”を元に作ったとされている。しかし、発見当時には、すでに「平郡真鳥(へぐりのまとり)」の漢字力ナ混じりの訳がついていた。ちなみにイスキリとは、イエスの弟でエルサレムで十字架に兄の代わりに殺されたという。 |
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【アイヌ文字 、アイノ文字、北海道異体文字】 |
明治中期の人類学者・坪井正五郎が「東京人類学会誌 18、22号」』にて「北海道異体文字」として初めて紹介する。石片や土器、太刀、獣皮、木片などに先刻され北海道余市近辺にて出土。特に1千年も前の古い時代の物であると認定された「六角柱石片」には、アイノ文字が記されており確たる証拠となっている。 「明治以前に、アイヌ人が文字を持つわけがない」というのが学説であるが、ウエツ書や秀真伝、九鬼文書に、エゾノ国(蝦夷)を治めるといった記載があることから一概にアイヌ人が未開拓人であったと考えるのは早計である。 |
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【対馬文字】 |
対馬 卜部家、阿比留家に伝わる。字体は古木の枝のごとく「卜食(うらばみ)」と呼ばれる型「兆図」(まちがた)を基本に構成されている。ヰ、オ、エは虫喰いで不明。同種の文字は『神代の万国史』に伝わる「桃木文字」に酷似している。また、その書体はシュメールの聖なる木「七技樹」を思わせるが海洋航海術を持った、シュメール文化が対馬や日本各地にも来ていた事を匂わせる。 |
【桃木文字】 |
竹内家『神代の万国史』にイザナギ天皇時代の文字として伝えられている。昭和11年に青森十和田湖南東十キロメートルにあるドコノ森にて、この意味不明な文様が刻まれた岩石群が多数発見された。山口県豊浦群 豊北町の大浦岳でも同様の文様の刻まれた文字が見つかっている。また、埼玉県の「吉見百穴」にも、同様の刻石がみつかっている。対馬 阿比留、卜部両家に伝わる対馬文字にも酷似している。書体は木の枝や根を思わせる。古代文字研究家「落合直澄」 は「アイヌ文字の合成文字ではないか」と、物議をかもしたことがあった。 |
吉見百穴文字
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4・草文字系 |
【阿比留草文字 日文草書、薩人書(さつひとのふみ)】 |
対馬の阿比留家に伝来されている。甲骨文字の一種とされる。また主に法隆寺、三輪神社、鹿島神宮に秘蔵され、現在確確認されているだけでも13種類の書体が存在する。また、出雲大社にも“出雲文字”と呼ばれる書体がある。 藤原不比等や平将門、源頼朝らがアヒル草文字で書かれた奉納文を伊勢神宮へ献文している。しかし、いずれも戦前までそれらの存在は、写真や写しなどで確認されていたのにも係わらず、なぜか現在では紛失している。 |
阿比留家 伝来
鶴岡八幡宮秘蔵
出雲大社秘蔵
節墨譜文字
法隆寺秘蔵
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【阿波文字】 |
阿波国大宮の神主より伝えられる。阿波国名東郡の神社で発見された。大磯食神社『神代文字社伝記』・『神代文字中臣拔・射和文庫』などに阿波文字で書かれた蔵書がある。また、宮城県 御崎神社 クシラツ力碑(白鯨の領徳碑)」に阿波文字で先刻された碑が見られる。書体形式はアヒル草文字と類似だが相関関係はなく別の出所と思われる。 |
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【琉球古字 - 琉球で占いに使われたという文字。北海道異体文字 - 北海道の遺跡から発見された】 | |
1887(明治20)年、東大教授の坪井正五郎博士が、東京人類学会誌に「北海道異体文字が刻まれた土器その他の実例」を発表した。当時の国語学者・落合直澄(なおずみ)は、これらの遺物を保管していたのがアイヌであったことから、その文字を「アイヌ(アイノ)文字」と命名し、20音図にして復元している。但し、未解読文字であり、文書での発見はされていない。発見当時、逓信大臣をしていた榎本武揚は、この文字を「千古(何千年も前の)の文字」に違いないと鑑定している。 高橋良典氏著「太古・日本の王は世界を治めた」(徳間書店、1994.8.31日初版)の「ロスチャイルド財閥が日本の神代文宇に暴常な關心を示してゐる!?」を転載する(「関連情報」より)。
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【神代文字考】 |
神代文字とは、漢字の渡来および仮名の成立に先だって上古の日本にかって存在していたとされ文字を云う。「神字」と書いて「かんな」とも呼ぶ。古史古伝の多くに神代文字が登場する。上記は豊国文字、秀真伝や三笠紀は秀真文字で書かれている。全文でなくとも神代文字が使われている古史古伝は多い。九鬼文書には春日文字など、竹内文書には百種以上、宮下文書には阿祖山文字、物部文書には物部文字、東日流外三郡誌には津保化砂書文字などが出てくる。対馬の卜部・阿比留(あびる)家において発見され、江戸時代の国学者神道家である平田篤胤によって「日文(ひふみ)」として紹介された阿比留(あひる)文字・阿比留草文字がある。平田篤胤が「神字日文傳」を著し、日本に固有の文字として神代文字があったとの説を唱え「日文(ヒフミ)文字」を書き写している。平田篤胤は、ハングル文字との著しい類似性を指摘している。他にも静岡の浅間神社、神奈川の大山阿夫利神社、埼玉の三峰神社などの神璽や、洞窟や岩などにも神代文字と言われる文字が記されている。このように神代文字には多くの種類があり、形態も象形的なものから幾何学的なものまで様々なものがある。 神代文字が存在したとする説は、おそくとも室町時代から神道家の間にひろまっていた。江戸時代、新井白石が、出雲大社や熱田神宮に神代から伝わったとされる文字が残っていることを指摘した。他方、貝原益軒は平安時代の古語拾遺の「上古の世、未だ文字あらず」の記述を挙げてその存在を否定した。当時、賀茂真淵や本居宣長らの国学者は否定した。復古神道の推進者となった平田篤胤は神代文字に関する資料を全国に求め、神字日文伝の中で日文を正真の神代文字とした。他方、伴信友は、仮名本末で神代文字の偽造説を説いて否定した。 明治に至り、神道家の落合直澄が日本古代文字考を発表し、考古学上の文字資料を集成してその存在を肯定した。他方、国文学の山田孝雄は、所謂神代文字の論において個々の神代文字について偽作であるとした。豊かな国語・国文学的知識からの博引傍証からなるこの書の中で、実際の古典に神代文字で記された実例がないことを述べ、阿比留文字などもハングル文字の模倣であると断言した。この山田論文によって、学者としてその存在を信ずるものはほとんど影をひそめるにいたった。ただ昭和年代に入っても、愛国者や軍人のなかにその存在を信ずるものがあって、政治問題にまでも発展しかねない事件を引き起したことがある。戦後、国語学者の大野晋が、奈良時代の母音の数によって神代文字は平安時代以降の偽作と論じた。決定的な否定論と思えたが、言語学者の松本克己は、奈良時代の八母音は、漢字という書記法が日本語の発音を微妙に書き分けたことによる一種の虚像であるとして批判し、国語学者の森重敏は文法論と語構成の立場から奈良時代の八母音説を否定している。 (「古史古伝と神代文字」、「神字日文傳」その他参照) |
「神代文字総覧」、佐治芳彦「謎の神代文字」(徳間書店、1979年)、 吾郷清彦「超古代神字・太占総覧」(新人物往来社、1979年)、藤芳義男「神代文字の謎」(桃源社、1979年)、相馬龍夫「日本古代文字の謎を解く」(新人物往来社、1974年)その他。 |
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「ウィキペディア神代文字」(2013.12.29日現在)を参照する。
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(私論.私見)