日本語上古代文字(神代文字)考

 (最新見直し2013.12.25日) 

 (れんだいこのショートメッセージ)
 通説は、漢字渡来以前の日本には文字がなかったとしている。しかし、万葉仮名を経由して平仮名、カタカナが発明されつつ次第に日本語が形成されていった経緯を読み取るとき、逆に不自然なことになる。万葉仮名自体が、それまでの日本語をベースにして漢字が当てはめられており、これを逆に云えば漢字渡来時点で確固とした上古代日本語が確立されていたことになる。このように理解しようとしない言語論が信じられない。

 それでは、上古代日本語がどのようなものであったのだろうか。今日となっては判明しないが、その手がかりとして神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)と呼ばれる古代日本で使用されていたと思われる古代文字があり寺社に遺されている。伊勢神宮の神宮文庫に約百点奉納されている。これをどう理解すべきか、実在か後代の捏造かが問われている。

 そのことはともかく、神代文字の研究で必要なことは、神代文字をも弁えていると思われる日本語のアからンで終わる50音がいつどのようにして獲得形成されたのか、その起源をどこまで遡ることができるのか、これが最大の関心となるべきではなかろうか。れんだいこの神代文字への関心は実にここにある。れんだいこの従来の神代文字研究への疑問は、50音の起源を語らないことにある。

 神代文字時点で既に50音が有り、それに記号文字を当てはめた風が認められるが、ならば50音の発生過程を検証することこそ真の神代文字考になるべきではなかろうか。且つ50音の獲得こそ日本の神代文字の最大功績であり、日本史が諸外国文明を受け入れるに当り母国言語を失うことなく受容し得た秘密であると看做すべきではなかろうか。こう捉えない研究はいささか物足りない。

 2008.5.1日、2008.7.2日再編集 れんだいこ拝


【神代文字の種類】
 現存するところの神代文字は次の通りである。れんだいこは、これを、1・哲理文字系、2・図形(象形)文字系、3・線文字系、4・草文字系に分類する。「神代文字総覧」、佐治芳彦「謎の神代文字」(徳間書店、1979年)その他を参照する。
1・哲理文字系
カタカムナ図象文字 、上津・化美津文字
ホツマ(秀真)文字伊予文字
出雲石窟文字、トヨノ文字、書嶋字
2・図形(象形)文字系
サンカ(山窩)文字
豊国文字
春日(カスガ)文字
アソヤマ文字
越文字
3・線文字系
アジチ文字、守恒(モリツネ)文字
斎部(イムベ)文字
惟足(コレタリ)文字
筑紫(ツクシ)文字、重定石窟文字、ヤソヨ文字
天名知鎮・阿奈伊知文字 (アナイチ文字)、磨邇字(まにな)、六行成文字
アヒル(阿比留)文字、日文、肥人書(こまひとのふみ)
イスキリス文字 、タネマキ文字、種子文字
アイヌ文字・アイノ文字(北海道異体文字)
対馬文字
桃木文字
4・草文字系
アビルクサ(阿比留草)文字、日文草書、薩人書(さつひとのふみ)
阿波文字
天狗文字

 古史古伝の多くに、神代文字が登場する。『上記』は豊国文字、『秀真伝』や『三笠紀』は秀真文字で書かれており、全文でなくとも神代文字が使われている古史古伝は多い。『九鬼文書』には春日文字など、『竹内文書』には百種以上、『宮下文書』には阿祖山文字、『物部文書』には物部文字、『東日流外三郡誌』には津保化砂書文字などが出てくる。また、対馬の卜部・阿比留(あびる)家において発見され、平田篤胤によって「日文(ひふみ)」として紹介された阿比留(あひる)文字・阿比留草文字がある。静岡の浅間神社、神奈川の大山阿夫利神社、埼玉の三峰神社などの神璽や、洞窟や岩などにも神代文字と言われる文字が記されている。このように神代文字には多くの種類があり、形態も象形的なものから幾何学的なものまで様々であるが、問題はそれが本当に神代から存在していたものなのか、日本固有のものなのかという点にある。

1・哲理文字系

【カタカムナ図象文字 、上津・化美津文字】(別章【カタカムナ文字考】)
 昭和25年頃、科学技術研究家「楢崎皐月」が兵庫県の六甲山のふもと金鳥山で「平十字」(ひらとうじ)と名のる力タカムナ神社の宮司と遭遇し、彼から“力タカムナのウタヒ”て書かれた巻物を筆写することを許される。楢崎は、これを解読し力タカムナ文献として伝える。書体は字とゆうよりは、丸と十字を基本(ヤタノカガミ、オクタント図象)として、それをとり囲むハつの小丸で構成された書体で表記される。また図象を複数組み合わせて、意味を持つ言葉となる。

【伊予文字 、秀真(ホツマ)文字】(Re別章【ホツマツタヱ考】)
 「秀真(ホツマ)文字」は伊予城下ハ幡社(愛媛県)所蔵文書より伝承されている。これにより伊予文字とも呼ばれる。ヲシテ文字とも云われる。後に丹後国の熊野郡鹿野村の旧家に伝わる「神事記」にも用いられている。また、近江の散所村「三尾神技士」には「秀真伝」が所蔵されているが、そこで用いられている“秀真文字”と書体は全く同じ物であるが、「秀真伝」を発見した小笠原家の子孫は、伊予の出身であることから何らかの因果関係があることは否定できない。

 「秀真(ホツマ)文字」は1音1字の文字で、母音要素と子音要素の組み合わせで成り立っている。現在の「あいうえお」の原点となる48文字の基本文字があり、変体文字を含めると197文字が確認されている。アワ歌が原形で、アからワで終わる。アワ歌については別途検証することにする。

 書体の形式は、決められた図象を組み合わすことによって作られ「秀真伝」によれば母音となる五つの図象は、宇宙を構成すると云う。その宇宙と人間の身体が相関しているとの認識の下で、アの「*」は人の頭、イの「*」は人の肩、ウの「*」は人のみずおち、エの「*」は人の小腸、オの「*」は人の「骨盤」を象徴しているとも読み取れる。全48文字がそのように意味づけられているとされており、かなり高度な文字(ひょっとして人類が獲得した最高の文字の一つ)と云う事になる。

【出雲石窟文字、トヨノ文字、書嶋字】(別章【出雲石窟文字、トヨノ文字、書嶋字考】)
 島根県の出雲大社近くの書嶋(フミジマ)の石窟で発見されたと云われている(現存場所不明)。神代に大己貴命が創った文字とも伝わる。高知市天神町にも伝来され伊勢神宮にもこの書体で書かれた奉納文あり。竹内巨麿氏の『神代の万国史』による古い伝承によれば、この文字は“トヨノ文字”と呼ばれイザナギの命より何代も前の豊雲野天皇によって創られたと伝わる。
 (「久遠の絆 浦木様」とのこと)

2・図形(象形)文字系

【山窩(サンカ)文字】
 山窩研究家で知られる 「三角 寛」氏によれば、昭和7年、山窩の首の協力を得て始めて世に出た文字。サン力文字は普通「あぶり出し」で記載され、その秘密を一般に知られればリンチという激しい掟のある社会で、外部とは接触を立ってきたため、その文字の秘密も今まで知られていなかった。神代文字を基にした三角寛の創作とも云われる。

 文字種は、絵文字で表記されており興味の引くことは、“豊国文字”や“越文字”に類似している点にある。(越文字 項 参照)このことは、サン力文字が秘密にされてきた背景と古史古伝との伝承に、真偽は別としてのなんらかの因果関係があることを喚起しなければならないだろう。

【豊国文字】
 「上記」(うえつふみ)、「竹内文献」原文に使われている文字。また宮崎県天岩戸神社境内より出土の岩戸蓋石にもこの文字が刻まれている。書体には豊国古体象字と豊国新体象字が存在しており、古体象字は一種の象形文字であり、越文字やサンカ文字に酷似している。新体象文字は力タカナと類似点があり、47文字のうちの半数が通底している。平安初期に吉備真備が力タカナを作ったと云われているが、彼が「上記」の豊国新体象字を参考にしていたことが十分考えられる。

 豊国古体象字

 豊国新体象字

【春日(カスガ)文字】
 九鬼文献より伝承。九鬼家の遠祖、天児屋根命時代にに記録された神代文字の原文を奈良時代に藤原不比等が漢字に書き改めた。力スガ文字はその中の一部。書体は、象形文字で、”豊国文字”に類似している。

【アソヤマ文字】
 宮下文書(富士古文献)より伝承。文字というより符号のような絵文字で表記されている。生活に関連の多い単語(名詞)が31個、数を表す符号(数字)17個にて表現。記数法は五進法から十進法への進化を示し、千単位までの符号(数字)まであり、かなり進んだ文化が背景にあったと考えられる。

【越文字】
 竹内文献内で見られる文字の一つ。越の国(北陸から新潟県)に伝えられたというが、竹内文献を世に公にした“竹内巨麿”がこの国の出生だというのもおもしろい。

 文字種は象形文字の部類であり、『上書』の“豊国文字”に一部を除き酷似している。また、以前から独自の社会を持つ山の民「山窩」に密かに伝承されて来た“サン力文字”との類似性にも言及する必要がある。
サンカ文字・越文字・豊国文字 比較

3・線文字系

【アジチ文字、守恒(モリツネ)文字 】
 茨城県下の皇祖皇太神宮のご身体でもある「モーゼの十戒石」に刻まれた文字。昭和34年、竹内文献研究家酒井勝軍が、御身体の包みを同神社より発見した。文字種としては、「神代の万国史」に伝わる"守恒文字”と酷似しており、ア行の「イ」「エ」が違うだけである。また、古代へプライ語また梵字にも似ていなくもなく、やはり摸倣して作られたと疑われても否定できない。

 酒井勝軍は、「モリツネ文字こそギリシャ字、ヘブライ字の母体であり、その草書体がサンスクリットの母体である」、「皇祖皇太神宮の御神体にのみ使用されている」と述べている。酒井とは逆に「ギリシャヘブライ語の模倣ではないか」と疑われてもいたしかたない。“アジチ”の由来に関して、竹内文献には、“アヂチ唐・アジチイタナ国・天須加利登大金主尊(アジチオキンヌシ「黄金を採掘する神の名」)などの関連記載があるが、“竹内巨麿”が竹内文献の公開をした当初、モーゼの十戒石はまだ発見されていなかったことに注意したい。

 モリツネ文字 草書体

【斎部(イムベ)文字】
 斎部(忌部)、橘両家に代々極秘裏に伝わる文字。他見は決して許されず、代々世襲されてきた文字でもある。平安初期 朝廷に仕えていた「斎部広哉」が著した『古語拾遺』には、「上古の世、未だ文字あらず」と記しており、以前は国学院大等の教科書にも使われていた。しかし、これは「未だ漢字あらず」という意味で「漢字以前に、何かしらの文字があったのでは」といった説が浮上してきた。

その後 古語拾遺が出て、五百年余り後の南北朝時代、後村上天皇(南朝方)に仕える「忌部正通」という人物が『神代巻口訣』にて「神代の文字は、象形なり」と述べている。おもしろいことに、忌部家は斎部家の直系の子孫であり、斎部広哉は斎部家に、極秘裏に伝わる文字を隠匿するためワザと「漢字はない」と記したのではないかと憶測されている。

【惟足(コレタリ)文字】
 吉川惟足が発見、提示し吉川家にて伝承された文字。落合直澄によれば「コレタリ文字は、錯乱はなはだしきにより訂正を加えたもの」と、『日字考』で述べている。が、この文字と同種の守り札が江州伊吹神社に、使われていることから、あながち「全くの疑字である」という結論は避けなければならない。

【筑紫(ツクシ)文字、重定石窟文字、ヤソヨ文字】
 筑後国生葉群上宮田村字重定という場所(今の福岡県浮羽群と思われる。)に石窟があり、その壁面に彫られている文字。また、竹内文献では、この文字をヤソヨ文字と呼称し上古第九代二十二世の御代に作られたと伝える。

【天名知鎮・阿奈伊知文字 (アナイチ文字)、磨邇字(まにな)、六行成文字】
 江戸時代、薩摩藩より出版された『成形図説』により初めて報告されたが、その後 江戸時代の神代文字存在論者の鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)によれば、河内国平岡泡輪社の土筍に彫られてあった『大成経』の所伝に付会されて流布したが、後世の調査の結果この神社は存在せず、もともとの起原などはっきりしない。現在では、鶴峯が著した『嘉永刪定神代文字考』や『楔木文字考』にのみ伝えられる。

 この書体は文字としての最も原始的な「結縄(キープ)」とともにあげられる「楔木」(組み木で出来た古神道で使われる一種の占い)の発展したもので、別名“磨邇字”の由来は“占”に使用した字という意味である。また、“阿奈伊知”とは「アナイチ」という称する当時の遊びに使われた遊具の形がアナイチ文字の基本図形に似ていることより称する。また、囲碁で使われる用語で「六行成」という名称がある定石の配列がやはりこの文字の型こ、似通っていることから“六行成文字”とも呼ばれている。

【阿比留文字 日文 肥人書(こまひとのふみ)】
 対馬の卜部-阿比留家に伝えられたことからアヒル文字と呼ばれる説(神字日文伝・平田篤胤)とト部家がアヒル文字を伝えて阿比留家となった説(竹内義宮氏)がある。

 書体は、横組みと縦組みがあり、その構成はハングルと似通った文字種であるが模倣したものならアヒル文字の出現は、ハングルの制定1446年 李朝世宗時代以降となる。しかしそれ以前のものと思われる古い神社に伝えられる神札や石碑などにアヒル文字が使われていることに疑問が残る。宮崎県の円野神社(創建703年)にアヒル文字で刻まれた石碑が出土しているが、どういうわけかその石碑の存在自体も無視されている。
 阿比留文字 縦組み
 阿比留文字 横組み

【イスキリス文字 、タネマキ文字、種子文字】
 昭和6年 竹内家に伝わる秘蔵品から見つかった「イエスの生涯を綴った遺言書」 に使われている文字。原文は、イエスが“タネマキ文字”を元に作ったとされている。しかし、発見当時には、すでに「平郡真鳥(へぐりのまとり)」の漢字力ナ混じりの訳がついていた。ちなみにイスキリとは、イエスの弟でエルサレムで十字架に兄の代わりに殺されたという。

【アイヌ文字 、アイノ文字、北海道異体文字】
 明治中期の人類学者・坪井正五郎が「東京人類学会誌 18、22号」』にて「北海道異体文字」として初めて紹介する。石片や土器、太刀、獣皮、木片などに先刻され北海道余市近辺にて出土。特に1千年も前の古い時代の物であると認定された「六角柱石片」には、アイノ文字が記されており確たる証拠となっている。

 「明治以前に、アイヌ人が文字を持つわけがない」というのが学説であるが、ウエツ書や秀真伝、九鬼文書に、エゾノ国(蝦夷)を治めるといった記載があることから一概にアイヌ人が未開拓人であったと考えるのは早計である。

【対馬文字】
 対馬 卜部家、阿比留家に伝わる。字体は古木の枝のごとく「卜食(うらばみ)」と呼ばれる型「兆図」(まちがた)を基本に構成されている。ヰ、オ、エは虫喰いで不明。同種の文字は『神代の万国史』に伝わる「桃木文字」に酷似している。また、その書体はシュメールの聖なる木「七技樹」を思わせるが海洋航海術を持った、シュメール文化が対馬や日本各地にも来ていた事を匂わせる。

【桃木文字】
 竹内家『神代の万国史』にイザナギ天皇時代の文字として伝えられている。昭和11年に青森十和田湖南東十キロメートルにあるドコノ森にて、この意味不明な文様が刻まれた岩石群が多数発見された。山口県豊浦群 豊北町の大浦岳でも同様の文様の刻まれた文字が見つかっている。また、埼玉県の「吉見百穴」にも、同様の刻石がみつかっている。対馬 阿比留、卜部両家に伝わる対馬文字にも酷似している。書体は木の枝や根を思わせる。古代文字研究家「落合直澄」 は「アイヌ文字の合成文字ではないか」と、物議をかもしたことがあった。
吉見百穴文字

4・草文字系

【阿比留草文字 日文草書、薩人書(さつひとのふみ)】
 対馬の阿比留家に伝来されている。甲骨文字の一種とされる。また主に法隆寺、三輪神社、鹿島神宮に秘蔵され、現在確確認されているだけでも13種類の書体が存在する。また、出雲大社にも“出雲文字”と呼ばれる書体がある。

 藤原不比等や平将門、源頼朝らがアヒル草文字で書かれた奉納文を伊勢神宮へ献文している。しかし、いずれも戦前までそれらの存在は、写真や写しなどで確認されていたのにも係わらず、なぜか現在では紛失している。
 阿比留家 伝来
 鶴岡八幡宮秘蔵
 出雲大社秘蔵
 節墨譜文字
 法隆寺秘蔵

【阿波文字】
 阿波国大宮の神主より伝えられる。阿波国名東郡の神社で発見された。大磯食神社『神代文字社伝記』・『神代文字中臣拔・射和文庫』などに阿波文字で書かれた蔵書がある。また、宮城県 御崎神社  クシラツ力碑(白鯨の領徳碑)」に阿波文字で先刻された碑が見られる。書体形式はアヒル草文字と類似だが相関関係はなく別の出所と思われる。

【琉球古字 - 琉球で占いに使われたという文字。北海道異体文字 - 北海道の遺跡から発見された】
 1887(明治20)年、東大教授の坪井正五郎博士が、東京人類学会誌に「北海道異体文字が刻まれた土器その他の実例」を発表した。当時の国語学者・落合直澄(なおずみ)は、これらの遺物を保管していたのがアイヌであったことから、その文字を「アイヌ(アイノ)文字」と命名し、20音図にして復元している。但し、未解読文字であり、文書での発見はされていない。発見当時、逓信大臣をしていた榎本武揚は、この文字を「千古(何千年も前の)の文字」に違いないと鑑定している。

 高橋良典氏著「太古・日本の王は世界を治めた」(徳間書店、1994.8.31日初版)の「ロスチャイルド財閥が日本の神代文宇に暴常な關心を示してゐる!?」を転載する(「関連情報」より)。

 一九九〇年十一月初め ― 私は虎ノ門の瀟洒(しようしや)な喫茶店で一人の女性と會つた。彼女の名を今此處で明かすことは出來ない。ただ、限りなく私の探究心をかきたてる謎の人物である、とだけいつておかう。何故なら、私は彼女の口からある不思議な事實を告げられ、其れまで二十年間私の調べてきた事が、私白身も知らない重大な意味をもつてゐる事に氣づいたからだ。

 彼女は今から五十年以上前に、滿州(現支那・東北三省)各地を旅行して數奇な體驗をした。そして、戰後は東京のホテルオークラや上海、ニューヨーク、巴里の高級ホテルを轉々として一人で暮らし乍ら、各國政府の要人やグローバル・カンパニーのトップたちと幅廣い交友關係をもつて今日に至つてゐる。小柄できやしやな身體つきだが老いを見せない美貌、大きな瞳のうちに激しい氣性を祕めてゐる事を感じさせ、きりつとした口もとに竝々ならぬ意志の強さがうかがへる其の女性は、かう語り出した。「私は死ぬ前に此れまでに經驗したいろんな出來事を誰かにお話しして、一册の本にまとめ度いと思つてゐます。あなたは私が此れからお話しする事に興味があるかしら・・・・・・」。

 彼女と私が虎ノ門で會ふことに成つたのは、 一人の共通の友人を介してである。彼女は私が伊勢神宮に傳はる"神代文字" ― 詳細は本文に後述するが、漢字傳來以前の日本にあつた古代文字の總稱 ― に詳しい事を友人から聞いて接觸してきたやうである。彼女は、かう續けた。「あなたは以前英吉利のエドモンドに會つた事があります? 實は彼は私の遠い親戚なんですのよ。其の彼がつい最近、私にアヒルクサ文字(後述する神代文字の一種)の資料を送つてほしいと云ふのです。彼の顧問をしてゐるブライアンは、ノーベル賞級のりつぱな物理學者ですけれども此のアヒルクサ文字に非常に興味をもつてゐて、エドモンドにもつと詳しい情報を手に入れたはうが好いと進言したさうです」。 「ほおっ。其れで具體的に何が必要なのですか」。

 私には英吉利・ロスチャイルド家の當主エドモンドが、なせ日本の神代文字に興味を示すのか解せなかった。然し、ロスチャイルド家の人間が神代文字の資料を集めてゐる事は、別のルートの情報からも明らかだつた。聞くところによれば、私が彼女と會ふ何年か前、東京・原宿にあるコンピュータ・ソフトのメーカーがアヒルクサ文字のソフトを凡そ二千本つくったと云ふ。私白身は其のソフトの實物を見た事はない。が、其れらは歐米に輸出されて、一つ殘らず賣れてしまつたと云ふのだ。日本ではぼとんど誰も買ふはずのない其のやうなソフトをメーカーが製作した事自體とても信じられない事だが、其れをまた歐米の研究者がただちに贖入したと云ふのも奇妙な話である。私は思った ― おそらく其のソフトは今、亞米利加を中心に卷き起こってゐる猛烈な古代文字解讀ブームの最中に、此のブームを演出してゐる國際ユダヤのプロデューサーが日本の古代文字 ― 神代文字に注目して發注したものに違ひない、と。

 其れにしても、彼らは一體なにゆゑに、此の時期に日本の古代文字に熱い視線を投げかけ始めたのか。ともかく、更に彼女から次のやうなロスチャイルド家の意嚮を聞かされ、私は内心とまどひを覺えた。
 
 四國・劍山には"世界の王のしるし"が眠つてゐる!?

 「ブライアンの云ふところによれば、日本のアヒルクサ文字は宇宙エネルギーのさまざまな波動状態を視覺化したものらしいの。其のアヒルクサ文字が大地に刻まれたところには、宇宙エネルギーにかかはる何かの祕密が隱されてゐるらしいのよ。あなたはもう四國の劍山の話はご存じ?」 「ええ、戰前に言靈學(注2)の大家として知られた高根正教と云ふ人が、『"ソロモンの祕寶"は此處にある』と云つて陸軍の大物を動かして發掘調査させたあの場所のことですね」 「其のとほりよ。今、ロスチャイルド家は四國の劍山に大變興味をもつてゐて、毎年五月に關係者を劍山の祭事に出嚮させてゐるのよ。ソニーの盛田さんのところでも此の時期、劍山に社員を派遣してゐるらしいわ」。

 私は彼女の口から劍山へ嚮かふ國内・海外の重要人物の名を次々に聞かされるに及んで、ことの眞相はきはめて重大である事に氣つかざるをえなかつた。 彼女は日本の神代文字のことを殆ど知らなかつた。其のため、神代文字の智識を身につける事がどれほど豫想もしない結論を私たちに齎すか見當もつかず、無邪氣にロスチャイルド家の意嚮と其の周邊事情を私に話して呉れたのだ。

 けれども、私は彼らが此のやうに熱心に日本の神代文字を學ばうとしてゐる背景には、彼らが此れまで探し求めても得られなかつた何かを手にする鍵が其處に祕められてゐる事を既に察知した形跡かあると思つた。其の何かとは、云ふまでもなく"ソロモンの寶"のことである。ユダヤの傳説によれば、其の昔ソロモン王はユダヤの神ヤハウェから、世界の王のしるしと成る品々を授かつたと云はれる。其れは"賢者の石"とか"イスラエルの石""テラピム"と呼ばれ、『聖書』の「出エジプ卜記」(注3)の時代にヘブライ人がもつてゐた"三種の神器"に匹敵するものだとも云はれる。

 其の"ソロモンの寶"は三干年前にエルサレムの神殿からどこかへ持ち去られ、行方不明と成つてゐる。そしてユダヤの傳説は、「此のときから神の榮光がイスラエルより去つた」と傳へてゐる。が、"ソロモンの寶"を再び手に入れた曉には、イスラエルの王が世界の王として此の地球上に君臨する事が豫言されてゐると云ふのだ。
 
 "隱蔽された地球史"が今、明らかにされる!

 私は"ソロモンの寶"を再發見する鍵が日本の古代文字=神代文字にある事を知つて、神代文字の情報をすべて彼女に話していいものかためらつた。此れまで日本の皇室や伊勢神宮と云つた由緒ある神社が、日本固有の文字を否定する學者たちに同調するかたちで隱してきた神代文字の祕密を、やすやすと外國人に知らせても好いものだらうか…・。

 私は彼女の無邪氣な申し出の背後にある大きな意圖を感じ取ると、資料をそろへるには時間がかかる事を告け、再會の約束をして別れた。然し其の後、彼女から何囘もすてきな"誘惑"を受け乍ら、すべてをなりゆきにまかせるだけの時間のゆとりがなかつた。私は印度やネパール、パキスタンへの相次ぐ調査で多忙だつたのだ。

 其の結果、私は"ソロモンの寶"、いや實際には後述する"太古日本のカラ族の祕寶"がどこにあるかを探し當てた。此處でお斷はりしておかうと思ふが、本書は決して夢物語の寶探しを記したものではない。本書を手にとられ、此處まで讀まれた方のおそらく大多數が、ロスチャイルドの登場はともかく、「宇宙エネルギーのさまざまの波動状態を視覺化した文字」「ソロモンの寶」「世界の王のしるし」などと云ふ言葉に眉をひそめられた事だらう。

 然し其れらは單に、ある驚異の事實が傳承され變形されて表はれた言葉なのである。私の"旅"は其の變形を正し、"眞實"を再構築するためのものであつた。そして發見しえた"太古カラ族の祕寶"は慥かにすばらしいものだが、其れより驚くべきものは"隱蔽された地球史"の存在である。私たちは今、"太古日本の失はれた眞實の歴史"を知らなければならない。 時がきたら明らかにし度い、早く彼女に會つて話し度いものだと云ふ思ひに驅られ乍らも果たせなかつた事 ― 其れが本書には書かれてゐる。どうか最後までじつくり讀んでいただき度い。
 
 一九九四年七月吉日 高橋良典


【神代文字考】
 神代文字とは、漢字の渡来および仮名の成立に先だって上古の日本にかって存在していたとされ文字を云う。「神字」と書いて「かんな」とも呼ぶ。古史古伝の多くに神代文字が登場する。上記は豊国文字、秀真伝や三笠紀は秀真文字で書かれている。全文でなくとも神代文字が使われている古史古伝は多い。九鬼文書には春日文字など、竹内文書には百種以上、宮下文書には阿祖山文字、物部文書には物部文字、東日流外三郡誌には津保化砂書文字などが出てくる。対馬の卜部・阿比留(あびる)家において発見され、江戸時代の国学者神道家である平田篤胤によって「日文(ひふみ)」として紹介された阿比留(あひる)文字・阿比留草文字がある。平田篤胤が「神字日文傳」を著し、日本に固有の文字として神代文字があったとの説を唱え「日文(ヒフミ)文字」を書き写している。平田篤胤は、ハングル文字との著しい類似性を指摘している。他にも静岡の浅間神社、神奈川の大山阿夫利神社、埼玉の三峰神社などの神璽や、洞窟や岩などにも神代文字と言われる文字が記されている。このように神代文字には多くの種類があり、形態も象形的なものから幾何学的なものまで様々なものがある。

 神代文字が存在したとする説は、おそくとも室町時代から神道家の間にひろまっていた。江戸時代、新井白石が、出雲大社や熱田神宮に神代から伝わったとされる文字が残っていることを指摘した。他方、貝原益軒は平安時代の古語拾遺の「上古の世、未だ文字あらず」の記述を挙げてその存在を否定した。当時、賀茂真淵や本居宣長らの国学者は否定した。復古神道の推進者となった平田篤胤は神代文字に関する資料を全国に求め、神字日文伝の中で日文を正真の神代文字とした。他方、伴信友は、仮名本末で神代文字の偽造説を説いて否定した。

 明治に至り、神道家の落合直澄が日本古代文字考を発表し、考古学上の文字資料を集成してその存在を肯定した。他方、国文学の山田孝雄は、所謂神代文字の論において個々の神代文字について偽作であるとした。豊かな国語・国文学的知識からの博引傍証からなるこの書の中で、実際の古典に神代文字で記された実例がないことを述べ、阿比留文字などもハングル文字の模倣であると断言した。この山田論文によって、学者としてその存在を信ずるものはほとんど影をひそめるにいたった。ただ昭和年代に入っても、愛国者や軍人のなかにその存在を信ずるものがあって、政治問題にまでも発展しかねない事件を引き起したことがある。戦後、国語学者の大野晋が、奈良時代の母音の数によって神代文字は平安時代以降の偽作と論じた。決定的な否定論と思えたが、言語学者の松本克己は、奈良時代の八母音は、漢字という書記法が日本語の発音を微妙に書き分けたことによる一種の虚像であるとして批判し、国語学者の森重敏は文法論と語構成の立場から奈良時代の八母音説を否定している。

 (「古史古伝と神代文字」、「神字日文傳」その他参照)

 「神代文字総覧」、佐治芳彦「謎の神代文字」(徳間書店、1979年)、 吾郷清彦「超古代神字・太占総覧」(新人物往来社、1979年)、藤芳義男「神代文字の謎」(桃源社、1979年)、相馬龍夫「日本古代文字の謎を解く」(新人物往来社、1974年)その他。

 れんだいこのカンテラ時評№1199 投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月21日
 れんだいこの平田篤胤史学論その5

 ここで、神代文字について確認しておく。「れんだいこの平田篤胤史学論」で取り上げる理由は、篤胤が晩年に先駆け的に神代文字論を展開しており、その国体論と共に白眉な功績があると思われる故である。神代文字論を廻っては現代においても係争中である。通説は神代文字存在説を唱える者を邪とし否定説を声高に唱える者を正としているが、その構図は丁度、れんだいこが「戦国期の研究を通じての陰謀論考」で述べたように転倒しているのではなかろうか。即ち、陰謀説同様に、これを批判する側から「こじつけ」、「うがち過ぎ」の由を聞くが、神代文字存在説の方が素直な読み取りであり、これを採らずに否定する側に回る方にこそ「こじつけ」、「うがち過ぎ」の評がふさわしい。つまり、神代文字存在説批判は手前の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」であるのに、手前が受けるべき批判を先回りして相手方に投げつけているのではあるまいか。

 れんだいこは「篤胤史学」の神代文字論を高く称賛する。しかしながら、篤胤研究の第一人者的地位を自負し、篤胤著作の解説で知られている山田孝雄(1873-1959)は、論文「所謂神代文字の論」(1953年)で、「神代文字をめぐる議論がいかに毒におかされた危険な代物であるのか」と憤怒の口調で語り、その主犯者の一人として平田篤胤を挙げ、「篤胤がなぜ神代文字などという妄説を信じたのか、絶大なる不可思議の一つ」と批判しているとのことである。れんだいこから見れば山田孝雄こそオカシイ。「変調な篤胤研究者ぶり」が分かる。こういう研究者があちこちにいる。先に小林多喜二研究での手塚英孝の変調さについて述べたが、何も山田孝雄、手塚英孝ばかりではなかろう。いつの日か「山田孝雄の篤胤論」との決着をつけたいと思う。

 通説は漢字渡来以前の日本には文字がなかったとしている。しかし、漢字渡来と同時に万葉仮名を生み出し、その後、平仮名、カタカナを発明し、「漢字&ひらがな&カタカナ」混交の日本語が形成されていった経緯を読み取るとき、逆に不自然なのではなかろうか。そもそも、漢字渡来以前の日本に文字がなかったとすれば、今日の世界史上での英語の伝播と同じように、受入れ側は母国語を捨て丸ごと外国語へ転換する方が容易だったのではなかろうか。なぜわざわざ、日本語の大和言葉の発音をベースにしてそれに漢字を当てはめ、いわゆる万葉仮名を生み出していったのか。その万葉仮名も、次第に単に発音ベースではなく、発音も意味も大和言葉に近い漢字を求めて進化して行くようになる。我々の父母祖は何でそれほどまでに母国語に拘ったのだろうか。

 推理するのに、漢字渡来時点で、中国語に比して遜色のない上古代日本語が確立されていた故ではなかろうか。その時の上古代日本語には語りだけがあって文字がなかったのか。通説はそう理解する。しかしそういう理解の方こそ余りにも不自然ではなかろうか。れんだいこ推理は、この時、幾種類かの小国家毎の図象文字表記が為されていたところ、時の大和王朝権力が文字の統一化と云う必要もあり漢文を強い、図象文字使用を政治的に禁制にし、図象文字本はそれが為に廃棄処分させられ、一部が地下に隠され、その大半のものがいつのまにか散逸、一部が残ったのではなかろうか。

 これを逆から窺えば、我らが父母祖は図象文字と漢字の表意文字との優劣を測り、結果的に図象文字本の漢字文字本への転写をした上で、図象文字本を秘すべきところに秘したのではなかろうか。こう見立てると、万葉集も原文は神代文字で書かれていたのではなかろうか。この時使用された漢字を万葉仮名と云う。かくて数百年後、神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)探索の旅が始まることになった。これが神代文字考史となる。

 それでは、上古代日本語の文字がどのようなものであったのか。今日となっては判明しないが、その手がかりとして各地の寺社に遺されている文字がある。知られているだけでも出雲大社、熱田神宮、三輪神社、鶴岡八幡宮、浅間神社、大山阿夫利神社、三峰神社などの神璽、洞窟、岩などに神代文字が記されている。神代文字には多くの種類があり、形態も象形的なものから幾何学的なものまで様々なものがある。伊勢神宮の神宮文庫に約百点奉納されていると云う。これをどう理解すべきか、実在か後代の捏造かが問われている。

 古史古伝の多くに神代文字が登場する。カタカムナ図象文字。出雲文字。上記、竹内文献に使われているのは全文が豊国文字。秀真伝や三笠紀に使われているのは全文が秀真(ホツマ)文字。文の中で紹介されているのが九鬼文書の春日文字、宮下文書の阿祖山文字、物部文書の物部文字、東日流外三郡誌の津保化砂書文字、対馬の卜部・阿比留(あびる)家において発見された阿比留(あひる)文字、阿比留草文字等々。まだ世に出ていないのもあると思われる。これらを、後世の偽造偽作とする説の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」ではなかろうか。

 平安時代の「古語拾遺」に「上古の世、未だ文字あらず」と記載されており、これが定説となってきた。しかし、神代文字が存在したとする説は古神道系の者には古くより常識とされていた。1367年に忌部正通によって書かれた「神代巻口決」は次のように記しているとのことである。「神代の文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域の経典、初めて来朝してより以降、推古天皇に至って聖徳太子、漢字をもって和字に付けたまふ」。その通りではなかろうか。

 してみれば、学説論争が始まるのが江戸時代に入ってからと受け止めればよい。1676(延宝4)年、神道家・永野采女と僧・潮音道海が「先代旧事本紀大成経」を著して以来、同書で指摘された神代文字の存在が浮上してきた。江戸時代中期の儒学者の新井白石が出雲大社や熱田神宮に神代から伝わったとされる文字が残っていることを指摘している。他方、貝原益軒は否定している。賀茂真淵や本居宣長らの国学者は否定している。

 宣長は、「言霊の幸はふ国」としての皇国観を披瀝しながらも漢字が入る前の日本には日本固有の文字がなかったとしていた。「上代の人々には字がなく、人々は口で伝え耳で聞くという方法で意思の疎通をなしてきたが、外国から書籍が入って来たため字を読み書くようになった」(古事記伝)とも述べている。かく神代文字を否定し、口述による記録こそが大和民族的であるとし、文字の概念自体が日本の外から来たものなのだという説を持っていたようである。

 これに対して篤胤は、神代文字に関する資料を全国に求め神代文字存在説の論陣を張った。1811(文化8)年、36歳の時、春・夏・秋・冬の四卷からなる「古史徴」を著わし、春巻第1巻「開題記」の中の「神世文字の論」の稿で、漢字渡来前の古代日本には文字がなかったとする説に対して、神代文字存在論の立場から考証している。阿比留(あひる)文字を例証し、ハングル文字との著しい類似性を指摘しながら神代文字存在論を説いているとのことである。これは神代文字の系譜からハングル文字が編み出されたことを示唆している。1819(文政2)年、彼の弟子たちが「神字日文伝」(かんなひふみのつたえ)という題名で版本を発行し、神代文字存在論を一般に普及させることになる。「日文」とは「一、二、三」の意味を被せている。他方、伴信友は、「仮名本末」で神代文字の偽造説を説いて否定した。

 ここまでは神代文字に関する一般論である。これかられんだいこ節で説く。神代文字とは、漢字の渡来および仮名の成立に先だって上古の日本にかって存在していたとされる文字を云う。今後の神代文字研究で必要なことは、神代文字が弁えている日本語のアからンで終わる50音との絡みではなかろうか。日本語50音がいつどのようにして獲得形成されたのか、その起源をどこまで遡ることができるのか、との問いとワンセットにされねばならない。ここが最大の関心となるべきではなかろうか。れんだいこの神代文字への関心は実にここにある。従来の神代文字研究は50音の起源解明と連動していないように思える。それは手落ちではなかろうか。

 50音の獲得こそが日本語の最大功績であり、世界一の芸術言語足り得ている根拠である。日本語が諸外国語を受け入れるに当り母国言語を失うことなく受容し得た秘密がここにある。こう捉えない研究はいささか物足りない。問題は次のことにある。神代文字を生み出す時点で既に日本語50音があり、それに一音一字の図象文字を当てはめた風が認められる。それはほぼ同時的に為されたのではなかろうかと考えたい。ならば50音の発生過程を検証することこそが、そのまま神代文字考になるのではなかろうか。篤胤には語彙論については本格的なものはないようである。恐らく、これから向かう矢先に執筆停止と国元帰還措置をされ、あたら惜しくも歴史に遺されなかったのではなかろうか。日本語の語彙論は、神代文字肯定論派には分け入りたい魅力の分野となっていよう。

 本稿を、竹内健・氏の「神字論」の次の言葉で締め括る。「篤胤の神世文字の論は、戦後の史家が嘲笑って言うところの『狂信的な国学者の根も葉もない捏造』などではない。一歩譲って、よしそれが捏造であるにしても、一体『根も葉も』ある神話というものが存在するだろうか。神話の創生とは、人々の時空を超越した祈願の謂である」。

 「ウィキペディア神代文字」(2013.12.29日現在)を参照する。
 神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)とは、漢字伝来以前に古代日本で使用されたとされる日本固有の文字の総称である。神代文字には神話や古史古伝に基づく伝承があり、主に神社の御神体や石碑や洞窟や施設に記載されたり、神事などに使われており、一部の神社では符、札、お守りなどに使用するほか、神社に奉納される事もあった。荒神山の御札が著名である。伊勢神宮等で発見された阿比留草文字等の神代文字は声明や謡曲譜本の節博士に似ている。一説に、神代文字は、機密文書や武術の伝書のほか、忍者など一部の集団で秘密の漏えいを防ぐために暗号として使用されたという。また、江戸時代の藩札の中には偽造防止のため意図的に神代文字を使用したものもある。神代文字の一覧については別稿で確認する。

 神代文字の存在をめぐって、その存在の肯定説と否定説が古くより議論され続けている。近代以降は、漢字渡来以前の日本には固有の文字はなかった、神代文字は後世の偽作であるとの説が一般的である。その一方で、古史古伝研究者や古神道の関係者を中心に実在説が唱えられている。神代文字否定説を唱えた者としては貝原益軒、太宰春台、賀茂真淵、本居宣長、藤原貞幹などがいるが、中でも伴信友の「仮字本末(かなのもとすえ)」所収の「神代字弁」は神代文字を真っ向から否定し、後世の偽作と断定している。神代文字存在説派は卜部兼方、忌部正通、新井白石、平田篤胤、大国隆正等が知られている。以下、神代文字論争史を確認しておく。次第に書き改め、必要事項を輔弼していく予定である。

 最初に確認しておくべきは、古事記序文であろう。「天武帝の詔(みことのり)」の一文が次のように記されている。
 「ここに天皇(天武)詔(の)りたまひしく、『朕(われ)聞きたまへらく、諸家の持たる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ』といへり。今の時に当たりて、その失(あやまり)を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのち)に流(つた)へむと欲(おも)ふ』とのりたまひき」。

 これによれば、古事記編纂時点で、「諸家の持たる帝紀および本辞」があったことになる。問題は、それらの諸書が何語で書かれていたかにある。続いて次のように記されている。
 「ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安麻呂に詔りして、稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦むところの勅語の旧辞を撰録して献上せしむるといへれば、謹みて詔旨(おおほみこと)の随(まにま)に、子細に採りひろひぬ。然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなお)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し」。

 これをどう窺うべきか。稗田阿礼(ひえだのあれ)の暗誦文を文字に記したとばかりに読むべきだろうか。れんだいこは、稗田阿礼は神代文字を読み且つ暗誦する特殊能力の持主であり、そのうちの暗誦文の方を文字に記したと読み得ると思う。この時点の「諸家のもたる帝紀および本辞」は神代文字で記されていたと読む。気になるのは、そういう神代文字史書を踏まえながら新たに万葉仮名漢字史書を著わしたと記せば良いのにそう記していないことである。この背後にある事由を詮索せねばなるまいと思う。れんだいこは、「原日本新日本論」により次のように読み解く。天武帝の御代、中国史書に倣って日本史書を編纂する必要が生まれた。それは大和王朝歴代の皇統譜を正統化させる狙いがあった。これを為すには、国譲り政変で滅ぼした出雲王朝-邪馬台国の皇統譜をも継承する必要があった。太安万侶を編纂責任者とする古事記執筆史家は、出雲王朝-邪馬台国の皇統譜を稗田阿礼に述べさせ、これを大和王朝前史と位置づけ、それを大和王朝史との関係に於いて整合的に記述せよとの大役が課せられていた。これより生まれたのが記紀であり、古事記と日本書紀は一長一短の合わせ鏡となっている。それはともかく、古事記序文が「稗田阿礼の口述筆記説」を記しているところに神代文字隠蔽工作の跡が認められるのではなかろうか。その通りであるとすれば、この時の執筆史家は出雲王朝-邪馬台国御代の神代文字を読めない側の者であったことを語るが、神代文字を読めたのに敢えて「稗田阿礼の口述筆記説」を登場させているのではなかろうか。何とならば、神代文字史書に言及すれば旧政権を語らざるを得ず、これを語るとすれば国譲り政変による「王家の断絶」に触れざるを得ず、それは記紀の眼目である万世一系史観と齟齬する。それ故に、旧政権史を隠蔽し、その為に神代文字をも隠蔽すると云う「歴史の姦計」を廻らしたのではなかろうか。こういう見方もできると云うことを披瀝しておきたい。

 「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)についても言及しておく。同書は、「天武帝の詔(みことのり)」より始まる記紀より古く、「推古帝の詔(みことのり)」に基づいて編纂されている。日本書紀の推古二十八年条は次のように記している。
 「皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す」。

 これによれば、官選国史として記紀に先だって「天皇記及び国記及び公民記」が編集されたことになる。これこそが我が国最古の国撰史書と云うことになるが幻の書となっている。「先代旧事本紀」序文によると、聖徳太子と蘇我馬子が著したとしている。問題は、この時の史書が何語で書かれていたかにある。偽書論争により「先代旧事本紀」の影が薄くされているが、同書が「推古帝の詔(みことのり)」を受けて編纂された「わが国最初の官選国史」である「天皇記及び国記及び公民記」を底本にして編纂されているのは疑いないように思われる。偽書論争が、原本に対する関心をも水に流しているのはオカシイのではなかろうか。「先代旧事本紀」を偽書認定しようが、「先代旧事本紀」が底本にした「天皇記及び国記及び公民記」の存在を消せやしまい。偽書論争が「先代旧事本紀」を偽書扱いすることで「天皇記及び国記及び公民記」まで消すのは論理的に如何なものであろうか。

 れんだいこの主張は要するにこういうことになる。記紀は万葉仮名で書かれているが、それ以前の史書の存在と編纂が確認されている。それらは何語で書かれていたと推理すべきか。これを問わねばならない。文字書は存在せず全て暗誦されていたとするのは、暗誦の伝統は確かにあったにせよ、文書が存在しなかったとまでするのは暴論ではなかろうか。現に、神代文字で書かれている古史古伝が存在する以上、それらの神代文字が後世の創作文字とする論証をしない限り学問的な批判にはなり得ないのではなかろうか。これについては、別稿で、「天津教弾圧事件」の際の、国語学者の橋本進吉や教育者の狩野亨吉などの神代文字否定説論法を確認するつもりである。付け加えておけば、「神代文字=後世の創作文字説」を唱える者は、古史古伝に現れるこれほど多数の神代文字を誰が何の為に何の益があって創作したのか、これを説明せねばなるまい。れんだいこは、そうは容易くは創作できない「それぞれが立派な文字」であるように思っている。後世の者が、そういう厄介な神代文字を創作するのに膨大な知恵の遊びエネルギーを費やす意味が理解できない。

 以上を踏まえつつ、後世の神代文字を廻る議論史を確認しておく。808(大同3)年、平安時代、中臣氏とともに朝廷の祭祀を務めた古代氏族である斎部氏の長老・斎部広成の「古語拾遺」の言「上古の世、未だ文字あらず」(「蓋聞上古之世 未有文字貴賤老少口口相伝前言往行存而不忘」)より始まる。否定派は、漢字渡来以前の日本には文字がなかったと解釈する。これが定説となってきた。これに対して、肯定派は、「漢字が存在しなかった」という意味であり、「文字が存在しなかった」という意味ではないとしている。

 「隋書」の「卷八十一列伝第四十六東夷俀国(倭国)」に、「無文字唯刻木結繩 敬仏法於百済求得仏経始有文字」とある。これによれば、仏教伝来以前の倭人には文字がなかったとしている。鎌倉時代の「二中歴」にも「年始五百六十九年内丗九年■号不記支干其間結縄刻木以成■」とある。「明要十一年」の細注に「元辛酉文書始出来結縄刻木止了」とある。「宗像大菩薩御縁起」にも「明要元年癸亥停結縄、刻木始成文字」とあるため仏教伝来により結縄刻木をやめて文字を使用したとされる。また「筥埼宮記」(「朝野群載」所収)には「我朝で始めて文字を書き、結縄の政に代えること、即ちこの廟に於て創まる」とある。これらは神代文字を否定する史書である。

 これに対して、鎌倉時代の神道家の卜部兼方は「釈日本紀」(1301年以前成立)で、父・兼文の説として「於和字者、其起可在神代歟。所謂此紀一書之説、陰陽二神生蛭児。天神以太占卜之。乃卜定時日而降之。無文字者、豈可成卜哉者」と述べている。日本書紀の神代に亀卜が存在し、その占いは文字をもって記すものであるとして何らかの神代文字の存在に言及している。兼方自身はその候補として仮名を考えていたとのことであるが、その後の卜部神道では仮名とは異なる神代文字の存在を説くようになった。

 1367(貞治6)年、南北朝期、斎部広成と同じ斎部氏にあたる神道家・忌部正通によって書かれた「神代巻口決」は次のように記しているとのことである。「神代の文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域の経典、初めて来朝してより以降、推古天皇に至って聖徳太子、漢字をもって和字に付けたまふ」。かく神代文字の存在を肯定している。また斎部氏に伝わる神代文字(斎部文字と称される)もある。

 1527(大永7 )年、「室町時代中期から戦国時代にかけての神道家。本姓は卜部氏。吉田神道(唯一 神道)の事実上の創始者」である吉田兼倶の子の清原宣賢は「日本書紀抄」で「神代ノ文字ハ、秘事ニシテ、流布セス、一万五千三百七十九字アリ、其字形、声明(シャウミャウ)ノハカセニ似タリ」と記している。神代文字の字母数や字形等についてかなり具体的に述べている。これらは神代文字を肯定する史書である。

 しかし、室町時代までは神代文字の実物は示されなかった。江戸時代に入り神代文字の実物が紹介されるに至った。江戸時代以降、神代文字として数十種類の文字が紹介され、出典となった書籍や発見場所などから名付けられた。 この頃から学説論争が始まる。

 1676(延宝4)年、神道家・永野采女と僧・潮音道海が「先代旧事本紀大成経」を著し、神代文字が披瀝された。続いて、江戸時代中期の儒学者の新井白石が出雲大社や熱田神宮に神代から伝わったとされる文字が残っていることを指摘している。他方、貝原益軒は否定している。1793(寛政5)年、三井寺(園城寺)住職の敬光が「和字考」を著わし、ヲシテの解説をしている。

 賀茂真淵や本居宣長らの国学者は否定している。宣長は、「言霊の幸はふ国」としての皇国観を披瀝しながらも漢字が入る前の日本には日本固有の文字がなかったとしていた。「上代の人々には字がなく、人々は口で伝え耳で聞くという方法で意思の疎通をなしてきたが、外国から書籍が入って来たため字を読み書くようになった」(古事記伝)とも述べている。かく神代文字を否定し、口述による記録こそが大和民族的であるとし、文字の概念自体が日本の外から来たものなのだという説を持っていたようである。

 1811(文化8)年、平田篤胤が「古史徴(こしちょう)」を著わし、第1巻「開題記」所収の「神世文字の論」で、神代文字に関する資料を全国に求め神代文字存在説の論陣を張った。漢字渡来前の古代日本には文字がなかったとする説に対して、神代文字存在論の立場から考証している。阿比留(あひる)文字を例証し、ハングル文字との著しい類似性を指摘しながら神代文字存在論を説いているとのことである。これは神代文字の系譜からハングル文字が編み出されたことを示唆している。1819(文政2)年、門弟が「神字日文伝(かんなひふみのつたえ)」と改名して、上巻で神代文字の抄書である肥人書を、下巻で「疑字篇」と名づけ神代文字の抄書である薩人書収録して刊行している。同書が神代文字存在論を一般に普及させることになる。「日文」とは「一、二、三」の意味を被せている。

 他方、伴信友(ばんのぶとも)は、「仮名本末」で神代文字の偽造説を説いて否定した。1850(嘉永3)年、文政年間に書かれた伴信友の遺稿をその子信近が校訂し、長沢伴雄(1806-1859)の序を添えたうえで江戸・大坂・京都の書肆から刊行された。付録で、平田篤胤の「神字日文伝」の説に対し、神代文字存在説が信じるに足りないもので、古代朝鮮文字である吏道(りト)が出自であるとしている。信友は、日本には固有の文字が存在しなかったことを明確に主張している。

 1848(嘉永元)年、豊後国臼杵(現大分県)の八坂神社神主・鶴峯宜綱の子の鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)は「嘉永刪定神代文字考」において天名地鎮(あないち)文字を世界のすべての文字の根源であると説いている。

 1886(明治19)年、神谷由道が「東京人類学会報告」第9号にて琉球の古代文字を発表している。1887(明治20)年、坪井正五郎が「東京人類学会雑誌」第18号にて北海道の異体文字を発表している。1888(明治21)年、落合直澄が、神代文字研究を集大成し「日本古代文字考」を刊行している。

 1930(昭和5)年、古史古伝(伝説の一種。天皇家以前に王朝があったとする)を教典として伝える天津教という宗教団体が不敬罪で特高警察に弾圧された。これを「天津教弾圧事件」と云う。この時、検察は国語学者の橋本進吉や教育者の狩野亨吉などの学者を証人として出廷させ、竹内文書の内容と神代文字を全否定させている。

 1953(昭和28)年、山田孝雄は、論文「所謂神代文字の論」で、「神代文字をめぐる議論がいかに毒におかされた危険な代物であるのか」と憤怒の口調で語り、その主犯者の一人として平田篤胤を挙げ、「篤胤がなぜ神代文字などという妄説を信じたのか、絶大なる不可思議の一つ」と批判している。吾郷清彦氏が「日本神代文字研究原典」を著わし、日本神代文字を詳解している。月刊「日本神学」主幹の中野裕道氏は、神代文字否定説について次のように述べている。
 「これは日本人のもつ島国根性といわれる悪い性格傾向によるものであって、近代の学問が科学的態度を重視するように、事実の前にはもっと謙虚にならなければいけない」。
 次に「字母数の問題」がある。橋本進吉が、万葉集等の万葉仮名で記された奈良時代の文献の表記を研究した結果、上代特殊仮名遣と呼ばれる特殊な仮名遣を(再)発見した。この説によると、奈良時代には濁音節を含めて88音節存在したとして、「神字日文伝」に掲載されている神代文字の例には、字母数が50音であったり、平安時代に作られたいろは歌や五十音図順で掲載されたりするものがあり、これは神代文字が平安時代以降に創作されたためではないかとする。これに対して、肯定派は、上代日本語の母音体系は現代と同じ5母音であったとする学説を昭和以降登場させている。松本克己や森重敏は万葉仮名の用字の区別は音声的なものであり、音韻論的には5母音であるとしている。この意味では橋本進吉や大野晋の説は定説とはいえない。また、橋本は古代文字が存在したとするといろいろ疑問があると述べただけで、古代文字が「存在しなかった」ことを論証した訳ではないとしている。

 次に「ハングルとの類似点」を挙げる。神代文字にはハングルと類似したもの(阿比留文字。また日文(ひふみ)とも。対馬の豪族・阿比留氏が関係するとされる)も存在する。ハングルは1443年に考案されたため、ハングルが阿比留文字を参考に考案されたのでなければ、阿比留文字もそれ以降のものであると解され、韓国人の金文吉により神代文字の捏造説が唱えられた 。これに対して、肯定派は、卜部兼方(1280年頃の人物)は「釈日本紀」の中で「大蔵省の御書の中に、肥人の字(肥人書は阿比留文字の別名)六、七枚許有り」と書いており、阿比留文字の描かれた鏡もあり、阿比留文字は太占(ふとまに)から出来たとする説も伝わっているとして批判している。即ち、ハングルから阿比留文字が創作されたのではなく、阿比留文字からハングルが生み出された可能性を問うべきではないかと逆批判している。

 他にも、批判派の「日本に独自の文字が存在したならば、漢字を輸入し仮名を創作する必要はない」とする主張もある。しかしそれは幼稚な議論であり、現に漢字が導入され、その後に平仮名、カタカナが生まれた史実をそのままに確認すればよかろう。

 「出土品」を廻っても論争されている。批判はは、考古学の進歩により古い時代の遺跡や古墳などから文字の書かれた土器・金属器・木簡などが発見されているが、これらの中にも神代文字を記したものは発見されていないと批判する。これに対して、肯定派は、近年の調査で古墳などから象形文字に似た記号や標識が数多く見つかっており、そこから文字が生まれた可能性は十分にある。神代文字ないしいわゆる「古代文字」が彫られた物は数多く見つかっており、地域的にも琉球や北海道、朝鮮半島といった広範囲において見つかっており、全て偽造だとは考えにくい。与那国島ではカイダ文字という象形文字があり、日本独自の文字が存在していた例があると反論している。

 仮名の存在について。否定論者による主張とは逆に、仮名は神代文字から作られたものであるとする主張がある。なぜ新たに仮名が作られたのかという問いについては、漢字と書体を統一するために楷書体に沿った片仮名や、草書体に沿った平仮名が作られたとする。あるいは神代文字が何種類か存在するため、それらを統一・整理するために仮名が作られ、片仮名・平仮名の2種が存在するのは統一が完全に行えなかったからとする。





(私論.私見)