要旨:
・『ソウル』シリーズの真の魅力は物語である。
・常識が通用しない終末的で抽象的な世界観にこそ、善悪や真偽のような挑戦的なテーゼを抱ける。
・登場人物は多ければ良いわけでない。辛うじて生き延びる少数の人物を描くことで、彼らの生き様を見届けられる。
・押し付けがましいカットシーンはいらない。なにげないアイテムの説明文を通して世界を理解することで、物語にプレイヤーの自由と責任を付加できる。
・大作RPGからインディーズまで、ゲームを通して得る純粋な経験を重視する現代こそ、ソウルシリーズは物語面で評価されるべきだ。
私がFromSoftwareの『Souls/ソウル』シリーズが好きだということは、もう何度も批評や攻略を書いてきた熱意からもおわかりかと思う。
退廃した世界を、西洋風の武器やアイテムを備え、凶悪な敵を倒した日々。硬派な作品ながら、世界で累計1000万本以上遊ばれた本シリーズの魅力は、多くの人間に語り継がれた。
確かに、手応えのあるアクション部分、個性が出るRPG部分は魅力的だ。だが真に私が本シリーズを評価するのは、「物語」部分である。
昨今では、安易なカットシーンと美麗なグラフィックで誤魔化したようなRPGが多すぎると言われる。そこで、ソウルシリーズが見出した「物語」とは何か、本稿では迫りたい。
真実を抱く抽象的な世界
従来、ソウルシリーズの「物語」は、その奥深いゲーム性やユニークなマルチプレーの側で従来まで軽視されがちだったと思う。
物語自体が難解だったこともある。いずれも抽象的な表現で描かれ、一方でテクストは壮大な世界の輪郭を描く。勇者と魔王のような具体的な役割がなく、それらは「王」とか「人」とか「火」とか、そういった具合に濁される。
とは言え、フロムが具体的な話を書けないから濁したとか、膨らませるだけで消化不良にしたといった巷の考えは、少し性急だ。よくよく物語を追えば真実が眼前に現れ、抽象的なメッセージもそうすべき意図がある。
まず、ソウルシリーズにおける世界は常に、退廃している。人々は闘争のみに生きる屍と化し、城壁も街も瓦礫となって、獣や悪魔が玉座に君臨する。
私はまずこの世界観が好きだ。人々が助けあって生きる世界など幻であり、無知と無力から超自然である悪魔や神に服するなんて、外面的には馬鹿げた「ダークファンタジー」でも、そのメタファーの衣を脱ぎ捨てればとても我々に馴染み深い話ではないか。
何よりこのような世界観は、リアルであると同時に、そんな原因を作ってしまった世界の「真実」や「核心」へ導かれる点に魅力がある。
例えば、プレイヤーが次のステージへ辿り着いたとして、そこに普通の村人や普通の街並みは、全て暴力的な何かに置き換わっていたとしたら。「一体何が起きたのか」と考えるだろう。
このような自分の認識と、狂った世界の乖離により、本シリーズをプレイすると次々に疑問が生まれる。「なぜ世界は荒廃したのか?」「なぜ悪魔の支配を許したのか?」「なぜ人間は愚かなのか?」
当たり前で自然な世界に、そんな真実は存在しても、描けない。神話や哲学で語られるような、臓物のようにグロテスクでしかも抽象的な真実は、平和な仮想世界では、理解も楽しまれもしないテーマなんて切り捨てられるから。ゲームでは特にその傾向が強い。
最近だと『LIMBO』や『INSIDE』のようなインディーズ作品が典型的なものである。世界そのものでさえ、定型的なものではなく、抽象的かつ挑戦的なテーマを盛り込む。『ソウル』シリーズの魅力はここからスタートする。
運命に抗え
量より質の登場人物
フロムのヒロインは基本かわいい
専らRPGで「物語」を主導するのは、各シーケンスに派遣されたNPCである。プレイヤーがゲームを進める尤もらしい目的を王様や困った村民が与え、チュートリアルやシステムの説明等も彼らが一方的に任される。
それは大半が、言語によるものだ。「ここは、○○街」「敵を殴るには、××コマンドを入力」と、ゲームが言語でプレイヤーに訴え、プレイヤーが入力操作でゲームに応える。
『ソウル』シリーズの興味深い点は、これらを一任するNPC達の存在、即ち「語り部」の多くが喪われている点である。
先述の通り、本シリーズは退廃的な世界観が基にある。語るべき人間の多くは死に、あるいは物言わぬ骸となって襲いかかってくる。プレイヤーが他に頼れる存在は希薄だ。
だがこれは、本当に虚無的な世界というわけでない。数少ない生き残った人間たちは、敵であれ友であれ記憶に強く残る存在が多いし、実際に登場人物の数こそ少ないが、その分一人当たりのテクスト量は多い。
これが意味するものは、彼ら一人一人の生き様を見届けられるということだ。最初出会った時は荒廃した世界に疲れきった彼らも、プレイヤーの干渉によって少しずつ態度を変え、彼らなりの義理を通してくる。逆に最初は親切だった人間が、途中から裏切る展開があるものの、彼らにも相応の事情があったと後々知ることになったりする。
大抵の場合、登場人物と主人公(=プレイヤー)の境遇には通じるものがある。
魅力的な登場人物、の中には無論デーモンの類も含まれる。
語り部の喪失と碑文
もう一つ、物語を読み解く鍵が、魔法や武器、特殊なアイテムから消耗品といった全てのアイテムに割り振られた「説明文」である。
ここにはアイテムの機能と使い道、そして物語上の背景が記されており、肩入れし過ぎない中立さと独特な言い回しから、語り部を失った本作におけるナレーターのような役割を果たしている。
どんなありふれたアイテムにも、必ず描き込まれているフロム・ソフトウェアの綿密さもさながら、キャラクターの口から聞くことができない特殊な事情、誰も判別できない倫理的な命題を読み取ることが出来、この点において本シリーズは強くTRPG文化を尊重していると言える。
説明文で物語を描くことには2つメリットがある。
1つは、プレイヤーの自由に任せて物語を読み解ける点だ。多くのRPGにおいて、プレイヤーは自分が特定の人物興味を抱いたり、あるいはゲームだけに没頭したい時、物語はただ煩わしいだけのものになりかねない。
だが、アイテムの説明文なら、自分の意志でアイテムを入手して読むことで物語を理解できる。これは、プレイヤーの自由なプレイを認める寛容さがある。
2つは、物語を理解する「順序」を変え、サスペンス的なストーリーテリングを実現できる点だ。アイテムを入手するには、落ちているものを拾うか、持ち主を殺して奪う必要があり、「一見悪い奴に思えたので殺したが、遺物を読むと実はこんな事情があった」という驚きがある。
これは物語にスリルを持ち込むだけでなく、真実を知るためのリスクを背負わせたり、探偵ADVのように証拠を整理して物語を理解するゲーム的なトリックにもなっている。プレイヤーが自身の決断(偏見を含めて)に責任を負わせることで、登場人物たちと同じ目線で世界を知ることが出来る。
「死人に口なし」されど「アイテムに口あり」
今こそ『ソウル』シリーズの物語を再評価すべきだ
『ソウル』シリーズと言っておいて何だけど、物語面は個人的にBloodborneが最高。
確かに、『ソウル』シリーズの物語は一見薄いように思える。敵ばかりの世界で、カットシーンも少ない。だが辛うじて生き残るキャラクターの存在感は強烈で、物言わぬアイテムに託されたテキストも膨大だ。
決して本シリーズは物語をプレイヤーの妄想に丸投げしているわけでなく、彼らの特殊な手法に則って、むしろ大作RPG顔負けのサーガを展開していると言える。
「語り部を失った終末的世界」と「黙するアイテムの碑文」、「懸命に生きようとする選ばれたサバイバー」。この三者が絶妙に絡み合うことで、本シリーズは長いカットシーンも膨大なテキストも介さず、魅力的な物語を提示し続けている。
思うに、『ソウル』シリーズは単にゲームプレイ面だけで評価されすぎたと思う。シビアでリプレイ性も強いゲーム部分がメインで、物語はオマケのようなものだと。(真面目な考察は「フロム脳」の前に一蹴されてるし。)
だが、私は本シリーズ最大の特徴は物語にあると考える。ユニークな世界と、必死に生きようとする登場人物たち、そして味わい深いテクストを通したゲームプレイは、唯一無二の体験だった。
昨今では、『ICO』に始まり『風ノ旅ビト』や『INSIDE』のようなゲームの物語や世界観、雰囲気を通した純粋な体験をもたらす作品が再評価されている。そんな中、『ソウル』シリーズは最高のナラティブをもたらす作品として評価されるべきだ。
マルチプレーと物語が絶妙に両立しているのも本シリーズの特徴。冗長になるので割愛したが。