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【社説】

原爆忌に考える 憲法が守ってくれた

 スマホの電源をオフにして被爆地を歩いてみると、忍び寄る怪物たちの姿が見えてきます。「憲法に守られてきた」という被爆者の心の声も身に染みます。

 気の早いツクツクボウシが鳴いていました。猛暑の長崎。式典の準備が進む平和公園を、学生たちがまるで巡礼のような顔つきで、一様にスマホの画面を凝視しながら行き交います。

 これが平和というものですか。多分、いいえ、きっとそうなのでしょう−。

 公園わきに事務所を構える長崎原爆被災者協議会。横山照子さん(75)は一九七二年から、被爆者の相談員を務めています。

 五人姉妹の三番目。原爆投下は、祖父母や姉二人とともに疎開していた島原で知らされた。

 三菱電機に勤務していた父親は、爆心から一・二キロの中学校で勤労学徒の指導中に被爆した。

 母親と一歳四カ月のすぐ下の妹は、四キロ離れた自宅の庭にいた。

 B29の機影を認めた母親は、幼子の上にとっさに身を投げ出した。その直後、突き刺すような閃光(せんこう)と猛烈な爆風に襲われた。

 長崎へ駆け戻ったのが、八月十二日だったのか、十八日だったのか、その日の記憶は定かでない。いずれにしても横山さんも姉たちも、原爆投下直後に被爆地に入った入市被爆者でした。

 物心ついて初めて記憶に刻まれたふるさとの風景は「原子野」で、その印象は「死の街」だった。

 自宅に残った妹は原爆で声を失った。

 入退院を繰り返し、中学に入学したのは十五歳の時だった。通学できたのは一年生の一学期だけ。その後はずっと病院を離れられずに、四十四歳で亡くなった。

 最も元気だった母親が、にわかに胃がんを発症し、首回りが倍になるほど甲状腺を腫らした父親も、肺がんのため相次いでこの世を去った。戦後生まれの末の妹は、小学校に上がるころ、紫斑病に襲われた。自身もしばしば強い貧血に見舞われた。

 原爆を語れば「原爆まみれ」の家族を語ることになる。横山さんはマスメディアにも反発し、言葉を封印し続けた。

◆無駄死ににはしない

 二十四歳、一九六〇年代初めのころでした。市内の商業高校を卒業し、会計事務所で経理事務をしていた横山さんは、同じビルで働く知人に誘われて憲法の集会に参加した。

 横山さんの高校には、週一回「六法」の授業があり、新憲法の前文を暗唱したりした。

 再び戦争をしない、武器を持たない。私たちの生命と暮らしは憲法に守られる−。憲法は心の糧だった。

 その集会で被爆詩人の福田須磨子さんが、毅然(きぜん)と言った。

 「私たちだれもが、平和的、文化的な暮らしを送る権利を持っています。被爆者は憲法の精神で救われなければなりません」

 目からうろこ、言葉がすうっと心の中に落ちてきました。

 昨年の被爆七十年を記念して長崎被災協が編集した証言集「ノーモア ヒバクシャ」に、横山さんは書きました。

 <暗く悲しく寂しい被爆者を再びつくり出さないために、あの日亡くなった人々を無駄死ににさせないために『九条』がある…>

 それでも相談員という聞き役だった横山さんが、自身のこと、家族のことを自ら進んで語るようになったのは、二年ほど前からです。

 背後から静かに忍び寄って来て、この国のかたちを再び変えてしまおうとするものに、強い不安と怒りを覚えているからです。

◆言い尽くされない言葉

 今いちばん語りたいこと、伝えたいことは何でしょうかと、横山さんに聞いてみた。

 「言い尽くされたことですが、“あの日”を繰り返してはならない、です。そのために、自分の目で見て自分の言葉で語り、自分の未来を自分の頭でよく考えていただきたいと−」。共感します。

 七十年でも七十一年目でも、大統領が来ても来なくても、核兵器が永遠に消滅し、被爆者すべての心が救済されるまで、言い尽くされることなどない言葉。

 横山さんは、長崎は、広島は、そして私たちも声を限りに伝え続けていかなければなりません。

 「“この日”を繰り返してはならない」と。

 

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