真野啓太・25歳
2016年8月2日19時03分
■谷山さん姉弟
「同じ場所にいた姉は被爆者と認められたのに」。矢上村(現在の長崎市田中町)で原爆に遭った谷山勇(たにやまいさむ)さん(74)=長崎市東町=は5月下旬、福岡高裁の前で声を落とした。原爆投下時は3歳。姉の下川静子(しもかわしずこ)さん(82)と自宅前の路上で、2人で遊んでいた。
2人がいた矢上村は爆心地の東5~8・6キロに位置。村の東側にいた人たちは国が定める被爆地域の外にいたため被爆者とは認められない「被爆体験者」と呼ばれ、県や長崎市に被爆者と認めるよう求める裁判を起こしている。勇さんと2人の姉は原告の一員で、勇さんは第1陣訴訟に、静子さんと今井(いまい)ツタエさん(84)の2人は第2陣に参加している。
今年2月の第2陣の裁判で、長崎地裁は2人の姉が被爆者に当たると判断したが、5月の第1陣の裁判で福岡高裁は静子さんと同じ場所にいた勇さんを被爆者と認めなかった。
戦後70年が過ぎた今も明確な基準はなく、司法の判断が分かれている被爆体験者の問題と、それに戸惑う姉弟の半生をたどった。
谷山さんは8人きょうだいの末っ子として生まれた。1945年当時は3歳で、母ときょうだいの6人暮らし。父は出征中で長男は谷山さんが生まれる前に旧満州で戦死。長姉は双子だったが、1人は養子に出された。左官だった3番目の兄はすでに家を出ており、家にいたきょうだいは次兄と3人の姉、谷山さんの5人だった。
そのうち次兄は三菱兵器大橋工場に、長姉は旧長崎市内の貯金局にそれぞれ働きに出ていた。それらの収入と、母がしていた農業で、生計を立てていたという。
谷山さんの当時の記憶はおぼろげだが、帽子をかぶった警防団員が、メガホンのような拡声機で「空襲警報発令」と家の近くに知らせにきていた。幼心に覚えている戦争の光景だった。長崎原爆戦災誌によると、長崎市では原爆投下までに5回にわたって空襲を受け、344人が死亡。空襲警報と警戒警報は45年だけで220回あまり発令されていた。
45年8月当時、3歳だった谷山さんには、よく世話をしてもらった2人の姉がいた。次女で10歳年上のツタエさんと、三女で8歳年上の静子さんだ。
2人は矢上国民学校(現在の矢上小学校)に通っていた。当時13歳だったツタエさんは教室で授業を受けているときに、隣の職員室から戦況を知らせるラジオの音が、しばしば聞こえてきたのが印象的だ。授業は空襲警報が出てよく中断し、「内容はほとんど覚えていないほど」だった。
矢上国民学校では5年生以上の…
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