宝石

男が数人集まれば、過去の武勇伝というか
おれこんなことやっちゃったんだぜ的な小話が始まるわけだけど、
おれは平凡な人生を送ってきたんで特に話すことはない。
だけど改めて振り返ってみると、普通じゃ経験しないようなことを
自分も多少は経験してきたのかなとは思う。
そんなの人に言うことじゃないし、言っても理解されないから
人には言わないし、こういうとこにも書かないけど。

どうやらおれは周りの環境にあまり影響を受けないようで
顔や態度に自分の経験してきたことがあまり表れない。
だからなんにも知らないおぼこ娘のような外見をしてるのだが
自分としちゃあいろんなものに影響を受けたかった。
昔は、いつか誰かがとんでもない影響を与えてくれるんじゃないかと期待してたが
実際に接した人間からそんなのは受けたことがない。
まあそういうのは選ばれた人たちのあいだで起こることなんだからしょうがないけど。



昔のことを思っていると、最近なぜだか初めて一人暮らししてたときのことをよく思い出す。
17だった。梅ヶ丘の家賃3万か4万のオンボロアパート。
あれはひでー家だった。いまならとても住めない。
壁なんてその辺のコンドームより薄かったんじゃないか?
隣の部屋の奴がカップ置く音が聞こえたからね。コーヒー飲んでんじゃねーよ、っていう。
当然風呂なし、エアコンもなし、おまけにテレビの線すらなかった。
安いポータブルのアンテナみたいのをテレビの上に置いて
どっかの電波を拾って見てたんだった。
あの頃中田がペルージャに移籍したばっかで、夜中に試合を見て熱狂したもんだった。
ちっこいテレビ越しに見る霧がかったレナトクーリ。
信じられなかったよ。日本人が最強のセリエで特別な輝きを放ってるなんて。
中田ってのはたいしたやつだよ、ほんと。


結局そのアパートにいたのは1年足らずで、
生活できないってんで一旦実家に戻ったんだった。
家賃3,4万なら生活できんだろと思われそうなもんだが、ほとんど働いてなかったからな。
おれはその頃から働くのは大嫌いだったんだ。
あの頃は貧乏だったな。いまより貧乏だった。
パスタに塩かけて食ってたな。それがまた旨く感じたりしたんだから。
最初だけだけどね。腹減ってたんだ。

おれは物心がついたのがたぶん20代半ば位だから
働きもしないでその頃おれは何をし、何を考えてたかなんてさっぱりわからない。
だけどあの頃、サミュエル・ベケットに出会った日のことはいまでも思い出せる。
近所の梅ヶ丘図書館にあった戯曲全集の第二巻。
たまたま手にとって借りてきたんだ。ベケットの予備知識なんて全くなかった。
その夜、寝る前にちょっと本でも読むかって読み始めた。
冒頭の作品が「勝負の終わり」だった。
…信じられなかった。奇跡だと思った。
幼い頃から自分の頭のなかにあった漠然とした言葉にしがたい感覚が
洗練された文章として目の前に提示されているかのようだった。
むさぼるようにページに没頭した。
何度も何度も同じ文章を読み返したり、ちょっと戻って読んだり、
あれほど時間を掛けて文章を味わったことはない。
読み終わると、もう日は高くなっていた。
次の作品を読もうとは思わなかった。「勝負の終わり」だけでもう頭がいっぱいだった。
昼過ぎまで布団に横たわったまま、頭が痺れるような感覚が治まらなかった。
時折本を読み返しては放り投げ、頭のなかで思考がぐるぐる回っていくのに身を任せた。
それから2,3時間ウトウトして、夕方には目を覚ました。
起き上がって水道水をゴクゴク飲んでるおれの顔は
新大陸を発見したコロンブスのようだったに違いない。
とんでもない宝石を見つけちまったんだ。
鬱屈とした日々にほのかな灯りが現れたようだった。

それからおれは手に入る限りベケットの本を読み漁った。
あの日々。おれは過去を美化する人間じゃないし、
昔も今も同じくらい酷かった。小学生の頃が図抜けて酷かった気もするけど
ともかく過去に戻るくらいなら死んだ方がマシって人間だけど、
あれは確かに忘れがたい体験だった。
つまるところ、何の未来もない平凡で貧乏なガキンチョだって
ひょっとしたら、自分なりの宝物を発見することができるんだって話。








スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

プロフィール

Author:グートグッバイ
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR