缶切りを至急もってこい


缶切りを至急もってこい
外務省の研修生は、ロジスティックス、すなわち閣僚たちの滞在期間中の世話役を行うそうです。
ちなみにロジスティックスとは、軍事用語で、輸送、宿営、糧食などの後方支援を意味する言葉です。
物流会社では「ロジ」と略称されています。
「ロジ」と呼ばれるものはサミットなどの要人往来の際の重要な裏方の仕事となっています。
研修生は「ロジ」の仕事のため、ホテルの一室に設けられた事務局に当番として詰めていると、
寝静まった午前零時過ぎ、福田赳夫外務大臣の秘書官である小和田恒から電話がかかってきた。
雅子皇太子妃の実父です。用件は「缶切りを至急もってこい」です。
缶きりぐらいホテルのルームサービスに頼めばいいのですが、
部下に仕事を言いつけるのが官僚の習性だそうです。
ホテルのボーイに缶切りをもらい、外務大臣の部屋に飛んで行き、ドアをノックしても返事がなく、
再びノックしてみると、ドアが少し開き、その隙間から眼鏡越しに小和田さんの目が覗いたそうです。
「遅くなりました。缶切りを持参しました」というと、小和田さんはドアの隙間から顔を半分だけ覗かせ
研修生をしばらく眺めてから蚊の鳴くような声で「その缶切り試したかい」と言ったそうです。
研修生は「試してはいませんが、切れると思います」と答えると
小和田さんは一言も発せずに研修生の顔を見つめた後、ドアを閉めてしまったそうです。

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「さらば外務省」天木直人
小和田恒については、出張先で夜中「缶切りをもってこい」と要求があり、
持っていくと「その缶切りを試したかい」と質問があり「試してない」と答えると、
そのままドアを閉めてしまったという、ただそれだけである。
いったい何?詰めの甘さを指摘されたということだし、
一事が万事なのだろうが、それにしても次元の低い話だ。
(略)
小和田氏は「ありがとうという言葉が言えない人間」

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天木直人・メディアを創る ( 5/15) 広島平和研究所長の浅井さん
投稿者 天木ファン 日時 2005 年 5 月 15 日 12:17:53: 2nLReFHhGZ7P6
5月15日―メディアを創る
広島平和研究所所長に就任した浅井基文さん
15日の毎日新聞「ひと」欄に浅井基文さんの記事が出ていた。
この4月から、広島市立大の広島平和研究所所長に就任した、その紹介記事である。心から祝福したい。
と同時に今後の活躍を期待してやまない。
浅井さんは私が尊敬し、評価するただ一人の外務官僚である。
私よりも7年先に外交官試験に合格し入省した文字通り大先輩にあたる。もう今から18年も前のことだ。
外務省の国際協定課長、中国課長という要職を経験した浅井さんが、
日米安保条約を最優先する外交政策に異を唱えて外務省を辞した事を知って、本当に驚いたことを覚えている。
実は私は彼が辞めた直後に一回だけ会ったことがある。外務省の米国重視一辺倒の外交に疑問を持っていた私は、
大先輩の浅井さんに、外務省を辞める決意をした勇気に感動した私の気持ちを伝えたかったからだ。
電話で面会を求めた私に、彼は極めて丁寧に対応してくれた。自分は外務省から敵視されている、
その自分と会っていることが分かれば君の為にならないと言って、面会場所をわざわざ指定してくれた。
今でも覚えている新宿界隈の薄暗い喫茶店だった。
彼はその時、外務省を辞めた後の厳しさをさり気なく語り、まだ若い私に早まったことをするなと諭してくれた。
その時の彼の言葉の中で鮮明に覚えている事が二つある。
その一つが小和田外務次官(あるいは当時は官房長だったかもしれないが)が浅井さんに対して、
「辞めたあと外務省に弓を引くような事をしたら、外務省は省をあげて君を潰しにかかるから」と言ったという言葉である。
もう一つは、自分は外務省の若い連中から、「浅井が外務省に近づいてきたら石をぶつけて追い返せ」と
言われているらしいと苦笑しながら語った言葉である。その時私は、外務省という組織の度量のなさと、
外務官僚の卑しさを感じたものだ。2年前に外務省を去った私は、改めてその時の浅井さんの言葉の正しさを
身をもって感じている。と同時に浅井さんの当時の勇気に感心し、圧力に負けずに信念を貫き通し、
平和外交の重要性を訴え続けてきた浅井さんの苦労に頭が下がる思いだ。今度の広島平和研究所所長就任は
そんな浅井さんへの勲章である。広島平和研究所もこれ以上ない人を獲得したといえる。
今の外務省をみるがいい。米国追従の外交が完全に行き詰まり、米軍再編への協力を迫られる小泉政権は
平和憲法を放棄させられようとしている。歴史的な過ちの淵に立たされている。浅井基文さんの主張の正しさが
見事に証明されつつある。
私は浅井さんに不義理をしてしまった。あの時以来、お礼の連絡もしないまま今日に至っている。
外務省を辞めた後も、気に懸けてはいたがまだ挨拶できずにいる。毎日新聞に出ていた写真の笑顔は
浅井さんの穏やかな人柄をよく表していた。元気そうで何よりだ。是非とも新しい任務にその能力を
発揮してもらいたい。できるだけ早い機会に私は広島を訪れて、あの時以来の非礼をお詫びしたいと思っている。
そして浅井先輩のあとをついて日本の平和外交実現の手助けをさせてもらいたいと思っているのである。
http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/325.html

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対談

外務省は天皇の国璽を勝手に押している
天皇陛下の署名がないのに国璽が押されている免官状がある

藤原 この免官状はどこがあなたに出したものなの?
内閣という署名があるから内閣官房のはずだが、印鑑が押してないというのは奇妙ですよ。
天木 内閣でしょう。ただ、そこは事務処理の問題としては内閣のものとして、
外務省が作成したのでしょう。
藤原 いずれにしても、私はひと目でこれは偽造文書の仲間だと感じました。
天木 外務省の仕事というのはその程度のものなのですよ。
藤原 国璽としての天皇の印鑑管理に関しての問題であり、
ハンコを勝手にペタペタと押していいのかということです。そうじゃないですか?
天皇に会って実態を知らせるべき大問題であり、
「あなたのハンコが勝手に押されているが、そんないい加減な扱いを政治家や役人に許すのか」と聞く必要があります。
藤原 機密費の上納と流用の問題を調べていけば、雅子妃の父である小和田恒が
外交機密費の責任者であったときもあるし、過去に遡れば大勲位や勲一等旭日大綬章を
もらった連中が、国家を食い物にした悪党だったと分かってしまい、
悪党どもが勲章で飾り立てていたことまでバレてしまう。
しかも、官房機密費問題が皇室に及ぶのを恐れたのでうやむやにして、
国民をごまかしたというのが実態ですよ。今まではそういう.悲行の限りを尽くしても
外務省は安泰だったし、 自民党は政権を維持して潰れずに来たわけだからね……。
天木 それほど根が深いから、口が裂けても認めることができないのです。
報道陣もみんなその余得に預かってきたわけだし、書くことができない……。
藤原 日本のジャーナリストは記者クラブで飼われていて、皆が官房機密費から
「お車代」なんかをもらっているし、サラリーマンだから真相を書けないのですよ。情けないですよ……。
天木 今の日本の報道界の実情を観察して思うのは、ジャーナリズムは何をしているのか
という嘆きと共に、人間はやはり食っていかなければならないし出世もしたい、
「そんなことを言うのであれば、明日から記者クラブを追い出す」と言われれば、
何も言えないし書けないという現実もあります。


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WiLL2007年2月
〈渡部昇一の戦後史公開講座〉p.236
サンフランシスコ講和条約の第十一条です。
日本は東京裁判を受諾したのではなく、諸判決を「judgements」を受諾した。
あくまでも判決を受諾したのであって、裁判ではありません。
・・・・・
しかし、中国人シンパと言う人もある後藤田正晴さんが
田中角栄首相の下で権力を持っていて、皇太子妃の父、小和田恒さんが条約局長の時代に、
「裁判」を受諾したという解釈にされたと言われています。
それから日本は、日本が悪かったという自虐史観が東京裁判の当事国でもない
共産党中国にも伝わり、ご存知のように、その後の日本は中国に弱い国になってしまいました。

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外務省の掟
外務省には親子で外交官をやっているという人が多いと聞きます。
これは他の省庁ではあまり見られないことですね。
記者 そうですね。他の官庁だと、まあ若い人は別として、田舎の公立高校をトップの成績で卒業して
東大に入ってという人が多いんですね。家もあまり裕福じゃない。
外務省はそのまるっきり逆。地方の人ってあまりいないでしょう。
なぜ親と同じ職業を選んだのか聞いたことはありますか。
記者 「いや、何となくね」とか、「親の姿を小さい頃から見てきたから」とか、そんな返事です。
明確な目的は聞いたことがありませんが、やはり花形職業だというのがあると思います。
日本を代表して交渉をするというのがカッコいい、と。ただ日米関係を
根本的に変えていこうという意識の人はあまりいないんじゃないでしょうか。
皇太子妃殿下も外務省勤めでしたが、もしかしてその典型なのじゃないかと思うんですが。
記者 父親を見てたらそうなるんじゃないですか。
でも小和田恒氏もあまりいい評判を聞きません。
彼は本当は審議官で終わるコースだったんですよね。
記者 事務次官を経て国連大使にまでなったというのは、名誉職です。
役人としては超エリートじゃなかったんでしょう。
あまり面倒見もよくなかったらしい。金遣いも荒いし威張っているし、
小和田氏は典型的な外交官じゃないかというやっかみ半分の評判を聞きます。

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父子二代「二年首相」 渡部亮次郎 2007・09・08(抜粋)
雅子さんが皇太子妃になるのは雅子さんが小学生のころから決まっていた。
小和田氏が福田元首相の秘書だった頃の話だが、福田氏が正月休みにゴルフをするために、
ある地方都市に小和田一家と毎年きていたが、雅子さんは将来の皇后になる人だからと回りに言っていた。
こんなに色黒で気が強くておてんばな小学生がお妃になるのだろうかと思っていたが
本当にお妃になったのには驚いた。

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小和田恒氏と機密費
外務省の機密費にかかわっていたことは公然の事実
だが、皇太子妃の父ということで逮捕は免れた
田中真紀子氏が外務省改革に踏み切れなかったのは恒氏が外務省の機密費を流用していたから。
恒氏は外務次官だったときに、職員が自ら告発した機密費問題を、もみ潰した。

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2001年毎日新聞3月8日朝刊
いまも外務省内で語り継がれている「反乱」がある。
1993年6月、在オーストラリア日本大使館で実施された査察にまつわるものだ。
在外公館への査察は5年に1度、査察担当大使ら3人1組で行われる。
大使館側で用意した聴取リストに基づいてチームが話を聴き始めたところ、
全員が会計担当官の仕事ぶりをほめそやした。
「何かおかしい」―査察チームがリストの人選に疑問を感じ、無作為聴取を行った結果、
大使館改修費などの一部を会計担当官が着服していた疑いが次々と浮上した。
リストは担当官自身の作成だった。査察大使は本省に戻り、厳重処分を進言する。
当時の事務次官は小和田恒氏。ところが、なぜか処分は行われず、
この職員は2カ月後に在フィリピン大使館の会計担当官へと異動した。
皇太子妃の父上が係わっていたから、野党も腰が引けてしまった。

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杉原千畝名誉回復阻止
鈴木宗男の唯一(?)の善行として、外務政務次官時代、
杉原千畝氏の名誉回復運動を外務省の反対を押し切って推進させたことが出ていた。
意外も意外、な取り合わせである。このとき、反対の陣頭に立っていたのが小和田恒事務次官(当時)。
つまり、あの雅子さまの父君。反対の理由というのが“名誉を回復させるということは、
杉原千畝を訓令違反(勝手にビザを発行したこと)で追放した外務省に
ミスがあったことを認めることになる”というもの。これが官僚という人々のものの考え方らしい。
http://www.tobunken.com/diary/diary20020303000000.html


杉原千畝は第二次大戦中、ナチスによる迫害からビザを発給することで六千人ものユダヤ人を救った外交官。
大戦後、職を追われたが、2000年にようやく日本政府から名誉回復を受けた。
そのとき、名誉回復を断固として反対していたのは小和田恒氏。
理由は、当時の外務省のメンツを第一に考えた身勝手なもの
(「名誉を回復させるということは、杉原千畝を訓令違反(勝手にビザを発行したこと)で
追放した外務省にミスがあったことを認めることになる。
後日、このことが報道されると恒氏「記憶にない」


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竹島
韓国が竹島に不当に港湾施設の建設を始めたときに、
海上保安庁が韓国側の上陸を阻止するべく行動に出ようとしたが、
そこに「これは外交問題だから、海上保安庁は動くな」と口をはさんだのが、
親韓派の当時の外務事務次官:小和田恒氏
結局、恒氏の意向が通った。
この問題に対する対応の初動を誤ったことにより、
竹島は韓国の実行支配を受けることになってしまった。
出自が噂されているとおりであれば、半島寄りになるのも無理はない。

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渡辺亮次郎(元NHK記者、元外務大臣秘書官)エッセイ
小和田さんはジュネーヴェへいつ赴任するんだ、と通夜の席で話題になった。
国際司法裁判所の判事とやらに選出されたからである。
皇太子妃の実父だから昔なら批判 ご法度なのだが、最近の世相はだからと言って口さがない。
数年前、現職の小田判事を 「任期途中で辞めさせてでも」と、就任工作をやらせたのはひどかったとか、
実にカネに汚いとか、公私混同がひどいとか、嫁入りに持たすタンスをえらく値切られたという友人もいた。
「何しろ誰も鈴を付けに来ないことをいいことに国連大使に5年も居座って、まだ降りようとはしなかった。
後任の佐藤行雄が3年10ヶ月で きちっと辞めて、もう東京にいるよ。そんなだから、小和田さん、
判事の任期(7年)に果たして何期 しがみつくか、興味津々だね」と、これは後輩外交官だった。結構、口が悪い。

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小和田恒という人は、超エリートといわれるが、政界に知られるようになったのは
若くして福田赳夫首相の秘書官になってからだが、なぜか省内に人望は無い。
仕事に厳しすぎるという以外に何かありそうだが、官僚の口はいまだに固い。
その小和田が外務事務次官時代(1991年8月~93年8月)時代に展開して、
未だに外務省員を支配しているのが、「ハンディキャップ国家論」である。
日本は他の大国と違って、憲法9条の平和規定が厳然としてある。
仮にPKOなどの国際貢献でそれがハンディキャップとなっても、最大限尊重すべきで、
あくまでも憲法の許される範囲内で、世界に貢献すべきだ、という論である。
この論は次の事務次官斎藤邦彦(のちに駐アメリカ大使、国際協力事業団総裁)にも追認され、
今日も外務省無気力の允許状になっている。そこには敗戦の結果として押し付けられた憲法であるとか、
軍隊は外交の手段として用いるべきではない、という敗戦・無能力国家を厳として是認するばかりで、
国民を奮い立たせるとかの精神はひとかけらもない。あるものはゼニだから、これさえ出しておけば、
他から文句をいわれることはないから いいじゃないか、と言っているに過ぎない。
国家の誇りなんかとっくの昔に棄ててしまった逆乞食の驕りである。

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小和田恒氏の日本の防衛についての過去の発言
我々はハンディキャップを背負った国ということを十分認識すべきです
したがって、軍のところはもう消しましょう、と。
これはもう嫌です。軍事的なもの、国際貢献であっても軍という名のつくものは全部、嫌。
その代わり、お金で片をつけましょう。
他の国が百ドル出すのであれば我々は、二百ドル三百ドル、この覚悟ができれば、これが一番いいです。

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天下り
外務官僚の「天下り」
21日国連本部で行われた国際司法裁判所(ICJ)判事の選挙で、元次官小和田恒(70)が当選した。
外務省の幹部たちは「ようやく達成できた」と肩の荷を下ろした思いであるはずだ。
小和田は皇太子妃、雅子の父である。
順調にいけば天皇の祖父となる(生きているうちに孫が即位するかどうかは疑問だが)わけだから、
退官後もおろそかには扱えない。小和田の処遇は、外務省の最重要マターだった。(略)
今回、小和田の得票は安保理で満票の15票、国連総会では投票総数183票中169票で、
ともに最多得票だったという。この場合の得票は、自動的に「入ってくる」ことはない。
「集める」からこそ入ってくるのである。
日本はこの類の選挙に、もっとも熱心な国として知られている。
日本の国連大使あたりが、ある国の外交官に小和田への投票を依頼する。
その相手が目端の利いた外交官なら、「他の候補者への義理がある」といった理由で難色を示す。
そこで日本の外務省はODA(政府開発援助)という「切り札」を切る。
少なくとも総会の最多得票は、ODAという買収資金をふんだんに使った結果なのだ。
仲間の天下り先確保のため国民の税金を使うことなど、「当然」と考えているのが外務官僚なのである。

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学習院の学長の地位を狙っていた
在任期間四年を越える長期の任期となっていた小和田恒国連大使(昭和三十年入省)の退任が決まった。
小和田氏は九月の国連総会前か、日本の安保理非常任理事国任期が終わる十二月に退任し、
外務省の外郭団体である日本国際問題研究所の所長に就任する見通しだ。
同研究所はこれまで松永信雄元駐米大使(二十一年)が理事長兼所長を務めてきたが、
小和田氏が所長に就任した後も松永氏は理事長に留まることになりそうだ。
皇太子妃の実父である小和田氏の処遇について、外務省は神経を使ってきた。
これまでにハーバード大学教授や国際司法裁判所判事などへの就任が取り沙汰されたが、
いずれも実現しなかった経緯がある。最近では学習院院長への就任説も囁かれた。
これは、竹下登元首相が取りなしたものだったというが、結局実現しなかった。
松永氏が理事長に留任することもあってか、
小和田氏は国問研所長就任には今ひとつ乗り気ではないともいわれている。

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恒氏は広島の平和研究所の所長に就任したが広島へは一度も足を運ばなかった。

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お世継ぎ 八幡和郎
私も一緒に出張に出てお話をしたことがあるが、たとえば、日韓関係をどうしたら仏独関係のような
良好なものにできるかといったことについての熱意や、歴史や文化についての博識ぶりに感銘を受けるとともに、
皇太子妃の父親としてはずいぶん思い切ったことをおっしゃることに少し驚いた。
問題は、そうした積極性が皇太子妃の父親として好ましいものかである。
雅子さまのご結婚ののち外務事務次官から国連大使に転出して安全保障理事会の常任理事となるべく
主導的に工作に当たったが、そういう政治性の高いポストに皇室関係者が関わることが議論のタネとなった。
たしかに、稀代の優秀な外交官の活動に枠をはめることは日本外交にとって残念なことであるが、
やはり皇太子妃の父親として論議の対象になることのマイナスの方が大きいものだった。
本人はせっかく皇太子の義父になったのだから、その立場を日本外交のために活用しない手はないという
気持ちだったらしいが、リスクはかなり大きい。
最近も小和田大使時代に購入した超豪華な国連大使公邸が、優雅な社交生活のためには好適でも、
国連本部から遠すぎて国連外交を展開する上では不向きであると、
後任者から早期の売却を勧告されていることが報道された。

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小和田恒氏


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