こんにちは、arto総研のToshiroです。いつもお読みいただきありがとうございます。今回は、前回に引き続き、「毒が強すぎる絵画」というテーマで書いてみます。一応、閲覧注意です。
毒々しい絵画
前回は「毒のある絵画」というお題でお送りしました。言い換えるならば「程よい毒」というような感じでしょうか。
今回は更に毒が強い絵画を紹介しようと思います。今回紹介する作品はちょっと毒が強すぎて恐い印象があります。しかし前回も書いたように、作品の前提として作者なりの考えがあります。
それを見つけることが出来れば、「恐い」の中から、何かを得ることが出来る、かもしれません。
以下やや閲覧注意です。美術館でも普通に展示されていますし、テレビでも何の前触れもなく紹介されるような作品なので大丈夫だとは思いますが、結構激しい表現のものもあるので、苦手な方はお気を付けください。
作品紹介
『眼=気球』
こちらはルドンの作品です。荒廃した大地の上に、目の形をした気球が飛んでいるという異様な光景が描かれています。また気球には人の頭のようなものがのっています。よく見ると目のようなものがこちらを見ているようにも見えます。実はルドンは幼少の頃、里子に出され、ひどく孤独を感じていました。そんな環境でルドンは「見る」という行為を非常に重要視したのです。本作からはまるで幼少期のルドンが感じた孤独という悲しみを見ているかのように思えます。
『死の島』
こちらはベックリンの作品です。中央手前に描かれている小さな船に載せられている白い人型のものは棺で、この死の島に棺を運んでいる様子が描かれています。島をよく見ると窓のような穴が見えますが、ここに棺を入れます。正に『死の島』。ちなみにこの作品は大流行して一般の過程にもポスターが飾られるほどでした。
『出現』
ギュスターヴ・モローが描いた傑作中の傑作です。描かれているのは聖書に記述されている「ヘロデ王の前で踊るサロメ」が主題となっています。ヘロデ王の前で踊りを踊るサロメ、その褒美として洗礼者ヨハネの首を求めます(実際に首を要求したのは母ヘロディア)。
本作ではヨハネの首がサロメの前に出現しているのですが、聖書中にはこのような記述はなく、モロー独自の解釈によるものです。死の超越を表すヨハネの首とそれを前にするサロメという女性の美しさがうまく表現されています。
『イワン雷帝と皇子イワン』
イリヤ・レーピンというロシアの画家による作品です。タイトルの通り、ロシア皇帝イワン(イヴァン)4世とその息子であるイワンを描いています。イワン4世は非常に怒りっぽく、すぐに暴力を振う人物で「雷帝」と恐れられるほどです。
息子イワンの妻に対しイワン4世が暴力を振るった際、息子イワンが止めに入るのですが、怒り狂っていたイワン4世は杖で息子を殴ってしまいました。息子は頭から血を流し倒れてしまいます。イワン4世はそれを見てすぐ我に返り、自分の過ちに気づきました。本作は我に返ったイワン4世が息子を抱きかかえ、頭の出血を止めようと必死になっている様子が描かれています。
取り返しのつかないことをしてしまった、という罪の意識や、息子が弱っていく悲しみという感情をうまく表現しています。トレチャコフ美術館所蔵作品。
『我が子を喰らうサトゥルヌス』
スペインの巨匠、ゴヤの作品です。『黒い絵』という連作の中の1枚で、全12枚あるシリーズの中では最も有名です。ある日ゴヤは病にかかるのですが、その影響で耳が聞こえなくなってしまいます。聴覚を失ったゴヤはあまりに鋭い感覚を獲得し、人間の感情をえぐるような作品を多々描きました。
本作で描かれているサトゥルヌスは神話に登場するもので、息子によって殺される、という予言を恐れ、我が子を食い殺しています。早い話が、自分の地位を守るためにサトゥルヌスはこんなことをしているのですが、人間の卑しい部分をゴヤに見せつけられているようにも思えてきます。西洋美術史における問題作としてよくテレビや雑誌で紹介されています。
最後に
前回と今回でかなり変なテーマで作品を紹介しました。私が言いたかったのは、別に恐怖心を煽りたかったとかそういうのではなく、芸術作品というのは極めて人間的であり、一般的に想像されているような崇高なものではない、ということです(こういう表現をすると語弊がありますが・・・)。
確かに美術史においては感情を出すのがあまり良くない時代もあったので、全ての作品がそうだとは言えませんが、作品を制作した人達も1人の人間であったわけです。
今回は「毒」をテーマにしたので負の面を強調する形になってしまったのですが、人間なのですから当然、悩んだり喜んだりということを誰でも経験します。昔の人も同じで、そしてそれを「絵」という言葉では言い表せない形で表現しています。そう考えれば、恐い絵画も何となく意味のあるものに見えてきませんか?
私たちは日々の生活の中で苦しんだり、喜んだり、ということを経験しますが、絵との「対話」、絵を仲介した作者との「対話」、という形で共感することも出来ます。そういう意味では決して崇高なものではなく、案外身近なものであると思います。
時代、国、言語などに関係なく感情を共有できるのは非常に素晴らしいことではないでしょうか。というと大げさですかね(笑)
今回もお読みいただきありがとうございました。
Toshiroでした。それでは、また。