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最終話 それは奇跡のように
『ドリームアイドル・ライブステージのプロデューサーの皆さま。いつも歌姫を大切に育てて下さり、ありがとうございます。さて、来年二月を持ちまして当プロダクションは所属するアイドル達を卒業させたいと存じます。ファーストステージが始まり二年になりました。笑顔や涙の思い出を胸に、彼女達がそれぞれの空へ羽ばたく時がやって来たのです。一足早い卒業となりますが、どうか彼女達の旅立ちを笑顔で見送って下さい。そして、新たなアイドル研究生達を迎え入れたセカンドシーズンにもどうぞご期待下さい』
公式サイトや広報誌、ゲーム画面からそんな運営ニュースが流れ出したのは、秋が深まり、冬も間近となった季節の頃だった。
枯葉の舞い落ちる季節から更に寒さが深まり、街の風景が冬へ色濃く移ろい始めると、人々の心にはどこかしら寂しさが滲み、人恋しさが募る。
そんな時に知らされた卒業の予告であった。
ファン達の反応は様々だった。
今まで画面の中で何くれとなく世話を焼いてきた歌姫やスターの卵たち。ゲーム半ばのプレイヤー達には、育成したデータの引継ぎがないと知ってあっさりプレイを打ち切る者もいたが、歌姫を結末へ行き着かせようとレッスンに励む者もいる。
また、様々なイベントを通じて心を通わせた二次元の少女達と別離の時が来たことが受け入れられず、悲嘆に暮れる者もいた。
画面の中で共にひとときの夢を見たファン達にとって、彼女達は架空の歌姫と単純に割り切れるだけの存在ではないのだ。
そして、そんな彼等へ向けた年末のイベントが告知された。
「来る一二月二〇日、さいたまスーパーアリーナにおいて歌姫達のクリスマスライブを開催いたします。来年には卒業ライブとセカンドシーズンのオーピニングセレモニーが開かれる予定ですが、今年を締めくくるにあたり、彼女達の歌によるクリスマスプレゼントをどうかお楽しみ下さい。……素敵なサプライズがあるかも知れません」
もちろん、ゲームの画面に登場する歌姫達が実際に登場出来るはずがない。
彼女達の「中の人」、声優アイドル達が歌姫になりきってゲームの中の世界を再現し、楽しんでもらおうという趣向のクリスマスライブイベントである。
寂しさを噛みしめていたファン達は、一様に沸き立った。
「うおおー久々にレナレナに会えるぜ!」
「アーヤたんもミポリンもオレの嫁!」
「もうクリスマスも怖くない!」
本気なのか冗談なのか「るるなを卒業させてたまるか! 会場からさらって二人で逃避行するんだ」と犯罪予告とも現実逃避ともつかない宣言をブチ上げる輩もいる。
同好者から気持ちは分かるが落ち着けとたしなめられていたが、そこへ「ふざけんな、るるなはオレの嫁だ!」と話をややこしくする輩も加わり、騒ぎが大きくなる。
彼等のSNSやブログ等には、年末のイベントに向けた期待の声が幾つも書き込まれていった。
「どんなイベントになるだろう」と、様々な予想がたちまちネット上で取り沙汰された。
おみやげと称する簡単な無料配布のグッズ、イベント限定のお菓子販売、抽選でもらえる握手券などは定番ものだが、それでも考えるだけで心が浮き立ち、楽しくなってくる。
楽しい。
そう、ファン達は「以前よりずいぶん運営が変わって、楽しくなった」と、口を揃えて言うようになった。
以前は、アイドル達との僅かな交歓の為に握手券を手に入れるのにも、人気投票の為にも同じCDを大量に購入したりしなくてはならなかった。そんな搾取的な仕組みが改まっていたのだ。
規制も変わった。以前はオタ芸はもちろんのこと、ペンライトを振るのも掛け声も禁止され、拍手ですらステージ前のスタッフの合図がなければ出来なかったのが随分と緩和されたのだ。
アイドル達もそれまでイベントで声を掛けられても返事をすることが許されず、困った顔で無視するしかなかった。握手会でわずかな会話をするのがせいぜいだったのだ。
それが今では、イベントでファンからのツッコミにボケたりツッコミ返したり出来るようになっていた。ライブ中に観客席のファンとハイタッチをすることすらままあった。
そのせいか、どこかぎこちなく硬かったイベントトークも今ではコントじみたアクシデントで爆笑も多い、愉快なひとときになってファン達を心から喜ばせるようになった。
守銭奴のような運営の方針がどうしてこうも変わったのか、皆首を傾げたが、事情を知る者はいなかった。
だが、何にせよ、彼等にとっては大歓迎だった。
かつて「ファンは黙って金だけ出せ」と暴言まで吐いた高慢なスタッフは姿を消し、刷新されたスタッフは、ファンを出来るだけ大切にしようとするスタンスで接するようになった。
ストーカーじみたアイドルへの犯罪も起きている世の中である。規制が緩和されても問題が起きればまた元に戻されるかも知れない。ファンの有志もイベント前に「礼儀を守って楽しもう」「ファンの誇りに懸けて浅ましい真似を許すな」と、注意を促すパンフレットを作って配るようになった。
今ではファンと運営サイドが互いに協力してイベントの秩序を守り、盛り上げるというスタイルが確立し、「ドリームアイドル・ライブステージ」はかつてよりも更に高い人気を誇るようになっていた。
そんな経過を経てアイドル達と打ち解けるようになったファン達である。「どんなイベントになるだろう」と期待する一方で、「サプライズ」とは何だろう、と様々な憶測が立った。
「彼女達の卒業……実はウソでした、テヘ! という一足早いエイプリルフール」
「ファン達一人一人に手作りのクリスマスプレゼント」
「誕生日が一二月二六日のミポリンへのバースデー企画」
「メンバーの誰かの結婚報告……イヤだぁ、うわああああ!」
……想像というより自爆じみた妄想も挙がる中、「エメルが登場するのではないか」という声にも多数の賛同と熱い期待が寄せられた。
登場するとしたらゲームと同じようにステージ上で熱い歌唱バトルを繰り広げる展開があるのかも知れない。謎に包まれた彼女の探し人について語るかも知れない。
彼女は、この頃にはすっかり有名になっていた。
公式サイトではシルエットのみ掲載された謎の歌姫のはずだったが、既にファンサイトではゲーム画面をキャプチャーした画像やCGやイラストで再現された容姿が掲載されていた。動画サイトでの彼女の紹介や対戦プレイ「エメルにケチョンケチョンにやられてみました」に至っては言うまでもない。
ゲームで遭遇したことのないプレイヤーは未だ多かったが、彼女の存在や歌は、ほとんどのファンが知るところとなっていた。
日本国内で彼女のCDはまだ発売されていない。そればかりか、イベントやコンサートに彼女が登場したことは未だ一度もないのだ。
このまま今のアイドル達が卒業を迎え、キャラクターが刷新されたら、エメルも謎を秘めたまま僅かな遭遇の機会ごと消えることになる。
せめて一度だけでも本物のエメルが姿を見せてくれないだろうか……そう願わないファンはいなかった。
だが、もちろんサプライズの内容が公式サイトや運営から漏れることはなかった。
イベントが近づく一日一日に、ファン達は期待で心も膨らんだ。
だが、それは同時に近づいてくる歌姫達との別離が近づいてくることでもあるのだ。
嬉しさと、そして寂しさの入り混じった複雑な気持ちを抱える中で、ファン達は何か奇妙な予感じみたものを感じていた。
「その日」が、何か特別な日になることを。
……秋の気配がほどなく日々の中に消え、冷たい冬の空気に人々がすっかり慣れた頃、「ドリームアイドル・ライブステージ」のファン達は、ついにクリスマスイベントの日を迎えることになった。
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その日は快晴だった。
冬晴れの空に輝く太陽の陽光は、厚着やカイロ等で思い思いに寒さを凌ぎながら朝から入場列を作って待っている彼等にささやかな自然の暖を与えてくれていた。
入口付近ではスタッフが「開始時間には全員をちゃんとご案内しますから前の人を押さないで下さい。推すのは自分の育てた歌姫だけにして下さーい!」としきりにメガホンで声を掛けてファン達を笑わせている。
「押し違いでーす!」とツッコみを入れたお調子者がいて、列からは笑いが起きた。「誰ですかー! 今ツッコんだの誰ですかー! 貴方、小学校の頃に非常ベルをイタズラで押したことあるでしょーっ!」とムキになった振りのスタッフに、笑いは更に大きくなった。
「今日は色々と楽しい一日になりそうだな」
プリプリしてる振りをしながらスタッフが去ってゆくのを笑顔で見ながらファンの一人がつぶやいた。
ほどなく、入場開始が告げられ、長蛇の列を作っていたファン達はスタッフに誘導されて少しづつ移動を始めた。
「さいたまスーパーアリーナ」は、スタンド席が可動式で収容人数を調整出来る特異な構造を持った会場である。
六千人程度の客用のホールモード、一、二万人向けのアリーナモード、三万人以上を収容出来るスタジアムモードの三つの形態を持つ。
今日はスタジアムモードで、続々と入場するファンをスーパーアリーナは呑み込んでいった。ゲートは四ヶ所あり、それぞれスタッフが「お手元のチケットを確認して案内板に従って下さい」と呼びかけている。
ゲートの入り口には配布スタッフもいて、無料グッズを手渡していた。
「慌てないで下さい。グッズは人数分あります。あと、くれぐれも転売しないで下さい。アイドル達の魂を売り渡さないで下さい!」というアナウンスに、これまたあちこちから笑いが漏れる。
三万人近い大人数である。特にトラブルらしいものは起きなかったが、入場にはやはり時間が掛かった。入場後もグッズの購入やトイレ待ちで列が出来たが、それらも時間が経過するにつれて次第に落ち着き、やがて開始時間となった。
アナウンスに促され着席すると観客としての意識へ切り替わってゆく。
声高なざわめきも、時間が経つにつれてだんだんと静まっていった。
だが、ステージの上には一向にスポットライトも照らされず、一二人のアイドルはまだ誰も姿を現さない。
いつもだったら、彼等のムードメーカー「レナレナ」が「みなさーん、お待たせしましたぁ!」と元気いっぱい叫びながら飛び出してくるのがお約束の筈なのに……。
「どうしたんだろう……」
観客達は不審そうな顔を見合わせながらも辛抱強く待った。
だが、それでも彼女達の姿は現れずイベント開始の遅延を詫びるアナウンスすら流れない。
行儀よく座っていた観客の一人がとうとう痺れを切らせて立ち上がろうとした。まさにその時だった。
「おっ待たせー!」
一階スタンド席後ろの扉を突然バーン! と勢いよく開いて誰かが叫ぶ。開いた扉も、叫び声も一つではない。
舞台慣れしたよく響く声は、彼等には聞き覚えがあった。
振り向いた観客たちは、レナレナ、かえで、アーヤ、るるな、みぽりん、アナベリー、ルルージュ……それぞれのアイドルのコスチュームに身を包んだ声優アイドル達一二人が一二の扉を開いて立っているのを見て度肝を抜かれた。
意表を衝かれた彼等に向かって背後からアイドル達からの檄が飛ぶ。
「さぁ、今日はしょっぱなから飛ばして行くよー!」
「寒さなんて感じてるヒマなんかねーぞ!」
「Ride on time! (さぁ、ついてこいよ!)」
彼女達の掛け声が合図だったのだろう。会場のあちこちに設けられた巨大なスピーカーからノリの良いゲームのオープニング曲の序奏が流れ始めた。
観客たちは歓喜の雄叫びと共にコブシを振り上げる。
「We are burning singers!」
サプライズな登場でファンの心をさらったアイドル達は、そのまま歌いながらそれぞれの入り口から中央のステージへと走り始める。
うぉーっ、というファンの叫び声を打ち消すほど彼女たちの歌には気合いが入っていた。街頭ライブや地方キャラバンなど今まで数多くのイベントに彼女たちはもちろん全力で臨んで来た。
だが、今日は違う。全力で歌えばいいだけではない。もっと大切なことがあるのだ……
今日は絶対に「特別な日」にしなければいけない、と彼女たちは心ひそかに期する理由があったのである。
だが、観客達はまだ誰もそのことを知らない。
観客席とステージを隔てる鉄柵をスタッフが一時的に空けて待っている。彼女たちは歌いながら通路を駆け抜け、鉄柵をくぐり、ステージの上へと走りあがった。
全員の手を宙で合わせ、クルリと回転して歌の最後にポーズを決めた。ステージの後方に掲げられた巨大なTVモニターに「All the members gathered!(全員集合!)」の文字が躍る。
全員とは……一二人だった。エメルの姿はない。
観客達はちょっぴりガッカリしたが、そんな失望を吹き飛ばしてしまうほど、彼女達は底抜けのハイテンションだった。
「みんな、会いたかったよーっ!」
歌い切った直後にアーヤが叫ぶ。三万人の観客が大歓声で応えた。
だが、その声を受け「よぉぉし」と、声を張り上げた彼女が次に叫んだのが……
「オッケー! 今日は楽しかったぜ。みんな気を付けて帰れよ、また会おうぜ!」
ステージ上のアイドル達が吉本新喜劇よろしく全員ズッこけ、大歓声は大爆笑に変わった。
「始まったばかりでしょ!」
「三万人も集めて一曲で終わりかよ!」
「ううっ……ごめん。どうしてもコレ一回やってみたかったの。我慢できなくて」
詰め寄る仲間たちにボケた当人は平謝りで土下座する。ステージ後方の巨大モニターには「あやまれ! 会場のファン全員と仲間に手をついてあやまれ!」と謝罪要求が表示された。会場は爆笑に次ぐ爆笑である。
「じ、じゃあ会場のみんな、お詫びにこの歌を歌います。『Burn the Wind』!」
再び歓声が上がる。笑いを生んだ前フリのおかげで掴みはバッチリだった。こうなると、もうしめたものである。
土下座状態から飛び上がった声優がポーズを決め、序奏に合わせて踊りだすと観客達は「ウォォー、ハイハイハイハイ!」と手拍子を始めた。
彼女の歌が終われば次のアイドルが「次はるるなの歌も聴いてちょうだい!」と、躍り出る。
彼女達の自慢の持ち歌が、こうして怒涛のように次から次へと繰り出されてゆく。三万人の観客達はノリにノって盛り上がった。
「オーケー、じゃあちょっとコーヒーブレイクね」
ひと通り歌が披露されると、息抜きを兼ねたトークタイムが始まった。
いや、始まるはずだった。
トークの得意なレナレナから「おい、ちょっと貸せ」とマイクを奪った声優アイドルがいた。東引ハルコである。
ちなみに彼女は清楚で大人しそうな美少女という外見とは裏腹に、礼儀を弁えないファンをところかまわず叱りつけることから「説教アイドル」「ドン引きのファルコ」という異名で恐れられている。
「コーヒーブレイクは中止だ。今からお説教を行うッ!」
ステージ後方の巨大モニターにはでかでかと「ドン引きのファルコによる公開処刑タイム」と表示された。
会場から何故か拍手まで起こり、事前に打ち合わせて知っていたにもかかわらずレナレナは吹き出してしまった。ハルコは彼女の頭をペシッとはたく。
「これからハンドルネームを読み上げる。呼ばれた奴はその場で起立しろ、いいな! 立たない奴は本名でもう一度読み上げる!」
ハルコは可愛らしい声に精いっぱいドスを効かせて次々と名前を読み上げる。名指しされたファンは蒼白な顔で立ち上がった。
そして、ひと通り名前を挙げ終わると「お前たちには失望したぞ!」と、いう演説とも説教ともつかないハルコの怒号が炸裂した。
「ファンレターに返事がもらえないとかで恨んでアンチになってやるとか、どういう了見だ! それからファンレターにいきなり付き合ってくれとか結婚してくれとか書いてきたお前、外国製の高級腕時計を突然送りつけてくるお前、いっしょくたに言わせてもらうぜ。たぁー・わぁー・けぇぇー!」
三万人の観客の前で……まさに公開処刑である。立たされているファンは卒倒寸前、会場は大爆笑の渦に包まれた。
「自分の思うとおりにならないから嫌がらせする。アフォか! そんな腐った根性の男に惚れる女がこの世にいるか! 今すぐ首を吊れ、首を! あ、その前に保険金掛けといて。もちろん受取人は私でね。よろしくッ」
笑いが更に膨れ上がる。立たされて罵倒されている連中も思わず吹き出してしまった。
「それからいきなり好きだと言われてハイと言うとでも思ったか! 金のかかるプレゼントで私らが釣れると思ったか、バッカモーン! お前らは女心は分かってない。出直せ、カーチャンのお腹からオギャーするところからやり直せッ! いや、いっそ神となってこの大宇宙から作り直せッ!」
陰湿さとは真逆の明るい罵倒は、聞いている相手も不快に感じない爽やかさがあった。これだからこそ、彼女は人気があるのだ。
まるで格闘試合後のマイクパフォーマンスのように、観客席へ指を突き付けながらハルコはマイクを持って吼えに吼える。
ただ、吠えているのは屈強な格闘選手どころか吹けば飛ぶような容姿のアイドルなので、どこか微笑ましく見えてしまう。
「その腐った根性を今すぐドブに捨てないと二次元の女でもお前らの嫁にはなってくれんぞ! いいか、気持ちや金を一方的に押しつけるのは愛じゃねえ、ただの自己満足だ」
ケンカを売ってるような怒号だが正論である。感嘆の声と拍手が起きた。
「思うままにならないのが人の世、人の気持ちだ。だけど押し付けるのは嫌われるだけだ。だから、好きな人がどうしたら喜んでくれるのかって考えてみろよ。な? そんな風に考えられるようになった奴にはさ、私らアイドルよりもっと素敵な出会いがいつかきっと待っている。約束するよ。だから、そんなクールな男になってみせろ!」
拍手が起きる。「よーし、じゃあ一人づつ誓ってもらおう……まずはそこのお前からだ!」
もちろん三万人の面前でイヤだと言えるはずがない。誓約が成立するたびに拍手が起きる。
ハルコは一人一人に満足そうにうなずくと「よし、それでこそ『ドリームアイドル・ライブステージ』のファンだ。見直したぞ! これで卑怯者は一人もいなくなった。公開処刑を終了する!」と締めくくる。見事な幕引きに、大歓声と拍手が起きた。
ハルコは手を挙げ、まるで選挙にでも当選した政治家のように歓呼へ応える。
彼女はファンの更正そのものをイベントにして盛り上げながら、アイドルとしての自分の株までちゃっかり上げたのだ。
「さぁ、処刑タイムの間に私達も充電完了。ライブステージ第二弾いくよー!」
ハルコの後ろでニヤニヤしながら見守っていたアイドル達が次々とステージの後ろから最前に飛び出してゆく。
たちまち歓声が上がり、彼女達のコールに観客が応えて曲のイントロが再びかかる。
そして、またもや怒涛のような彼女達の個人の持ち歌やユニットによるメドレーが始まった。
観客達は、疲れを感じる暇もなく、歓喜の渦へと巻き込まれてゆく。
曲の合間にはまたブレイクタイムが差し込まれ、コントがあったり、暴露話のトークがあったり。
「ミポリン、ちょっと早いけど誕生日おめでとーっ!」と、ステージにケーキが持ち込まれ、三万人が「ハッピーバースデー」を合唱し、感激のあまり当のアイドルが号泣してしまったりもした。
楽しいサプライズが次々に起こり、観客達はみな笑顔でアイドル達と一体になってステージを楽しんだ。
やがて……
日は暮れ、ステージの照明やスポットライトが目に付くようになった。空には星がちらほらと見え始めている。
楽しい時間がいつまでも続くような錯覚にとらわれていた観客達も、ようやくひとときの夢が終わろうとしていることに気がついた。
それでもどこか名残惜しい気がする。
もっと何かが起こって欲しい、せめてもうひととき夢の続きが見たい。観客達は誰もがそう思わずにいられなかった。
「みんな、今日はありがとう。私達も本当に楽しかったよ!」
レナレナは、笑顔で観客に呼びかけた。
みんなの気持ち、わかってるよ……そんな笑顔で。
そして。
「それじゃ、最後に『ドリームアイドル・ライブステージ』のテーマ曲で私達全員の合唱曲、聴いて下さい『Dream in dream……」
名残惜し気に彼女達が締めくくりのラストソングを告げかけた……その時だった。
『待って』
会場のスピーカーから声がした。
一二人のアイドル達の誰でもない、この場にはいない歌姫の声。
会場にいた観客達の顔が、ハッとなった。
『探している人がいるの……』
まさか、という顔で人々はステージの周囲を見回したり、スタンド席後方の入り口へ振り向いたりした。
だが、彼女の姿はどちらにもない。
ステージからレナレナが呼びかける。
「だ、誰?」
『私はエメル……エメル・カバシよ』
ステージ背後の巨大モニターに、漆黒のドレスをまとった美しい黒髪の少女が現われた。
「エメルだ! エメルが現われた!」
歓声と驚愕の入り混じった叫びが上がる。
今日のステージはたくさんの小さなサプライズがあったが、真のサプライズとはまさしく彼女のことだったのだ。
だが、彼等が驚くのはまだ早かった。
モニターの中のエメルはステージへと歩み始める。
次の瞬間、人々は更に大きな驚愕の叫びを上げ、息を呑んだ。
何と、彼女はそのまま画面から抜け出してステージの上に降り立ったのである!
それは、立体ホログラムとマジックを併用した演出だったのだが、観客達の目にはエメルがまるでゲームの世界から抜け出して現実世界に登場したようにしか見えなかった。
「エメルが画面の向こうからやって来た……」
観客の一人がうめくようにつぶやく。
ステージの前に進み出たエメルは、ドレスの裾を摘まんでお辞儀した。
「こんにちは、『ドリームアイドル・ライブステージ』のプロデューサーの皆さん。初めまして。私がエメル。エメル・カバシです……」
緊張した少しぎこちない声でエメルは観客達に呼びかけた。
観客達も、緊張した面持ちでステージ上の歌姫を見つめている。
「みなさんに会いたい、ここに立ちたいってずっと思ってました。とても嬉しいです。いつもゲームの中で私と戦ってくれてありが……あれ? 何よ、『私と戦ってくれてありがとう』って!」
自分で言って目を丸くしたエメルに、会場から思わず笑いが漏れた。
「へへへ……クールに挨拶したかったのに失敗しちゃった」
照れたように笑うエメルを庇うように、レナレナが進み出て観客へ呼びかけた。
「みんな安心して、今日のエメルはバーサスモードじゃないよ!」
アーヤはエメルをちらっと見るとうなずき、観客席へ語りかけた。
「みんながエメルを何て呼んでるか、私たち知ってます。『追慕の歌姫』……そして」
彼女が誰を探しているのか、それは今日とうとう明らかになります! という言葉に会場からオオオー! と、どよめきが上がった。
「だけどその前に……」
アイドル達がスッとステージのやや後ろに引き、入れ違いにエメルが進み出る。
「さぁ、まずは一曲いくよ!」
序奏が流れ出す。
あの日、彼女を伝説へと導いた曲、テリー・デザリオの「オーバーナイト・サクセス」。
目を伏せて俯くようにポーズを取ったエメルは、軽やかに回転し、そのまま鮮やかにステップを踏んで踊り始めた。
「凄え、バーサスモードのステップそのままだ!」
ゲームで幾度も対戦した経験のあるひとりの観客が思わず叫んだ。
ゲームのキャラクターと同じ動きに観客達は驚かされる。
それぞれの演じるキャラクターになりきった声優アイドル達は、ゲームと同じダンスステップまではさすがに真似出来ないのに、エメルはゲームのキャラクターの動きそのままに踊っているのだ。
そして歌唱力も……
「An overnight success! You have the power to rise above the rest...」
エメルの口から透き通るような、それでいて力強い歌声が響き始める。
流麗な歌声に合わせ、背後の巨大なモニターに彼女の歌う英語を訳した歌詞が表示されてゆく。
「If you search you can find the power within. If you have the desire you surely can win. If you try you can rise to the top」
(もし、隠された己の力を感じたら。何かに打ち勝とうという望みを心に抱いていたら
頂点を極めようという気持ちが胸にあるのなら)
「Don’t look back, no don’t ever stop.」
(振り返ったら駄目、ひたすらに進むの。己の信じる道を)
ステージの端から端まで、駆けるようなダンスステップで踊りながらエメルは高らかに歌う。その小さな身体がアンプで出来ているのかと思えるほどの声を響かせて……
ケタ外れの、その歌唱力に観客達は驚かされた。
「The light is shining on you so bright. Your time is now start moving with it.」
(光条があなたを眩しく照らし出す。さあ、走り出そう。時が動き始めたの)
「Your heart is beating wind tonight. You feel it. And expectation burns like a fire.Your hope is rising higher」
(今夜、あなたの胸の鼓動は高鳴る。そう、心のままに感じるの。待ち望む心を炎のように燃やしてあなたの望みは更に高く高く上りあがってゆく)
三万人の観客は今までにないほどの盛り上がりを見せて歓声を上げた。
まるで、彼女によって心の中の情熱を更に引き出されてゆくかのように興奮の度合いがぐんぐんと高まってゆく。
「An overnight success! You hold the key to your happiness!」
(オーバーナイト・サクセス! 幸福の鍵は今あなたの手の中に!)
「An overnight success! You have the power to rise above the rest!」
(オーバーナイト・サクセス! 必ずあるわ、誰にもないあなただけの力が!)
大歓声に応えながらエメルは曲の終わりにフェイドインして入ったシャンディ・シナモンの「メイキング・イット」を続けて歌い始めた。
「See the light that's shining burning in your eyes. It's a light that shines for you and me」
(あなたの瞳の中を見つめて。その光はあなたと私のために輝いているのよ)
「Feel your hopes and all your dreams burning in your heart. These are dreams you want the world to see」
(貴方の心の中に感じる希望と夢は熱く燃え盛っている。それは、この世界の全てに向かって今こそ解き放とうとしている)
彼女の小さな身体の一体どこにそれほどの持続力が、と驚くほど軽やかなステップの動きは少しも衰えを見せない。
「Once you start believing you can do anything. Follow what's in your heart. And reach for the highest star」
(きっと出来る、あなたはそう信じて始めたはずよ。夢を追い続けて。きっと、あの輝く星に手が届く時がくるわ)
ステージの演出も、そんな彼女を魔法使いのように見せた。
指を鳴らすと観客席を照らすライトの光が色を変え、足を踏み鳴らすと銀粉がキラキラ宙を舞いながら降り注ぐ。
「Making it, take it to the limit」
(やり遂げるのよ、己の限界まで)
「Making it, reaching for the top」
(さあ、輝かしいあの頂きを目指して)
「Making it, you'll come out a winner now」
(きっと出来る。あなたは勝利をつかめるはずよ)
「So don't ever stop」
(だから立ち止まらないで、ただひたすらに信じた道を進んで)
美しい歌声はますます響きを高め、エメルはそのまま三曲続けて歌い切った。
「凄い……」
「イギリス最高のオーディションで伝説になったって云われる訳だわ……」
観客達ばかりか背後のアイドル歌手達までもが、エメルの桁外れの歌唱力と巧みなダンスステップの技能に驚かされた。
この一見可憐な少女は受賞していないにもかかわらず、イギリスで誰もがアルティメットの名を冠して呼ぶ歌姫なのだ。
ステージの上を所狭しとばかりに動き回りながらオペラさながらの歌唱力で観客を魅了する姿に、背後のアイドル達も思わずたじろぎそうになった。
興奮の冷めやらぬ観客達に向かってエメルは呼びかける。
「さぁ、みんな隣の人に気をつけて一緒に踊ろう!」
リズムよく手を叩きながらエメルが呼びかける。
「私のステージはオタ芸大歓迎だよ。この歌はみんなが踊れるようにちゃあんと考えてあるんだよ」と、エメルが笑いかけると、観客達は大喜びで我先に立ち上がった。
エメルは、張り切って振付師のように指導を始める。
斜め上を指さした状態から腕を引く「ロマンス」、リズムに合わせて手拍子し気勢を上げる「PPPH」、頭上で手拍子しながらその場で回転する「マワリ」……「ここはこんな風にね!」と、熱心にオタ芸を実演する歌姫は見るからにおかしげで、人々は笑い出さずにはいられなかった。
会場が沸くたびに、エメルは顔を輝かせる。
アルティメットという高潔なイメージよりも、彼女にとって観客達が笑って親近感を感じてくれる方が何より嬉しいのだ。
ふと、観客席の端に目をやるとヨレヨレのTシャツを着た一人のファンが中腰でおどおどしていた。
こんな自分が皆と一緒に盛り上がっていいのだろうかと迷っているのだ。エメルは、彼の気持ちが手に取るようにわかった。
彼の姿は二年前、人目に隠れて蚊の鳴くような声で歌っていた彼女自身だったのだから。
「ねぇ、遠慮しないで立って! 一緒に歌おうよ!」
エメルが目線を合わせて微笑みかけると、彼はぱあっと顔を輝かせて不器用に、しかしとても嬉しそうに踊り始めた。
――どんなに有名になっても、人の痛みや悲しみを思いやってあげられる、そんな歌手になってくれ
あの日のデブオタの言葉をエメルは大切に守っているのだ。
意を汲んだ他のアイドル達はエメルの後ろで一列になり、そのままバックダンサーとなって一緒に踊り、コーラスしてくれる。
一二人の声優アイドル達のライブ以上にエメルのステージは盛り上がり、最高潮に達した。
「こんなイベント初めてだ!」
「サイコーだよ、サイコー!」
「ああ、何だか夢を見ているみたいだ……」
感極まったファンたちから口々に言葉が漏れる。ステージの上ではエメルが楽しそうに歌い、歌の合間に観客達から掛け声が掛かる。
そして……
祭りのように興奮し声を上げる人々の中に只一人、ひっそりと佇む黒い大きな影があった。
その影は、さいたまスーパーアリーナのステージの上で三万人もの大観衆を相手に臆することなく堂々と歌うエメルを見て懐かしむように、だが、どこか寂しそうにうなずきかける。
あの日、トイレの影に隠れ、蚊の鳴くような声で歌っていた少女。
自分には何の希望も可能性もないと諦めきり、泣いていた少女。
それが、今ではこんな立派なスターになって……
影は、心の中で話し掛けた。
(そうだ、その光の当たるステージがエメルの辿りついた場所、オレ様が約束した場所だよ)
(オレ様はいるべき場所に戻っただけだ。もう探さなくったっていいんだよ)
(エメルならきっともっと高い場所を目指していける。どこまでも走っていけ……頑張れよ)
影は静かに席を立った。
そっと立ち去ろうとするその影に、興奮した周囲の観客達は誰一人気がつかない。
ステージの上では、ようやく歌い終わってひと息ついたエメルが「みんな、今日はありがとう」と呼びかけていた。
拍手に笑顔で会釈すると、そこでエメルはゴクリと喉を鳴らした。
初めてオーディションを受けた時の緊張が甦る。
彼女にとってはこれからが「本番」だった。
これから話そうとしていることこそ、あの日から今日まで自分がやってきたすべてが賭かっているのだ。
「皆さん、あのね……」
エメルは、少し震える声で静かに話し始めた。それは……
「私は、ある人を探して日本に来ました。このゲームの中で私が歌っていれば、きっと私に気づいてくれるはずだから」
レナレナが優しく尋ねかける。
「どんな人なの?」
「私をスターにしてくれた人。その人はね」
エメルは観客席を指差した。
「ずっとそこにいたの。アイドルのファンで、好きになったアイドルに恋人がいたり、ファンを大事にしないでお金だけが目当てだったり……そんな風に裏切られ続け、蔑まれ続けた人だった。そんな人が私をスターにしたの。何の後ろ盾も肩書きもないのに、知恵の限り、持てる限りの力を尽くして……何の見返りもなしに」
初めてその話を聞いたレナレナは目を丸くした。
「凄いね! 恰好いいね! それが探している人なのね。エメルの王子様なんだ」
「カッコは……よくないんだ。お腹回りなんかでっかくてハンサムじゃなくて、ボサボサの髪とヨレヨレの服とボロボロの靴をしてた。でも……」
思い出して涙声になりかけたエメルは、声を励まして会場へ告げた。
「エメルには世界で一番大切な人。その人を見つける為に、エメルは今日ここに来ました」
会場から去りかけた影は、出口のそばで思わず立ち止まってしまった。
「どこで出会ったの? どんな人だったの?」
「うん、ちょっと長いお話になるけど……みんな、聞いてもらえるかな」
会場から起こった三万人の温かい拍手が、彼女の願いに優しく応えた。
それだけで、エメルはもう涙が出そうだった。
「ありがとう……。彼と出会ったのは今から二年前になります。当時の私はイギリスでイジメに遭って学校にも行けませんでした。そのうちママが病気で亡くなって、毎日泣いてばかりいました。町の小さな公園にあったトイレの陰で一人でこっそり歌うことが、たったひとつの楽しみだったの。そんなある日、歌っているところをクラスメートに見つかって悪口を言われて泣いていたその時……」
(その喧嘩、オレ様が買った!)
ズボンのベルトを締めながらトイレから飛び出してきたデブの大男。彼が自分の運命を変えてくれた。
泣き虫の自分を叱り、励まし、夢を持たせ、自信を植え付け、背中を押し、しまいにはとうとう奇跡のような夢をかなえてくれた。
さいたまスーパーアリーナの観客席からは物音一つしない。
詰め掛けた三万人近い観客は、追慕の歌姫が語る探し人、名もないデブオタの物語を息を呑んで聞き入った。
「デイブはいつも、どこか寂しそうだった。本当の名前も自分の正体も明かしてくれなかった。そして自分の正体を知られた時、いなくなってしまったの。きっと自分の役目はもう終わったからって……ねえ、誰かの為に夢を叶えてくれたのに、そんな人は幸せになっちゃいけないの? ずっと日陰にいた人は陽だまりに出てきてはいけないの? ……違う! そんなの絶対違う!」
エメルは激しくかぶりを振ると、観客席を睨みつけて叫んだ。
「エメルはそんなの絶対に認めない! 今度は私が、光のさす場所へ彼を連れ出してみせる!」
ゲームの中でエメルと出会ったことのあるファン達は愕然とした。
ようやく知ったのだ。
ゲーム画面の中で、彼女が何故あれほど人を思いやる歌姫を願ったのか。何故あれほど人を蔑む歌姫を憎んだのか……
瞳にいっぱい涙をためて、追慕の歌姫は観客へ呼び掛ける。
「探している人がいるの……」
ゲームの中と同じように、大切な人を探し続ける呼び声。
「アキバではどこにでもいる人かも知れない。だけど私には世界にただ一人、かけがえのない人なの。大好きなの……愛してるの……お願いです、エメルと一緒に……あの人を探して下さい」
さいたまスーパーアリーナは、まるで無人の会場になったように、静まり返った。
そしてその静寂を破り、突然立ち上がって叫んだ男がいた。
「任せろ、俺が探してやる!」
言い出したその男を皮切りに、「俺もだ!」「いや、俺が見つけてやる!」「私に任せて!」と、次々と観客達が立ち上がった。頼もしい声が幾つも幾つも上がる。
そして、それはやがて割れんばかりの拍手と歓声になり、エメルへの答えとなった。
「ありがとう……」
顔を覆ってそのまま泣き崩れそうになったエメルを、周囲から駆け寄ったアイドル達が慌てて支える。
「よかったね!」
「凄いよ、三万人も一緒に探してくれる人がいるよ。きっとすぐ見つかるよ!」
「まだ泣いちゃだめよ。さぁ、もうひと踏ん張り!」
彼女達に励まされ、涙を拭ってエメルは続けた。
「このイベントが終わったら出口で私がみんなにひとりひとり手書きのサイン入りの手配書を渡します。エメルから握手付きのお土産だよ。光速で流すような握手なんてしないからね。……みんな私の大切な友達だもの」
エメルは凛として背を正した。
序奏が流れ始める。
「じゃあ、最後に私からみんなへのお礼の気持ちも込めて歌います。この曲名と同じ気持ちだと告げた時、彼は気づいてくれなかったの。今度こそ届くといいな」
エメルは透き通るような声で「Can't take my eyes off you」(君の瞳に恋してる)を歌い始めた。
「You're just too good to be true. Can't take my eyes off of you. You'd be like heaven to touch.I wanna hold you so much」
(あなたみたいな人がいるなんて夢のよう。見つめずにいられないの。触れただけで天にも昇る気持ちだわ。ずっとずっと抱きしめていたいの)
「At long last love has arrived. And I thank God I'm alive. You're just to good to be true. Can't take my eyes off of you」
(わたしにやっと巡って来たかけがえない愛。神様ありがとう。生きててよかったわ。あなたみたいな人がいるなんて夢のよう。もう目を逸らすそらすことなんか出来ないわ)
ゆるやかな風に身を任せるように踊り、心を込めて歌いながら、エメルは観客席を見まわした。
一人一人にうなずきかけ、微笑みかける。
観客席から手拍子が起こる。エメルは思い切りウィンクし、キスを投げた。
わあっと歓声が上がる。
「But if you feel like I feel. Please let me know that it's real. You're just to good to be true. And my baby. Can't take my eyes off of you」
(でも、私が感じてることをあなたも感じてるなら、ねえ教えて、これが夢なんかじゃないって。ああ、あなたみたいな人がいるなんて夢のよう。目を逸らすそらすことが出来ないわ……)
アイドル達がコーラスに加わり始める。
エメルは声を高めながらひとりひとり観客達へ見つめ、心の中で「ありがとう」と呼びかけた。
「I love you baby. And if it's quite all right. I need you baby. To warm the lonely night. I love you baby. Trust in me when I say」
(あなたが心から好き、ずっとずっと一緒にいたいの。寂しい夜には温めてほしいの。本当に大好きなのよ。ねえ、私の言葉を信じて……)
そこまで歌ったときだった。
……ふいにエメルの歌声が途切れた。
観客達が「えっ?」と、驚いたようにステージを注視した。
もしかして歌詞を忘れてしまったのかと彼等は思ったが、そうではなかった。
涙で歌えなくなったのでもなかった。
「あ……あ……」
ターコイズグリーンの瞳が、これ以上出来ないほど大きく見開かれていた。
何かアクシデントか、と察して曲がフェイドアウトする。
観客達がざわめき、凍りついたようなエメルの視線の先を見た。
皆が曲に合わせて笑顔で手を上げていた中、ただひとり、うなだれて人々の間に隠れるように佇んでいる男がいる。
彼女の瞳はそれをとらえたのだ。
それは、それこそは……
「デェェェェェェェェェェェェェイブ!」
悲鳴にも似た絶叫と共に歌姫は走り出した。
身のこなしも軽くステージからひらりと飛び降りる。客席を隔てる鉄柵も、その跳躍力で柵の上に飛びついてそのままよじ登って無理やり乗り越えた。
一体どうしたのかと驚愕する観客達が見守る中、柵から飛び降りたエメルはよろめいて転んだが、バネ仕掛けのように飛び起きて走った。
愛しい人のもとへ。
「デェェェェェェェェェェェェェイブ!」
心からの叫びがほとばしる。
ステージを照らしていたスポットライトのひとつが、ドレスを翻し観客席の通路を駆け抜けてゆく歌姫を慌てて追いかけた。
やがて、エメルは息を弾ませてそこへ辿り着いた。
まるで怯えているように、エメルの眼の前で一人の男が身体を震わせている。
デブオタだった。
夢ではないかと瞳を潤ませてその巨体に近づくと懐かしい匂いがした。
日本のオタク特有の埃っぽい匂い。エメルの大好きな匂い……
「オレ……オレ……」
自分の正体の恥ずかしさに声もなく俯いたデブオタの胸へ、エメルは飛び込んでいった。
「好きよ! デイブ! 愛してる!」
抱きついたエメルはそのまま彼の唇を奪った。彼の唇から頬に、瞼に、耳に、額に雨のようにキスを降らせる。そのまま子供のように泣き出した。
虚をつかれ、その光景をただポカンとして見ていた観客達のうち、一人が気がついて叫んだ。
「デブオタがいたぞーー!」
一瞬の間があり、それからやにわに人々は爆発した!
おおおっ! とも、うわあっ! ともつかない声にもならない叫びが、会場をどよもした。
誰が何を叫んでいるのかもわからぬような喧騒の中で、誰も彼もが喉をからし、声の限りに喚いていた。
そんな叫び声の嵐すら耳にも入らないように、エメルはデブオタに縋りついたまま離れようとしない。
「I love you... I love you...」
泣きながら、ただひたすら呟き続けている。
エメルを追って、一二人のアイドル達がステージから降りて駆け寄ってきた。
「いたよ! エメルの王子様だよーっ!」
「エメル、おめでとう! よかったわね……」
「ははは……三万枚の手配書が無駄になったよ! でもよかった……」
「爆発しろ! そのまま爆発しちゃえ、もう!」
二人に縋り付いてこちらも泣きだした一二人は、嬉しさにぴょんぴょんジャンプしたりクルクルと踊り出したり、飛んだり撥ねたり、はしゃいで大騒ぎした。
華やかな衣装を着た一二人のアイドル達が輪を作って喜ぶ様子は、まるで二人を囲んで花の妖精が踊っているようにも見える。
誰もが嬉しさに泣き、笑い、叫んでいた。
やがて、彼女達は俯いたまま泣いているデブオタと彼に抱きついたまま離れないエメルを押したり引っ張ったりしながら、少しづつ動かし始めた。
スポットライトに照らされたステージの上へ。
光さす場所へ……
会場の人々は興奮の余り、もう一人残らず立ち上がっていた。
会場にこだましていた叫び声は、いつしか拍手へと変わってゆく。
見上げれば、澄んだ冬の夜空に無数の星々が輝いていた。
だが、気がついて仰ぎ見る者はまだ誰もいない。
人々は名もなきデブオタと追慕という名の歌姫へ、祝福の拍手をいつまでもいつまでも贈り続けるのだった……
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追記:2014/09/03
kgさんから超絶カッコイイ素敵なイラスト//
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