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デブオタと追慕という名の歌姫 作者:ニセ@梶原康弘
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第8話  追慕という名の歌姫

イギリスの春は、色とりどりの花が咲き乱れる素晴らしい季節である。
陽光の余り差さぬ陰鬱な冬から温かい日差しの季節が巡って来ると、その喜びを体現するように様々な花々が庭園や街路樹、果ては階段の端や石畳の隙間から咲き始め、人々の心を浮き立たせてくれるのだ。
日本同様、桜もイギリスでは最もポピュラーな春の花として親しまれている。
しかし、日本の桜のようにすぐ散ってしまわず比較的長い間咲き続け、人々の眼を楽しませてくれる。
そして桜だけではない。スイセン、マグノリア、チューリップ……緑あるところに目を向ければ必ず何がしかの花が微笑みかける。
日本で云う花見のようなイベントこそないが、天気が良くて温かい日になると人々の足は自然と花々のある場所に憩いを求めて外へと向かってゆく。
イギリスに数多く点在している公園や庭園はこの時期、一年で最も華やかでたくさんの人々の交歓で賑わうのだ。

その小さな公園でも、芝生で花々を眺めながらランチを食べる家族連れや、木陰で昼寝したり花壇を見て回るカップルなどが、春の彩を思い思いに楽しんでいた。
ただ、公園のささやかな一角にだけ、人々は遠慮してほとんど足を踏み入れない。
レンガ造りのトイレの傍。
そこには、一年前から一人の少女が日本人とおぼしき巨漢に指導されて歌のレッスンをしていることを公園の常連達は知っていた。
ラジカセの音楽やタブレットPCの映像に合わせて、彼女は熱心に歌とダンスの練習にいそしんでいる。
その顔はいつも嬉しそうで、覗き見る人は微笑ましく見守っていた。
賢明な彼等は誰ともなく示し合せ、決して口外して広めたりしなかった。そうして歌姫を目指す少女の小さな陽だまりを守るようになった。
散歩などでその場所に差し掛かると、植え込みの陰から漏れ聴こえる彼女の歌に耳を傾ける。
だが決して声を掛けるようなことはしない。ひととき楽しんだら気が付かれないように、静かに立ち去る。それが暗黙のルールとエチケットになっていた。
最初の頃、彼女の歌はお世辞にも上手とは言えなかった。しかし少しづつ上達し、最近では立ち寄る彼等が長く聞き惚れるまでになっていた。

ところが、歌うのに一番ふさわしい季節、香しい春を迎えたというのに、その歌声はここしばらく絶え、聴こえてこない。

心配して植え込みの陰からそっと覗くと、あの日本人の姿は見当たらなかった。少女はひとり、ベンチに腰掛けて泣いている。ひっそりと泣いていた。
彼女が悲しんでいる理由は容易に察せられる。公園の常連達は皆、心を痛め、彼女をかわいそうに思った。
だが、だからといって傍観者がお節介を焼いて何になるだろう。かえって彼女を傷付けるだけなのだ。
だから彼等は今までと同じように何もせず、だが誰にも広めずにそっと見守り続けた。
彼等の、それがせめてもの心遣いだった。
彼女の許へあの日本人が早く戻って来るように……そう願いながら。


**  **  **  **  **  **


デブオタと出会ったのは、ちょうど一年前の今頃だった。

公園のベンチに腰掛けて春風に吹かれながらエメルは思い出す。
思い出しては恋しくて泣いた。
いじめられている自分の前に突然現れ、他人の喧嘩を買って出た男。ハンサムとは程遠いが情に厚い熱血漢。最初は彼が怖くて、話かけられただけでベソをかいたほどだった。
だが、彼はそんなみじめな自分を叱り、夢を持たせ、励まし、教え、最後は歌姫として最高の舞台にまで立たせてくれた。

(デイブ、もう来てくれないの……?)

無理やり引き裂かれたあの日から、彼はこの公園に現れない。
まだ、このロンドン近郊のどこかにいるのだろうか。それとも、もう夢をかなえてあげたからと帰国してしまったのだろうか。
何もわからなかった。

(会いたい……彼に会いたい)

探したかったが、その術が何もなかった。
彼がオーディションの申込用紙に書いた名前、電話番号、住所、メールアドレス。それは何もかもが偽りだったのである。
だが、努力によって自分の身についた技能、そしてイギリス最大オーディションで歌姫として光を浴びた事実は紛れもなく本物だった。
彼は自分を偽ったが、エメルの夢を偽りになどしなかった。それどころか、途方もない夢をかなえてくれたのだ。
あれから何日経っただろう。
オーディションがあれからどうなったのか、エメルは知らなかった。デブオタのささいな虚偽を責めた最終審査の結果など知りたくもない。どうでもよかった。
日々は過ぎてゆく。世間では毎日色んな出来事が起きているのだ。
人々は社会の中でそれぞれのたつきを立て、その繁忙の中で昨日の出来事は今日より遠く、一昨日のことは更に遠くへと押しやられてゆく。
日々が過ぎるほど彼とは確実に離れてしまう。エメルにはそれがあまりにも辛く、切なかった。

(闇雲にでもいい、探しに出かけたい……)

そんな衝動にも駆られたが、その間に彼がここに訪れたら……そう思うとエメルはここから離れられなかった。
待ち続けている彼女を慰めるように温かい風が彼女の頬を撫で、優しい花の香りがして、柔らかい陽光が彼女に降り注ぐ。
眼にする何もかも、思い出す何もかもが彼に繋がっていた。それまで、毎日のように彼と一緒だったのだから。
ベンチで一緒に食べたサンドイッチ。ならず者に絡まれた時彼が現れたオークの木。彼が不器用に匂いを嗅いだスノードロップの花……風の音を聞けばその中にあの豪快な笑い声を聞いた気がして周囲を探し回ったことも一度や二度ではない。
その度に失望して泣いた。
泣いても何にもならない。そう思っても、エメルには慰めてくれる友達も相談出来る知り合いもいなかった。
彼女にはデブオタしかいなかったのだ。彼がエメルの心のすべてだった。
もうずっと歌のレッスンもしていない。彼が知ったらどんなに怒るだろう。
だが歌う気力すら沸かず、抜け殻のようになったエメルは泣きながら、ただひたすら彼を待ち続けた。


その日。
泣き疲れ、虚ろな目で花々を見つめていたエメルは、ふと思った。
もしかしたら、自分が泣き虫に戻ったから彼は出てこないのかも知れない。
もしかしたら、彼は近くに隠れていて、自分がまた歌の練習を始めるのをずっと待っているのかも知れない。
もし、そうだとしたら……

(お、やっとやる気になったな。さあ、来年のオーディションに向けてガンガン鍛えてやるからな、ガーハハハハ!)

そんな豪快な笑いと共に彼が颯爽と現れたらどんなに嬉しいだろう。考えただけで、心が躍った。色褪せて見えるこの世界の何もかもが、いっぺんに輝きだしそうだった。
夢遊病者のようにふらふらと立ち上がったエメルは、震える声で「トゥモロー」を歌い始めた。

「The sun’ll come out tomorrow. Bet your bottom dollar that tomorrow…」
(そうよ、明日になれば太陽は輝く。明日のことを考える。それだけできっと悲しい気持ちも晴れてゆくわ)
「There’ll be sun. Just thinking about tomorrow. Clears away the cobwebs and the sorrow. Till there’s none」
(明日、また太陽が昇るのだと、そう考えれば蜘蛛の巣のように張った悲しみも消えてなくなるの、きっと)

胸に刺すような痛みを感じた。
明日になればきっと彼は現れる。何度そう思って、何度失望し、何度泣いただろう……

「When I’m stuck with a day. That’s gray and lonely. I just stick out my chin. And grin and say, ohh」
(憂うつで寂しい日は顔を上げ、そして笑って、こう言うわ)
「The sun’ll come out tomorrow. So you gotta hang on till tomorrow. Come what may…!」
(そうよ、明日になれば太陽は輝く。だからその日を精一杯頑張るの、何が起ころうとも)

数日前に万人を魅了したとは思えない、か細い歌声は悲しみに震えていた。
涙混じりで声も裏返ったが構わず歌った。どうせ自分以外聴く人は誰もいないのだ。

「Tomorrow! Tomorrow! I love yah, tomorrow! You’re always a day away!」
(明日、明日、大好きな明日。貴方はいつだって今日の先に待ってくれる)

エメルの歌声は次第に力を失い、ついには萎むように途切れてしまった。
アニーは何て強い娘だったんだろう、とエメルは思った。
どんなに今日が辛くても、明日にはきっといいことが待っていると希望を持っていたのだから。
でも……

――私、もう歌えない。今日の先にデイブがいないなら……

跪いて嗚咽を漏らし始めた彼女の耳に、芝生を踏んで近づいてくる足音が聞こえて来た。
だけど、それはエメルが知っている足音、エメルが待ち焦がれている彼の足音ではなかった。
誰でもいい、私のことなんか放っておいて……そう思った彼女の傍に膝をついて、足音の主は礼儀正しく話し掛けた。

「……こんにちは。君がエメル・カバシだね」

冷やかしでもなく、ただの慰めでもない。温かみと誠実さを感じる声色だったがエメルは顔も上げない。

「お初にお目にかかる。私は、エドワード・ホロックス。取締役としてリバティーヴェル・レコードの音楽事業部を統括している」
「……」

リバティーヴェル・レコードならエメルも知っていた。イギリスでも有数のレコード会社だ。
そして聞き覚えだけではなく、そのレーベル名には何か記憶に引っかかるものがあった。そこにオーディションを受けた記憶はない。きっと、もっと別の何か……
顔をあげたエメルは、落ち着いた表情を浮かべて覗き込んでいる男を見た。
長身の男だった。アルマーニのスーツを見事に着こなし、精悍な顔に丸眼鏡を掛けている。その顔はどこかで見たような気がした。
だが、どこでだったか、エメルはまだ思い出せなかった。
オーディションを受けた記憶がないレーベルの重役が初めまして、と言っているのに自分がどこかおぼろげに覚えているのは何故だろう……
首を傾げたエメルに、男は陰のある笑みを浮かべて言った。

「君とは初めてになるが、君のプロデューサーとは一度だけ会ったことがある。昨年のクリスマス前にね」

そうだ、思い出した!
男を見るエメルの眼が、大きく見開かれた。
あの日、デブオタが直接売り込みに訪れ、必死に話しかけていた男。デブオタの懇願を冷ややかに振り払い、冷たい冬の雨の中に彼を放り出した……
その男、エドワード・ホロックスは「まず、私がここに来た経緯から話そう」と話し始めた。

「二一八」
「え?」
「あのオーディション後、君がここで泣いている間に、君との契約を求めて殺到したオファーの数だ。まだ増えるだろう。プロデューサーの連絡先が嘘だったから、皆オーディションの運営サイドの方へ問い合わせがやって来た。中にはアメリカの有名な映画会社、フランスのファッションモデルの会社もあった。金なら幾らでも出すから君を紹介しろと海外からやって来たエージェントもいたそうだ。誰もが競ってエメル・カバシという歌姫を欲している。契約金の提示額たるや、恐ろしいことになっているよ」

呆気に取られているエメルに、彼は続ける。

「君は知らないだろうがレコード会社のエージェント、パパラッチ、スカウトマン、たくさんの人が今も血眼になって君を探し回っている。今までよく見つからなかったね」
「……」

黙って俯いたエメルの顔は美しくはかなげで、気品があった。
それを見たエドワード・ホロックスは、公園の人々が誰も口外せずにこの少女を見守った気持ちが分かった気がした。

「私がここに来れたのは、君をよく知っている人が私に相談してくれたからだ。そして相談した理由も私と同じだった」

後ろを向いた彼が頷くと、マネージャーのヴィヴィアンに付き添われて一人の少女がおずおずと現われた。

「リアン……」

リアンゼルはこれ以上ないくらい真っ青な顔をしていた。
恨むようなエメルの眼差しに出会うと彼女は怯えて立ち止まり、それ以上進めなくなった。それでも傍らのマネージャーに励まされ、エメルの傍まで歩み寄る。
一年前いじめっ子といじめられっ子だった二人が、そのまま逆転したようだった。
かつてウジ虫と蔑み、気の向くままイジメていたエメルからの刺すような視線に晒されながら、リアンゼルは懸命に言葉を絞り出した。

「私、ブリティッシュ・アルティメット・シンガーに優勝したの」
「……」
「それで、プロ歌手としてディファイアント・プロダクションと契約したわ。ヴィヴィアンと一緒に……」

そんなことなどエメルには何の興味もなかった。

「だけど、私はエメルに勝ったと思っていない」

エメルは視線を落とした。彼女が自分をどう思おうがどうでも良かったのだ。
だが、リアンゼルはそこまで言うと一枚の紙を取り出し「だから、貴女もこれを……」と、震える手で差し出した。

「貴女もプロ歌手になるの。もう一度私と戦うのよ」

差し出されたのはリバティーヴェル・レコードの契約書だった。
歌手を夢見る少女なら垂涎ものの、スターへの切符である。契約金は途方もない桁数になっていた。
契約者の氏名欄には既に名前が記されている。後はエメル自身がサインをすればいいだけになっていた。
それを見たエメルの胸は、切ない思いに痛んだ。
デブオタがここにいて、これを見たならどんなに喜んでくれるだろう。
きっと飛び上がって野獣の咆哮にも似た雄叫びを上げるに違いない。嬉しさのあまり、エメルの手を取って踊りだすだろう。フランキー・マニングのエアステップみたいにエメルを空中に放り投げて踊るかも知れない。エメルも大喜びで放り投げられただろう。そして一緒に踊って喜びを分かち合っただろう。

だけど、そのデブオタはもういない。

エメルはそっぽを向いた。

「いらない」

そっけなく断られてリアンゼルはカッとなった。

「歌手になれるのよ! スターにさせるってアイツは言ったのに約束を破るの?」
「うるさいわね、放っといてよ!」
「歌いなさいよ、もう一度!」
「歌手になったって! 歌ったって! デイブは……」

言い募るリアンゼルへ涙声で反撥したエメルは声を詰まらせ、両手で顔を覆った。


――あの人はいなくなった。どんなに待っても帰ってこない
――こんなに好きなのに
――私には、あの人しかいないのに……


とめどない彼女の悲しみが嗚咽となって指の隙間から漏れてくる。
慟哭するエメルの姿にリアンゼルは俯き、自責の念に胸を締め付けられた。

(私のせいで……)

思わず涙にかられたが彼女は流されなかった。顔をキッと引き締める。慰めの言葉を掛ける為だけにここへ来たのではないのだ。
リアンゼルは叫んだ。

「歌いなさい! 見つけたかったら」

驚いてエメルが顔を上げるとリアンゼルは睨みつけながら叩きつけるように続けた。

「メソメソ泣いてそれで何になるっていうのよ、泣き虫エメル! あれほどの歌が歌えるならきっと探し出せるわ。彼を見つけたいなら……歌いなさい!」

リアンやめなさい、とマネージャーのヴィヴィアンが慌てて叱ったが、エメルの傍らで片膝をついていたエドワード・ホロックスは「いや、彼女の言う通りだ」と落ち着いた声で遮った。

「君の歌で彼を探そう。私がここに来たのは、その手助けをするためだ」

エメルに向かって、再びホロックスは話し始めた。語りかけるような口調で。

「彼と出会った日の出来事を正確に話そう。その日、彼は君を売り込もうとして会社にやってきた。アポイントを許されなかった彼は会社の前で私をつかまえて直接話しかけたんだ。だが私は……」

さすがに口籠もったが、イギリスでもトップクラスの音楽ビジネスマンは、誠実さを示す証として真実を語る以上の術を持たなかった。

「彼を無礼な奴、と雨の中に放り出した。無名の歌手などごまんといる。いちいち取り合っていられるかと侮辱した。だが彼は言った。エメルは違う、エメルはそんな歌手ではない、見ていろ、と。泥だらけになって叫んだ」

エメルの脳裏に、雨に打たれて叫んだデブオタの言葉が蘇える。思い出しただけで涙が出そうになった。

「そして、その通りだった」

エメルはハッとなった。
……それは、彼女が初めて聞いた、他人がデブオタを肯定した言葉だった。
それもただの肯定ではない。音楽を生業とする事業の要職に携わる男なのだ。軽々しく同業者を賛辞など出来ない男がデブオタを認めたのだ。

「君はあの日、彼の為に自分が素晴らしい歌手であることを証明してのけた。彼が立派なプロデューサーであることも。私は喜んで間違いを認める。そしてあの日の非礼を彼に謝罪したい。そのために、私の会社と契約して欲しいのだよ。彼を見つけるために」

リアンゼルも震える声で付け加えた。

「あの日アイツとぶつかった時、背後にリバティーヴェル・レコードのビルが見えたわ。貴女をここからデビューさせたかったんだって、私思い出したの。だから、リバティーヴェルを尋ねて、貴方がここにいるって……」

それは、エメルへ罪滅ぼししたいと必死に考えたリアンゼルの働きかけだった。

「私も認める。優勝したけれど本当に勝ったのは貴女だって。私も彼に謝りたい。意地を張って、侮辱し続けた。そればかりかあんなことまでしてしまった。余計なお節介でも何でもしてあげたいの。だからエメル、どうか、どうか私の手を取って……」

涙で声の途切れたリアンゼルを弁護するように、ヴィヴィアンが言い添えた。

「リアンは授賞式の席で全てを告白したの。今までの貴女への仕打ち、それを庇った彼との対立、ハルモトヤスキへ密告しようとしたこと。何もかも包み隠さず話して謝罪したわ」

エドワード・ホロックスが付け加えた。

「会場から拍手が起きるほど彼女は正直だった。それに比べ、彼を理由に君の失格を頑として取り下げないヤスキ・ハルモトは会場の人々から軽蔑されていた」
「……」

エメルは、まるで知らない人になってしまったような眼で、かつてのいじめっ子を見た。
敗北を認めたり人に頭を下げるくらいなら死んだほうがマシというような傲慢な歌姫。あのリアンゼルが……

「彼女を許してあげて」

ヴィヴィアンが叫ぶようにエメルへ言った。
リアンゼルは唇を震わせ、下を向いている。まるで、裁判で判決を待つ被告のような態度だった。
エメルは今の彼女の気持ちをよく知っていた。過去の自分そのものだったからだ。
いつもあんな風におどおどと怯えていた。それでもさんざんいじめ抜かれ泣いていた。
思い出すエメルの中でふと、憎しみが顔をもたげた。
だが「デイブがここにいたらどうするだろう」と考えたとき……

――自分をいじめていたリアンゼルにもかわいそうって言えた、そんな気持ちをずっと忘れないでいてくれ

彼ならきっと許すだろう。
そう思ったとき、エメルの胸の中が甘く疼いた。
弱い人を思いやる優しい心を持った強い男……そんな彼だからこそ惹かれずにいられなかった。そんな彼だからこそ好きにならずにいられなかった。
心の中に沸きかけた醜い憎悪は、彼の気持ちに寄り添いたい一途な恋慕の前に消え去ってゆく。
エメルはリアンゼルへ向かって、黙って頷いた。

「……」

リアンゼルが震える手でもう一度契約書を差し出した。
エメルは黙って受け取った。
頬をぬらす涙が顎から滴となって、契約書の条項を記した紙面の上に幾つも落ちてゆく。
彼の屈辱は晴らされたのだ。
彼はそれを知らないまま、どこかへ去ってしまったけれど……
ホロックスが差し出したペンを受け取って自分の名前を書き記すとエメルは、契約書をそっと抱きしめた。
彼女にとってそれはスターへの切符というよりも、彼を探す旅立ちのパスポートのように見えた。
一年前、この小さな公園で彼は私を見つけてくれた。
トイレの傍で人目から隠れ、蚊の鳴くような声でグリーンスリーブスを歌っていた私を。
だから今度は私が、この空の下のどこかにいる彼を……

「エメル、あんな酷いことをした私を許してくれてありがとう……」

エメルの肩に縋りついてリアンゼルは嗚咽を漏らした。そのリアンゼルの背中でヴィヴィアンも「リアン、良かったわね……」と泣き出した。
ホロックスはそんな彼女達の肩を抱きかかえるようにして、立ち上がらせた。
エメルの手から契約書を優しく取り上げ、革製の書類ケースへ丁寧にしまった。
そして、力強く告げたのだった。

「ありがとう。これからは、ここにいる皆が君の力になる」


**  **  **  **  **  **


「本当の名前、教えてくれなかった?」
「……」
「住所とか知らなかった? どこのホテルに泊まってたとか」
「……」
「じゃあ彼からメールとか来なかった? メールアドレスは分からない?」
「……」

尋ねられる質問のどれにもエメルは力なく首を振り、リアンゼルはため息をついた。

「……何の手がかりもなしか」
「デイブは、自分のことを聞かれるのが好きじゃなさそうだったから」

蚊の鳴くような声で答えたエメルは「彼のこと、もっと聞いておけばよかった」と悔やんだ。
涙でもう目が潤み始めている。

「泣くんじゃないの。メソメソして見つかる訳じゃないでしょ」

リアンゼルは自分が本来なら偉そうなことなど言えない立場だと分かっていた。
だが、ともすれば涙が先走りそうになるエメルを励ます為にも自分が敢えて狂言回し役になろうと密かに決めていた。
わざわざ持ち込んだタブロイド紙を「ほら見てよ」と、広げて見せる。

「“怒りに燃えた歌姫の形相に冷酷な日本人プロデューサーは顔面蒼白。伝説の劇唱はここから始まった!”……これ書いた人、今のエメルを見たらさぞかしがっかりするでしょうね」
「リアン、勝手なこと言わないの」

ヴィヴィアンに叱られて舌を出したリアンゼルは、照れくさそうにエメルに笑ってみせた。エメルもぎこちなく笑う。
悲しみは拭えないが、それでも少し嬉しくなった。
多少は演技も入っているのだろうが、一年前自分を容赦なく虐めてばかりだった彼女が今は自分を思いやり、少しでも気持ちを引き立たせようとしてくれている。

「だってエメルがベソかいてたら話が進まないじゃない……」

両手の人差し指をつつき合ってリアンゼルが口をへの字に曲げると、エドワード・ホロックスは苦笑した。
親に叱られて言い訳する子供みたいな真似をしているが、この少女は現在イギリスでアルティメットの名を冠する歌姫なのだ。

「焦ってもいい知恵は出ないさ。彼女の話は一通り聞いたし、とりあえずお茶にしよう」
そう言うとマホガニーのテーブルの上を顎で示した。先ほど運び込まれた人数分の紅茶が、トレイの上で上品な香りを放っている。
ここはロンドン郊外にあるリバティーヴェル・レコードの支社ビルの一室。
エメルが契約したニュースを聞きつけたマスコミが先日から本社の玄関に群がって大騒ぎしているので、彼等は急遽場所を変え、こちらに集まって話し合っているのだった。

「私の方も会社を出るだけで大変だったわ」

紅茶を一口飲んだリアンゼルが、うんざりしたように言った。

「ディファイアント・プロダクションの表玄関に写真を撮ろうって待ち構えてるパパラッチが何人もいたのよ。カッとなったメイナード社長が警備員を押しのけて怒鳴りつけて、そのまま揉み合いになっちゃった。その間にヴィヴィアンと何とかタクシーに乗り込んだけど……」
「リアン、すっかり有名人になったのね」

エメルが目を丸くしていると、ホロックスが「いや、人ごとみたいな顔をしてるんじゃない。君も自分を心配しろ」と、たしなめた。

「来社するときはタクシーを使いなさい。今日みたいに本社へヨレヨレのジャージ姿でノコノコ徒歩でやって来るなんて無警戒過ぎる。裏口でウロウロしてるところを警備員に見つけられなかったらパパラッチに拉致されたかも知れないんだぞ」
「だって、表玄関は有名な歌手が来るとかで大騒ぎになってたから邪魔しちゃいけないと思って……」
「君がその『有名な歌手』なんだよ、エメル」

どうやらこの少女は自分が今イギリスで途轍もない人気を誇る歌姫だということがさっぱり分かっていないらしい、と理解したホロックスは、ヤレヤレと言わんばかりに首を振ると「会社からハイヤーを差し回すから明日からそれに乗りなさい。いいね」と締めくくった。

「は、はい」
「ま、お小言はこれくらいにしよう。アジア系の君にと思ってイーストインディアカンパニーの紅茶を用意してもらったんだ。どうかな」

歴史的にも有名な東インド会社の紅茶ブランドのことなどエメルは皆目わからなかったが、ティーカップのお茶を啜ると「初めて飲んだけど美味しいです」と微笑んだ。

「気に入ってもらえてよかった。じゃあ、お茶を飲みながらざっくばらんに話そう」

くだけた様子で手を振るとホロックスは「それで、彼のことだが」と始めた。

「これは確信に近い推測だが、彼はもうイギリスにはいない」

笑顔が消え、エメルは下を向いた。膝の上に置かれた手がキュッと握りしめられる。

「おそらく国外退去で日本へ帰国している」

ヴィヴィアンがつと立ち上がって、俯いたエメルを慰めるように肩に手を置いた。

「当初の滞在期間を大きく逸脱して不法在留になっていたはずだ。所持金も尽きていただろう」

自分のためにそこまで……
エメルの脳裏に、無一文の身で飛行機の窓から去りゆくイギリスの地を見つめるデブオタの孤影が思い浮かび、胸が痛んだ。

「さっきの君の話を聞くにつけ、凄い日本人だね。尊敬に値するよ。何も持たぬ身で歌姫を一人、見事に育て上げたんだから」

ため息をつくと、ホロックスは「さて」と、続けた。

「エメルの話を聞いてハッキリ分かったことが幾つかある。彼の正体が日本から来た旅行者だったということ、サブカルチャーの愛好者でダンスも踊れるほどアイドル歌手のコアなファンだったということだ。もっともこういった日本人はアキハバラのどこにでもいるそうだが」
「アイツの容姿は映像に残っているから、それを手掛かりに私立探偵に依頼する方法はどうかしら」

思いついたリアンゼルが口を出したが、ホロックスは首を振った。

「妥当な手段と云いたいが、それにはリスクがある。昨今の探偵業はパパラッチやマスコミに繋がっているケースが多いんだ。外部に頼むと情報が洩れる可能性がある。しかも伝説になった歌姫の想い人ともなれば、漏れたが最後ハイエナみたいな奴等が群がって来る」
「……かえって危険ね」
「難しいが、我々が探偵の真似事をして彼を探すしかない」
「ピカデリーにある日本大使館に彼のことを聞けないかしら」

ヴィヴィアンが手を上げたが、ホロックスはこれにも「それも残念だが」と首を振った。

「渡航者のプライバシーだ。教えてはくれまい」
「リバティーヴェル・レコードから尋ねても駄目かしら?」
「会社の肩書を出しても答えは同じさ。日本の役所は融通が利かないことで有名だからね。政治的な圧力をかける方法もあるが、後々ややこしいことになりかねない」
「困ったわね。いっそ彼を探してますってエメルに日本で歌ってもらおうかしら」
「ミズ・ラーズリー、そう短絡的に考えるものじゃないよ。エメルが日本でも既に有名ならあり得なくもないが」

ホロックスにたしなめられヴィヴィアンは肩をすくめたが、ティーカップを唇につけた彼女はふと、テーブルの上に目をやって「ん?」と、動作を止めた。
そこには、さっきリアンゼルが持ち込んだタブロイド紙が置かれている。

「……」
「ミズ・ラーズリー?」

彼女は厳しい顔で何やら考え始めた。
何か思いついたらしいと察したホロックスが目配せし、エメルとリアンゼルは頷いて口を閉ざすと静かに待った。
ややあって、ヴィヴィアンは冷めた紅茶を静かに飲み干し、エメル達を見回した。

「大きな手がかりを見落としていたわ」
「手がかり?」
「ええ。私たち、とても名探偵にはなれませんわね」

そう言って、ふふっと笑ったヴィヴィアンは一転、真剣な眼差しをホロックスへ向けた。

「うまくいけば彼の探索とエメルのデビュー、それにリバティーヴェルのビジネスチャンスまで絡んだ話にまで繋げられるかも知れません」
「……」

ホロックスはその言葉を受けて温和な表情を厳しいもの改めた。ビジネスの正念場には、彼はいつもこのような引き締まった顔つきで挑むのだろう。

「ミズ・ラーズリー、聞かせてくれ。謹んで拝聴しよう」
「ヤスキ・ハルモト」

まるで殺人犯の名前でも告げるようにヴィヴィアンは答えた。

「彼が成り澄ましていた日本人のプロデューサーよ」

ホロックスはその言葉を聞いただけで合点がいったらしく「そうか!」と手を打ったが、どういうことか理解出来ないエメルとリアンゼルはキョトンとして互いに顔を見合わせた。

「いきなり名前だけ出されてもピンと来る訳ないだろうね。説明しよう」

ホロックスは、まるで謎解きを解説する探偵のような顔でエメル達に話し始めた。

「彼はハルモトが監修したアイドル育成ゲームのアカウントを持っていた。そして、おそろしく経験を積んだプレイヤーだった。ゲームの機能を駆使してエメルに歌やダンスを教え込むくらいのね。やり込んでいたのだから思い入れも相当あったはずだ」

「違うかな?」と聞かれたエメルは首を振った。

「間違いないわ。デイブはキャラクターの“聖地巡礼”でロンドンまで来たって言ってたもの」
「やはりそうか」

エメルの証言を受け、ホロックスの説明は続く。

「エメルそっくりのキャラクターをCGソフトで作り、ゲームのエディットモードを使ってプロモーションビデオまで仕立てた程だ。ここに、帰国した彼との接点を見出す可能性がある」
「接点?」

思わず身を乗り出したエメルへニヤリと笑ったホロックスは指を立てた。

「ワトソン君。帰国した日本で、彼がそのゲームをまたプレイするとは思わないかね?」
「あ……」

エメルとリアンゼルは、思わず異口同音に声を上げた。

「じゃあゲーム会社に頼んでアカウントのプロフィールを調べてもらえれば!」
「いや、本名でもなければゲームアカウントから彼を割り出すのは難しいだろう」
「じゃあ……じゃあ、私がゲームからデイブに呼びかけて……!」
「落ち着け、エメル」

矢も盾もたまらない様子で言い立てるエメルを手で制して、ホロックスは諭した。

「そのゲームを監修したのがどんな男だったか、我々は知っているはずだ。ハルモトはデイブを理由に君の失格を取り消さなかった。名前を偽っただけで詐欺を犯した訳でもないのに」
「……」
「会場の人々から軽蔑されてもなお、彼は自分のヒエラルキーを脅かす僅かな瑕疵を許さなかった」

うなだれたデブオタを容赦なく糾弾した男の傲岸な顔が思い浮かぶ。
ギリッと歯を鳴らすと、リアンゼルが「エメル、気持ちは分かるけど落ち着いて」と、なだめた。

「リアンゼルの言うとおりだ。考えなしに関わると彼に足元をすくわれる」
「……」
「エメル、焦っちゃ駄目よ。彼を繋ぐ一本の線が切れてしまうわ」

見かねて口をはさんだヴィヴィアンに頷きこそしたが、エメルは逸る気持ちを抑えれられないように爪を噛んだ。
頭では分かっても、デブオタを一刻も早く見つけたい、会いたいと云う一心で居ても立っても居られないのだ。
数多くの歌手を手掛けた海千山千のホロックスは、そんな歌姫の昂りが手に取るように分かるのだろう。ゆっくり立ち上がってテーブルを回ると、エメルの肩を叩いて「大丈夫だ。我々に任せてくれ」と請け合った。

「私やミズ・ラーズリーは、こういった交渉のプロフェッショナルでもあるんだよ。それに」

恋慕に目の前が見えなくなりかかっているこの歌姫をどう諭そうか、とホロックスは一瞬険しい顔をしたが、すぐに思い至った。
身をかがめてエメルと同じ視線になると、静かに尋ねかける。

「エメル。彼は君と別れる時、最後に何と言ったか憶えているかい?」

エメルはハッとなった。
その一言は、苛立ったような様子のエメルにまるで魔法のような効果をもたらした。
怒らせた肩がみるみる下がる。焦慮に駆られていた表情は、落ち着いた、しかし悲しみの入り混じった表情へと移り変わった。
ホロックスは微笑んでエメルを見つめ、待っている。リアンゼルとヴィヴィアンも寄り添いあってエメルが答えるのを待った。
やがて、エメルは静かに口を開いた。

「――オレみたいな惨めな奴を歌で抱きしめる優しい歌姫になってくれ――」

言葉にしただけで、エメルの眼から涙がこぼれた。
忘れるはずがない。
何ひとつ報われることのなかった男が自分に託した願い。何の報酬も求めなかった彼がたったひとつだけ望んだもの。
託されたものの重さが、エメルを正気に返らせたのだった。

「君は彼との約束を守らなければならない。そうだろ?」

エメルはうなずいた。
この胸に抱いた彼の願いは絶対に汚せない。汚したくない。
彼女にとって、それは誓約なのだ。

「なら、そんな歌姫にならなければ。君の進むべき道だ。その先にきっと彼がいる」

リアンゼルがハンカチを取り出し、しゃくりあげ始めたエメルの涙をそっと拭いてくれた。
ホロックスは、エメルの頭を撫でて慰めるとテーブル上の電話から受話器を取り上げた。

「マーケティングのセクションに繋げてくれ。……ホロックスだ。最優先の仕事を伝える。日本の音楽プロデューサー、ヤスキ・ハルモトについて出来るだけ調査してくれ。特に彼の評判について調べろ。収益は高いだろうが、おそらく悪評も相当あるはずだ。それともう一つ、彼が監修したゲームソフトについて調べてくれ。タイトルは『ドリームアイドル・ライブステージ』。リサーチスタッフに出来るだけプレイさせておけ。キャラクターの声優は歌手としても活動している。メンバーと特徴、イベント、コンサート、評判、人気、ファン層……内容は徹底的に調べろ。エメルはいずれここに関わることになる」

受話器を置いてふと見ると、エメルやリアンゼルが目を丸くしてこちらを見ているのに気がついた。ホロックスが如何に敏腕の音楽ビジネスマンなのか、その片鱗を目の当たりにしたのだ。
「君達のステージの裏側には、こんな仕事もあるんだよ」と、ホロックスは不器用にウィンクするとヴィヴィアンに手を差し出した。

「ミズ・ラーズリー。知り合って早々、借りが出来ましたな」

ヴィヴィアンはその手を取り「どういたしまして」と、にこやかに応えた。

「今後はお互いの歌姫でコラボレーションなど企画したいですね」
「大歓迎です。楽しい仕事が出来そうだ。雷鳴のメイナードによろしくお伝え下さい。いずれ挨拶に伺いましょう」
「ありがとうございます。こちらこそよろしく」
「後ほどまた連絡しますので、もう一度ここまでご足労願えますか。恐縮だがアルティメットの歌姫、お二方も。あの男と交渉するところに立ち会っていただきたい」

エメルをチラリと見やると「交渉と云うより、膺懲に近いかな」と肩をすくめた。

「こちらは手札の中に切り札まで用意出来るが、ハルモトはこのゲームに手札すらない状態で臨まなければならない。だが手札を捨てる真似をしたのは彼自身だ。同情に値しないね」
「楽しみに拝見いたしますわ。誠実と努力をヒエラルキーで押し潰すやり方を見たイギリス人がただでは済まさないことを彼に思い知らせて下さいね」
「エリザベス女王陛下の御名にかけて」

傲慢なあの日本人の鼻柱をへし折る様を想像して冷ややかに笑ったヴィヴィアンに、ホロックスも含み笑いで請け合った。
「任せてくれ」と言われたので、エメルは何も口がはさめなかった。彼がこれから何をしようとしているのか、彼女にはまだ理解出来なかった。
ただ、デブオタを容赦なく糾弾したハルモトヤスキのやりようを彼等が不快に思っていること、デブオタの代わりに痛撃を加えようとしているらしいことは、おぼろげに分かった。

三日後。

リバティーヴェル・レコード支社ビルに呼ばれたエメルは、リアンゼルやヴィヴィアンと共に社員に案内され、会議室へと通された。
そこは、かなり広い部屋だった。壁には畳大の巨大なモニターが掛かっており、テーブルには電話が据え付けてある。通常は、取引先や本社と打合せや会議で使う部屋なのだろう。
ホロックスは、部下らしい社員達とちょうど打合せを終えたところだった。

「やあ、よく来たね」

手を広げて歓迎のゼスチャーをすると、彼は「すぐに準備が出来るからそこで待ってていただけるかな?」とテーブルの一角を指し示し、部下へ退室するよう合図した。
社員達はぞろぞろと部屋を出ていったが、何人かは驚愕した視線をエメル達に向けずにいられなかった。
一人が感に堪えない表情で思わず呟いた。

「あの伝説のオーディションの歌姫だ……エメル・カバシとリアンゼル・コールフィールドがいる」

エメルは困ったように微笑んだが、リアンゼルはウィンクを投げてヴィヴィアンから「こら、大人をからかうんじゃないの」と、また叱られていた。
会議室の中がエメル達だけになると、ホロックスは自分の席の前に置いたPCから何やら操作を始め、壁のモニターにテレビ電話のコンソール画面が映った。

「待たせて申し訳ない。これからハルモトヤスキの事務所と交渉を開始する」

手慣れた様子で操作しながらホロックスはエメル達に説明した。

「エメル、君は私のずっと後ろにあるそこの席に座っていてくれ。何も喋らずに座っていてくれるだけでいい。君の存在だけで彼にプレッシャーを与えることが出来る」

凄みのある笑いを見せてホロックスが電話番号の操作を始めようとした時、リアンゼルが「待って」と立ち上がった。

「彼と最初に電話で話す役目は私にさせてくれない?」
「アポイントと交渉は僕の役目だぞ」
「ごめんなさい。でも、私はデイブを売るという卑怯な真似をした負い目がある。償う為にも私がまず最初にハルモトと話をしなきゃいけない」

ホロックスはしばらく考え込んだが、両手を挙げて気障に降参のポーズを取った。

「オーケー。そのプライドと友情に免じて、アポイントの役目は君に譲ろう」
「ありがとう」

礼を言われてうなずいたホロックスは、「さすがはアルティメットの歌姫、見事な矜持だな」と、こっそり呟いて感心した。
しばらくしてホロックスはTV電話のカメラを向け、合図した。
着信音に続いてモニターに秘書らしい女性が映る。リアンゼルは緊張した面持ちで話し始めた。

「Hello. My name is Reanzul Caulfield. I telephoned your office at the end of last year. I do TV-phone call there now from the meeting room of the Liberty-bell record of London. Can Yasuki-Harumoto talk with me now? (こんにちは。私は昨年末に電話を掛けたリアンゼル・コールフィールドといいます。今、ロンドンにあるリバティーヴェルレコードの会議室からTV電話を掛けていますが、ハルモト・ヤスキさんと話をすることは出来ますか?)」
「There was communication yesterday when I called by the contents of business negotiations from Liberty-bell record in today's this time. Is this call so?(この時間にリバティーヴェルレコードからビジネス交渉の電話が入ると伺っています。このお電話がそうですか?)」
「Yes, that's right.(はい、そうです)」
「Please wait a moment.(しばらくお待ち下さい)」

しばらくしてモニターの画面に、太い黒ブチ眼鏡をしたハルモトヤスキが現われた。
イギリスからの電話ということで先日のオーディションの顛末を思い出したのだろう。みるからに不機嫌な面持ちをしている。

「貴女がミズ・コールフィールドでしたか。昨年はわざわざお電話を下さってありがとう。その影響もあったのか知りませんが、ブリティッシュ・アルティメット・オーディションでは優勝されましたね。おめでとうございます」

皮肉を浴びてリアンゼルは一瞬青ざめたが、向こう側で心配そうに見ているエメルに気がつくと、落ち着きを取り戻してふっと微笑んだ。
あの時、恥ずべき真似をした彼女はそれを心から謝罪し、オーディションの会場にいた人々、そしてエメルに許されたのだ。
自分は許されることの大切さや喜びを知った。それに比べ、許すことの出来ない目の前の男。その心の何とみすぼらしいことか。
そんなものを怖がることなどないと、リアンゼルは気がついたのだ。

「ありがとうございます。私もあなたが審査員の重責を全うされる様子を拝見しました」
「そうですか」
「歌手にとって大切なことは何なのか、勉強させていただきました」

リアンゼルは、彼にどうしてもその一言を言いたかったのだ。
手痛い皮肉を返され、ハルモトヤスキは一瞬眉根を寄せたが「それはどうも」とそっけなく流すと「それで御用件は?」尋ねてきた。

「はい、リバティーヴェルレコードのエドワード・ホロックスが貴方とお話したいことがあると云うことでこの電話を掛けました。代わってよろしいですか?」
「お願いします」

自分の役目はここまで、と悟ったリアンゼルはホロックスへうなずいた。
カメラが切り替わり、「リバティーヴェルレコードで音楽事業部を統括しております、エドワード・ホロックスです」と挨拶されたハルモトヤスキは、さすがに居住まいを正した。
相手はイギリスの音楽事業でも最大手の取締役なのだ。

「日本で音楽事業のプロデュースをしている、ハルモトヤスキと申します」
「はじめまして。さて、早速ですが本題に入りましょう。昨日当社からお送りしておりました企画書はご覧になりましたか?」
「……拝見しました」
「数字で具体的に報告していますが、イギリス国内での音楽市場で貴方のプロデュースする音楽はずいぶん嫌われ始めたようですね」

不承不承、といった様子でハルモトはうなずいた。

「売り上げが落ち込んでいることは知っています」
「その理由はご承知ですか? ブリテッシュ・アルティメット・シンガー・オーディションの日以降からまったく売れていない訳ですから、もう明らかとは思いますが」
「あのオーディションの出来事が原因だと言うのですか。私は間違ったことはしていない」

頑固に言い放つハルモトをホロックスは憐れむように見た。

「貴方がどう思おうとそれは貴方の自由です。しかし、あのオーディションを見たイギリス人は貴方を嫌悪している。貴方の音楽を聞こうとするイギリス人は今、どこにもいない」
「誤解だ。不正をして私の名誉を傷つけたのはあの男の方だ」
「そしてそう主張し続ける限り、貴方の歌をどんな歌姫が懸命に歌ってもイギリス人の心には響かない」

唇を噛んだ画面の日本人を、ホロックスは冷ややかに眺めた。

「ミスターハルモト。僭越ながら貴方の日本での音楽プロデュース業について調べさせていただいた。マキャベリズムに忠実なやり方でファンから奴隷のように搾取する商法は、ここイギリスでは通用しませんよ」
「私は日本ではその方法で成功した。自分のやり方が間違っていると思いません」
「ほう、オーディション審議会が来年のオーディション審査員から貴方を除外することを検討していると知ってもまだそれを主張出来ますか?」
「な……!」

思わず絶句したハルモトをホロックスは静かに諭した。

「貴方のやり方は音楽の本来のありようを余りにも蔑ろにしている。それに比べたら、貴方とは真反対の主義で歌姫を育てたあの無名の日本人は実に立派だった」

ホロックスはスッと身を引いた。
そして、彼の背後の席からじっとこちらを見つめるエメルを見たとき、ハルモトは顔面蒼白となった。あの日のデブオタのように。
エメルは何も言わない。
だが、その無言は百言にも勝った。悲しみを湛えたターコイズグリーンの瞳が、彼女の言わんとすることを全て物語っていた。
ホロックスが静かに口を開いた。

「ミスターハルモト、イギリス人は名誉を重んじますが寛容でもあります。まずはその浅ましいマキャベリズムを捨ててやり直しなさい」
「……」
「そこまでして金の亡者になりたいのですか? ヒエラルキーの頂点に君臨し続けたいのですか?」
「……」
「音楽とは辛い人や悲しい人を笑顔にする為に神が贈って下さったものだ。それを忘れた者に音楽を創る資格はない」

ハルモトは、いつしかうなだれていた。
そして、そんな彼にホロックスは「我が社からの提案は、いずれ貴方の名誉を挽回することにもなるのですよ」と、語り掛けた。

「貴方がここイギリスでも音楽を仕事にしたいならマイナスから始めるしかない。我が社との提携の条件が不平等なのはその為です。だが、他に差し伸べられる手はどこからも現れないでしょう」
「……」
「一度しか伺いません。我が社からの提案を受諾されますか?」

リバティーヴェルレコードからの申し出は提携とは名ばかり、音楽事業の下請けにも等しい業務関係の契約だった。
だが、イギリスの音楽市場で白眼視されすっかり孤立した彼のレーベルに、他の選択肢はなかった。
ハルモトは、黙ってうなずいた。

「では、後ほど契約書を送りましょう」

勝者の笑みを浮かべ、ホロックスは交渉を一旦締めくくった。
鮮やかな交渉の手並みをヴィヴィアンは感嘆して見つめている。
そして、ホロックスは、ふと思いついたように装って再び話しかけた。

「そうだ。ミスターハルモト、何でも貴方の監修で日本で大ヒットしているアイドル歌手育成ゲームがありましたね」
「『ドリームアイドル・ライブステージ』のことですか?」
「そうそう、それだ。そのゲームに一人、キャラクターを追加させることは出来ませんか?」
「……ゲームのアップデートで追加シナリオの予定は入っていますが、新しいキャラクターは考えていません。レギュラーの歌手は一二人でずっと続けてきましたし」

にべもなく答えたが、ホロックスの氷のような眼差しに睨まれると、ハルモトヤスキは慌てて答え直した。

「隠しイベントに登場する対戦キャラクターとかでしたら出来るかも知れません。でも、どうしてそんなことを尋ねるのです?」
「いやなに、そこに新しいキャラクターを一人出演させていただきたいのですよ。今イギリスでもっとも人気の高い歌姫で実力は折り紙付き。本当ならアルティメットの名を冠するはずだったのですが」

罵倒より数倍痛烈な皮肉だった。
青ざめていたハルモトヤスキの顔色は、羞恥心で真っ赤に染まったがホロックスは容赦しなかった

「そうだ、課金の仕方も搾取に近い今のやり方を改めたいな。これは、当社と提携するにあたってのテストケースとでもお考え下さい。ああ、そうだ。誤解されないようにこれだけは言っておきます。……よく聞いておきたまえ」

それまで丁寧な物腰だったホロックスは、急に口調を改めて言い渡した。

「私が要求していることは不当ではない。この国で音楽に携わりたければ搾取じみた営利主義を是正しろと言うことだ。それが出来ないならもはや助ける価値など見出せない。さて、君はどうするかね」
「……検討しておきます」
「この場でお答えいただこう。断るという選択肢を選ぶ自由まで縛るつもりはない。だが、少なくとも君はリバティーヴェルレコードを待たせることが出来る立場ではない」

交渉を勝負に例えるなら、勝敗は既に決まっているようなものだった。相手は最初から一度もイニシアチブを握れなかったのだ。
悄然となったハルモトヤスキが「わかりました」とつぶやくように答えると、ホロックスはその眼に冷ややかな光を一瞬閃かせたが、穏やかに話し始めた。

「それでは具体的なビジネスの話を始めさせてもらいましょうか。架橋エメルは私の会社と契約しているのです。貴方は彼女に『彼』を返してあげなければいけない……」


**  **  **  **  **  **


「エメルだ! エメルが現われた!」

照明を落としたホールは薄暗く、上映前の映画館にも似ていたが、そこは静けさとは無縁の場所だった。
戦闘ゲーム特有の爆発音や格闘ゲーム独特の殴打音、ファンファーレ、掛け声、悲鳴、勝どきの雄叫びなど、電子で作られた様々な音が飛び交っている。

ここは日本の秋葉原。とある巨大なゲームセンター。

暗いホールの中で激しく場面が移り変わるゲーム画面は、まるでフラッシュライトの点滅のように様々な光を暗い室内の壁に投げかけている。
その一角からさっきの叫び声が上がると、それまで筐体の後ろで様々なゲームプレイを眺めていていたギャラリー達は声のした方向へ我先に殺到した。
叫んだプレイヤーの目の前にあるのは、アイドル歌手の育成ゲーム『ドリームアイドル・ライブステージ』のゲーム画面だった。
画面の先にはスポットライトが照らす煌びやかなステージが映っており、ステージの向こうにはたくさんの観客が待っている。
プレイヤーが操作している歌手は、これからオーディションの最終ステージに臨もうとしていた。このオーディションで合格点を出し、認められれば一流の歌手として最終的なランキングで格付けされ、スターの仲間入りが出来る。

そこに、まるで行く手を遮るように一人の歌姫が現われたのだ。

『待って。貴女に聴きたいことがあるの』
「貴女は誰?」
『私はエメル……エメル・カバシよ』

そう言って画面の中で静かに微笑む小柄な美少女は、艶のある長い美しい黒髪を風に靡かせている。

「エメルだ。“追慕の歌姫”エメルだ……」
「隠しキャラのラスボス、ホントにいたのかよ!」
「オレ、初めて見たわ……」

ギャラリー達から興奮したようなささやき声が口々に漏れた。画面に向けて携帯カメラのフラッシュが幾つも焚かれる。
彼女がこのゲームに登場することは極めて稀なのだ。
アーケードゲーム版でもポータブルゲーム版でも、行き過ぎた課金者の前に彼女は決して姿を現さない。
だが、レッスンの中途半端なプレイヤーの前にも現われることはない。
過度の課金に頼らずに厳しい練習を積み、高度なランクを習得したプレイヤーの前にだけ、しかも僅かな確率でこの歌姫は出現するのだ。
まるで、きまぐれな風が運んできた歌の妖精のように……
プレイヤーの前に佇む少女はハーフの美しい顔立ちをしている。銀を織り込んだ漆黒のドレスと黒髪、何よりターコイズグリーンの瞳が恐ろしく印象的だった。
その瞳には何かを一途に思い、強い信念を秘めた者だけが持つ輝きが宿っている。
オーラじみた独特の雰囲気を身にまとい、彼女は画面のこちら側をじっと見つめていた。

『探している人がいるの……』
「探している人?」
『その人が私に教えてくれた大切なことを貴方に尋ねるわ。貴方は何故、あの光さす場所を目指すの?』

エメルは、ラストステージの舞台を指さして問いかける。
ゲーム中、エメルからプレイヤーへの問いかけはこれ一つきり。
そして、画面に三つの選択肢が現われる。

『A - わからない。わからないけどここまで走り続けてきたの……』
『B - 世の中で泣いている人や悲しんでいる人を私の歌で抱きしめてあげたいの』
『C - キモいファンどもからお金を絞り取って贅沢する為に決まってるじゃない』

プレイヤーはこの中から一つの選択肢を選び、エメルへ答えることになる。
そして、選択次第で異なる結末が待ち受けているのだ。
二つの選択肢のリアクションと結末は、既に明かした者がいた。

Aを選ぶと、エメルは肩をすくめ「いつか分かる日が来るといいわね」と静かに笑って去ってゆく。この場合、エメルが出現しなかった場合と同じようにラストステージが始まり、プレイヤーの最終的なランキングも通常と同じように定まる。
Bを選ぶと、エメルは頷く。そして「じゃあ貴女がそんな歌姫にふさわしいか、ここで見せていただくわ!」とバーサス(対決)モードのゲームステージが始まる。
だが、その難易度は今までのオーディションや対戦試合の比ではない。歌唱力、ダンスパフォーマンス……エメルのキャラクタースキルは、どの項目でもプレイヤーが育てたキャラクターの歌手のそれを遥かに凌駕するのだ。大きなハンディキャップを背負ってプレイヤーはエメルと戦うことになる。
それでも、この超難関の対決を制することが出来れば、エメルはプレイヤーの操作する歌姫を認めてくれる。「おめでとう!」と、抱擁して祝福し「その気持ちをいつまでも忘れないで歌い続けてね」と、ラストステージへ案内してくれる。
そして、ゲームが終了した暁には「プラチナシンデレラ」という特別な称号が与えられるのだ。
だが、運営サイドの発表では、その称号を勝ち取ったプレイヤーはまだ十指にも満たないと云われていた。
問題はCである。この選択肢を選ぶと一体どんな展開が待っているのか、まだ誰も知らなかった。仮にバーサスモードになって敗北すれば、おそらく今までの対戦モードと同様、ランキングを格下げされてゲームオーバーとなるのだろう。
では勝利した場合はどうなるのか……
ゲーム画面でエメルを待たせているプレイヤーは今、それを試そうとしていた。似たような他のゲームでさんざん鍛えてハイスコアを叩きだした自分の腕に、彼は自信を持っていたのである。
多数のギャラリーが固唾を呑んで見守る中、緊張した面持ちで彼は「C」を選択した。

「キモいファンどもからお金を絞り取って贅沢する為に決まってるじゃない」

すると、画面の中のエメルは悲しそうな顔で尋ねかけた。

『本気で言っているの?』
「うるさいわね、さっさとそこをどいてちょうだい。ブタ共が私を待ってる。私の邪魔をしないで」

可憐な佇まいの歌姫はその言葉を聞いた次の瞬間、鬼の形相へと変貌した。

『貴女に歌を歌う資格はない。ここで消えなさい!』

歌手としての死を告げる宣告を受け、バーサスゲームモードへ画面が切り替わった。
エメルの逆鱗に触れたプレイヤーは慄きながら曲を選ぶ。その背後ではギャラリー達が、一体どうなるのかとハラハラしながら成り行きを見ていた。

『対戦歌唱バトルを開始します。レディ!』

アナウンスが告げられ、決闘が始まった。
ゲームは画面の上から流れ落ちてくる操作指示をタイミングに合わせて正確に入力出来るか否かで評価される。
そして、この対戦で表示される操作指示のスピードと量はそれこそハンパなものではなかった。操作指示のアイコンが、まるで怒涛のように押し寄せてきた。
それでもプレイヤーは凄まじい勢いで操作パネルのキーを的確に叩き、膨大な操作量を捌いてゆく。今までのゲームプレイで動体視力を鍛えたのだろう。その入力に合わせ、プレイヤーの歌姫は今まで見たことがないほど激しく踊り、懸命に歌った。
一方のエメルはトリッキーなダンスステップも軽々と踏み、風に舞うように踊りながら透き通るような美しい声で情熱的に歌う。
華麗に踊り艶やかに歌うエメルに対し、プレイヤーの操作する歌姫は見るから死にもの狂いで立ち向かっている、という様相の歌唱バトルだった。
それでも挑戦者は一歩も譲らなかった。プレイヤーの操る歌姫は、歌の鬼神と化したエメルと互いに激しい火花を散らしながらも歌の饗宴を遂に演じ終えた。
曲が終わり、ギャラリー達のどよめきの中で結果が表示される。勝敗は……

「両者パーフェクト! 引き分け」

パーフェクトの引き分け、ということはエメルには絶対勝つことは出来ないのだ。驚きの声があがった。それでもプレイヤーの健闘をたたえて拍手が起こったが、その直後に彼等は更に驚愕することになった。
何故なら画面に「However, you lost all(しかし、貴方はすべてを失った)」と表示され、画面がフェイドアウトしたからだった。

「何だと!」
「どういうことだ!?」

切り替わった画面は、プロダクションルームが背景のメニュー画面ではなく、プレイヤーが育てていた少女のプライベートな部屋だった。
ベッドから彼女が起き上がりボンヤリした表情でつぶやく。

「何だろう。私、歌手になっていた夢を見ていた気がする……」

「えええー!」と、ギャラリーから驚きの声が上がる中、少女は登校を促す母親の声に急き立てられ慌てて制服に着替えると部屋を出て行った。
閉まった扉に被さるように「Your and her dream reached the end in this way(あなたと彼女の夢はこうして終わりを迎えた)」と表示され、スタッフロールが始まる。
文字通り、悪夢のようなバッドエンディングだった。

「夢オチだと? 確かに酷い選択肢だったけどそこまでするか。いくら何でも……」
「見ろ、スコアがゼロになってる! 今まで積み上げた点数も剥奪されたんだ。じゃあランキングは……」

「Null(無)」というランキングにギャラリー達は悲鳴じみた声を上げた。それまでトップクラスのレベルにいたプレイヤーの歌姫はただの少女となり、最下位へと転落してしまったのである。
筐体から排出されたカードをプレイヤーは震える手で抜き取り、屈辱の刻印を打たれた自分の記録を見てガックリとうなだれた。
ゲームオーバーの表示の後に、音楽を侮辱した選択肢を選んだプレイヤーへメッセージがフェイドインして現れた。

『――音楽とは君自身の経験であり、思想であり、知恵なのだ。もし君が真の人生を送らなければ、君の奏でる楽器は真実の響きを何ももたらさないだろう――』 

伝説となったジャズサックス奏者、チャーリー・パーカーの名言である。
野次馬気分で見ていたギャラリー達は何か叱られたような顔でこそこそと散っていった。興味本位でエメルの逆鱗に触れた件のプレイヤーは、抜け殻同然となってへたり込んでいる。
衝撃の目撃談は、たちまちブログやSNSから拡散され、ゲーム愛好者や声優ファンの間に伝播していった。

「最後の選択肢は禁忌。引き分けでも夢オチエンドが待ってる」
「思いやりをもった歌手を目指せばエメルは天使みたいに祝福する。だが守銭奴を目指す歌手は鬼神化して容赦なく屠る」
「エメル、マジ天使。オレら声豚やドルオタの代わりに搾取系アイドルを血祭り!」

様々な感想まで交え、このゲームに関わるファン達はエメルへの好感度と評判を高めていった。

……可憐な容姿と謎めいた言葉、凄まじい歌唱力と高貴な心を持つ歌姫エメル・カバシは一体何者なのか。ファン達は興味を惹かれずにいられなかった。
社会のあらゆる出来事が、インターネットで瞬時に知り得る時代である。彼等はさほど労せずしてエメルが二次元のアイドルではなく、実在の歌姫であることを知ることが出来た。
日英ハーフの一七歳。出生は日本だがイギリスに移住した三年前に母親を病気で亡くしたこと。今を遡ること一年前半ほど前、ロンドン近郊の公園で一人歌っているところを見出され厳しい修練を積んだこと。翌年、イギリス音楽界でも最も権威の高い「ブリティッシュ・アルティメット・オーディション」に出場、ラストステージで劇的な歌唱を聴かせ伝説とまで謳われたこと。史上稀に見る高評価を受けながら些細な登録ミスによって失格となってしまったこと。その後大手プロダクションのリバティ-ヴェルレコードと契約してCDを発表しゴールドディスクの栄誉に輝いたこと。オーディションで優勝したリアンゼル・コールフィールドとは以前敵対した仲だったが和解し、今ではコラボレーションで歌うこともあるほど気心の知れた親友になったこと。
伝説となったステージをネットの動画サイトから見ることは出来ない。オーディションの管理委員会が公開を厳正に規制しているのだ。どんなステージだったのか様々な諸説が流布されていたが荒唐無稽なデマも多く真偽は分からなかった。
謎といえば「探している人がいるの」と彼女が言っているのは誰なのか、それこそが最大の謎だった。
彼女にはプロデューサーがいたという。彼女を見出し、伝説の歌姫にまで育て上げた凄腕のプロデューサー。日本人らしかったがオーディション直後に行方不明になっている。探しているのは彼ではないかと容易に推察されたが、どんな男だったのか、何故探しているのか、それは誰にも分からなかった。
ただ、人を踏みつけにする歌手を激しく憎み、人を思いやる歌にこそ歌姫の価値を認めて祝福するこの少女に人々は高貴なプライドと温かみを感じ、好感を持たずにいられなかった。

探している人がいる、と出会う者に語り掛けるエメルは、彼等の間でいつしか「追慕の歌姫」と呼ばれるようになっていった。

そして、ゲームの中に追慕の歌姫が現われて半年が経った頃……
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