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第4話 それぞれに見出したもの
季節は秋を迎えていた。
イギリスの秋は朝晩がかなり冷え込む。日中もあまり気温が上がらないので天気の良い日でも薄手のコートを着込む人は珍しくない。
公園や街路樹の木々も茶色く染まった葉をひらひらと落とし始めていたが、薄いピンクのクレマチスやアネモネはまだ花をつけていて、人々の眼を楽しませている。
しかし、夏の明るさから翳り始めた季節は、人々の心に少しずつ穏やかな影を落とし始めていたのだった。
リアンゼル・コールフィールドは、ロンドン郊外にある芸能事務所「デファイアント・プロダクション」の窓から街路樹から葉が落ちてゆく様子を虚ろな眼差しで見つめていた。
手にはくしゃくしゃになった手紙を握り締めている。
それは先週受けたオーディションの不合格通知だった。
「……」
自分と同じ夢を目指す不届きな虫けらを全力で叩き潰す、とマネージャーに宣言してから既に三ヶ月が経過していた。
ちょっとの間だけ全力で頑張る。ちょっとの間だけのはずが……
「頑張ったのに、頑張ったのに……何で、どうして……」
その気になって努力すれば、すぐプロの歌手になれる天才のはず。その自分が今になってさえ、どうしてもどこからも認めてもらえない。
リアンゼルのプライドは幾度となく撥ね付けられるオーディションの壁にブチ当たり、さすがに傷だらけになっていた。
壁に無意味に頭をぶつけるような挑戦を繰り返していた訳ではない。
オーディションに落ちるたびにマネージャーのヴィヴィアンは練習プログラムを作り直してくれ、リアンゼルは精力的にそのメニューをこなした。
その中には発声練習やダンスレッスンに混じってストレッチや筋トレといったトレーニングが書かれていることもあった。歌手に向けた修練以前の、基礎体力を鍛える初心者向けのレッスンである。
そんなものすら貴女には足りないと云われているようで、リアンゼルには屈辱だった。
だが、彼女はそれでヴィヴィアンに抗議するような真似は絶対にしなかった。彼女のプライドがそれを許さなかったのである。
抗議の代わりに彼女がしたことは、書かれたメニューのノルマを黙って倍以上やることだった。
それがリアンゼルなりのプライドの守り方だった。
そこまで懸命に励んでいたのは、もちろんデブオタとエメルへの憎悪もあったが、ヴィヴィアンの「天才は人から言われて努力しない。自分で始めるもの」という言葉に触発されたからだった。
(自分で始めたんだもの。私にはきっとスターになるべき資格があるはず。だからそれに見合う努力をしてやる)
(エメルとあのデブの虫けら共が到底及ばない、格の違いを努力の結果で見せてやる!)
今までにないくらい、リアンゼルは精力的に練習した。毎日へとへとになるまで歌やダンスのレッスンに励んだ。他のアマチュア歌手がレッスンを終えスタジオからいなくなっても警備員がビルを閉めると告げるまで居残って汗をかくことも珍しくなかった。
苦しかったが、自分が成長している手ごたえも感じていた。
だから、ヴィヴィアンからオーディションや仕事の公募を紹介されるたびにリアンゼルは自信を持って自分をアピールした。
……だが、どこからもオファーはなく、オーディションの合格も受賞もなかった。
握り締めた不合格通知も、彼女は精一杯自分の歌唱力を聴かせて自信があったはずのオーディションだった。
レッスンを始める前に不合格が今回の通知でついに二桁に達してしまったのを知っては、さすがのリアンゼルも練習する気力が起こらなかった。
リアンゼルはアマチェアながらプロダクションに所属しているので、予約さえしておけばダンス用のレッスンルームや音響設備の整った防音スタジオを使うことが出来る。
だが、ここに来るたびにマネージャーのヴィヴィアンと顔を合わせることになる。
もっとも、今日はまだヴィヴィアンと会っていなかった。
(また駄目だったなんて、恥ずかしくてヴィヴィアンに言えない)
不合格という結果に無様な言い訳をしたくなかった。
まだ何も練習をしていないので躊躇ったが、彼女と顔を合わせないうちに帰ろうとリアンゼルは考えた。同情の目で見られるよりはと、いつになく気弱になった彼女はこそこそと帰り支度を始める。
だが、帰り支度が終わらないうちに扉を開けて「ハイ、リアン」と、ヴィヴィアンが現れた。
「あら、もしかしてもうお帰り?」
リアンゼルはギクッとしたが、「ハイ、ヴィヴィ」と挨拶しながら素早く口実を考えた。
「今日ここに来たのにレッスンをお休みにするだなんて。もしかして身体の調子でも悪くした?」
「そうじゃないの。その……傘を忘れてしまったのよ。今日は曇ってるから雨が降る前に帰ったほうがいいのかなと思って」
嘘だった。気まぐれな雨の多いこの国に住むイギリス人なら、自前の傘を持ち歩くくらい当たり前のことだった。リアンゼルも、お気に入りのバーバリーのトートバッグの中に折りたたみ傘を入れている。ちょっと雨が降ったくらいで困りはしない。
そんな見え透いた嘘など海千山千のヴィヴィアンにはお見通しだったが、大仰に両手を挙げて応えた。
「まあ、そんなことでレッスンせず帰るだなんてもったいないことしないでよ。私、予備の傘くらい持ってるのに。このマネージャー様にそれくらい頼ってちょうだいな」
「そ、それもそうね」
リアンゼルは困ったように「ごめんなさい」と、照れ笑いした。
滅多に人前に見せない素直な笑顔。それは歌姫を夢見る純粋な一六歳の少女の姿だった。
そんな彼女を優しい目で見ながら、ヴィヴィアンは「貴女にいいニュースと悪いニュースがあるの。どっちから聞きたい?」と切り出した。
「悪いニュースって先週のオーディションのことでしょ」
リアンゼルは顔を背けるときっぱり言い切った。
「駄目だったのよね。私もさっき通知を受けたの。ごめんなさい、せっかくヴィヴィに紹介してもらったオーディションだったのに。も、もう少しだけ時間をくれる? 今度こそ結果を出すから……」
声が震えてしまった。
それでも、言われるより先に自分から潔く言おうと思ったリアンゼルは正直に謝った。
ところが当のヴィヴィアンは「ああ、それはいいのよ」と軽く流してしまった。
「先方はリアリティショー(バラエティ番組)向けに歌とトークの両方で視聴者を笑わせる歌手がご要望だったみたい。それなら歌手じゃなくてタレントを探すべきでしょうにね。リアン、それは貴女の染まる色じゃないわ。そもそも紹介した私に責任があるから気にしないで」
意外な返答に、リアンゼルは背けた顔をもう一度ヴィヴィアンに向けた。
「じゃあ悪いニュースってオーディションのことじゃなかったのね」
「今結果が出ないことが悪いことじゃないわ」
悪いニュースと言う割にヴィヴィアンの顔は暗くなどなかった。むしろ誇らしげだった。
「昨日社長が出張先のアイルランドから帰国したの。で、さっき貴女のことで社長に叱られたのよ」
「私のことで?」
「帰社したのが昨晩遅い時間だったの。それで、私が呼ばれたのよ。そこのレッスンルームでまだ練習している奴がいる。誰なんだって」
「……」
「リアンゼルですって答えたら、貴女の練習メニューを見てこのプログラムを消化するのに彼女はこんなに時間がかかるのかと聞かれたわ」
「それは……」
「貴女がこの三ヶ月、私が指示した練習量を自分で倍以上にしていると答えたら何も言えなかったみたい。熱心に練習しているのにケチのつけようなんかないもの、フフフ……」
自分が倍以上練習していることを知っていたのか、とリアンゼルは驚いた。
「で、さっきまた社長室に呼ばれたの。この練習メニューの量は適正に出来ている、練習量は厳格に守らせろ、ですって。昨晩言い返せなかったのがよっぽど悔しかったのね」
負け惜しみの強い社長なもんでね、と苦笑するヴィヴィアンにリアンゼルは「勝手に練習の量を変えてごめんなさい」と謝った。
プライドの高い彼女も、自分の為に尽力してくれるこのマネージャーには虚心で自然に頭が下がった。彼女に謝罪することには、少しも屈辱を感じなかった。
「いいのよ。それで社長はこう言ったのよ。練習を怠けた奴は幾らでもいたが、練習を勝手に増やして守らなかったなんて、このプロダクションで貴女が始めてだって」
「え?」
「このデファイアント・プロダクションで、これほど練習熱心なのはリアンゼル・コールフィールド以外にいないって社長が呆れてたのよ。しかも呆れてた癖に感心していたわ。変な社長よね」
クスクス笑いながら「これが悪いニュースよ」と、ヴィヴィアンは告げた。
「そう……」
ぼう然とするリアンゼルに笑いかけると、彼女は「……で、ここからいい方のニュースね」と続けた。
「リアン、ここから話すことは秘守義務を守ってね。デファイアント・プロダクションのデータベースに登録されている貴女の総合評価はCランクだったの」
「C……?」
初めて聞かされた社内での自分の評価にリアンゼルは愕然とした。天才と思っていた自分は、そんな下位に見られていたのか。
「ま、まあ仕方ないわ。私、ブリテッシュ・アルティメット・シンガーに一次予選で落選してしまったもの。それに実績がまだ何も……」
「リアン。私は“だった”と過去形で言ったわよ」
ヴィヴィアンは一瞬、鋭い目でリアンゼルを睨んだ。
「データベースの評価は今日、社長の指示で書き換えられた。今、貴女はBランク歌手として登録されている」
「えっ?」
「そして、社長命令で私、ヴィヴィアン・ラーズリーは今日付でリアンゼル・コールフィールドの専属マネージャーを仰せつかったの」
ポカンとしているリアンゼルの手を取ると、ヴィヴィアンは「今日からよろしくね」と強引に握手した。
「ちなみに、この配属はイレギュラーなのよ。大きな含みがあるの」
「含み?」
「このプロダクションでは通常、専属マネージャーはAランクの歌手しか付かないの。だけど社長命令でBランクの貴女に私が専属で付いた」
「……」
「つまり、このプロダクションで最も努力している貴女はAランク、もしくはそれ以上の可能性がある、社長はそう判断したの。これがいいニュースよ」
そう言うとヴィヴィアンは「良かったわね、リアンゼル」と微笑んだ。
「そう……」
何ともいえない奇妙な表情で、リアンゼルはそう呟いただけだった。
彼女はずっと自惚れていた。
決意してからはずっと独りで自分を信じ、独りで努力してきたのだ。
頑張ってもなおオーディションは落選してばかりいる。プロ歌手としてはまだ誰からも認められていない。
それでも……歯を食いしばって懸命に努力している姿に、プロへの可能性を見出した人が現れたのだ。そして、彼女に大きな期待を掛けてくれたのだ。
ちょっとの間だけ全力で頑張る。最初はちょっとの間だけのはずが結果が出ない悔しさに耐え、努力し続けたことで何かが動き出したのだ。
小さく、ゆっくりとだが、見えない大きな歯車のように。
「じゃあ、今よりもっともっと頑張らなきゃ……」
「リアン、貴女はもう社長に認められるほど頑張っている。頑張りすぎると却って弊害が出るわ。メンタルや体調の面でね。これからはその努力のベクトルと量を私が指導するから任せて」
「え、ええ」
「今日からは貴女へ厳しいことを色々言わせてもらうわよ。だけど誤解しないでね。それは貴女が厳しい指導に応えられる強さを認められた証なんだから。ちょっと厳しいことを言われてすぐ泣きだす娘、努力を放棄して諦める娘なんかとはレベルが違う。そうよね?」
「もちろんよ、ヴィヴィ。私を誰だと思って」
胸を張ったリアンゼルだったが、俯くと掠れたような声で「私、何で帰ろうなんて思ったんだろう。練習しなきゃ」と、ブツブツ呟きながらまるでロボットのような足取りで自分のトートバックに近寄った。
ジッパーを開けて中からトレーニングウェアを取り出そうとする。
ところが、どうしたことか、手が震えてジッパーを開けられない。
「あれ、おかしいな。どうしたんだろう……」
奇妙なリアンゼルの様子をヴィヴィアンは見て、思いついたように言った。
「いけない、うっかりしてたわ。新しいトレーニングメニューを持ってこなくちゃ。貴女に貸す傘もね。十分はかかる。だから十分間は絶対にここには戻れない。待っててね」
「うん……」
廊下から見えないようにカーテンを閉めると、ヴィヴィアンはレッスンルームの扉を開けた。
外に出ながらそっと振り返った。
バッグの傍に跪いたリアンゼルは背中を向けたままで、その表情は見えない。
ただ、俯いたままの彼女の肩は細かく震えている。
扉を閉めると、ヴィヴィアンはそのまま背中をもたれてそこから動こうとしなかった。
これから十分の間、誰も部屋の中に入れないために……
** ** ** ** ** **
イチイは、日本では神社でよく見かける木である。
しかし、イギリスでは必ずといっていいほど墓地で見かける。
こんもりと茂った枝葉は、墓地に眠る人へ降り注ぐ陽光や雨を適度に遮ってくれるのだ。
だから、多くのイギリス人はこの針葉樹を決して死を連想した不吉なイメージではなく、自然の墓守を見るような眼差しで見ている。
雨の気配はないが雲の多い空の下、この小さな墓地にはそんなイチイの樹やトチノキがあちこちに植えられていた。
芝生も綺麗に手入れされベンチもあちこちに置かれているので、そこは一見すると墓地というよりも公園に近い趣があった。
そして、そんな墓地の中で傍に他に誰もいないことをいいことに、日本人とおぼしき一人の巨漢がだらしない格好でベンチに座り込み、先ほどからしきりにブツブツ言いながら携帯の端末らしいものをいじっている。
自称アイドル歌手の音楽プロデューサー、デブオタは何故こんなところにいるのだろうか。
「困ったな……」
彼は、タブレットPCの画面を何度もスライドしたりタップしたりしていた。
画面にはバーチャルアイドル育成ゲーム『ドリームアイドル・ライブステージ』のデータリストが表示されていた。
各アイドルの顔がサムネイル形式で並んでいる。
それは、タップすればプロフィールや持ち歌、ランキング、クリアしたイベントや受賞歴までがすぐに確認出来る上、イベントやプレイ動画も再生出来るようになっているという、凝った仕様だった。
デブオタがゲーム内で育て上げたバーチャルアイドルは既に全員が最高ランクに達している。そんなアイドル達のイベント歴を捲って、彼はしきりに何やらブツブツつぶやいていた。
「レナレナ、かえで、アーヤ、るるな、みぽりん……ううむ、ダメだ。みんな地道に歌唱力とかダンステクとかのパラメータを蓄えないとランクアップしねえ。いきなりレベルアップとか最終ステージにショートカット出来る裏技とかなかったかなぁ?」
墓地の雰囲気におよそそぐわない文明の利器をいじくりまわしながら、彼は未練気に何度も画面をスライドさせたが、しばらくして「エメルを一気にデビューさせる裏技なんてある訳ねえかー」と、諦めたように肩を落とした。
「ドリステなら経験やスキルが表示されてるしイベントも自然に発生するんだけどなぁ。現実って奴はパラメータは見えないし、イベントフラグもさっぱり立たねえときた」
彼は「参ったな、こりゃ」と、言ってため息をついた。
「イギリスが舞台で、アイドルが生身の人間、バックアップの事務所はなしでパラメータは非表示とはなんつーハード設定だよ。やっぱり勝手が違うよなぁ」
彼は眼を落とし「これでいいんだろうか……」と呟いた。
暗い顔に弱気な色が浮かんでいる。それはエメルにはまだ一度も見せたことのない、自信のない表情だった。
と、離れた場所に植えられていたイチイの茂みの影から「デイブ、お待たせ」と、エメルが現れた。
「お、おう」
独り言を聞かれたかとデブオタは一瞬うろたえたが、幸いエメルの耳には入っておらず、彼女は笑顔で近づいて来る。
デブオタはホッとしながら「まぁ、ここに座れよ」と、自分の横にエメルを招き寄せた。
「花屋さんにシュウメイギク(アネモネ)あって良かったな」
「うん。デイブ、花束買ってくれてありがとう」
「なあに、そんな高い花じゃなかったし。オレ様はエメルのプロデューサーなんだからお母さんへのお花代くらい出させてくれ」
目許の涙をハンカチで拭うとエメルは静かに微笑んだ。
今日は、エメルの母親の一周忌。
デブオタは練習はお休みにしてエメルを自転車に乗せ、墓参りへ連れて行ってくれたのだった。
「天国のお母さん、私の『アメイジング・グレイス』聴いてくれたかな……」
「エメルの歌だもの、お母さんが聴いてないはずないさ」
優しくそう答えると、デブオタはタブレットPCの画面にちらっと目を落として電源を切り、ケースにしまうと薄汚れたリュックサックに放り込んだ。
それはかつてアニメキャラが印刷されていたが長年酷使されているうちに色褪せ、幽霊じみたシルエットがうっすら残った不気味なリュックサックになっていた。
「歌手を目指して今頑張ってるって、お母さんに話してきたわ。デイブのことも」
「オレ様のことなんか話さなくたっていいのに」
「ううん、どうしても話したかったの。お母さんに一番伝えたかったの」
「そ、そうか」
デブオタは鼻をこすって照れくさそうな顔をした。
「ここ、風が気持ちいいな」
「うん」
そのまましばらくの間、二人は黙り込んだ。
近づく冬を感じるひんやりした風が頬を撫で、髪を靡かせて吹き過ぎてゆく。
エメルはふと、思った。
(もう半年以上になるんだ)
公園のトイレの傍で彼と出会ってから。
プロの歌手にしてみせると彼が宣言してから今まで、彼女の身の上はまだ何も変わっていない。だけど、確かに変わったものがある。
毎日のロードワークは、ヘタばらずに四キロを完走出来るようになっていた。
クラシックバレエのレッスンもよろけたり躓いたりすることはなくなった。低い塀なら飛び越えられそうなほどの跳躍力を身につけ、ターンだって四回程度なら優美に回転出来るくらいになった。それはシューズを四足履きつぶし、地べたに置いたゴムマットが擦り切れてとうとう穴がうっすらと開くまで練習した成果だった。
発声も上達した。少し離れた場所にあったオークの高い木の梢から鳥が驚いて飛び立つほど明朗でよく響く声を出せるほどになった。息も継がずに長いフレーズを歌えるようにもなった。
オーディションは……もうどれくらい受けただろう。
エメルはもう正確な回数を思い出せなかった。
「デイブ、明日のオーディション頑張るからね。お母さんにもそう言ってきたの」
「おう。お母さん、きっと見守ってくれてるさ。頑張れよ。でもエメル、リラックスな、リラックス」
「うん、大丈夫よ」
エメルが笑いかけると、デブオタはちょっと眼を見開いて驚いた表情になった。
「エメル。お前、綺麗になったなぁ」
「き、綺麗?」
今まで親以外に自分の容姿を褒められたことのないエメルは、裏返った声で「突然何言い出すの!」と叫んだが、デブオタは大真面目に頷いた。
「いや、本当だってば。最初会ったときは躓いたらそのままゴロゴロ転がりそうなぽっちゃり体型だったのに、モデルみたいに痩せたし」
「そ、そう?」
実際にエメルの容姿は、以前とはずいぶん変わっていた。
「おお。それに笑うとかわいくなった。前はオドオドしてばっかりだったのに」
「デ、デイブったら! 私、そんなに変わってないよ」
エメルは恥ずかしそうに笑った。怯えることがなくなった彼女は以前よりよく笑うようになっていた。
痩せたこともあったが、デブオタのせいで明るく朗らかになったエメルの雰囲気は見違えるように変わった。控えめで慎ましい佇まいから十六歳の少女だけが持ち得る、あのみずみずしい魅力が見えそうなくらい滲み出ていた。
エメルは顔を真っ赤にしたが、デブオタはそんなことなど気にも留めず、コブシを握り締めて嬉しそうに自分に言い聞かせた。
「うん、間違ってない。エメルの嬉しそうな顔を見ろ。オレは……オレ様は間違ってなんかいない」
「デイブ、そろそろ行きましょう」
エメルがソワソワして照れ隠しのように言うと、デブオタは頷いて「じゃ、帰るか」とベンチから立ち上がった。
彼が墓地の入り口に停めてあった自転車のサドルに跨ると、エメルはいつものように後ろに座って彼の腰に手を添えた。
彼の漕ぐこの自転車に乗って、オーディション会場に何度連れて行かれたことだろう。
プロの歌手なんて、どこかまだ夢物語のように思える。
だけど、エメルの中には、もしかしたらいつか自分に光が当たる日が来るかも知れない……そんな期待がいつしか芽生えていた。
その「もしかしたら」は、明日のオーディションかも知れない。
そうなったら天国のお母さんはどんなに喜んでくれるだろう。
何よりいま、自分の前で自転車を漕いでいるデイブはどんな顔をしてくれるだろう……
さっきのデブオタの優しい顔が浮かんでくる。
エメルの顔は我知らず綻び、胸は高鳴った。
だけど……
「合格者を発表します。一四番、二六番、四一番です。番号を呼ばれた方はそのまま残って下さい。呼ばれなかった方はそのままお帰りいただいて結構です。お疲れ様でした」
「もしかしたら」と思った、その日。
オーディション用に用意されたスタジオに並んだ少女達は、番号を呼ばれ目を輝かせた三人を除いて皆、一様に肩を落とし、三々五々と帰り支度を始めた。
そんな少女達の中にエメルもいた。
(また、駄目だった)
あの合格した少女達が持っていて、自分に足りなかったものは何なのだろう。
毎日あんなに練習してるのに、まだ何かが足りないのだ。足りなかったものはたくさんあるのだろうか。それともあと僅かに足りないだけなのだろうか。
ロッカールームで着替えながらエメルが思わずため息をつくと、偶然隣の少女が同時にため息をつき、二人は思わず目を合わせた。
「お疲れさま」
「うん、お疲れさま」
ふふっと笑ったエメルに少女も苦笑して挨拶した。
オーディションを受け始めてから半年以上にもなって、エメルは同じオーディションを受けていたライバルの一人と初めて言葉を交わしたのだった。
「残念だったわね」
「まぁね。私はまた次のチャンスを狙うわ」
「私もそのつもりよ。お互い、頑張りましょうね」
エメルが微笑んでエールを贈ると、少女の瞳に好意めいた色が浮かんだ。
「貴女、綺麗なブルネットの髪をしているのね。名前は何て言うの? 私はマリーベルト・スアリス」
「ありがとう。私、エメル・カバシ。ハーフで半分日本人なの」
「ワオ! エメルの雰囲気が何となくエキセントリックだったのは、半分サムライだったからなのね」
突飛なリアクションにエメルは一瞬戸惑ったが「デイブだったらどう言い返すだろう」と思った時、切り返す言葉をすぐに思いついた。
「ああ、どうしていつもこう誤解されるのかしら。私が本当にサムライならオーディションに失格した時、切腹してるはずなのに……」
わざとらしく大仰にため息をついたエメルの言葉に、周囲にいた二、三人の少女達もマリーベルトと一緒に噴き出してしまった。
「これは失礼。イギリスを代表して偏見を謝罪するわ」
「マリーベルトったら、エメルにイギリス流のジョークと理解されなかったらどうするつもりだったの?」
「日本との時差が百年ぐらいあるなんて思われるんじゃない?」
「やあねえ。私、コメディアンじゃなくて歌手のオーディションに来たのに」
「ねえ、良かったらこれから一緒にお茶していかない?」
「あ、いいわね」
「エメルも一緒にどう?」
エメルは嬉しそうに頷いた。
「ええ、外で待ってるデイブも一緒で良かったら」
「デイブ?」
「うん、私のプロデューサーよ。正真正銘の日本人だけど刀も手裏剣も使ったところを見たことがないの。だからたぶん彼もサムライではないと思うわ」
「それは残念ね」
「エメル、それはまだ分からないわ。貴女に正体を隠しているだけかも知れないわよ」
「まさか!」
笑いさざめきながらオーディション会場のビルから外に出ると、通りの向こう側にあるオープンカフェでデブオタがブツブツ言いながら携帯の端末を弄っている姿がエメルの眼に飛び込んできた。
「デイブ!」
顔を上げたデブオタへエメルは走り寄ると「オーディション終わったわ」と報告した。
「おお、お疲れさま」
「結果はその……駄目だったの、ゴメンなさい」
「なあに、気にすんな。それより後ろの女の子達はなんだ?」
「さっき友達になったの。これからお茶をしましょうって。ねえ、デイブも一緒に来て」
デブオタは目を丸くして、エメルから少し離れた後ろに固まって自分に視線を注ぐ少女達をしばらく見ていたが、ふっと笑うと優しく首を横に振った。
「オレ様は行かないよ」
「えっ、どうして?」
「オレ様なんかいない方がいいから。さあ、今日はもう終わりだ。あの娘達と一緒に遊んでおいで」
そう言うとエメルの身体をぐるっと回れ右させて押し出した。
エメルが振り向くと、デブオタは「また明日な」と手を振ってさっさと歩き出していた。
その笑顔はいつもの豪快で自信たっぷりの笑顔だった。
だけど。
「デイブ……」
彼の顔に寂しげなものが見えたような気がした。
それは、ほんの僅か垣間見えただけだった。もしかしたら気のせいだったかも知れない。
しかし、エメルはその場から動き出すことが出来なかった。
何故、少女達と一緒にいることを彼は拒絶したのだろう。
エメルには分からなかった。
胸が痛い。鋭い痛みではなく、鈍い痛み。
何だろう、大切な何かが離れてしまいそうな気がする。
彼とこのまま別れてはいけないと何かが告げていた。
――何故胸が痛むんだろう。何故このまま別れたくないんだろう……
「エメル、どうしたの? 行きましょう」
立ち竦んだエメルに、近寄った少女達が声をかけた。
振り向いたエメルはつい今しがたのデブオタの不可思議な言動を話そうとした。
だが、話す前にマリーベルト達の笑いと嘲るような言葉が全てを解き明かした。
「あれ、本当にエメルのプロデューサー? あんな人、初めて見たわ!」
「体重何キロなのかしら。私、イギリス大陸が沈むんじゃないかと思ったわ」
「どうやら、私達と一緒になるのを断ったみたいね。賢明な人だわ」
「確かにサムライじゃなさそうね。お相撲さんかと思ったわ」
哄笑する少女達は、さっきとは別人のようだった。エメルの眼にはまるで初めて見る人達のように見えた。
胸の中にあるものを感じた。彼女達と相容ることの出来ない、大切な何か。
そして……
「酷い顔ね、ちょっと怖かったわ。あんまりお近づきになりたくないタイプの人ね」
マリーベルトがどこか蔑んだように笑った瞬間、エメルはデブオタの言葉を理解したのだった。
――オレ様なんか、いない方がいいからさ
エメルはデブオタの去っていった方角を見た。
「エメル、どうしたの? 行きましょうよ。美味しいお茶のお店があっちにあるのよ」
袖を引こうとしたマリーベルトの手をエメルは優しく振り払った。
「ごめんね。悪いけど私やっぱり行かない。みんなで楽しんできて」
「えっ、どうして?」
デブオタを笑っていた少女達はみな一様にキョトンとした顔になった。
エメルは静かに言った。
「あの人はお相撲さんじゃないの。私の大切な人なの」
「エメル?」
「私、人の痛みや悲しみを思いやってあげられる歌手になってくれって、彼に言われたの」
「エメル、何を言ってるの?」
「私も、そんな歌手になりたいの」
「……」
「だから、みんなとは多分友達になれないわ。ごめんね」
そう言って微笑むとエメルは踵を返して走り出した。
デブオタの去っていった方角へ。
彼女が望んだ側へ。
「何よあれ!」
「まさか、あんな気味の悪い男の肩なんか持つの?」
「友達になれないなんて何様? ハッ、こっちからお断りだわ」
「もういいわ。あんな娘、放って行きましょう」
訣別された少女達は一斉に口汚く反駁したが、エメルはもう振り返りもしなかった。
「デイブ! デイブ、待って!」
通りの向こうに遠く小さくなってゆく人影に向かって大声で呼びかけた。発声練習で鍛えたよく響く声に、周囲の人々が驚いたようにエメルへ視線を向ける。
「私、デイブと一緒に行くわ!」
彼女の声は届いたようだった。去りかけた人影が立ち止まる。
訝しげに振り向いた彼の許へ、エメルは頬を紅潮させて一散に走り寄っていった……
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「社長、こちらが先月の彼女の練習状況と評価、オーディションの報告書です」
高級そうな調度品でしつらえた社長室。マホガニーのテーブルの前に座った初老のその男は、不機嫌そうな顔で頷いた。
男の名はメイナード・ブランメル。芸能プロダクション「デファイアント・プロダクション」を統括する社長である。スタジオ前に張り込んだパパラッチを怒号と杖で退散させた逸話から、彼は業界では「雷鳴のメイナード」という通り名で知られている。
彼は渡された書類を机の上に広げ、丹念に読み出した。
彼が不機嫌そうに見えるのに特に理由はない。もともと地顔が気難しげなのである。不愉快な出来事があった訳ではなく、経営が苦しい訳でもない。
彼が経営するこの芸能プロダクションは、有望な歌手をイギリスの音楽界に何度も送り込んでいる。
そして、ある時は耳に残る派手な歌詞で、ある時は地味だが心に残る美しい旋律で、ゴールドディスク受賞とまではいかないがヒットを重ねてきた。
ここ数年、その実績は業界でも一目置かれるようになっていて、長引く不況の中でも仕事の依頼や発注が途切れることはなく、最近ではじわじわと増える一方だった。
そんなデファイアント・プロダクションを率いるメイナードは厳しい指導や経営手腕に加えていつも不機嫌そうな顔をしているものだから、会社の内外から恐れられていた。
だが、そんな社長の為人を知っている人々もいない訳ではない。
彼等は、メイナードが仕事に厳しい一方で社員達の仕事や歌手の活動を細かく把握し、心を配っていることを理解していた。人気が落ちた歌手を励ます為にファンとして熱のこもった手紙を書いたり、雨の中仕事に出向く社員を気遣って彼自身がタクシーの運転手になったことも一度や二度ではない。
彼等は一様に彼に敬意を払い、好意を抱いていた。
今、社長の向かい側で書類の要所要所を指で指し示しながら説明を加えるリアンゼルのマネージャー、ヴィヴィアン・ラーズリーもそんな数少ない理解者の一人だった。
「適正な練習量は守らせているんだな」
「はい。心身のモチベーションを維持する為にインターバルも設けています」
「歌唱の練習はどうなった」
「昨年引退した歌手のバーバラ・ロチェスターから先々月より指導を受けさせていましたが一昨日でプログラムは終了しました。高音の延びと声の鋭さに特にインパクトがある、デビュー曲に是非生かすようアドバイスがありました」
「そうか」
「リアンゼル・コールフィールドは当社に前例のない成功をもたらすでしょう。そう太鼓判を押されました」
「あのバーバラがそこまで認めたのか」
「当社から今まで三人歌手志望の娘を派遣して三人とも音を上げて辞めました。しかし、四人目に派遣したリアンゼルは最後まで彼女の指導にピラニアのように喰らいつき、認められました」
「私の見込んだ通りだ。彼女ならやってのけると思っていた」
メイナードの声は嬉しそうなのに不機嫌そうな顔は変わっていない。これだから彼は周囲から誤解されるのだ。
「だが、そのリアンゼルは何故、現在までのオーディションに全て落選しているのだ?」
「落選したオーディションを受けた順番に見て下さい」
「……」
訝しげに報告書を見直した社長は、しばらくして何事かに気がついたように瞠目すると顔を上げてヴィヴィアンを見た。
「お気づきですよね。毎回、オーディションを受ける時点の彼女より一段高いレベルのものを受けさせています。前回のオーディションを受けたのはリアン以外全てプロばかりでした」
「……」
「しかし、この程度のレベルで合格させて彼女を満足させるべきではありません」
「まだまだ彼女は化ける、成長するというのだな」
ヴィヴィアンは黙って頷いた。
「よろしい。君がそこまでリアンゼルに鞭をくれるなら、彼女がデビューする際には当社から特別なプロモーションも展開出来るように考えておこう」
「ありがとうございます」
メイナードは報告を見ながら首を振った。
「経営者の目から見ても賞賛に値する努力家ぶりだ。リアンゼルには何か覚醒する切っ掛けでもあったのだろうか」
「はい。彼女には敵と称する同じプロ志望のアマチュア歌手がいるのです。ライバルに負けまいとする対抗心と自尊心がリアンゼルをここまで向上させたようです」
「ほう」
細くすがめた社長の眼から鋭い光が閃いた。
「どんな娘だ」
「エメル・カバシ、と云う日英ハーフの少女です。リアンゼルの元クラスメートで一六歳。調べたところ、どのプロダクションにも所属しておらず、デビュー歴もありません。ただ……」
「ただ?」
「彼女には日本人の若い男性がプロデューサーとして付いています。非常に熱意ある男らしく、多数のオーディションを受けさせていました。しかも、プロモーションも兼ねているのか毎回インパクトを与える演出を彼女にさせています」
「ずいぶん変わったアプローチをしているな」
「ええ。彼女自身も透明感のあるウィスパーボイスとユニークなダンスステップを武器としています。そうそう、興味深いことにその娘はオーディションを受けている他の歌手志望の少女達から疎外されていました」
「ははは、リアンゼルと同じで、プライドの高さで敵を作るタイプかな」
思わずメイナードが苦笑するとヴィヴィアンは神妙な顔で首を横に振った。
「それが違うようです。オーディションの彼女のレポートを入手したところ、非常に内気で礼儀正しいが自分の個性を表現する迫力は別人のように圧倒的、と記載されていました。その強烈な個性が却って仇となり、今のところ受けたオーディションの需要に合っていなかったようです」
「……」
苦笑を消したメイナードは、ヴィヴィアンと顔を見合わせた。
「エメル、と云ったな。同世代の娘たちは馴れ合いやすいものだが彼女は迎合しない。だが傲慢ではなく礼節正しい一方で自己表現力は高い。よほど気品の高いポリシーを躾けられていると見た。チャンスに恵まれていないだけで、プロデュースについている男といい技能といい、おそらく尋常な少女ではあるまい」
「他に類を見ないタイプですね。今後もマークしようと思いますが、私には意図していることがあり社長にご判断いただきたいのです」
「なんだ?」
真剣なヴィヴィアンの視線が、メイナードの問いかける視線に恐れ気もなく絡んだ。
「リアンゼルの最終的なレベルアップの目的地です」
「……」
「彼女にふさわしい舞台は、来年のブリテッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションであるべきと考えます」
「ヴィヴィアン」
口を開いて何かを云おうとしたメイナードを抑え込むように、ヴィヴィアンは早口で続けた。
「わかっています。アルティメット・オーディションは特別で当社の『不文律』も知っています。リアンは今年受けて一次予選で落ちている。だけど……」
「……」
「あの時の彼女は天才を自称しながらろくに努力もせず自惚れてばかりだった。当然の結果です。しかし今の彼女は違う。ライバルを触媒にして努力を重ね、見違えるように成長して別人になった。社長、このプロダクションの中で、今の彼女を差し置いてあの権威あるオーディションを受けるのにふさわしい歌手はいますか?」
しばらく考え込んだメイナードは「いや、いないね」と静かに頭を振った。得たりとばかりにヴィヴィアンは熱っぽく訴えた。
「だからです。今から私が話す提案をどうか許諾して下さい。リアンにとって一番辛い試練を科すことになりますが、私が最後まで彼女と一緒に戦います」
「……どうやら、君がこれから話す試練をリアンゼルが越える為には、君の支えとライバルの存在が重要な鍵となるようだな」
「はい、是非お願いいたします」
白髪混じりの顎髭に手をやったメイナードは、ふと気が付いたようにテーブルの上から電話をかけた。
「午後六時までの予定はキャンセルしてくれ。それと熱いお茶を頼む。二つだ」
静かに受話器を置いた彼は、「その提案を拝聴して討議しよう」と机の上で組んだ手に顎を乗せた。
「それはおそらく、リアンゼルを成功に導く最後の重要なステップになるだろう」
「はい。それで、その提案というのが……」
半ば身を乗り出して訴えようとしたヴィヴィアンへ向かって、メイナードはテーブルの向かいに置かれた椅子を指差した。
「落ち着け、ヴィヴィアン。イギリス人が日本人に対抗するなら、まずはイギリス流にティータイムを嗜んでからにしようじゃないか」
** ** ** ** ** **
オーディションを終えたエメルがスタジオの外へ出ると、雨が降り出していた。
寒さの中で咲くシクラメンはまだ、花をつけていない。
イギリスの冬は陰鬱で人の気持ちすら滅入らせる。夕方にもなっていないうちから早々に日が暮れてしまうのだ。
エメルの目の前を何かが横切った。何だろう、と眼を向けるとそれは風に飛ばされた枯葉だった。
枯葉は、そのまま濡れた壁にぶつかってずるずると地面に滑り落ち、泥土に塗れた。エメルは思わず顔を曇らせた。
風に煽られて彼女の頬を濡らした雨粒は冷たく、季節が冬を迎えたことを嫌でも感じさせる。
「よう、お疲れ」
「デイブ、ありがとう」
傘を差し出すデブオタを見て、翳っていたエメルの顔にひととき笑顔が戻った。
それでも、不合格な結果を告げなければならない。彼女の心は痛んだ。
プロ歌手への切符は、未だ手に入らない。
彼が失望した顔を見せたことは一度もなかったが、エメルは心苦しかった。
「またダメだった……ゴメンなさい」
「心配すんな、次がある」
落選を告げるたびに、いつもデブオタは励ましてくれる。今回も。
屈託のないデブオタの笑顔。
だけど、何度も何度もずっとその繰り返しばかり。
彼の笑顔がいつか色褪せ、自分のように翳ってしまいそうでエメルは怖かった。
「いつもゴメンなさい」
「ばーか、謝ることねえって。今回のオーディションはレベル高かったもんなぁ。それに、そう簡単に合格出来たらイギリス中の女の子はみんなアイドルになっちまわあ」
笑ったデブオタが片手で自転車を引き片手で傘を差して歩き始めると、エメルも彼がくれた傘を差し、彼の傍に寄り添うにして歩き出した。寒さが応えたのか、デブオタが大きなくしゃみをして鼻をすすった。
「寒くなってきたな。エメル、風邪引かないようにそろそろコートの中にもう一枚何か着ておけよ。カーディガンみたいなの持ってたろ?」
「うん、ありがとう。デイブもね。私がこの間プレゼントしたセーターあるでしょ?」
「おお」
そのまま二人はいつもの公園に向かっていった。
「それにしてもオーディションこれで何回受けたかなぁ。もしかしてもう三桁かな」
「そ、そんなには受けてません! ……でもたぶん五〇回くらいは落ちてるわ」
「おー、もうそんなになるか」
感心したようにデブオタは鼻息を吹いたが、落ち込んだエメルの顔を見て「アタタ、そうか」と、わざとらしく凹んでみせるとニカッと笑った。
「よーし、じゃあ第二段階へ移るか」
「第二段階?」
「おうよ、エメルもレベルアップした。オーディションも慣れた。そろそろ次の一手を考えていたんだ」
どんな時も希望を失わないデブオタの顔を見上げたエメルは、「バーカ、心配すんな!」と、例によって背中をどやしつけられた。
いつもの公園の入り口に差し掛かった。オーディションのある日はそこで解散となる。
近づくにつれ、エメルの顔に次第に別れ難そうな表情が浮かんだ。
(もうちょっと一緒にいたいな)
だが、そんな表情など気が付かないデブオタは振り返って大きく手を振った。
「明日、その作戦を説明するからな。楽しみに待ってろよ」
「う、うん」
左手で傘を持ち、右手を振りながらエメルは公園の入り口で立ち尽くし、雨の向こうに去って行くデブオタを見送った。
「また明日ね……」
ささやくようにそう言うと、エメルの口から吐息が漏れた。
歌手を目指し始めてもう九ヶ月になろうとしていた。
オーディションに落ちてばかりで落ち込みそうなエメルにとって、デブオタの自信に満ちた力強い言葉は魔法のように希望をくれる力があった。
だけど、エメルにはそんな魔法の言葉でも消せない心の痛みがいつからか生まれていた。
――オレ様なんかいない方がいいからさ
デブオタはマリーベルトのように蔑む人々の世界には入らない。入れないことを知っているから。
だけど、昂然としていても本当は傷ついているのだと……そう知った瞬間から生まれた痛みだった。
リアンゼルに散々虐められ、人知れず泣いていたエメルだからこそ知り得た秘密。
それまでは、蔑みを跳ね返して敢然と立ち向かうデブオタがエメルには眩しかった。
だけど、その強さの裏側にある哀しみも彼女は知ってしまったのだった。
そんな彼に必要とされたい。
最近では、エメルは密かにそんな焦燥にかられていたのだった。
彼のために、もっと華麗に踊れるようになりたい、もっと上手に歌えるようになりたい。
小さなオーディションでもいい、合格の切符を掴んで彼の心に温かい光を当ててあげたい。
それが、今のエメルにとってプロの歌手になりたい正直な理由だった。
一方。
「さあて、どうしたもんか。何かいい作戦を明日までに考えないと。ううむ」
自転車を曳きながら独り言をつぶやくデブオタは、力強く請け負ったものの……実は何も考えていなかった!
行き当たりばったりここに極まる。当然のことながら彼はガマの油のような汗をかいて苦悶していた。
「おおおお落ち着け。確か、『ドリームアイドル・ライブステージ』にはオーディション以外にもプロデビューするイベントとかあったはずだ。ええと……」
情けなくズルズル鼻をすすってブツブツ言いながら傘を首に挟むと、彼は空いた手でタブレットPCをせわしく操作し始めた。
無論、こんな有様だから自分を見つめるエメルの瞳にいじらしい想いが宿っていることなど到底思い及ぶはずがなく……
「と、飛び込み営業か。コミュ障のオレ様が出来っこない方法じゃねえか……うう、これしかないのか、他に……他に手段は……」
頭を振り振り、タブレットPCを相手に無い知恵を懸命に振り絞る。
彼の頭の中はエメルをプロ歌手にする為の手立てをああでもないこうでもない、と考えるだけでいっぱいいっぱいだった。
「くそ、よりによってビジネスコミュかよ、一番オレ様が駄目な奴じゃんか……」
デブオタはガックリとうなだれた。
同じオタク同士のコミュニケーションなら慣れたものだったが、社会的な常識や礼儀を弁えた一般人とのコミュニケーション……となると話が違ってくる。
ましてや、企業が相手になると敷居が恐ろしく高くなる。礼儀はもちろんのこと、話し方から容姿、人間性、持ちかけるビジネスの内容まで厳しく見られるのだ。リアンゼルのように遠慮も礼儀も無用な相手と戦うのとは次元が違ってくる。
外見はさておき、ビジネス的なマナーも交渉術も、彼は何一つ持ち合わせていなかった。
だが、エメルを必ずプロの歌手にしてやると約束したのは自分なのだ、と彼は思い起こさざるを得なかった。
それも、彼女にとって一番大切な母親に誓わせて。
九ヶ月。彼女はデブオタを信じて懸命にレッスンを重ね、オーディションを受け、ここまで付いて来た。
ここで自分が逃げる訳にはいかない。
大声の特訓で目隠しをして通りを渡った時のあの勇気を思い出せ! と、覚悟を決めたデブオタは握りコブシに力を込めて叫んだ。
「ここまで来たからにゃもうやるっきゃねえ。ええい、腹はくくったぜ!」
そして……
「お待たせ。では次の作戦を説明する」
翌日、公園でいつもの練習メニューを終えて休憩した後、デブオタはベンチに招き寄せるとテーブルの上にスタンドを置き、タブレットPCを立てた。
昨日の情けない苦悩などまるでなかったかのような、自信満々の姿である。
「それにしても、こんなところで奴にまたお目にかかるとはオレ様も思わなかったぜ。フヒヒッ」
「奴?」
「まぁ、まずはこれを見てくれ」
デブオタがあらかじめブックマークしておいたらしい動画サイトを開き、エメルは覗き込む。
そこに、一人の少女が煌びやかな衣装を身に纏い、歌っていた。
「Wild boys never lose it! Wild boys never chose this way! Wild boys never close your eyes! Wild boys always shine!」
(野生に目覚めた若者は決して屈しない、こんな道など選ぶものか! 瞳を見開き、ひたむきに輝きを放ち続ける)
手にしたエレキギターはまるで銃器のようだった。
荒々しく弾く嵐のような音の弾丸に合わせ、浴びせられる光などものともせず、カメラに向かって猛々しくデュラン・デュランの名曲「ワイルド・ボーイズ」を歌い上げている。
彼女の姿には見覚えがあった。
九ヶ月前までいじけて泣くしかなかったエメルをさんざん虐め抜いた相手なのだ。忘れるはずがない。
公園のトイレの傍の宣戦布告から九ヶ月。いつしかその罵声も聞かなくなり、姿を見掛けなくなっていた驕傲の歌姫。
「リアンゼル……」
「どうやらコイツ、本気でエメルと決闘するつもりだな」
しばらく見ないうちに、リアンゼルはずっと容姿も洗練され、歌声も華麗になっていた。高い音程すら延びのある鋭い声で苦もなく歌っている。
サファイアのような瞳や輝くような金髪と相まって、画面の中の彼女はカリスマのようなオーラをまとって煌いているように見えた。
息を呑んで見ていたエメルは、ふと我が身を顧みた。
自分は未だにオーディションに一度も合格していない。
気がついて摘んだ自分の髪も、彼女の輝くような金髪とは比べ物にならない地味な黒髪だった。
自分が今着ているのも彼女の煌びやかな衣装と比べるのも恥ずかしい、色褪せてくたびれたジャージ。エメルは、彼女に比べて自分が余りにもみすぼらしく思えて俯いた。
泥の中を這いずるような自分の労苦と成長に対し、彼女は軽やかに成長し遥か先にいるように思える。
だが。
そんな彼女の耳に、デブオタの信じられないような言葉が聞こえたのだった。
「ふーん、確かに上手くなってるなコイツ。でも今のエメルなら勝てないことねえや」
エメルが驚いてデブオタに顔を向けると、むしろデブオタの方が驚いたようにエメルを見返した。
「何だ。オレ様ヘンなこと言ったか?」
「デイブ。い、今……勝てるって言わなかった?」
「ああ。勝てないことないだろ? 九ヶ月前のエメルならともかく」
「私が?」
「当たり前だろ。まさか、エメルはオレ様がアイツと喧嘩してたからって、歌で対決するのもオレ様だとか思ってたのかよ!」
そう言われて、エメルは思わず想像してしまった。
二度目のオーディションで彼が演じた半裸のバックダンサー。そんな姿でリアンゼルとステージで対峙する様子を頭に思い浮かべ、エメルは思わず噴き出してしまった。
「思ってません! 違うわよ!」
「だよな。……ったく驚かせるんじゃねえよ」
「歌うのは私なのよね。わかってます。ええ、さすがにそれはわかってますとも」
「当ったり前のコンチキよ」と胸を撫で下ろしたデブオタに、エメルは苦笑したが「でも、リアンゼルに比べたら私、ずっと負けてると思う」と下を向いた。
「……負けてるところはどこだと思う?」
「私、まだオーディションに一度も受かってないもの」
「アイツもまだ一度も受かってない。デビューしたって話も聞かねえな。この動画も彼女のプロダクションが作った売り込み用だぜ」
「歌、リアンゼルの方が上手くない?」
「声が鋭いし、高音もオペラ歌手みたいだな。でも、そういう声質ってことは、エメルの透明感のある歌声は、コイツには出来ない」
「私は黒髪で、彼女みたいにキラキラ光る金髪に比べたら全然見栄えなんてしないし……」
「コイツの金髪はライトが当たって派手に見えているだけだ。エメルの綺麗な髪はお母さん譲りだったよな。艶があるぶん、金髪よりよっぽど品があるぞ」
「でもリアンゼルのギターみたいな技は……私、特技も何にもないし」
「エメル、コイツの動きを見てみろよ。ほとんど棒立ちだぜ。エメルだったら得意のダンスステップが出来るのに。今までさんざん鍛えてきたよな。向こうが弾き語りで歌うなら、こっちは踊りながら歌える」
「……」
「どこが負けてるんだ? 何ひとつ負けてないじゃねえか」
デブオタにひとつひとつ言われているうちに、エメルの内にわだかまっていた劣等感はひとつずつ霧のように消えてしまった。
「あ、あれ? ……言われて見たらそうなのかな、私」
「エメル、自信持てよ」
デブオタはおもむろに携帯電話を取り出すとカメラのスイッチを入れ、「ピピッ……カシャッ」という音と共にエメルを撮影した。
「こっち来て、見てみな」
言われるままにデブオタの指し示す携帯を見ると、そこには分割した画面にそれぞれ二人の少女が映っていた。
一人は、ショートカットの黒髪をした小太りの少女だった。今にも泣き出しそうな顔で懸命に引き攣ったような笑みを浮かべている。
そして、もう一人はほっそりとなって綺麗に整った顔にキョトンとした表情を浮かべ、長く伸びた黒髪を揺らしていた。
二人は同じ「架橋エメル」という名前の少女だった。体型も髪の長さも顔の作りもまったく別人のように変わっていたが、二人の決定的な違いはその瞳の輝きだった。
トルコ石のようなターコイズグリーンの瞳は変わらない。
しかし、長い髪の少女のそれから卑屈さは消え、信念と今までの努力に裏打ちされた強い意思の輝きが宿っている。
「この二人、別人のように見えるけど実は同一人物なんだぜ」
「……」
「エメル、お前は必ずスターになれる。オレ様がそうしてやる。天国のお母さんが喜んでくれるような歌を歌わせてやる」
力強い言葉が再びエメルの心に自信を与えてくれる。涙が出そうになった。
「泣くな! 涙はスターになるその日のためにとっておけ!」
「はい!」
うなずいたエメルの髪をくしゃくしゃにしてデブオタは笑った。
「さて、そんなエメルをコイツみたいなミュージッククリップで売り込む、それが今回の作戦だ」
「ええっ!?」
「エメル、お前はまだ自覚がないんだろうけど、もうそんなレベルなんだ」
「そ、そうなんだ……」
「おう。アイツ以上の凄い奴を作ってやる。売り込みの営業は任せとけ。話なんかすぐに決まってプロデビューだ。フヒヒッ」
半ばぼう然となったエメルへニヤリと笑うとデブオタはタブレットPCを操作し、画面を向けてよこした。
そこに映っていたのは……。
いつもは、オーディション用の課題楽曲の振り付けをデブオタが考え、バーチャルアイドルに踊らせている。それを見て真似しながらエメルは踊り、振り付けをマスターしていた。例のアイドル育成ゲーム『ドリームアイドル・ライブステージ』のエディットモードを利用した方法である。
登場するアイドル達は総勢十人ほどで、皆、独特の髪型と衣装にそれぞれ特徴がある。彼女たちは今ではエメルにもすっかり顔なじみになっていた。
しかし今、画面の中で「フラッシュダンス」の「What a Feeling」に合わせて踊っているのは初めて見る少女だった。
彼らより少し背が低く、長く美しい黒髪を靡かせ、緑がかった瞳を挑戦的に光らせて可憐に歌い、踊っている……その姿にエメルは思わず大声を上げた。
「ああっ! 私が……私がいる!」
それはエメルだった。エメル自身がアニメキャラ風のバーチャルアイドルになっていた。
画面の中のエメルは銀ラメの入った黒い衣装に身を包み、色を変えて発光するステージの上で華麗に踊っている。肩にまとったショールから銀の光を振りまいて……。
歌声に合わせて唇も動いているので、まるでエメルがアイリーン・キャラになりきって歌っているように見えた。
「す、凄い。デイブ、私をどうやって作ったの?」
「ドュフフフフ……このシャドー・エメルはMMDといってな、3DのCGモデルを作るソフトウェアで作ったんだ。これがプロモーション用の秘密兵器だ。このステージに本物のエメルを撮影して合成し、シャドーエメルとデュエットダンスさせてミュージッククリップを作るって寸法だ」
声も出ない様子のエメルを見て、デブオタは「唐変木のイギリス人どももこの演出には刮目せざるを得まい。フヒヒッ……彼奴ら、日本のオタ文化のテクノロジーにさぞや度肝を抜くだろうて」と不敵に笑った。
「後はプロモーション用の楽曲をどうするかだな。オリジナルもいいが、そうなると誰か有名な作曲家に依頼しないとな。それと売り込み先をどこにするか考えとかないと……」
鼻息も荒く、顎に手を当てて嬉しそうに悩んでいたデブオタは、ふと、驚愕の眼で自分を見上げるエメルに気がつくと「どうだ、オレ様って凄いだろ!」とコブシで胸を叩いた。
エメルはうなずき、デブオタはそれからしばらく曲のイメージや衣装のデザインなどを語ったが、正直彼女にはデブオタの言うこだわりや美的センスは余り理解出来なかった。
そんなことよりも顔を輝かせて熱く語っている彼にエメルは半ば陶然となっていた。
脂ぎったその横顔は、お世辞にもハンサムとは云えない。
だが、そこにはひたむきに夢を追う者だけが持つ美しい情熱が、まるで眼に見えそうなくらい溢れていた。
エメルの心は、どうしようもなく彼へ彼へと惹き付けられてゆく。
ところが、調子に乗ったデブオタは『ドリームアイドル・ライブステージ』に登場するアイドルの少女達の自慢を始めた。
「今までエメルに振り付けのモデルをしていた娘も、みんなオレ様がプロデューサーとしてSランクまで育て上げたんだぜ」
「へえ」
「最初にエメルに初心者向けのダンスをレクチャーした娘がいるだろ? ほら、青い髪のツインテールのこの娘」
「うん」
「レナレナは我侭でレッスンをさぼったり、ストレス解消でお菓子を食べ過ぎてダンスのレベルが落ちたり結構手がかかったぜ。でも根は素直で優しい娘なんだ」
「そうなんだ」
それまでうっとりしていたエメルの表情が、だんだん微妙に変わり始めた。
「エメルと同じ黒髪を結い上げている和服の娘は楓って名前なんだ。茶道を嗜んでいるし立ち振る舞いが清楚だから手の仕草、小物を使ったポージングや座りのポージングとかをエメルに教える時の先生にしたんだ」
「え、ええ。色々教わったわ」
「おっとりしてほんわかしたカンジだろ?」
「そうね、確かにそんなカンジだったけど……」
眼を輝かせ、画面の中の少女達を指差して自慢するデブオタは嬉しそうだった。
だが、一方のエメルは頬を膨らませ、顔には次第に不快そうな表情が現われ始めた。
それでもデブオタは気がつかない。
「この背が高くてスラッとした娘がアーヤ。元モデルだからウォーキングやポージングを教える時のモデルにしたんだ。彼女のおかげでエメルの歩き方もずいぶん綺麗になったよなぁ」
「……うん」
「そうそう、この娘……るるなは特撮ヒロインから転向した異色のアイドルなんだ。だからアクション色の強いダンスが得意でなあ。でもいい娘なんだ。エメルもさんざん鍛えられただろ?」
「……」
不快を通り越したエメルのこめかみに、とうとううっすらと青筋が立ち始めた。
「みんないい娘なんだ」
「ふぅん」
トイレの傍で虐められメソメソ泣いていたかつての面影などどこへやら、何気ない返事とは裏腹に、エメルはみんな殺してやりたいと言わんばかりの形相で画面を睨みつけた。
「ああ、本当に実在する娘だったら、エメルといい友達になれたろうにな。どんなにいい娘でも、みんな画面の中の住人だもんなぁ」
そう言ってデブオタが残念そうにため息をついた時、エメルはようやく「あ、そう言えばみんな架空の女の子なんだ」と、気がついた。
般若のような顔から憑き物でも落ちたようにいつもの顔に戻ってホッとため息をつく。
「ねえ、デイブ。ところでこの黒髪のエメルって娘は?」
「お、おう、その娘は……」
ちょっと間が空いた。デブオタは鼻の頭を掻いて少し考え込んだ。
それから、空を見上げて照れくさそうに笑いながら言った。
「この娘たちの中では一番手がかかったなぁ。でも、今ではこの娘たちの誰よりも魅力がある。綺麗になったし歌も上手になった。もうすぐスターになるこの娘がオレ様の一番の自慢だ」
エメルはパアッと顔を輝かせて頷いた。
よほど嬉しかったのだろう、蕩けそうな笑顔を両手でペタペタ触っては「エヘヘ」と、照れてしまった。そうして何度も「一番、一番……私がデイブの一番」と口の中で呟いた。
「ふー、何か汗かいちゃったな」
結局、最後まで何も気がつかないまま「とりあえず明日から撮影に入るから、そのつもりでな」と締めくくったデブオタは、冷たい冬の風に火照った顔を晒して「おお、いい風だ」と眼を細めた。
「デイブ」
「んん?」
風に吹かれて気持ちよさそうにしているデブオタに、エメルは籐かごを差し出した。
「お腹空いたでしょう? またランチを作ってきたの。食べて。紅茶もあるわ」
「おお、そりゃありがてえ。ちょうど喉も渇いてたしな。お腹もペコペコだ」
眼を輝かせたデブオタの前で公園のテーブルにクロスを広げると、エメルはいそいそと紙皿にサンドウィッチを並べ、水筒からカップに紅茶を注いだ。
「いっぱい食べてね。たくさんあるから食べ切れなかったら持って帰って。そのつもりで作ってきたの」
「すまねえな。それじゃ遠慮なくいただきます!」
よほどお腹をすかせていたのだろう。デブオタは早速サンドウィッチを掴むやムシャムシャと頬張り、香りなど楽しみもせずに紅茶をゴクゴクと飲んだ。
「うめえ! すまん、持って帰る分まで残らねえかも」
「ふふふ、じゃあ明日はもっとたくさん作ってくるわね」
嬉しそうに笑ったエメルは、ややあって静かにデブオタへ話しかけた。
「デイブ」
「おう、こんなに美味いのをありがとうな」
「どういたしまして。ねえ、あの凄いCGって日本の技術なんだね」
「まあな。日本のアニメとかゲームが生んだアキバカルチャーの叡智だぜ」
「デイブは日本から来たんだね」
「うん、オレ様は日本生まれの日本人だ」
「ジャパニーズイングリッシュだけど、英語話すの上手いわよね」
「ああ。『ドリームアイドル・ライブステージ』に二人、外人がいただろ?」
「アナベリーとルルージュね」
「ゲームプレイで彼女達とコミュニケーションするのに英語が必須でな。覚えるのにちょっと苦労したが、ハイスコアでコンプリートクリアするのにはどうしても必要だったんだ」
そこまで話したデブオタは、慌てて手にしたサンドウィッチを振り回しながら「お、音楽プロデューサーになる前の話だけどな」と付け加えた。
「……」
「おお、このピクルス絶品だな!」
「ありがとう。ねえ、デイブは毎日ちゃんと食べてる?」
尋ねられたデブオタはちょっと困惑した顔になったが「リッツロンドンで毎日ステーキを食ってるから心配すんな」と笑った。
「デイブは、どうしてイギリスに来たの?」
「アナベリーはイギリス出身で、ロンドンっ娘なんだ。で、彼女の故郷を見て回ろうと思ってな。これを日本のオタクの間では『聖地巡礼』と云うんだ」
そこまで話したデブオタはまた慌てて「昔はオタクだったけどな。音楽プロデューサーになったから忙しくて、今頃になってやっと来れたんだ」と、付け加えた。
「じゃあ私、アナベリーに感謝しなくちゃ。彼女のおかげでデイブに会えたんだもの」
「うん、この娘も本当にいたらエメルといい友達になれたろうになぁ」
「デイブ。今までいろんなレッスンをしてくれたわね。なのに、謝礼はいらないって。私、やっぱり何か申し訳なくて」
「何だ、その話は前もしたじゃねえか」
デブオタは、おかしそうな顔で振り返ってエメルを見た。
「別段、お金なんかかかってねえよ。練習スタジオは全部この公園だし、発声や古典バレエのチュートリアルは無料の動画サイトだろ。ダンスの振り付けは『ドリームアイドル・ライブステージ』のエディットモードだしな。全部タダじゃねえか。かかったのはせいぜい中古の自転車とシューズとジャージ代くらいかな」
「う、うん」
「気になるなら……そうだな、エメルがスターになったらレッスン料がっぽりボッタくらせてもらうか」
そのままガーハハハ! と笑い飛ばされ、エメルも仕方なく笑うしかなかった。
初めて会った時もお洒落とは到底言い難かったが、デブオタの身なりは今ではすっかりみすぼらしくなってしまっていた。
髪は伸びてボサボサ、着ている洋服はエメルの知る限り四パターンしかなく、みな色褪せ擦り切れている。履いているシューズもよれよれにくたびれていた。
居住するつもりなどなかったであろう彼が九ヶ月も異国に居るのだ。滞在費だけでも馬鹿にならないだろうに、レッスン料だって一ペニーすら受け取ろうとしない。
デブオタの身を気遣って、せめてもとエメルは今では毎日ランチを用意していた。
本当は、もっといろんなことをしてあげたかった。
エメルは、最近ではどんな些細なことでも彼が気になって、何かと心配するようになってしまっていた。
普段はどこに住んでいるのだろう。食事はちゃんと摂っているのだろうか、お金の心配はないんだろうか。
だけど、たまに彼のことをおずおずと尋ねてはさっきのようにいつも笑い飛ばされてばかり。
(いつまでここにいてくれるんだろう)
それが一番の不安だった。
ずっとデイブにここに居て欲しい。そう言ってしまいたかった。
だけど、それはどうしても言い出せなかった。
それでも、自分の気持ちを彼に伝えたくて……気づいて欲しくて……
「デイブ。私、プロモーションでひとつ希望があるんだけど。我がまま言ってもいい?」
ようやく何ごとか決心したエメルは、両手をねじり合わせるようにして言い出した。
「おお、何だ何だ」
「プロモーション用の曲のことなの。わ、私……いま歌いたい曲があるの。私の気持ちそのままの曲。よかったらそれで……その曲で作って欲しいんだけど」
「ほぉ、そりゃいいや!」
デブオタは、いい提案を聞いたと言うように喜色を浮かべた。
「エメルが歌いたい曲か。それなら気持ちの入れ込みもある分、いい出来になるだろう。じゃあそれで決まりだ。曲名は?」
エメルは顔を真っ赤にしたが、そのターコイズグリーンの瞳を煌かせてデブオタをまっすぐ見つめた。
そして息を吸い込むと意を決したように、上ずった声で一気に言った。
「CAN'T TAKE MY EYES OFF YOU(君の瞳に恋してる)」
エメルはそのまま固唾を呑んだが、デブオタは事も無げに「おお、それか!」と、眼を輝かせた。
「あ、あれ?」
「よし、いい振り付けと舞台演出を仕込んでおくからな。楽しみにしといてくれ!」
エメルはキョトンとなってデブオタを見た。
どうやらデブオタは、エメルが真っ赤になったのは自分から希望をリクエストしたのが恥ずかしかったのだと思ったらしい。屈託なく「いい選曲だ!」と、エメルを褒めた。
「舞台設定はやっぱり野外のライブ会場がいいだろうな。有料オプションであったはずだ。それから振り付けはどのパターンにしようか……組み合わせを考えないとな」
「あ、あのね、デイブ……」
「大丈夫だ、明日までには絶対気に入ってくれるのを作っておくからな!」
「……」
「心配するな。任せとけ!」
「……」
ポカンとしてその様子を見ていたエメルは、しばらくして脱力したようにガックリと肩を落とし、ため息をついた。
「どうした? エメル」
「……何でもない。楽しみにしてるわ」
さっきのうわずった声とは別人のように疲れ切った声は、ちっとも楽しそうではなかった。
しかも、デブオタは「そうか?」と余り気にした素振りもなく、すぐ眼を輝かせてタブレットPCを弄り始めている。エメルは額に手を当てて首を振った。
そしてもう一度、深い深いため息をついたのだった……
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