コヴェント・ガーデンか。
向こうに居る時は、それで通じてたけど、
確かにスペルを読むと、コヴェント・ガーデンだね。
また、書き直しだ。
ありがとう。
コヴェント・ガーデンか。
向こうに居る時は、それで通じてたけど、
確かにスペルを読むと、コヴェント・ガーデンだね。
また、書き直しだ。
ありがとう。
あなたが、正しい。
これを読んだ編集者の方も気がつかなかった。
ありがとね。
ロンドンはコヴェントガーデンの一角に
そのジャグラーは居た
心拍数のなくなったようなハンチング帽を裏返しに置いて
数人の興味を集めながら日の光を受け
陽気にジャグリングをしていた
バッタが語るように丸い玉を跳ね上げ
得意な手芸を何度も繰り返した
いま僕は彼にとって一人の見物客なのだ
彼の足元には古めかしいラジオカセットが置かれていて
僕の趣味ではない音楽に乗ってそれを繰り返した
見物客は固定ではなく
電車がプラットホームについては発車するように入れ替わった
それでも彼は動揺することもなく
自分の世界を堪能している
表現者と理解者の間には
共有がなければ成立しないという定義は
ここには存在しない
短めのパンツから見え隠れする素足を隠そうと
躍起になって背伸びしているかのような靴下
ミュージシャンがミュージシャン風であるように
彼は大道芸人の風貌をしていた
僕はそこを離れるのが辛くなった
離れるきっかけを探していた
そんな風に客に気を使わせる彼はやはり一流ではない
なので一流ではない見物客を相手にパフォームしていたのだ
ふと思った
幸せの定義を答えるのにもままならない僕が
一流の定義を持ち出すのは不自然じゃないかと
そんなことを考えた僕は急に恥ずかしくなった
ジャグラーは自分の世界を楽しんでいるのだ
見物客がしばし足を止めてくれるだけで幸せなのだ
彼は無心にジャグリングしていたが
彼の手は彼を裏切った
玉が跳ねて僕のところへ転がってきたのだ
僕はそれを拾うと彼に手渡した
「ドーモ、アリガト」
僕が日本人だと気がついていたのだ
僕は片手を上げて
「ドン、メンショニット」
と返した
僕はポケットをまさぐって
彼のしなびた帽子に1ポンドを入れてその場を去ろうとした
「ドーモアリガト サヨナラ」
彼は日本風に腰を折って頭を下げた
「アイ、ハダ、グッタイム。サンキュー」
「ジャーネ マタネ」
これはひとつの共有だった
いま彼と僕の間でパフォーマンスは成立したのだ
僕は帰国してから
ステージでお辞儀をするとき
心の中に新しい言葉が加わった
「ジャーネ、マタネ」
コヴェントガーデンの一角で
見知らぬ大道芸人から教えられた共有だった