今日の午前中、こころの未来研究センターに来てくれた福岡県立明善高校の一年生の皆さん60名あまりに講義をしました。以下に、そのために書いたテキストを掲載します。実際の講義では、時間の制約もあり全部の話題には触れられなかったので、明善高校の皆さんにもこのブログを参照するようにお知らせする予定です。
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「スーパーサイエンスハイスクール」というプログラムの一環として、皆さんは一昨日から、理化学研究所のスーパーコンピュータ「京」を見学したり、京都大学のiPS細胞研究について話を聞いてきたということですが、いわゆる科学研究の「最先端」を目の当たりにした感想はどうでしょうか? びっくりしましたか? それとも、アニメやゲームなどの「物語」の中では、もっとすごいことがいくらでも実現されているので、正直それほどショックは受けなかったでしょうか? あるいは皆さんはお利口なので、大人たちの「子供たちをビックリさせて科学研究への意欲を高めたい」というような意図をちゃんとくみとって、ビックリしたふりをしてくれたのかもしれません。
ぼくの専門は美学です。美学というのは哲学の一分野で、人間の感覚や感性、感情について理論的に考える学問です。その美学から見ると、例えば「京」のようにものすごい処理能力を持ったメインフレームを目の当たりにした人間が持つ感情のことを"feeling of awe”と言います。「畏敬の念」とでも訳せるでしょうか。驚きと、畏れと、尊敬が混じったような感情のことです。
この感情は人間にとって普遍的なもので、例えば「神様」に対する感情がそうです。神様と言っても、日本の「大国主の命」みたいなのじゃなくて、どちらかというと「一神教」の神様ですね。一神教というのはユダヤ教やイスラム教、キリスト教などのことです。これらのうちユダヤ教やイスラム教は、神様の偉大さを感覚的にアピールするようなビジュアルな仕掛けを、あまり作ってきませんでした。それらの世界では神様の偉大さは、主として言葉の力によって伝えられます。キリスト教もはじめのうちはあまりビジュアルな仕掛けは作りませんでしたが、中世以降はたくさん作るようになりました(いわゆる「西洋美術」というのがここから出て来ます)。
そうした仕掛けのひとつが、例えば巨大なゴシック教会です。教会はもちろん神様そのものではありません。でも神様は見えないし会うこともできない(旧約聖書の時代には人間に直接話しかけてくれたけど、愚かな人間が神様の息子を死刑にしちゃったので、その後は話しかけてくれなくなった)ので、別なもので神様の計り知れない偉大さを感じさせる、美的な仕掛けを作るようにしたのです。ゴシックの大聖堂のような高い建物なんて他に見たことのない昔の人々は、それを見て文字通り「オー!」と叫んで「神様そのもの」を感じたように思ったことでしょう。これが”feeling of awe"です。
現代でも、スペースシャトルとか、ジュネーヴ郊外にある「大型ハドロン衝突型加速器」とか、チリの高地にあるミリ波電波望遠鏡施設とか、人々に"feeling of awe”を抱かせる巨大な科学施設はたくさんあり、スーパーコンピュータもその一つです。ただ、高性能のコンピュータは昔は実際に巨大でしたが、進歩するにつれて物理的には小さくなっていく傾向にあります。だからこの場合、畏敬の念を起こさせるのはサイズではなくて、その計算能力です。多分説明を聞いたと思いますが、10ペタフロップスです。この「10ペタ」というのが「京」ということですね。もっとも「京」という単位については歴史的に別な数え方もあるのですが、現在日本では10の16乗という解釈です。つまり一秒間に10の16乗回の計算ができるということです。
10の16乗というのはどんな数でしょうか。ペタが「千兆」ですから、その十倍で「京」。でもこんな言い方は単なる数字、記号による表現であって、何も直感的に分からせてくれません。より直観的に分かろうとするならどんな感じなのか? ということが、美学では重要です。それで、世界中の人(70億人)が1秒間に1回計算して、17日くらいかかるというようなことを言います。こんな説明を聞きましたか? 「京」はそれを1秒間でやるということです。まさに「オー!」ですよね。
でもね、実はこんなことに驚いていてはいけません。コンピュータの計算速度は確かにものすごいけれど、だからと言って、やがて何でもできるようになる、人間の知性を超える人工知能(AI)が作られる、ということとは、実は何も関係がないのです。人工知能というのは今から30年くらい前の1980年代にとても流行し、コンピュータの処理速度の高速化とビッグデータの処理によって今またブームのようになっていますが、その底に流れているのは、人工物を人間にとってのライバルのように考える、ユダヤ教・キリスト教に特有の、古い宗教的信念です。そうした信念を、圧倒的な速度や能力を見せつけることで、説得しようとしている人がいるだけです。美学の立場から見ると、ここには人の気持ちをコントロールする、ある仕掛けがあります。
「京」の計算能力のように、人間が直観できるスケールではとても測りきれないような対象に対して私たちが抱く感情のことを美学では「崇高(the sublime)」と呼んできました。途方もなく数が多いだけでなく、宇宙のように把握できないほど大きかったり、巨大津波のように力が強かったりするものも「崇高」です。現代の世界で、私たちに「崇高」の感情を一番強く抱かせるのは、宗教でも芸術でもなく、科学の成果です。途方もない量や力を提示されると、私たちは「オー、こんなすごいことがあるのなら、何でもできるんじゃないだろうか?」などと感じてしまいます。すごいものを見せつけられて、頭がクラクラしてしまうだけですね。これが、人間を超える人工知能が間もなく作られるだろうとか、生命工学の進歩で全ての病気が直ったり老化や死も克服されて人間が無限に生きられる時が来るのではないのか? とついつい思わせられてしまうカラクリです。
「崇高」という感情が強く意識され始めたのは、18世紀後半のヨーロッパです。この時代は同時に、私たちが今「科学(science)」と呼んでいるものが出来上がってきた時代なのですね。でもそう言うと皆さんは「あれ、科学というのはもっと前からあったのではないの? 17世紀のガリレイやニュートンも、古代ギリシアのアルキメデスも科学者じゃなかったのか?」と疑問に思うかもしれません。混乱しないように、ここでちょっと整理しておきましょう。
「科学(science)」という語の源は、ラテン語の”scientia"です。それは「知識」という意味です。今私たちが普通「科学」という場合の「自然科学」という特定の意味はありません。断片的でなく、ある程度整った知識の集まりは、分野にかかわらずみんな"scientia"なのです。英語の”science"にもこの意味は残っています(例えば「社会科学」は”social science")。言い換えれば、元来”science”には理系・文系の区別はなかったということです。
そして”science”という言葉はあっても、「科学者(”scientist”)」という言葉はありませんでした。「科学者」という言葉はいつどこで誰が作ったのか? それはハッキリわかっています。それは、イギリスのウィリアム・ヒューエル(Wiliam Whewell)という学者が、1833年に作りました。ちょうどその頃、”science”という言葉の中にも、自然を専門的に研究し、新しいことを発見したり発明したりして、国や人類の進歩に役立つ専門的学問というような、私たちに馴染みのある「科学」という意味が生じてきました。
つまり厳密に言うと、アイザック・ニュートンは「科学者」ではなかった、ということになります。「科学者」という言葉がなかったのだから、まあ当たり前ですね。それではニュートンはいったい何者だったのか? 「自然哲学者(natural philosopher)」というのが、より適切な呼び名です。哲学者の中で、特に自然について深く研究した人ということです。
ついでにこの哲学(philosophy)という言葉についても確認しておきましょう。これは古代ギリシア語の”philosophia”に由来します。"philo-“とは「愛する」という動詞に由来する要素で、”sophia”は知識を意味する名詞です。つまり”philosophia”とは「知ることを愛する」という意味です。どういうことかというと、「知る」こと、知識が何かの役に立つから重要というのではなく、知ることそれ自体が面白い、好きだということ、それが哲学です。こんなことを言わなければならなかったということは、逆にいうと、古代ギリシアでも、知ること・知識を、それ自体に価値が有るとは思わず、何か別な目的(お金儲けとか、権力を得るとか)のために役立つがゆえに価値が有ると考えていた人たちがたくさんいたからです。現代と全然変わりませんね。
今「科学」と呼ばれているものは、"big science"です。とても高価な実験装置や、たくさんの人が働く研究施設が必要です。そうした「科学」には、たくさんのお金が必要です。それに必要なお金は、科学者が自分のポケットマネーで出すことはできないので、国や企業から出してもらわなければいけません。でもお金を出す人は、科学は大切だから、気にせずいくらでも使っていいよ、と考えて出すことはまずありません。必ず、何かの役に立ち、やがては科学のもたらす発見や発明が大きなお金儲けにつながると期待するからこそ、出すのです。つまりビッグ・サイエンスというものはそうした繋がり、世間のしがらみの中で初めて可能になっているということです。その点が、ガリレイやニュートンの時代の科学とは全然違います。
あることが好きだからやる、というのは「愛好家」ということです。英語の「アマチュア」の語源は「アマトーレ」というイタリア語で、その意味の核にあるのは「アモール(愛)」という概念です。現代では「アマチュア」は「プロ」の対立語と考えられていますが、「プロ」というのは「プロフェッショナル」、つまり職業としてやること、会社や国や人類のために、好き嫌いに関わりなく仕事をすることです。
ニュートンにとって自然研究は仕事ではありません。好きだから、面白いからやることなのです。18世紀以前のほとんどの自然研究者にとってもそうです。「プロ」はいません。いわばみんな「アマチュア」なのです。と言っても、それはレベルが低いという意味ではなく、「愛」に導かれて研究していたという意味です。
ちなみにニュートンには、自然哲学者以外の側面もありました。例えば錬金術です。錬金術というのは金を作って一儲けする方法のことではなくて、「賢者の石」という世界の秘密を握る物質を作り出すことです。もう一つは聖書年代学です。これは聖書を詳しく読んで、例えばこの世界はいつ始まっていつ終わるのか、といったことを推定する研究です。そんなことをするくらいだから、もちろんニュートンは有神論者です。近代科学の父と言われるニュートンが神様を信じているなんて意外と思われるかもしれません。しかし神の存在は本来合理的思考と矛盾しないのです。宗教が科学の「敵」になったのは、もう少し後(19世紀)になってからです。ダーウィンの進化論が巻き起こした論争などが大きな要因の一つです。
ぼくは哲学の一分野である美学を研究していますが、自分のことを「文系」だと考えたことは一度もありません。ぼくがみなさんと同じくらいの年の頃は、数学や科学の本ばかり読んでいました(それとSF小説も)。大学受験くらいまでは、将来理論物理学を研究したいと考えていました。けれども科学の歴史をいろいろと知るにつれて、科学を生み出した思想や哲学に、より惹かれるようになりました。けれど、今でも科学には大きな関心を抱いています。科学的な思考が私たちに与えてくれる最大の贈物のひとつは、ひとりの人間の人生のスケールを超えて、途方もなく長い時間や空間的な広がりに思いをはせることができるということです。
みなさんは「地球カレンダー」というのを知っていますか? 地球の年齢は約46億年と言われています。この46億年という時間も、長生きしてもわずか百年くらいしか生きられない人間には、想像を絶した長さですね。それで、この時間をもう少し身近にイメージできるように、それを1年に換算して考えてみるのが「地球カレンダーカレンダー」です。つまり時間の縮尺を1:46億にしてみるわけです。
地球が生まれたのを1月1日の午前零時としてみましょう。去年の除夜の鐘が鳴って、あけましておめでとう! と言った時に地球が生まれた。そしてやがて生命が誕生し、何億年もかけて進化して、人類が生まれ、文明が発達して、現在に至ったこの今を12月31日の12時59分59秒と考えてみるのです。するとたとえば今日、8月3日は、地球はどんな状態になっているでしょうか?
最初の生命が誕生したと思われているのは27億年前、カレンダーで言うと5月の終わり頃です。それは光合成によってエネルギーを作り出すバクテリアのようなものだと考えられています。7月10日頃に、はじめて真核細胞、つまり核をもつ細胞が誕生します。大気の中にだんだん酸素が増えてきます。今日8月3日は、「ヌーナ」と呼ばれる最初の超大陸が形成されてゆく頃です。でも地上には生物の姿はありません。それからもずーっと、見当たりません。
では、あの巨大な恐竜たちがのし歩いていたのは、カレンダーでいうといつ頃でしょうか? 9月? 10月? まだまだです。やっとお魚が登場するのが11月20日、両生類が陸に上がってくるのが11月28日、12月の中頃に爬虫類が多様化し、映画『ジュラシック・パーク』に出てくるような巨大爬虫類が最盛期を迎えるのは、なんと12月25日です。クリスマスですね。「恐竜はクリスマス」と覚えましょう(何の役にも立たないけど(笑))。そして12月26日の午前8時17分、巨大隕石が地球に衝突して、あんなに栄えていた恐竜たちは滅亡します。
では私たち人類は? 人類の最も古い祖先が現れるのは12月31日、大晦日です。私たちの直接の祖先であるホモ・サピエンスが生まれるのは大晦日の午後11時37分。農耕牧畜が始まるのが11時58分、イエス・キリストの誕生は11時59分46秒、先ほど述べた近代科学の誕生は11時59分57秒、つまり3秒前です。地球と生命の歴史というスケールの中では、人間の誇る文明も科学も、ほんの数秒前に急に生まれたものにすぎないのです。こんなに急に、ついこの間生まれたものなら、地球にとってはごく一時的な現象に過ぎず、まもなく跡形もなく消え去ったとしてもおかしくないと思います。そう言ったらみなさんは恐怖を感じるでしょうか? ぼくは安らぎを感じます。
こうした巨大なスケールの中で人間が自分自身やその文明について考えるという可能性は、科学が与えてくれたものです。科学的な思考を徹底すれば、私たちが現在たまたま「科学」と呼んでいる活動の歴史的な限界をも、明らかに認識することができます。人間という限界を超えて世界のことに想いを馳せることを可能にする、それが科学のもっとも素晴らしい側面です。
本来、科学と哲学の間に明確な区別はありません。強いて違いがあるとすれば、科学は新しく、哲学はそれよりは少し古いものです。でも、古いと言ってもたいした違いはありません。哲学よりもさらに古いのは芸術であり、また神話(物語)です。芸術や神話は人類がこの世界とその中に生きる自分自身について理解し、それを納得しようとして作り出した、最も古いシステムです。科学はまもなく終わるかもしれず、哲学も終わるかもしれませんが、芸術や神話は、そう簡単には終わりません。より正確に言えば、おそらくは人間が存在する限り、科学も哲学も完全に終わることはなく、科学は芸術の中で生き続け、哲学は神話の中で生き続けることでしょう。