わたしはペイスケ。
小便をするために便所へ向かう。
パソコンでの作業中、下腹部とくに股間のあたりに切ない感覚をおぼえたわたしは腎臓から生産された液状の排泄物が膀胱総容積の4/5を超えたのだと悟った。これを下ろしたてのユニクロに排出するのも忍びない。根っからの無精とはいえ会社には部下もいる。漏らすわけにはいかないのだ。わたしは仕方なく「やれやれ」と重い腰をあげた。
誰もいない薄暗い廊下を数歩進み便所に入る。先人が済ませたのだろうか大便の仄かな臭いと芳香剤の人工的な臭いが強烈に鼻を突く。「吐きそうだ!」わたしは慌てて臭いを感じぬよう控えめに口で呼吸をした。窒息しそうだった。五つ並んだ小便器へ小走りで向かう。
潔癖症のわたしにとって便所はテレビゲームにおけるダンジョンだ。トラップ(汚いもの)に触れず難関をくぐり抜け目的を果たし脱出する必要がある。(失敗すれば何度も手を洗いアルコールティッシュを大量に消費するはめになるため)ベルトが小便器に触れぬよう細心の注意を払いバックルから革の剣先を引き抜く。長年、小便をする度に繰り返し行われてきた熟練された手捌きで剣先が不用意に飛び出したりしないように二つに折りたたみズボンと一緒に握る。そして、そのままズボンのボタンを外しファスナーを下げた。
わたしは”社会の窓”を通例に従って使用したことがない。ずらりと並んだ銀歯の間から大事な息子を放り出すなんて想像するだけでもぞっとする。とにかくファスナーの餌食にはなりたくない。ベルトと共に握ったズボンと黒いボクサーパンツの手前をずるりと下げ息子を開放する。(例えるならば『あっかんべー』の舌の部分が息子だ)
すこし間を置き、じょろりじょろりと白磁の便器を目指し小便を垂れた。バチバチと便器に跳ね返された小便が飛沫を散らす。鼻で呼吸をしていたらムワッとした蒸気とともに小便の芳ばしい臭いが立ち上がっているはずだ。小便が尽きるのが先か呼吸が止まるのが先かを考える。
顎を上げ喘いでいると背後に気配を感じた。ダンジョンへの新たな冒険者だ。大便だろうか小便だろうかと予想をする。新たな冒険者は存在を示すため大袈裟に音をたて摺り足で小便器へ近づいてきた。「かれっすぅう」と冒険者が挨拶をし気配は徐々にわたしの視界の端に影として侵入してきた。
わたしが用を足している小便器から一個分の間隔を空け冒険者がゴソゴソと息子を取り出しにかかる。どうやら新たなる冒険者はこの充満した毒ガスに耐えられるらしく特に反応はない。冒険者へ顔を向けることなく「かれっすぅう」とわたしは応え、慌てて呼吸を整える。わたしに残された時間は少ない。
息子の取扱いに手こずっていた冒険者からもじょろりじょろりと小便を垂れる音がし始める。わたしはちょろりちょろりと勢いを失ってきた我が息子を励ますため下腹部に少し力を込めてやる。とにかく早くこのダンジョンから脱出しなければ!新鮮な空気を吸わなければ窒息してしまう。
ちろり、じょろっ、ちろり、ちろろ、ちろっ、ぴっ、ぴ・・・膀胱の中の排泄物をすっかり出しきったわたしは後悔しないように息子を充分に振り回し慎重にボクサーパンツの中へ収めた。ベルトが小便器に触れぬよう折りたたんだ剣先を慎重に戻しバックルに通す。
心臓の動悸が激しくなっている。わたしは最小限の動きで脱出しようと右足を軸に華麗にターンをきめた。小便器から振り向く刹那、冒険者を視界に捉えた。営業ギルドに配属されている後輩だった。後輩冒険者はわたしの急なターンに驚き腰を前に押し出し息子を匿う。「いや、見ねーよッ!」心の中で毒づき、そんな後輩冒険者を尻目に新鮮な空気を求め小走りでダンジョンからの脱出を図る。すでに限界を超え三途の川が目の前に現れている。
ダンジョンのゲートをくぐり抜け現実世界へ、薄暗い廊下へ飛び出した。ふひゅぇえええええ、と鼻からも口からも全身の毛穴からも思い切り息を吸い込む。灰色の脳に新鮮な空気が巡り霞んだ視界がはっきりしてゆく。どうにか切り抜けた。それでも動悸は収まらず続けて二度ほど大きく息を吸い込んだ。
便所でわたしが死んでいたら皆は何と思うだろうか。いや、それよりも便所で倒れることの方が潔癖症としては耐えられない。あの何故か常に濡れているタイル張りの床に横たわるなんて死んでも死にきれない。『潔癖症患者、原因不明の呼吸困難を起こし便所で倒れる』こんな死に方は最悪だ。死を受け入れられずに地縛霊になってしまう。いやいやっ、駄目だ!トイレの地縛霊なんて最悪じゃないかっ!
わたしは誰もいない薄暗い廊下で呼吸を整えつつ心に固く誓った。会社の便所で用を足す際には必ずマスクをしよう、どうせなら本格的なガスマスクを買おう。そう誓った。
わたしはペイスケ、潔癖症だ。
これから薬用石鹸ミューズで手を洗うため便所から給湯室へ向う。