•  スポーツ報知では大型連載「あの時」を始めます。各スポーツの大記録達成の瞬間や著名人らの失意の時などを担当記者が再取材。当時は明かされなかった関係者の新証言やエピソードで、歴史的なできごとを再現します。

【あの時・自転車チームスプリント「銀」】(1)完全ノーマークだった“アテネの奇跡”

2016年8月1日14時8分  スポーツ報知
  • アテネ五輪、男子チームスプリントで銀メダルを獲得し、日の丸を振り声援に応える長塚(左)と井上(共同)

 2004年アテネ五輪。自転車男子チームスプリントで、日本が誰も予想しなかった銀メダルを獲得した。競輪のトップレーサー・伏見俊昭、長塚智広、井上昌己が新たな歴史を刻んだ。「メダル0」に終わったシドニー五輪から2年、初の外国人コーチ、ゲーリー・ウエストを招聘(しょうへい)して強化に乗り出した結果がついに出た。代表メンバー最後の座を巡る争い、初の高地トレーニング、五輪に出場できない可能性もあった“事件”。真っすぐ立つことができない状況下での激走…。今だから話せるギリギリの話。12年前の記憶をたどりながら追った。

 アテネ五輪8日目。完全ノーマークの男たちが、日本中の注目を集めた。報道陣ですら、それは訳が分からない事態だった。

 自転車競技・チームスプリント。五輪が開幕して日本は7日連続でメダルを獲得していた。過去2個のメダルしかない自転車競技で、8日連続の表彰台があると予想した人は少なかった。それが終わってみると、日本自転車史上最高の銀メダル。男子サッカーの“マイアミの奇跡”ならぬ“アテネの奇跡”が本当に起きたのだ。

 当時、取材にあたったスポーツ報知の石井睦記者(現北海道支局長)は「言葉は悪いけど、競技の谷間で、たまたま自転車に行ってみようかと。結局、現場はバタバタだった」と振り返った。決勝進出で予定されていなかったテレビ中継は緊急生放送が組まれ、メダル確定の報を受けた取材陣数十人が急きょ駆けつけたような状態だった。

 チームは競輪のトップ選手で構成されていた。スターターの長塚智広(25)、2走、伏見俊昭(28)、アンカーに井上昌己(25)=年齢は当時=。五輪の前哨戦、5月の「世界選手権」(オーストラリア・メルボルン)では7位。当時の自転車競技はフランス、ドイツ、オーストラリア、イギリス、オランダが頭ひとつ抜けた存在だった。

 決勝の相手はドイツ。250メートルバンクのホームストレッチとバックストレッチに分かれ、同時にスタートが切られた。「ニッポン、ニッポン」の声援を受け、世界NO1スターターといわれる長塚が飛び出す。2走の伏見、そして井上が全力を振り絞り、ゴールを目指した。しかし、44秒246の好タイムで飛び込んだ井上より先に、ドイツのアンカーがゴールしていた。43秒980。わずか0秒266差だった。

 堂々の銀メダルに、スタンドの応援団は大きな拍手を送った。センターポールではなかったが、表彰式で日の丸を見つめる3人には、やり切った充実感が漂っていた。

 実はレース当日、井上は持病の腰痛が悪化、走れる状態ではなかった。朝、目が覚めても起き上がることができない。「本当にしんどかった。起きてブロック(痛み止め)注射をすぐ打って…。予選、準々決勝を走り終えた頃にはその効果もなくなっていた」。決勝の前にもう1本。「当時の写真を見ると、真っすぐに立てていない(笑い)。予選を突破し、ベスト8でオランダに勝っただけでも奇跡なのに、銀メダルなんですからね」(永井 順一郎)

 ◆チームスプリント 1チーム3人が同時にスタート。1周(250メートル)ごとに先頭から1人ずつ離れ、第3走者がゴールしたタイムで競う。スターターのダッシュが勝敗を大きく左右する。第2走者は、第1走者にスピードをもらいアンカーにつなげるが、離れる危険性もあり、重要な役割。アンカーはスタミナが要求される。

  • 楽天SocialNewsに投稿!
あの時
今日のスポーツ報知(東京版)