【あの時・自転車チームスプリント「銀」】(2)「精神論」から科学的トレーニングへ
1984年のロサンゼルス五輪で坂本勉(現トラック日本代表監督)がスプリントで銅メダル。96年のアトランタでは十文字貴信が1000メートルタイムトライアルで銅。しかし、2000年のシドニーで惨敗。自転車競技は立て直しが急務になった。02年、年俸1500万円(推定)で初の外国人コーチとしてオーストラリア人のゲーリー・ウエストを招聘(しょうへい)した。
精神論、根性論が主流だった当時、ゲーリーは個人のデータに基づく科学的なトレーニングを持ち込んだ。それまで時計、スピードだけで判断していた200メートルのタイム計測は、ペダルにパワーメーターを装着。練習中に血液検査を行い、乳酸値で疲労度を分析した。「今までと全く違った。ミトコンドリアがどうとか、さっぱり分からなかったけど、それが新鮮だった」と伏見。2000年のシドニーは、直前で代表から漏れただけにアテネへの思いは一番強かった。「余力があるのに限界のふりをして倒れたり(笑い)。ゲーリーへ必死にアピールしました。(井上)昌己はしょっちゅう怒られていましたね」
伏見、井上とは対照的に長塚は最初からゲーリーに一目置かれていた。「ある時『ナガツカ、誰にも言うな。君のダッシュは世界トップレベル。チームスプリントは一人でも遅れたら勝負にならない。だから君は全力でスタートするのではなく、少しタイムを落とせ』って。僕の1周ベストタイムは17秒4なんですが、17秒56~61に抑えていた。でも僕にとっては、すごいプレッシャーだった」
結果はすぐには出なかったが、3人は着実に力を付け、いよいよ運命のアテネ五輪を迎える。しかし、その前に代表選出でもめた。選出にあたって選考会の結果やタイムだけでなく、過去の実績など、いろいろな要素が加味され、事態は複雑化した。長塚と伏見は決まったが、最後の椅子を巡り、井上と、のちに08年北京五輪・ケイリン銅メダリストとなる永井清史が争うことになった。
出場枠を獲得した五輪前の世界選手権では、予選に永井がエントリー。ゲーリーは、決勝ラウンドも永井を起用するつもりでいた。しかし「昌己にも走らせなければ不公平」と長塚が進言。急きょ井上が出場した。「いきなり言われ、準備もできていなかった」と井上。永井がタイムで井上を上回り、順当に代表入り―。そう思った者が多かったが、選ばれたのは何と井上だった。(永井 順一郎)