【あの時・自転車チームスプリント「銀」】(5)何が何でも見返したかった
一躍、時の人になった3人。メダルを獲得した後はどこに行っても注目された。「ボランティアの学生とパルテノン神殿を観光しても、視線を感じるんです。徐々に自分たちがやったことの大きさが分かってきました。これがメダリストなんだって」。日本を出発する時、成田空港で見送った人は、長塚によれば「数人だけ」。地味な旅立ちだった。
しかし、成田に凱旋すると、風景は一変していた。テレビでよく見る、スターがゲートから出てくるシーン。まさか自分たちがそうなるとは思ってもみなかった。「伏見さ~んって、女子高生が言うんです。少し恥ずかしかったけど、うれしかった。競輪を知らない人も声を掛けてくれるようになった。人生が変わりました」。伏見は地元・福島の白河市から名誉市民の称号を贈られた。井上も見ず知らずの人から何度も「おめでとう」と声を掛けられた。
シドニー五輪も経験した長塚は「シドニーで感じたことは、メダルは取らなければいけないものなんだということ。出るだけじゃダメ。僕は最低でも銅メダルは取れると思っていたし、そのつもりで4年間を過ごしてきた。夢というのは、実現可能な目標を設定することだと思っています」。そして公約通り、大きな夢を実現させた。
もう一つ、長塚を奮い立たせたことがあった。「あるマスコミ関係者から『お前たちは競輪の売り上げにも貢献しないで五輪だ五輪だと言う。どうせメダルなんて取れないんだから、もっと競輪界のことを考えろ』って言われたんです。悔しかった。だから何が何でもメダルを取って見返したかった」。五輪の後、長塚に罵詈(ばり)雑言を浴びせた人物は「長塚君ならやると思っていたよ」と近づいてきた。「この時、大人の事情、大人の世界、世間というものが分かったかもしれない」
あれから12年。国内で無冠だった井上と長塚はタイトルを獲得。伏見と井上は今もトップレーサーとして活躍している。長塚は08年の北京五輪にも出場。その後、09年の茨城県知事選、10年の参院選に立候補した。11年の東日本大震災後は、他のオリンピック選手たちと被災地支援のためのチームを結成するなどしてきたが、昨年1月、惜しまれながら引退した。
最後に「アテネの奇跡」の立役者3人に聞いた。銀メダルの報奨金は4000万円だったけど、実は1億円欲しかった?
「あの時はお金は意識しなかったけど、今となってはね(笑い)」(永井 順一郎)=おわり=
◆長塚 智広(ながつか・ともひろ)1978年11月28日、茨城県生まれ。37歳。取手一高卒業後、81期生として日本競輪学校入学。98年デビュー。G11V。959戦302勝。通算獲得賞金は4億9779万9100円。181センチ、92キロ。15年1月引退。
◆伏見 俊昭(ふしみ・としあき)1976年2月4日、福島県生まれ。40歳。白河実業高卒業後、75期生として日本競輪学校入学。95年デビュー。G13V、グランプリ2V。1562戦460勝。通算獲得賞金は15億4550万1243円。181センチ、88キロ。
◆井上 昌己(いのうえ・まさき)1979年7月25日、長崎県生まれ。37歳。筑陽学園高卒業後、86期生として日本競輪学校へ入学。2001年デビュー。G12V、グランプリ1V。1046戦318勝。通算獲得賞金は6億4747万9422円。178センチ、75キロ。