『シン・ゴジラ』を観てきたのだが、すっっっ(中略)っっっげー面白かった。以下ヨタを延々と書きますが、とにかく頭空っぽにして見るだけでもすごい面白いし、延々と考えごとをしながら見ても最高に面白い。日本の怪獣映画のエポックとして、今後334年は刻まれることは確定的に明らか。ネタバレ厳禁の映画でもあるので、ぜひいまのうちに映画館に行ってください。以下ネタバレします!!!
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公式サイトにもあるのだけれど、エンドロールが非常に象徴的。役の大小にかかわらず、出演した役者が五十音順にフラットに並べられ、それが延々と流れていく。「ニッポン vs ゴジラ」というコピーが示している通り、この映画には芹沢博士のようなヒーローはいない。日本という機構が、ゴジラという最悪の災禍に対しどのように対応していくかが、粛々と描かれていく。1954年版の初代『ゴジラ』がそうだったように、『シン・ゴジラ』は日本論でもあるのだ。
日本、あるいは近代国家という機構が抱える面倒くさい意思決定システム。前半ではそれが半ばブラックコメディ的に描かれる。ゴジラが上陸してきているのに、防衛出動を閣議で決定しないと自衛隊は一発の銃弾も撃てないし、国会では特別法の立法を進めないといけない。こういう「平和ボケした日本の統治機構に警鐘を鳴らす!」的なお話というのは割とよくあって、これはこれで超面白いのだけど『シン・ゴジラ』の真骨頂はその先にある。
現行政府が壊滅し、臨時の内閣が建てられたのち。今度は機構側の逆襲がはじまる。といっても、自衛隊の跳ねっ返りが法律を無視してオキシジェン・デストロイヤーを抱えてカミカゼ特攻するわけではなく、あくまで内閣府の下に置かれた特命プロジェクトと、シビリアン・コントロールの利いた自衛隊、民間の関連会社、そういったシステムが対応していく。おいおい非常時だろ……。そんなまだるっこしいことしてないで、バンザイ・アタックでもなんでもいいから、なんとかならねえのかよ……などと思う観客をよそに、システムは徐々に機能しはじめる。そして、各自が現場で成果を積み重ねることで、どうにもならなかったゴジラへの対応が、少しずつ現実味を帯びはじめる。
前半ゴジラの侵略をまざまざと許してしまったまどろっこしいシステムが、後半は人間社会のポテンシャルを最大限引き出す装置として輝き出す。この鮮やかな反転! 前者を描いた作品は数あれど、後者にまでこの深度で踏み込んできた作品が、いままであっただろうか。特別なヒーローなどいない。全員が現場で踏ん張り、様々な問題を孕んだ面倒くさいシステムをなんとかかんとか動かすことでしか、ぼくらはゴジラを倒すことができない。『シン・ゴジラ』はそのことを描いている。だから、エンドロールはあのような形になった。
以下雑感をとりとめもなく。
- よくある社会批判映画になっていないというのもいい。登場人物たちの様々な視点がフラットに配置された映画で、「日本は素晴らしい国です!」的な視点も、「だから日本なんか駄目なんだよ」的な視点もあるのだが、それらは俯瞰的に描かれていて、その視点に塗りつぶされた映画ではない。原発事故後に日本で作られた初めてのゴジラだが、そのこととの関連性も抑制されている。社会に対して何かを言うのではなく、社会そのものを描く。
- 全般的にリアリスティックな演出が貫かれているのだが、だからこそ要所要所で発揮されるケレン味の部分がアガる。在来線爆弾! とてもバランス感覚のある編集。
- この映画は過去の資産の捨てっぷりも鮮やかだ。特にいままでの『ゴジラ』シリーズが全くなかったことになっているというのは素晴らしい。ノスタルジーによりかからない、自立した、いまのゴジラをやるという強烈な意思を感じた。
- 54年ゴジラでは、ゴジラの侵略ルートは東京大空襲のルートと一致するのだが、たぶん今回はそこに意味を持たせていない。こういうところの捨てかたも非常に的確だと思う。オタク的な視点からメタファーを入れ過ぎると、シンプルさが失われる。それでいて、品川では54年『ゴジラ』と同じ、あの地獄の音楽がかかる。伊福部の音楽の引用もとても的確だったと思う。もちろん、54年『ゴジラ』を見ていなくともアガるし、楽しめる。
- ゴジラ第二形態のあの異様な姿を、ネタバレなしでスクリーンで見ることができて良かった。え? え?と引きこまれた。
『シン・ゴジラ』は、超傑作である54年『ゴジラ』へ対する、素晴らしい返歌だ。作内では日本というシステムがゴジラに対応していくさまが描かれていたが、この映画そのものが、54年『ゴジラ』という巨大な存在に対し、ひとりひとりの人間が総体として戦った過程の結晶のように思える。こんな素晴らしい作品を観せていただいて、本当に、ありがとうございました!