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シン・ゴジラの感想。評価方向のズレへの不満

――――前置き――――


SNS時代になって、作品の評価軸自体が変わった。


ツイッターは匿名が主流だが、本名でやることに抵抗を覚えない世代も今や多く、発言が周囲との付き合いに及ぼす影響の大きさは2chなどとは比べものにもならない。


そんな中では感想という口コミも、賞賛や絶賛のみが許されていて、「面白いと思えた箇所・時間が少なかった」などと漏らせば「上から目線のナルシスト」とか「人の頑張りを認めたり褒めたりできない性格に問題ある人」など、目にした人のフィクション慣れの段階様々に、とにかく「アンチ」のレッテルを貼られてしまう。

こうもなると、どんな作品が評価されどんな作品が失敗扱いされるかも変わってくる。
例えば、
良点50かつ悪点0の作品よりも、
良点60かつ悪点50の作品の方が、
「素晴らしい作品」になるのだ。

悪い点(サボった点、作り込まず投げた・誤魔化した惜しい点など)への言及は、イタイやつがするマナー違反で恥ずかしい行為となるからだ。


粗い点はどれも無視してもらえる口コミルールに変わってきたのだから、精緻に無駄を削って完成度を高めるよりも、粗が出ようがとにかく盛って盛って何かしらの見所を捻り出す方がいい。その方が勝手に評判を上げていき、よく売れるのだ。
また極端な例を挙げると、

両点100かつ悪点0の作品よりも、両点110かつ悪点100の作品の方が、現代の評価軸に適応している作品だ。

そんな中で私がシン・ゴジラの感想を述べるならば、良点70かつ悪点90ぐらいだ。単純に足し算すると、マイナス20。


これがツイッター上では良点70・悪点0(封印)、70点良作として喧伝されているのだから、苦しい。私が感じた悪点90という感想は存在を認められない、一般人としては考えても口にしてはいけないこと、クリエイターとしては考えてすらいけないことなのだ。

私は私の、考えてはならないことを取り戻すためにここにつらつらと感想を書く。

シン・ゴジラはB級モンスターパニック映画としては、並より少し上程度だと思う。
これはB級モンスターパニック映画を貶めているわけではなく、私はそれらが好きで、そういうジャンルとして観れば、お約束のご都合モンスターパニックに加えて、凄いとか綺麗とか惨いとかで面白い映像はたくさんあったし、メリハリのある音響も映像をさらに引き立てていて、とても上質であると感じた。

制作側の政治的なメッセージが多すぎた、それが序盤の大半だけでなく中盤・終盤でも止まらなかったのは、B級パニックとしても雑音すぎるためにややマイナス。

B級パニック映画は粗さ前提の良点探し(加点方式)の側面があると思うので、その競技の中で捉えたら「見所はある」といった及第点的な評価に思う。

ところが、本作のネット上の批評はかなりが

「とことんまでリアルさを追求した作品」

「今の日本にゴジラが来たら、をつきつめた作品」

「まさに2016年の、現代の日本の、ゴジラ

「最高傑作」

「日本映画の頂点」

とか、そんなのばっかりなのだ。

 

B級パニックとしてならやや傑作程度のものに、リアリティムービーとか、社会派映画の看板が与えられようとしていて、それはいくらなんでも違うだろうし、それはどこかで制作側の「狙い通り(やったぜ助かった)」であり、本作を信者選別ムービーとして袋小路に追い込む所業であるように感じるのである。

私はシンゴジラを良点70・悪点90と評したが、悪点90の内訳は、とことんまでのリアリティの無さ・その誤魔化しが60、腰の引けた脚本で緊張感を失っている点が30、そういったところだ。

具体性のない批判はそれはそれで批難されると思うので、以下、具体的に不満の内容を説明する。
もちろんネタバレを含むので、未視聴の人は気をつけてほしい。

 









 ***以下不満点。ネタバレを含みます***

 

 

 

 

 

 


・キャラクターへの不満
主人公・矢口はとても若い内閣官房副長官。

この年齢で官房副長官とは相当な実力者かと思いきや、直情型で空気が読めず「真っ直ぐ」な一般人感覚の人道主義者。数的な取捨選択は苦手な感じ。
ほんの少しばかりの裏や捻りも使えるが、名門大学の大学生程度に、真っ直ぐさと捻りを併せ持つという程度。理想に燃える新入社員という感じが押し出されている。


いきなり身も蓋もないが、この「普通の若者」では内閣官房副長官になれないと思う。いくらなんでも、官僚機構を低く見過ぎている。

 

矢口は思ったままのことを言って異を唱えたりるものの、相手を説得したり納得させたり、高位官僚らしく手練手管で籠絡したりと、そういう意味での強さは全く見せない。

空気が読めず「僕は間違っていると思います」と言う系キャラ、それだけなのだ。

そんな普通すぎる矢口を「賢いキャラ」「判断力のあるキャラ」として見せるために、前半40分は政治家や官僚の会議をとにかく形式主義で、無能で、ダサく描く。要は、周りを下げに下げて相対的に主人公を上げる手法だ。


「視聴者感覚の矢口は実は優秀なんだけど、周り(政治家や官僚)が馬鹿なせいで評価されにくい不遇にある」


という、学園もののライトノベルや異世界転移・異世界転生ものによくある共感設定で進んでいく。


実際の政治家や官僚にはいろいろと問題があるとしても、私の感覚としては保身や実利打算にまで蒙昧ということはない。

お大臣方や省庁の役人がおしなべてテキトー・頼りないというのはいくらなんでもで、まるで勉強嫌いの小学生が、自らの漫画の中で優等生らを実際以上にこきおろしているような嫌な感じを覚えた。そういう方が支持を得やすいのは確かなのだが、私は、実際以上に人々を小馬鹿にしてまで送られる「メッセージ」に、不快を覚えた。

 

憎きをこき下ろさず、矢口を無能政治家を超える有能官僚、有能政治家を超える超有能官僚としてメイキングすることでも、そのメッセージは達成できたのではないか。もしそうであれば、矢口が様々な人から命を託される立場なるのも納得があったのだが。

また、さっぱり強さが見えてこない矢口に中盤、「矢口はさる引退大物政治家の息子」というフォローが入る。「親の七光りも己の才覚も目的達成のためには惜しまない、恐ろしいやつ」とも。

 

いやいや、冷静沈着かといえば熱血直情で、清濁併せ飲むかというと、濁への忌避が並のサラリーマン以上。並みのサラリーマンでももう少し腹芸が使える。

なので、これらのフォローはさすがに苦しく、矢口のキャラクターの空中分解が起きている。

そして矢口、やがては官房長官、総理大臣まで狙っているようなことまでほのめかす。

いやいやいやいや! そういう器ではない!

うまくいっていないフィクションによくある、

「作中でいろんなキャラから優秀だとか最強だとか頭いいとか言われている登場人物Aが、その言動においてさっぱりそうは見えない」

というキャラクターメイキングの失敗が、全開なのだ。

 

矢口を庶民目線のヒューマニストで行かせるなら野望とか恐ろしいやつの設定はいらなかったし、矢口を野望の男とするなら庶民以上の庶民感覚とヒューマニストがノイズとなる。とにかく、政治を実際以上に下げて罵倒する割には、メインキャラクターの造形が標準未満に浅い。

矢口はゴジラが起こしてくれた、総理&官房長官ヘリ撃墜という出来事のおかげで物語の中心へ駒を進めるが、能力・魅力・覚悟の乏しさは成長を見せないので「この物語の主人公だったから、矢口にお鉢が回ってきた」としか思えなかった。


カヨコも同様だ。

カヨコは日系アメリカ人でアメリカからの公式なメッセンジャー役、大統特使にして、アメリカ政府高官の娘らしい。

このキャラもまた「あの若さで……とびきり優秀」という設定で作中語られるのだが、世界忍者戦ジライヤのフクロウ男爵のようなイングリッシュまざりの日本語をスピークし、英語オンリーの時も発音はジャパニーズイングリッシュ。矢口のほぼ上司役である赤坂総理大臣補佐官の方がずっと本物の発音で応対しているのだが、こういう状況で「米国的にとびきり優秀」と言われても、視聴者的には戸惑う。

狙ってやっている所はあるのだろうが、ガチキャラなのかボケキャラなのか定まらず(美人な奇妙キャラ、という程度だ)これが人物面・能力面において平凡すぎる矢口とタッグめいて動き、何かお互い高い次元で認め合っているらしいが、それが茶番じみて見える。そんな調子の中、

「私は10年後に大統領になる。矢口、その時あんたは首相でいて」

みたいなことをギャグシーンでもなく語るのだから、なんかもう本当に辛い。

このカヨコを外国人顔のもう少し年上女性などの「ガチキャラ」にするだけで、本作の雰囲気はずいぶんと締まったのではないか。

 



・ストーリーの不満

キャラクターとストーリーは車の両輪であると思う。

魅力的なキャラクターは魅力的なストーリーを紡ぐし、魅力的なストーリーは魅力的なキャラクターを誕生させる。

すでに片輪が脱輪しかかっているのだが、両方脱輪すれば問題ないとでもいうのか。

ストーリーは輪をかけて粗い。

 

それについて語る前に、私なりの「リアリティ」の定義を少し紹介する。

私の考えるリアリティとは、「言動のもっともらしさ」「その作中で、キャラが真剣に生きているかどうか」といったところだ。

真剣に生きるなどといっても、皆が向上心にあふれて意識高く生きる、ということではない。怠け者や卑怯者がいていいし、それらは怠け者や卑怯者らしく日常と言動を背負っているか、ということだ。

例えば、いきなり包丁を持った強盗が家に現われたときに、対人恐怖症でひきこもりの少年がどうするかだ。

竦んで動けない、足をもつれさせながら逃げようとする、などはリアリティがあると思う。

微笑を浮かべながら余裕で脅し返すとか、冷静にてきぱきと警察に連絡してなんとかする等では「対人恐怖症でひきこもりの少年」という設定とリアリティがなく感じる。

これがギャグ・コメディ作品なら気にならないが、リアリティを重視する作品でそれらの行動が出てきたら、世界が一気に不確かになり、没入感が遠のいていく。

 

そしてシン・ゴジラ
ストーリーがリアリティを伴って展開されているように見えない、作中世界の人物らが、メインもモブも真剣に生きているとは思えないのだ。

 

物語は、原因不明のトンネル事故と海底からの水蒸気噴出に、総理・政府がいかに対応するかという会議から始まる。以下に日本の意志決定が形式主義で、不真面目で、腐っているかが冗談めいて延々と描かれる。

天災でまとめようとする総理らに矢口が我慢ならず、「海底に巨大生物がいる可能性があります」と突っ込む。なぜ矢口だけがそう思ったかは全く描写されず、矢口がつけ足すと「ネットにもそれを裏付ける動画があります」。ネットかよ。

お偉いさん方に一笑にふされる矢口だが、そこでゴジラ東京湾アクアラインに上陸。

「それみたことか」的なシーンだが、露骨すぎる。

ゴジラはぎょろ目で、だらしなく口が開き、ウナギのような状態、ゲテモノおもちゃ感が強い外見。この謎の造形に雲行きを怪しく感じた人も多かったのではないだろうか。わたしは正直がっかり来た。

このウナギ型ゴジラは時速12㎞だかで、ビルをなぎ倒しながら前進する。

それについて政府や官僚たちは「~という法律があるから対応できない」「~という法律はないから対応できない」という旨の内容でひたすら後手(政治批判だ)、進撃する怪獣を野放しのまま被害が拡大していく。

それに対して矢口に近しい仲間らでさえも「図体はでかいのに、動きは遅いな」「怪獣といっても、歩いてるだけですからねえ」と何かすごく呑気。

高層ビルや陸橋は潰され、凄惨な被害が出ているのに。なぜかスルーされているけど、電線も無事ではないだろう。それに時速12kmの直線移動って、10時間で東京から富士山まで行けるのだけど。そんなコントロールの効かない破壊の化身が伸び伸びと動き回ってて、なんなんだこの余裕、他人事感。「霞ヶ関まで3時間もあったら来るぞ!?」とか慌てさせるのがリアリティってもんじゃないだろうか。

 

政府が完全に後手後手に回っている間に、ウナギからトカゲぐらいになったゴジラは、ラッキーなことに海中に返っていく。
本当にラッキーだった。
もしあのまま進軍され続けていたらそれだけでこの話は終わっていた。
本当にラッキーだった。

少し政府で対応をまとめる時間ができたのだ。

 

本当にラッキーだった!!!!!

 

……まあそのラッキーは放熱・進化のために必要だったとして、なぜか東京都民たちは避難もせずそのまま暮らし、日常に戻っているのだ。なぜ。

コントロール不可な怪獣が二時間とはいえ上陸して、退治されたわけでもなく身を隠しただけなのに。

この間に後手後手な政府は少しずつ対決の腹を決めていくが、もうこの時点で、株価等日本経済は終わりかけているだろう。お金に忙しい政治家が、腹を決めるかどうか迷うことはないと思う。


すぐにゴジラは神奈川の鎌倉に再上陸。
ぎょろ目ウナギのような形態からポスターの恐竜形態へと変わっており、海中で進化したらしいのだが、色も形も大きさも目つきも完全別物にしか見えない。

「体長は二倍以上になっています!」

もうそれは別怪獣と言わないだろうか。

まさか怪獣の進化にリアリティなどと言う日が来るとは思っていなかったが、ポケモンコイキングヤドンが海に身を隠して、数日?の時間で次にリザードンカイリューが上陸してくればそれは「進化」というより「別物」と考えるものではないだろうか。

これについて対策本部の優秀な学者は「ゴジラ第四形態だ!」と言っているが、鑑賞者にはいつ1~3形態があったのか、またその区別がわからない。たぶん上陸時のウナギが1形態、少し手足が出たのが2形態、トカゲみたいに立ったのが3形態だった……?とにかく、作中のみ盛り上がっている感、鑑賞者置いてけぼり感が凄い。

しかし本当に脱皮シーンも変態シーンもなく、ヤドン→海→出てきたらリザードン(体長二倍以上と作中で言及)みたいな変身ショー。実はこれ、当初はゴジラと倒させる別の怪獣があって、いろいろと都合で、もう同一個体ということにしたんじゃないか?と勘ぐってしまうぐらい唐突かつ別物で、リアリティがない。

 

ゴジラは上陸後川崎に向かって進撃、ついに自衛隊も川崎で総攻撃を開始する。ゴジラの装甲は凄まじく、ミサイルの全弾直撃でも無反応。止まらないまま夜の東京・目黒区への侵入を許してしまう。政府警察消防自衛隊、住民の避難にてんてこまい。

 

ここで、米軍のステルス爆撃機による支援攻撃。ゴジラは地中貫通ミサイルでダメージを受け、初のダメージを受けたお返しに(または放熱のため?)、口から火炎放射→レーザー放射を行う。背びれからもレーザーが一斉に放たれ、打ち落とされる米軍機、ビームでなぎ払われるように壊滅する都心部。ヘリに乗り込んでいた無能な首相や官房長官も撃墜され死亡。

 

正直、ラッキーだった。

ゴジラがもう少し高知能で、顎や身体を沈めて熱線を振り回していたら、矢口の対策室も何も、なぎ払いが当たってこの話はここで終わっていた。

熱線放射を1回でやめてくれたのもラッキーだった。

本当にラッキーだった!

さらに、熱線放射を行ったゴジラは満足したのか疲れたのか、なぜかその場で直立したまま眠ってくれるのだ。二週間も。

本当にラッキーだ。

本当にラッキーだ!!!!!

まるで日本側に反撃・対策のための時間を与えてくれているかのような、僥倖だ。この幸運は作中で全く強調されておらず、なぜか当然のものとして受け入れられていたが、作中世界の人物はいつゴジラが目覚めるかヒヤヒヤしながら対応に奔走するぐらいしてほしかった。それがリアリティってもんじゃないだろうか。

 

ここで、話が一気に緩んでしまう。

南一帯がほとんど焼け野原となった東京の参上を見てか、国連が「二週間後にゴジラのいる東京を核攻撃」を決断したのだ。

私はその決断に「仕方ないな……」とすら思ったのだが、逆に作中人物らは「核攻撃を絶対に許さない!」と憤る。その中には、なんと米国大統領特務大使のカヨコもいて、「おばあちゃんの国を泣かした原爆を、3度も落とさせるわけにはいかない」らしい。そのために、即時撤退命令を違反してまで日本に残っているという。感情優先で生きるカヨコに、「とびきり優秀」の設定を思い出し首をかしげてしまう。

 

とにかく、なぜゴジラが二週間も東京で直立不動で寝ていると国連が判断したのか不明なまま、矢口ら対策チームは「核を落とさせない、東京を守る」ためにゴジラ凍結作戦の準備を急ぐ。

あれだけ破壊の絶望を見せつけておいて、なんとゴジラは「核攻撃なら倒せるけど、核は人道的に使わせたくないから、核落とされるまでに頑張ろう」程度の扱いへと格下げされたのだ。

つまり、生きるか死ぬかの修羅場で、もう勝つ手はあるが、勝ち方にこだわりたいから大きなリスクや不確定要素を抱えてでも頑張ろう、という緊張感のない展開だ。ゴジラがすぐにでも目を覚まし、熱線放射を360度ぐるりとばらまいた方が、核よりもひどい被害がでると思うのだが。ゴジラの熱線は物理的な破壊に加えて放射能をばらまき、その体内からも常に放射能が漏れ出ているのは作中で明言されているのだから。

もしかしたら「ポケットの中の戦争」のオマージュだったのかもしれないが、ともかく最大の課題がゴジラ打倒から核攻撃阻止へとすげ変わったので、オマージュ一つとしては全く割に合っていない握手に感じる。

 

矢口のゴジラ凍結作戦は、ゴジラの出現を数年前に予想していたという博士(未登場、失踪扱い)の残した謎のデータ解析に手間取るが「折り線みたいだな」「折り紙か!」という仲間の偶然の閃きによって何とか間に合う。本当にラッキー。

もしかしたら「F91」のオマージュだったのかもしれないが「未登場の博士が残した偶然の閃きで解ける暗号」という、全く物語的に上手くいっていない鍵攻略で、会場の空気はさすがに冷えた気がする。凍結作戦だからか。

 

とにかく、凍結作戦の準備は完了。

奇しくもちょうど動き出したゴジラに、矢口と自衛隊やら民間やら「東京を守りたい」覚悟を決めた人々の決戦が始まる。

 

無人機や飛来物を飛ばしまくって、ゴジラが持つ自動迎撃反応(作中憶測)を利用して熱線を空に撃たせまくり、疲弊させる。放射能原発事故さながらに広がっているが、皆防護服を着ているから大丈夫だ。

足元には爆弾を積んだ新幹線をつっこませ、ミサイル全弾直撃でも無傷だったゴジラはよろける。さらに周囲のビルを爆破しゴジラにぶつけることで、ミサイル全弾直撃でも無傷だったゴジラは倒れる。その後1回起き上がるものの、すぐに爆弾をつんだ在来線をぶつけてミサイル全弾直撃でも無傷だったゴジラを倒し、口にクレーン車とホースで凍結液を注入。

ゴジラは立ち上がるも凍り、めでたしめでたし。


……とにかくゴジラが都合良く一度帰ってくれたり、立ったまま長々と寝てくれたり、再戦では弱くなってくれていたり、お陰様で、未曾有の大災害にも関わらず「今までの価値観を維持したまま、とにかく頑張る」で対応できて、終わる。


序盤、自衛隊の攻撃が始まり楽観するお馬鹿なお偉いさんに「楽観は慎みましょう」的なことを言って鼻白ませる矢口だが、核を忌避して間に合うかどうかわからない・間に合っても成功するかどうかわからない凍結作戦に人を動員する矢口には、果たして楽観はなかったのだろうか。やはり、リアリティが気になる。


B級モンスターパニックなら、本当にこれでいいし、こういうものだと思う。

勇気やとんちの作戦が成功して脅威が取り除かれるのは、B級の醍醐味と言っていい。


ただ全編にわたって入れすぎた国や政治を批判するメッセージのせいで、この作品は(粗すぎるが)社会派・リアリティものの要素を帯びてしまっている。

そのとき、矢口やカヨコの、どこか死を他人事と捉えているような、翌々の出世や保身を捨てきれず、さらに人道的に現代的に真っ当すぎる価値観を帯びた言動が、極限下におけるリアリティのないノイズとして際立ってくる。
そして本作は「現実vs虚構」とポスターにもあるわけで、どうやらリアル路線の看板を欲しがっているようなのだ。
ネットにもシン・ゴジラの「リアルさ」を讃える絶賛の嵐が吹き荒れている。

B級ではなく、高尚、本物、深い、アート……そういう絶賛がネットや広告のそこら中に転がっている。

 

ただ国政批判にだらだらと「時間の量」を使えば、それは「リアリティがある」ことで、社会派、リアル路線だろうか?

さっぱり設定と言動が噛み合わない感情のマシンたる矢口やカヨコや他のキャラたちをさておいて「リアリティムービー」なのだろうか。

私の知る限り、現実を舞台にしていてもリアリティの無い作品はあるし、ファンタジー世界でもリアリティの富んだ作品はある。

また、現代や極近未来を舞台にしたSF小説で、現代政治を混ぜながらラッキーや偶然や耳障りのいい言葉に逃げずに、エンタメをしながらも究極を描ききった作品も、多くはないが少なくもない。

 

良点はあるし見所もあるが、これを「VSシリーズから、政治中心に原点回帰した」というだけで「リアル」「リアリティムービー」「社会派」「至高」のタグを貼って絶賛(というか、礼賛)しては、それらの道を突き詰めて完成度を上げた作品群が、あまりにも報われないと思う。

本作としてはそっち方面の評価に落ち着いてくれることこそが最後のラッキーだろうが、やはり、楽しませるつもりのない開き直りの序盤、リアル路線を願っているが人間面のリアリティの乏しさ、なんか下町ロケットみたいになっていくガンバレニッポン感、素晴らしい映像や音楽やスケール感、それらを総合して「国政批判に若干時間を割きすぎた超ハイクオリティB級映画」というぐらいのタグと賞賛こそ、本作や関係者の未来にとっても、幸せな着地点ではないだろうか。


良点70、悪点90。