最終更新日:13/07/10
フライング・ダッチマン(空飛ぶオランダ人)
HN
フライング・ダッチマン(空飛ぶオランダ人)
HNの由来
Ajax〓の伝説的なプレーヤー、ヨハン・クライフ(Johan・Cruijff)のあだ名。他にも『ジーザス』などのあだ名がある
生まれたところ
彼は1947年4月25日にオランダのアムステルダムで生まれた。
身長
身長は170cm後半、体重は70kgを下回る細身で、決して恵まれた体格では無かったが、類まれなる技術と強靭なメンタリティで体格のハンディを全く感じさせなかった。
性格
独自のフットボール理論と傲慢とも取れる程のカリスマ性。
少年時代から華箸で、周囲からは「この子は病気じゃないか?」と心配されていた程だった。
自慢なこと
彼はフットボールにおいて『いかに美しく勝利するか』という美学を持ち、観客を常に魅了させ続けた〓
特徴的なプレーとしては、軸足の後ろにボールを通す『クライフ・ターン』が有名。
好きな言葉
『1対0で守り切って勝つより、4対5で攻めきって負ける方が美しい〓』
by ヨハン・クライフ
尊敬する人
クライフは、60年代後半から70年代にかけて世界中のフットボールシーンを席巻した。
ペレ、ディエゴ、フランツ、マラドーナ、ベッケンバウアー等と共に、有名スタープレーヤーの中でも別格の存在として位置付けられている。
マイブーム
オランダの名将、リヌス・ミケルが提唱した『トータルフットボール』をヨハン・クライフは完全に体現した。
クライフはフィールド上の指揮官で、攻撃から守備まで一人でこなしてしまうオールマイティプレーヤー。
彼の活躍により、アヤックスは史上初のチャンピオンズリーグ三連覇を果たした
最近ひそかに興味がある事
1974年のワールドカップ西ドイツ大会〓
ヨハン・クライフはオランダ代表の心臓部として出場した。
『時計じかけのオレンジ

』と呼ばれたオランダ代表は、順当に決勝まで進み、決勝は開催国でもある西ドイツ〓との対決となった。しかしクライフはフォクツの執拗なまでのマークにあい、完全に封じ込められてしまった。チームとして機能しなくなったオランダは、西ドイツに1vs2で敗れた。しかしこの決勝戦は、ワールドカップ史上最もスペクタルな一戦として今も語られている。
兎に角主張したい事
クライフは大会後のコメントで、
「いくら技術に優れ、スーパースターでも…その上には、勝者、チャンピオンがいる…」
とつぶやいた。スーパースターとはクライフ自身をさし、勝者は西ドイツ代表をさしている。
その後、オランダは政治的な争い

などでワールドカップに長い間出場を果たせず、結局クライフは西ドイツ大会が最初で最後のワールドカップとなった。
疑問に思っている事
引退後も、監督として低迷していたバルセロナをリーグ四連覇に導くなど、指導者としても伝説を残した。
1996年に健康上の理由で引退したが、今も世界中のチームが彼を監督として待望している。
ここだけの話
因みに、彼の背番号は『14』。当時、14番は主に控え選手の付ける背番号だったため、なぜ14にこだわるのかを彼に尋ねると、
「誰も付けていないこの番号を、自分のものにするためだ」と言ったそうだ。(有名スター選手と背番号が被ると紛らわしいため)
そして今、アヤックスの背番号14はクライフの永久欠番になっている〓
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