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【社会】

戦地支えた句会 トラック諸島で7カ月、金子さん主宰

戦時中にトラック諸島で行われた句会の様子を記した句帖

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 <南方の父の句帖(くちょう)もまた戦記>。七月二十三日朝刊に掲載された「平和の俳句」に詠まれた句帖には、選者の金子兜太さん(96)が太平洋戦争中にトラック諸島(現チューク諸島)で主宰した句会の様子が記されていた。これまで知られていなかった金子さんの句もあった。米軍の攻撃で壊滅状態になった島で、軍人・軍属の心を支えるため催された句会。一冊の句帖から、食料が尽きるまでの半年余り、陸海軍の仲間が五七五の十七音に思いを注いだ様子が浮かび上がる。 (矢島智子)

 句帖の持ち主は、今回の句の作者瀧川和人(たきがわかずひと)さん(68)=神奈川県鎌倉市=の父高(たかし)さん(故人)。句帖に「終生の念願 詩書画三昧(ざんまい)」と書くほどの文学青年で、一九四四(昭和十九)年初め、陸軍の軍属としてトラック諸島に赴任。戦後、句帖を持って帰還し、八五年に六十七歳で病死した。

 海軍の主計中尉だった金子さんが同諸島の夏島(トノアス島)に着任したのは同年三月。半月前に米軍の空襲で壊滅的な被害を受けた島の施設を補修し、態勢を立て直す任務だったが、「環礁には何十隻もの船が沈み、滑走路の両側には壊れたゼロ戦が山積み。どうにもならんと思った」。

 七月にサイパン島が陥落する直前、上司の主計中佐が「いずれ島は孤立して暗くなる。生きる支えとなるよう句会をやらんか」と提案。金子さんは現地で知り合った陸軍少尉の協力を得て句会を主宰した。しばしば仲が悪いと言われる海軍と陸軍の兵らが仲良く集う異例の句会が始まった。

 句帖に句会の記述があるのは八月十四日から翌年三月までの七カ月間。夜の宿舎で十数人が参加していたようだ。金子さんは四カ月ほどで食料のサツマイモを育てるために秋島(フェファン島)へ移ったが、残った者で句会を続けた。

 八月十九日は席題が「炎天」。高さんは<バナゝ青し炎天を行く兵のあり>と詠んだ。金子さんはガリ版刷りの会報に「私はこの句をみた時、ヤラレタと思った。下手なだけ余けいその感を強くした。この作品には作ったものがないのだ。ヅバリと一気に感銘を十七音に叩(たた)きつけているのだ」と評を書いていた。

 金子さんは十一年前に高さんの弟を介してこの句帖を一度見た。その際<青芒(あおすすき)泉をふくむ口一杯><山肌の崩れて赫(あか)し時雨降る>という二句の自作を確認したが、今回、新たに一句が見つかった。十月十七日の<ねる頃は雨となりゐて蚊遣(かやり)かな>。「甲板士官」という肩書で記されていた。「まさにおれの句だ。下手くそだが涙が出そう。(参加した)最後の句会かもしれない」と金子さん。

 句会は、句作よりもそこで供されるカレー味の芋がゆが魅力だったのだと金子さんは明かす。「結局は食べ物。移動した秋島では俳句どころではなかった」。だが「平和の俳句」を寄せた瀧川さんは言う。「父は金子先生との句会で希望を保っていたそうです」

 <トラック諸島> 現在はチューク諸島と呼ばれる西太平洋ミクロネシア連邦にあるサンゴ環礁の島々。第1次世界大戦後に日本の委任統治領となり、第2次大戦では日本海軍の一大基地となった。1944年2月の米軍機動部隊による空襲で軍事拠点としての機能を失い、7月のサイパン島をはじめとするマリアナ諸島の陥落後は補給を断たれた。現地での自給自足は困難を極め、終戦後まで残された軍人・軍属らは壮絶な飢えとの闘いに直面した。

 

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