2016-08-02
■いつの間にか、みんなゴジラが嫌いになっていた 
シン石丸はシン・ゴジラを見てないのだという。
「なんで?」って聞くと「だってゴジラって別に面白く無いじゃん」という答えが帰ってきた。
これはこれでなるほど当たり前だと想う。
やっぱり僕らの世代は常に期待して、裏切られてきた。
映画というのがだいたい二時間という限られた時間のエンターテインメントである以上、そこには自ずから限界というものがある。
二時間ずっと面白い映画というのは実のところほとんどあり得ない。
20世紀SF映画の金字塔とも言えるスターウォーズにしたって、退屈なシーンが続く場面もある。
二時間ずっと面白いかと言われるとどんな映画でも疑問が残る。
そして、個人的にはパーフェクトな映画というのはまずあり得ないと思う。
僕は映画が好きだ。
あくまでも純粋に見る側として。
本職の人ほどではないが、それでも気に入った映画は何度でも繰り返し見る。
誰も見向きもしないような映画でも、キラリと光る部分があればそこが好きだし、全体としてダメダメな映画でも、「企画が好き」「設定が好き」「あの場面が好き」「音楽が好き」「演出が好き」「台詞が好き」と、好きな部分がポイントポイントで沢山ある。
だから、僕は映画を部分点の加点法で評価する。けど、普通の人は、映画を見終わったあとのスッキリ感で評価する。だから映画の評価が僕と違うのは別にどうでもいいと思ってる。僕にとっては「この映画でしか見れないシーン」があったらそれは大きく加点されちゃうからだ。全体として馬鹿みたいな内容の映画でも、僕は「ヒロインが可愛いよね」で100点、「あのメカカッコいいよね」で100点あげちゃうから、映画への評価は甘い。内容としては1から100まで馬鹿みたいな内容しかない「みんな!エスパーだよ」ですら「真野恵里菜と池田エライザと星名美津紀がいいよね」で100点になっちゃう。
ちなみに僕が100点あげちゃう21世紀の長編映画は、「スター・トレック」「スター・トレック イントゥー・ダークネス」「ソードフィッシュ」「バトルシップ」「マッドマックス」「特攻野郎Aチーム」「新劇場版ヱヴァンゲリヲン・破」「サマーウォーズ」「スターウオーズ エピソード7」「のぼうの城」「みんな!エスパーだよ(劇場版とTV版)」「実写版 進撃の巨人 後編(後編てのがミソ)」「コードネーム:U.N.C.L.E.」などなどなので以下読むときはそこを踏まえてくれい。
あるとき、ある若い人に「映画に台詞って邪魔じゃないですか?」と言われたことがある。
この話に僕は大いに驚いた。
そういう発想があるのか、と思った。
それくらい、映画ひとつとっても、見方が人それぞれ違うのだろう。
個人的に、パーフェクトな映画はあり得ない。
映画にパーフェクトな何かを期待しているとしたら、それはパーフェクトな異性を想像するくらい無駄なことだ。映画が創作物である以上、究極的には作り手にとって完璧であることはあっても、受け手にとって完璧であることはほとんどないからだ。
ただしウケる映画というのは共通点があって、それはクライマックスがわかりやすいことだ。
いつからがクライマックスで、そこでどういう問題をどう解決するのか、それがわかりやすい映画が基本的にはウケる。
SF考証がほぼ完璧にデタラメであっても、僕は「インディペンデンス・デイ」が好きだ。クライマックスが分かりやすいからだ。
ご都合主義の塊のようであっても、「バトルシップ」が好きだ。クライマックスの戦艦ミズーリのシーンに血が滾るからだ。
全編ほぼ文句のつけようがない映画として、「特攻野郎Aチーム」も好きだ。トム・クルーズ版「ミッション・インポッシブル」は第一作が、実のところ一番好きだ。一番「ミッション・インポッシブル」っぽいからだ。けれどもジョン・ウー版の第二作も好きだ。全くスパイものという感じはしないが、冒頭のシーンだけでも面白いからだ。
インド映画の「ロボット」も好きだ。バトルのダイナミックなところも面白いが、インド映画らしく唐突に挿入されるダンスのシーンが実に楽しい。
こうした数々の映画と比較すると、確かにゴジラシリーズは娯楽作品のようでいて、あまり娯楽作品ではない。
製作者の「こうしたい」という想いと、おそらくはマーケティングの「こうあるべき」という思惑が常に真正面から衝突しているように思えてならない。本来、製作者は自分の見たいゴジラが作りたい。それは本来は「大人のゴジラ」というべき作品である。ところがマーケティングは、「ゴジラを見に来るのはファミリーだから、子供が楽しめる要素が必要」と主張する。結果、宇宙人、未来人、地底人に超能力者、そして超兵器といった無茶苦茶な設定が導入され、せっかくのシリアスなドラマも台無しになる。
曰く、殺獣メーサー光線車、曰く、首都防衛移動要塞スーパーX、などなど。
こうした非現実的な超兵器の数々は実際のところ、一度たりともゴジラを倒したことがない。
初代を覗くほぼすべてのゴジラシリーズはどこか荒唐無稽な設定が持ち込まれていて、全体としてみるとどれも子供だましなストーリーになる。しかし子供だましに一番過敏に反応するのは実は子供である。その結果、ゴジラは長い年月をかけてそっぽを向かれてきた。
子供が子供である時代は実は短い。
1984年のゴジラの時に8歳だった子供は、ゴジラvsビオランテの時に12歳、ミレニアムゴジラの年に24歳だ。子供の成長はそれだけ速いのに、ゴジラはいつまで経っても小学生以下の子供を対象に作られる。どれだけ駄作を重ねても、怪獣ファンという固定客が足繁く映画館に通い、映画そのものを堕落させる。彼らにしてみれば怪獣が出てるだけで面白いわけだから、その映画が映画として面白いかどうかはどうでもいいわけだ。
そして我が国の怪獣映画は滅んだ。
同じ子供だましが何度も通用するわけではないことを映画会社が思い知ったのだ。
僕がゴジラシリーズを好きなポイントを唯一挙げるとすれば、戦闘シーンだけだ。しかも自衛隊と怪獣の戦闘シーンだけである。
むしろ、歴代のシリーズからそこだけ抜き出して再編集したいくらいだ。
戦闘シーンだけをピンポイントで楽しめない人にはゴジラは退屈な映画だろうと思う。僕もゴジラの超能力者とかの設定はほんとうに好きじゃないのだ。
だから誰もがゴジラを見たことがありながら、故にゴジラを見たくならないということになる。日本の怪獣映画界は、もう半世紀ものあいだ、どこにいるかもわからない「ファミリー」というターゲットに向けて空砲を打ち続け、その結果、潜在的耐顧客を創りだして来たのだ。
誤解を恐れず言えば、ゴジラとは本来大人向けの映画である。それは元祖ゴジラを見ればわかる。
原爆の象徴であり、それに立ち向かう人々の恐怖と勇気を描いた映画で、だからこそ全世界でヒットしたのだと思う。
そしてゴジラシリーズを含めて、日本の特撮映画の「面白いところ」を存分に吸収して作られたのが、歴代の庵野秀明作品である。
「エヴァンゲリオン面白いよね」と思うのならば、その重要なエッセンスは全て過去の特撮映画にあると言って間違いない。
庵野秀明作品の凄いところは、子供に媚を売らないところだ。
むしろ子供に挑戦する。
庵野作品を誰も「子ども向け」とは思わないだろう。
用語は難解で、そこで起きていることは「大人の物語」である。エヴァはむしろなまじの実写映画やハリウッド映画よりも遥かに台詞は難しく、物語構造は複雑で、一度見ただけでは瞬時に理解することができないほどの難しさになっている。
けれども、エヴァは当時14歳の少年たちの心を鷲掴みにし、同時に当時大学生、社会人だった者達の心も鷲掴みにした。
それは日本を含む世界各国の特撮映画を浴びるように消費した庵野秀明という作家が、そのエッセンスを凝縮し、面白いところだけを取り出して作り上げた宝石のような作品だからだ。そして逃げず、媚びず、死力を尽くして作り上げたのがエヴァンゲリオンであり、エヴァは衒学的な魅力に満ち満ちているが、同時に人間庵野秀明の考える人間像、世界観といったものに強く支配されている。
だから「エヴァはつまらない」という感想を持つ人がいても仕方がないと思う。エヴァにおける人物が、戦闘シーンを盛り上げるためのギミックとして設置されているということを意識しない人たちにとって、人間ドラマが退屈に思えるとしても無理はないからだ。
僕は映画を作ったことはないが、いわゆる作品を作ったことは幾度もある。
そして残念ながら、そのどれもが自分にとって完璧に納得の行くものになったかというと、そんなことはないのだ。
それは一冊の本でさえそうだし、大金を投じて作ったゲームにしてもそうだ。
自分のやりたいことを全部投入して一つの作品を作ろうとするんだけど、それが全て完璧にできることは一度もない。なぜなら人間はそもそもが不完全な存在だからだ。不完全な存在が完璧なものを目指し、全力を投じてもどこかにいびつさが残る。これはものを作る人間にとっては当たり前の前提でも、そうでない人たちにとっては理解不能なところに写るかもしれない。
僕は「これは僕が考えてないアイデアだから素晴らしい」という言い方を自社製品に関してもしばしばする。
なぜそういう言い方になるのかというと、自分で考えたアイデアはとかく拘泥しがちになるからだ。
それを客観的に評価するのは極めて難しい。
ギリギリのところでバランスをとりながらなんとか誰が見てもバランスのとれたかたちにまとめようとするんだけど、それでもできあがるものが凡庸だったり、退屈だったりする。
では退屈だからアウトプットしないのか、完璧でないから完成させないのかといえば、それをやったらアマチュアになってしまう。僕はプロフェッショナルで、期限が決められた中で最高の仕事をするのが当たり前に求められる世界で生きてきた。だから当然、満足できなくても、納得できなくても、ある段階で見切りをつけて仕上げることになる。そうして出来上がったものが無駄かというと、決してそんなことはなくて、それが必ず次に繋がる。
創作という活動において、どんな作品でも、世に出すことで自分が一番磨かれる。
それを繰り返すことでしか自分を次の段階に持ち上げることは難しい。
極めて個人的に思っていることだが、庵野秀明と樋口真嗣という2つの才能は、似て非なるものだと思う。
伝聞によれば庵野秀明がトップをねらえとナディアの監督を引き受けることになったのは、もともと他の人間が監督する予定だったのに、その人間が「いちぬけた」と抜けてしまって、その穴埋めに仕方なくやることになったのだという。
僕は個人的に庵野さんを詳しく知っているわけではないが、外から見る庵野秀明の才能は、パターンを見つけ出し、消化する能力だと思う。その能力が研ぎ澄まされていることは、彼の大阪芸術大学時代の作品を見てもわかる。
敢えて誤解を恐れずに言えば、「パロディを作る天才」と言っても良い。
パロディというのは藝術の分野のなかでも最も難しいものの一つだと思う。ある作品を消化し、特徴を掴み、それを自分の表現手段として行使する。しかも、元ネタがなんなのか、分かる人には分かるようにやる。
だから庵野秀明作品は、「このカットはあの映画のあの場面」とハッキリ元ネタが分かることが少なくない。「天才は盗む」というが、こうも臆面もなく盗むことができるのか、というくらいに全く同じカットを敢えて使う。
そして本来は「これはあの作品のアレ」「ここはあの作品のアレ」という無数の「元ネタ」をパッチワークのごとく繋ぎあわせてひとつの作品として結果的に全く見たことのないものに完成させる手腕は、日本はもちろん、今の全世界を探しても並ぶ者が居ないと思う。
一方、樋口真嗣はどうか。彼は庵野秀明自身と同じかそれ以上に特撮オタクであり、84年のゴジラの頃、高校生の頃からずっと特撮の現場に関わってきた、いわば大ベテランである。
その中で、僕が常に思うのは、彼は「オリジナルの天才」だと思う。過去の作品を全て踏まえた上で、それでも誰も見たことがないものを作る天才なのだ。
樋口真嗣の作品を見ると、庵野秀明の作品のように「これはあの映画のあの場面」と即座にわかることは殆ど無い。
もちろん樋口真嗣にも元ネタはある。だがそれがパロディにならないように、セリフ回しは作品Aが元ネタだが、カメラアングルが新しいとか、カメラアングルは作品Bだが、台詞は作品Cだとか、巧妙にブレンドされているのでパッと見て「アレだ!」と分かる場面がない。これはこれで普通のプロの作り手として当然必要な才能だ。そして時には全く新しい見せ方やギミックを発明する。
樋口真嗣は過去の庵野秀明作品にもイメージボードや絵コンテで参加している。アニメ作品において絵コンテはほぼ原作と同じわけだから非常にクリティカルな場面を担当しているのだ。これは庵野秀明と樋口真嗣が互いに非常に高いレベルで信頼関係を構築していることを暗に意味する。
庵野作品の凄さは、編集の凄さとも言える。
めまぐるしく変わるカットと、選曲、クライマックスではしばしば作画崩壊しながらも全速力で突っ切るドライブ感。この才能はまさしく天賦のもので、庵野秀明の最大の武器と言えるだろう。
この二人が力を合わせて実写映画を撮るとどうなるか。
その片鱗は「巨神兵東京に現わる」で垣間見れたが、あれは短編、「シン・ゴジラ」は長編。まあものが違う。
たぶん「シン・ゴジラ」を見た人で、過去の庵野秀明作品、樋口真嗣作品の両方を知っている人は、「シン・ゴジラ」は、庵野秀明と樋口真嗣、どちらかが欠けても絶対に成立しなかった映画であることは誰も疑わないだろう。
「シン・ゴジラ」前半は非常に庵野作品らしい衒学的な引用とセルフパロディともとられかねないギリギリの自己言及がメインで、しかし緊張感ある首相官邸の映像に少しずつ挿入される樋口流の「誰も見たことがない怪獣映画」の場面とが強烈なコントラストを醸し出している。
凄いなと思うのは、明らかに「これ、トップをねらえの第5話のあのカットじゃん」というカットを実写で見事に再現していたり、それにピッタリ来る役者をちゃんと揃えていたり、そうした衒学的・自己言及的な引用はまずは特撮ファンの前に庵野秀明ファンに対しての口当たりの良いインターフェースとして有効に機能している。
もちろん全ての人が庵野作品を知っているわけではないが、無数の引用によって作られた庵野作品はいまや引用される側なのだ。すると「どこかで見たシーン」が観客にゆるやかな安心感を与え、映画の世界に引き込むギミックとして有効に機能するのだ。
そしてゴジラが全貌を現し、自衛隊と対峙するシーンというのは、樋口真嗣の真骨頂であり、日本特撮の遺伝子を受け継ぐ者としての意地が炸裂した、とても日本映画とは思えないような見事な特撮シーンである。
そして惜しいことに、ネタバレを避けるため、予告編ではこの見事さ、面白さが微妙にうまく表現されていない。
基本的に何を言ってもネタバレになってしまう、という最近の庵野作品路線を踏襲した映画なので、そこが実に惜しい。
残念ながら本編はこの予告編の1000倍は面白い。
本編の面白さを上手く伝えられていないのは非常に残念だ。
僕が「シン・ゴジラ」を一発で好きになった理由は、「初めてずっと見たいと思っていた展開になるから」だ。それは僕を含めていろいろな特撮ファンの心にどこかにあった期待を初めて満たしてくれる、胸熱展開というよりもむしろ癒やしにも近いものがあるからだ。この数十年溜まりに溜まっていた溜飲がついに下がった、というところにこの「シン・ゴジラ」が文字通り神作品に思えるのである。
そしてこの作品が成立するためには、あまりにも偉大すぎるゴジラというブランドを庵野秀明が咀嚼し、完璧に継承し、練り上げた脚本と同時に、「どこかで見たカット」の応酬で接続点を無数に作り、そこに樋口真嗣が持てる力の全てを投入して全く新しい特撮を導入することで作り上げた作品である。
たぶんこの二人でなければこの映画は作れなかっただろうし、世界の誰にも、これほど見事な映画を作ることはできないだろう。
日本が世界に胸を張って発信する、どこに出しても恥ずかしくない、本当の「ゴジラ」再生であり、基本的にこれまでのゴジラのことは全て忘れていただいても構わないと思う。あれは悪い夢だった。もうそれでいいじゃないか。
だから「いつかみた昔のゴジラがつまんなかった」という理由で「シン・ゴジラ」を見てないのは実に勿体無いし、「進撃の巨人の実写版が嫌いだった」という理由で見ないのはもっと勿体無い。
生きててよかった。
くらいの感動があったよ、まあこれは長年のちょっとひねくれた特撮ファンとしての感想だから普通の人には当てはまらないと思うけど。
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そしてついにサントラが売り切れ!
これは傑作の証明でしょう。
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