スマホ中毒に関するドキュメンタリー映画がシリコンバレーで話題になっています。

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『スクリーンエージャー』と題された同作品は、ティーンエージャーが1日に6.5時間もスマホなどのスクリーンを見て過ごすことの問題点を指摘しています。

この映画はベイエリア在住でABC7ニュースのプロデューサーを15年に渡って勤めてきたリサ・タブと、同じくマリン郡に住むキャリン・ゴーニックがプロデュースしました。

監督はスタンフォード大学出のお医者さんで、ドキュメンタリー映画監督でもあるデラニー・ラストンです。

この映画が地元のマリン郡で公開されると、ティーンエージャーの親から注目され、映画館や学校での上映にとどまらず、アドビ・システムズ、ピクサー、ルーカス・フィルム、ゼネラル・エレクトリックなどの企業でも上映会が開催されました。

同作品は、いまの若者がどれほどスマホ中毒になっているかを伝え、スマホが原因で学業に力が入らなくなる、家庭でのコミュニケーションの断絶が起こるなどの問題点を指摘しています。

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さて、ここからは僕の考えですが、上の映画で僕が一番「ずしん」と心に受け止めたのは、6.5時間という時間の多さです。

現代人は、たしかにスマホ依存症ですね。

ただ「スマホに気を取られて注意散漫になっている」というのは、発想を逆転すれば「驚くほど持続的に、スマホに釘づけになっている」という風にも捉えることができると思うのです。

人間の活動の中心が、これまでのリアルからバーチャルへと移行し、スマホこそが現代人の「神殿」として最も神聖な場所になってしまったのなら、もうそれを覆すことは不可能です。

むしろ我々が考えなければいけないことは(どうやって、スマホの中に、そして6.5時間のアテンション・タイムの中へ入り込むか?)ということではないでしょうか?

消費者がメディアに影響されるというのは、別に今日に始まったことではありません。テレビが登場したときは、テレビ・コマーシャルが「どんなローションを使い、どのストッキングを買うべきか?」を、視聴者に刷り込みました。

いまならSNSを通じてティーンエージャーが、イケてる、イケてない、誰と付き合っている、何処で食事した……など、ひけらかし、評価され、詮索され、陰口を叩かれ、マウンティングしているわけです。

それは風評のジャングルであると同時に自分のアイデンティティが肯定される場所でもあるわけです。自分の存在にはランキングが付けられ、ソーシャルメディア上での序列は可視化されてしまいます。

これは「新しいメディアの登場が、人間の社会関係や価値観、さらに仕事の仕方すら変えてしまう」というマーシャル・マクルーハンの主張が正しかったことを証明していると思います。

スマホのスモール・スクリーンこそが人々の生活の中心なのであれば、我々が今後の働き方、消費者へのリーチの仕方を考える上で、最も重要なのはそこへ入り込むことです。これはなにもフェイスブック広告を出すということにとどまらず、自分のブランディングにも影響する問題だと思います。

一例として、はあちゅうは作家だけれど、たぶん伝統的な意味での作家では無いと思うのです。別の言い方をすれば、ジェーン・オースチンの表現法とは、当然、違うということ。

はあちゅうの場合、ツイッターなどで、限られた言葉の中で、いかにその時の自分の気持ちやひらめきを表現するか? ということが勝負になっているわけです。なぜなら今日の読者の居場所はスモール・スクリーンであり、彼らや彼女たちのアテンション・タイムは数秒だけだからです。すると、おのずと表現法も変わって来なければいけないわけです。

はあちゅうは、(SNSにはSNSに適した表現法がある)ということに気付き、新しい自分独自のスタイルを確立しているという点で、マクルーハン的には、もう「向こう岸」に泳ぎ着いた先行者であると言えるでしょう。


振り返ってみれば、ネットスケープのブラウザーがインターネットを大衆に広めてから、かれこれ20年。スモール・スクリーンの陣取り合戦で、我々に残された時間は、もう残り少ないと思います。