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【被爆71年】
救護の記憶、絵本に 岡山の元教員
焦げ付くような臭いが、かっと鼻を突いた。粉じんが舞う真昼の薄暗い町で見たのは、皮膚が焼けただれ、とぼとぼと歩く人の列。当時17歳で陸軍に所属していた被爆者の元教員、土屋圭示さん(88)=岡山県笠岡市=は広島に原爆が投下された約6時間後、市内に入り、傷病者の救護に当たった。そこで見た光景を絵本にまとめ、次代に記憶を伝えている。
広島湾の南に浮かぶ江田島の兵舎。「小隊長殿に食事を持ってまいりました」。声を張り上げた時、ピカッと強い光がした。しばらくすると爆音で窓ガラスが割れた。走って防空壕に向かう途中、海の向こうに見える広島の上空には大きな雲がかかっていた。
乾パンとわずかな干し魚を携え、船で広島の宇品港へ。市内で約1週間、救護や道路の片付けなどの作業をした。
「しゃべるだけじゃいけん。見てもらうことも大切だと思った」。平成20年、自らの体験を絵で描き、文章を添えて絵本を発行した。
大きな木と石の下敷きになり、口や耳から出血して息絶えた人。校庭らしき場所には、爪で引っかいて進んだような線の先に黒く焦げた2人の遺体。どれも土屋さんの心に深く刻まれた場面だ。
戦後、中学校の教員として笠岡市に赴任してから、カブトガニの保護活動を始めた。「推定1万匹のカブトガニが水を欲しがりながら死んでいきました」。生息する海が大規模な干拓工事になった状況を聞き、すぐ活動に加わった。