『民主主義ってなんだ? まだこの国をあきらめないために』(高橋源一郎×SEALDs、河出書房新社)
雑駁とした感想から。SEALDsの手作り感、ある意味でのショボさが素晴らしい。また、かつての左翼な人々(自戒を込めて)が、使う言葉に無批判なことが多かったのに対して、彼らは「民主主義」や「自由」について批判的な反省を込めて使っていることが分かった。運動を広げるには、こういう態度は絶対に必要だ。これにより言葉の定義が各人によって多様であることが分かるし、対話がスムーズに行われるように(本来は)なる。この本は民主主義に関する様々な考え方、歴史的な背景の勉強になる。SEALDsの民主主義における志向はあくまで直接民主主義。とはいえ、間接民主主義の意義も認めている。
SEALDsの奥田さんのゼミの先生であり、対談相手である高橋源一郎さんは元々新左翼系の人。スガ先生は揶揄を込めて転向者と言っているが、しかし、左翼運動における転向ってのは、かつて中野重治が暴いたように、どういう形であれ必然であり、それは容易に再転向を可能にするものだ。(この辺の事情は吉本隆明を参照してください。)彼が見事に議論をリードし、若い人の知見を広げているところも素晴らしい。
んで。SEALDsの新しさについて。志位るずなんて揶揄する向きもあるが、読んだら分かるが共産党の感性とは真逆の人々によってSEALDsは担われている。どういう点で真逆かというと、「すべては疑いうる」を地で行っている点。牛田さんが特にそうだ。「確信」なんかをおめでたく言うSEALDsではない。また、生活の場を何よりも大事にしているところ。そうだよ、ゼミの飲み会も大事だよ。「今、大決戦が行われようとしている三里塚闘争から君は野球ごとき(俺、野球部員だよ?)で逃亡するのか!」と、86・10・20の前に中核派に罵られたことをちょっと思い出したり。そして、原則「一回こっきり、個々人の集合体」であることを貫こうとする点。それは運動体としての弱さでもあるが、強さでもある。かつて言われたリゾーム運動論を、さらに推し進めた感じである。とはいえ、継続性がないわけではない。高橋源一郎さんはベ平連に原型を見ている。
啓蒙思想と民主主義って、確かになじみが悪い。民主主義が是とされたのは近代の後期に過ぎない。真面目な哲学者や思想家は民主主義を否定していたことは踏まえるべきだね。その否定のありように、左翼も呪縛されていたと俺は思う。例えばマルクス主義の言う民主主義は「階級闘争の民主主義」であり、階級内部における、階級対立に帰着できないことへの民主主義はまじめに考えていたとは俺には思えない。結局、マルクス主義において民主主義は階級闘争の道具に過ぎず、民主主義それ自身を価値と認めていなかったと理解している。だからこそ、「真理」などの名において、対立する思想の持ち主に対して、究極には殺人さえ厭わないエートスが左翼には生まれた。こういうのは言うまでもなく乗り越えなくてはならない。で、SEALDsは拙いながらも、愚直に、(直接)民主主義の再建を目指している。応援しないわけにいかない。
変な保護者や党派を乗り越える可能性がある。彼らには毛沢東の言葉を贈りたい。「負けて、負けて、負けて、最後に勝つ。」と。そのためには「民主主義ってなんだ?」と全方向に問い続けてほしい。小生も考える。そして今年はもっと行動する。(いや、ネットで書かないだけで何もしていなかったわけではない。)
さて、印象に残ったことなど。
・一番小生の考えに近いと思ったのは、牛田君かな。ヒップホップアーティストらしい。哲学者のルジャンドルは気になるなあ。今回の中では一番ラディカルな人かも。
・「マザー・テレサがいる家はうざい」(奥田君)は分かる。いや、身近にいるだけでねえ(謎)。
・芝田さんはカルスタやってたのか。
・渋谷のAurraというクラブで運動の立ち上げってのが凄いなあ。運動がPVっぽいのもわかる。
・コールの母体はラップ。聞かれ方、見られ方を意識しているのも俺らの時代と違う。「個人的な言葉を使う」のもいいね。その大事さを「連赤」などを例示して説明する高橋先生もいい。
・イギリスには成文憲法はなく、言ってみれば全てが「解釈憲法」である。一般意志が固まった状態なのかな。日本国憲法は成文憲法であるが、九条の運用については解釈憲法っぽいグレー。
・「ならば変えろや」と牛田君。高橋先生も同意。だが、先生は解釈改憲の歴史を尊重する。
・「人間だけで回してると狂ってる(だから「神」が必要)」(p57)の牛田君の指摘は大事。フランス革命の悲惨のあと、議論されたことだね。で、「神」=「立憲主義」、「人間」=「民主主義」という図式が大事だと奥田君は言う。緊張関係がないといけない。
・集団的自衛権はグレーゾーンを飛び出したという皆様の認識。
・「民主主義ってなんだ?」の元ネタはオキュパイ・ウォール・ストリートの"Tell me what democracy looks like!"とのこと。アンサーは"This is what democracy looks like!"。日本では「なんだ?」
・そういやそうだな、「デモの影響で辺野古の工事や新国立競技場問題の親交がストップした」(p66)デモの効果はあったのだ。
・カンパ以上にデモの準備に金を突っ込む皆さま。バイトで来れない牛田君。
・「民主主義が終わっているなら、始めるぞ」。蘇る毛沢東主義(いい意味で、上記参照)
・「LINEでなんとなく決まっていく」(p82、「本当に止める」というスローガンの是非について)
・コンパのメンバーを引き連れて国会前に結集する牛田君。
・「SEALDsでは各班のリーダーが副司令官」(p88、元ネタは言うまでもなくサパティスタ)。
・古賀茂明さん曰く「『こいつら、しつこい』と思わせるのが大事」(p92)
・SEALDsのリズムは90BPM、高校生は150BPM。「とりま廃案!」「それな! それな!」・・・無理だわ。
・団体動員はないので、参加者は出たとこ勝負。
・古代ギリシャの民主主義。参加することが嫌でも「来い」とペリクレスに言われる。代理はない。とても厳しい。(p103)
・小田実は古代ギリシャの専門家であり、民主主義を深く考えていた。ゴリア=アゴラ(人がしゃべっている場所)で話す、イセ=みんな平等に。そういうわけで、ここ(イセゴリア)では「守る」という概念はなかった。自由は守るのではなく(侵す者がいなかったから)、行使するものだった。
・「近代の文脈は否定性なんだよね。(略)その否定の刃は自分にも向かってくる。それがすべての運動が瓦解していく原因なんだよ」(p109、高橋先生)。それに対して牛田君は「自分らを肯定」する運動をしている、と。だから、「守れ」ではなく「使え」、「するな」じゃなくて「する」。これは戦後運動史的には新しい、というか、本来あるべき姿だな。そしてそれは差異を認めることであり、繊細さ、注意深さ、そして知性が必要となる。
・古典は現在でもリアリティーがあるから古典なんだよね。
・高校生の時の高橋先生はソレルに依拠してメディアの「暴力批判」を批判していた。佐藤訪米阻止闘争の学生の「暴力」を批判したメディアに反発して。真っ当な感性だな。一方、「民主主義」という課題には突っ込めなかったとのこと。ならば、この対談は復讐戦だな。
・「定義」を聞くことで対話が始まるというのは面白い。暴力、民主主義。
・SEALDsをベ平連の生まれ変わりと考える人が多いらしい。「自分のやりたいことをやる、人のやることに文句をつけない、文句があるなら自分でやる」「去る者は追わず、来る者は拒まず」「社会運動は難しくてはだめだ」 徹底的に民主主義的というか、民主主義に信念を持った組織だった。が、スパイが入り込んで大変だったようだ。
・この本は入手しやすそうで面白そう。『デモクラシー・プロジェクト』(デヴィッド・グレーバー)
・デモクラシーを直訳すると多分「民衆権力」。古代アテナイ発祥。みんなで話し合ってみんなで決める。でも、ソクラテスもプラトンもアリストテレスもデモクラシーに否定的。(プラトンの哲人政治は有名だな。)「扇動家に惑わされる衆愚政治、ひいては独裁政治に帰着する」と。
・近代民主主義が早く発展したのはアメリカだけど、建国文書の起草者は反民主主義だった。彼らが想起していた民主主義は古代アテナイの直接民主主義だった。
・古代ギリシャの民会では馬鹿な意見を言った人は排除された。定数は六千人。民衆は武装している。戦争の是非は文字通り議論に生命がかかっている。議案が基本法から外れていると最高で死刑。投票での決は滅多に取らず、結果を引き受ける行政執行者はくじ引きで決める。任期は一年。かなり厳しい制度だ。
・古代アテナイ基準だと、代議制民主主義は貴族制と同じ、となる。ルソーは奴隷制と言った。少数の誰かを選んで任せることで民主主義は死ぬ、と。
・実は民主主義と受け取れるシステムはいっぱいある。そこでグレーバーは極端に単純な民主主義の定義を出す。「民主主義とは、その共同体の成員が誰もが平等に参加して、発言権を保障される、という原則に基づいて、集団的に物事を決めるシステム」。平等が基礎。
・「我々の考え」=一般意志はいかに形成されているのか、あるいは形成されているといえるのか。確かに難しいね。ルソーは党を禁止した。事前の話し合いも禁止。意見を二つに絞っただけで民主主義は死亡。差異を保持せよ。その上で、決まったことには従え。それが一般意志の発現だ。
・何が大事かってえと、可能な限りの差異を認識すること。それを共有すること。「落としどころはこの辺かいな」と空気を読むことなのかな?? でもこれ、四万人でやっちゃうんだよなあ。
・を。不在者、あるいはサバルタンのための民主主義。「現在は未来からの借り物」という観念を有するイロコイ族の民主主義(未来の人(不在者)の存在を前提)はアメリカの民主主義に影響を与えている。
・「特定秘密保護法に八割の人が賛成なら、お前らは納得するの?」という問いかけは鋭いね。民主主義とは別の、正しい、正しくないの話は厳然として存在する。
・患者などの弱者と立場上平等にして物事を決めると認知症が回復する人が現れた。共同体はパワフルになった。民主主義や平等は面倒くさいがポテンシャルは大きい。
・やっぱり牛田君はいいね。p158を引用。
民主主義って行き過ぎちゃうと完全に個人主義で、人々が話し合って決めたことは何でもいいってなっちゃうと思うんですよ。だからそれでダメにならないように、愚かしい話をする人は排除する。でもその判断基準ってどこにあるのかっていう。そしたら、たぶんみんながなんとなく共有している「殺人ダメだよね」っていう基盤とかだと思うんですよ。ラディカル民主主義がいきすぎると、そういう基盤も取っ払われていくんじゃないかなと怖いんです。
・立憲主義は保守的な本質がある。アメリカのバーネット判決では「憲法でもっとも重要な人権条項――権利の章典は、そのときどきの選挙の結果によって変えられるものではありません」とある。憲法は革命によってつくられる。変えたければ神的暴力の行使=革命をしなさい、と。人間の移り気、愚かさを見据えていると言える。
・立憲主義の厳父のような存在は、古代ギリシャではロゴスであった。
・人間は弱いから言葉をもってコミュニケーションをし、助け合って生き延びた。親は子供を教える。次に周囲が教える。それら全てが一つの民主主義のシステムではないかと、デューイは考えた。デューイの弟子である鶴見俊輔は「実は民主主義は教育のシステムそのもので、道具ではなくその中で成長していくものだってこと」と説いた。それを学校で実践しているところに「子どもの村学園」がある。面白いが割愛。
んで。戦争体験と地続きだった戦後民主主義は見事に風化した。それは仕方がないと小生は思う。だが、ならば、新たな時代のために民主主義を捉え返し、問い直し、新たに民主主義を始めるしかないと思う。
SEALDsの若者たちだけに任せていてはいかん!

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