今日も、たくさんありがとう。
そろそろ、おやすみます。
自信と過信
人前に立つことは難しい
堂々となりきって見せることは
自分に酔うこととは違う
僕は腹八分という言葉が嫌いだ
限りなく10に近づいていたい
胸に潜んだロックの静寂が聞こえるか
胸に弾けるバラッドのシャウトが聞こえるか
上手くやれているという自負は無い
いつもいつでももの足りない
実の評価より強気になること
実の評価より弱気になること
共に大きな間違いだ
僕の心を
通訳無しで伝えたい
古き時代に生まれたものは健康的であり
新しい時代に生まれたものは病的である
もし賢者が正しいことしかしないなら
愚か者には絶望しか与えられない
勝手に育った理由と信じすぎた自由は
ときに恐ろしい不幸をもたらしてしまう
自信と過信は紙一重なのだから
僕らCHAGE&ASKAは、アマチュアの頃から怖いもの知らずでした。活動をするということに関して、自分たちが感じる空気感、肌触りだけを信じて活動していたのです。裏を返せば情報に疎いということになります。周りのアマチュアアーティストが、どんな活動をしているのか、全く興味がなかったのです。ライブというものは、ホールで行うものだと思い込んでいました。そうではなかったのですね。どのアーティストも、50名ほどのお客さんの前で、パフォーマンスし、経験を積み重ね、実力をつけ、そして東京へ向かいました。そして、多くのアーティストが、夢破れ、福岡に戻って参りました。と、いう話さえ、デビューしてから知ったことなのです。
初めてのワンマンライブは、大学4年生の時に、福岡の「ももちパレス」で行いました。キャパ800人です。なぜ、そこを選んだか。 YAMAHAのポピュラーソングコンテストが、そこで行われていたからです。それだけです。もちろん他のホールもいくつかは知っていましたが、小さなところからコツコツと、いう考えがまったくなかったのです。僕は「ももちパレス」に直接交渉に行きました。パレスの方は、僕らのことを知っておられました。アマチュアながら、テレビ出演などをしていたからです。その方は、僕より少し年上ぐらいの方でした。
「コンサートをやりたいのですが、3ヶ月後ぐらいで会場が空いている日はありませんでしょうか?」
「空きはありますが、イベンターや企画会社はとおさないんですか?」
「どこも、知りません。」
「ここのキャパは800人ですよ。」
「ええ。知ってます。ポプコンに出場していますから。」
「CHAGE&ASKAさんは、まだ早いんじゃないですか?」
「そうかもしれませんが、もう決めましたので。」
「いやぁ、危険すぎるなぁ。」
アマチュアで、そこを使用するという前例がなかったのです。その担当の方は、やんわりと断って来ました。
「会場費、ミキシング、照明など、その他を含めて○○万円はかかりますよ。」
思ったよりも、高額でした。その時です。表情です。担当の方の表情に見覚えがあったのです。
「この人、どこかで会ったことがある・・。それも、近しい間柄だったはず・・。」
記憶の中のページを一気にめくりました。そして、ヒットするまでそんなに時間はかかりませんでした。
「あの、もしかして、大野北小学校出身ではないですか?」
「えっ!?そうですけど。」
「やっぱりー。お久しぶりです。お家は、学校の斜め前のアパートでしたよね?」
「何ですか?何で知ってるんですか?」
「一緒に、ドッチボールや野球してたんですよ。お家に遊びに行ったこともあります。」
「なーんだ、そうなんだ?」
両者、話し方は、一気に砕けました。友人のような話し方になったのです。
「ね、何とかならないかな?」
「お客さん、大丈夫?」
「やってみないと分からない。でも、600人ぐらいは入るんじゃないかと思う。」
「プロでも、600人は入らないよ。」
「自分で言うのも何だけど、もう中高生は僕らのことを知ってると思うんだ。」
「プロモーションとかチケット売りは?」
「告知ポスターと、手売り。」
「3ヶ月で?」
「3ヶ月も、6ヶ月も、(お客さんが)入らないときは、入らないから。」
「分かった。協力しよう!」
「経費も、トータルで安くしてくれない?」
「上と、交渉してみる。」
その頃、僕らを応援してくれていた中高生を、各学校からひとりずつ代表して集まってもらいました。CHAGE&ASKAデビュー時代に行った、決起集会の小規模なものです。ポスターやチケットが出来上がったのは、3週間後ぐらいでした。いよいよです。手売りが始まりました。ポスターは警察の目を逃れながら、真夜中、至る所に張りました。当時、僕らは7人で編成されたバンドでありましたので、7人が中心となり、各方面に飛び散りました。数日間おきに情報が入ってきます。今日は○○枚、○○枚と。中高生たちは頑張ってくれました。それまで味わったことのない高揚感で、毎日が充実しました。そして、ついに、ライブ3週間前に800枚のチケットが完売したのです。無いチケットには価値が生まれるもので、その後もチケットは売れました。当時、消防法も強くは規制されていませんでしたので、立ち見の分も用意しておいたのです。
ライブは1100人以上のオーディエンスに囲まれて大成功いたしました。
今は、情報にすべてを委ね、慎重に行動しますが、「何も知らない」ことの強さも経験しています。恐怖は、新しいことをやる前に必ず顔を出します。恐怖は、弱い心を見逃しません。つけいってきます。しかし、何も知らなければ、恐怖には見つかりません。
風鈴
それは頂き物だった
箱を開けると幾重にも和紙にくるまっており
糸を摘んで持ち上げると夏の音がした
目を閉じたブランコのようになって不定期に揺れる
僕の家に縁側はないので
デッキの上に吊り下げてみる
幼い頃
両親は布団を敷くと
蚊が入らぬよう部屋に蚊帳を張り巡らせた
蚊帳をくぐるときには
うちわで扇ぎながら入り
蚊の侵入を防ぐのだ
僕にはその意味が分からなかったが
大人の真似をしてうちわを持った
そして湯上りにパジャマを着せられた僕は
風の調べを聞きながら眠りについた
夜と朝では音が違って聞こえた
夜風が似合う音なのだ
縁日に行くと
それは金魚すくいのそばで揺れていた
自然に足が止まる
いろんな大きさや色をした風鈴が並んでいた
なぜガラスとはあんなに繊細な鳴りをするのだろうか
涼しくなると
自分の役目を終えたような音になる
それは
春になると桜が咲き誇るように
夏に託された命
季節の音なのだ
たくさんのコメントありがとうございます。時間のある限り、すべて拝見しております。言霊というものは、本当に不思議なもので、心の中に入ってくるものと、入って来ないものがあります。入って来ないとするならば、僕が、まだまだ未熟なのでしょう。勇気を与えてくれるコメント、少々凹まされるコメント。今の僕には両方共が、大切な意見です。ただ、ひとつお願いがあるのです。
僕を律っするためにコメントを書いてこられる方に、お伝えさせて下さい。
もう、お気持ちは十分に察しております。なので、お名前を、何度も変えたり、性別を変えたりされなくても良いですよ。これからも、コメントをよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
2007年12月下旬。19時を少し回った頃、仕事から自宅に戻ろうとしていた時に、ママから電話が入りました。
「ASKAちゃん! 鳴瀬よ。パパが、パパが危篤なの!!」
「今、どこ!?病院!?」
「○○病院。もうダメかもしれない。」
「分かった!直ぐ行く!」
なるパパは、鼻に管をとおされ、人形のように眠っていました。
「ありがとう、ASKAちゃん。もう、声をかけても動かないの・・。」
「なるパパ!ASKAだよ!」
静かに眠っていました。左斜め横には心電図モニターがありました。70~80の間を数字が動いています。
「つい、この間まではお元気だったのに。なぜ?」
「肝臓癌・・。こうなるの、もう3回目なの。」
病室は静寂に包まれていました。ママは何度も、何度も、なるパパの顔を撫でています。声がかけられませんでした。2時間ほど、この状態が続いた後、モニターの数字が落ちて行きました。30、20、10と。そして、数字は2〜4となりました。それを確認した医者はママの肩に手を当てました。
「残念ですが、ご臨終です。」
医者が、気を遣うような声で語りかけました。
「人間の身体には電気が走っていますので、0がご臨終というわけではないのです。しばらく数字は動きます。しかし、数字が動いてる以上、ご家族も死を受け止めることはできないでしょう。私は、少しこの場を離れますね。」
そう言うと、医者は病室を出て行きました。人の死に目に遇ったのは初めてのことでした。そのまま5分ほど、言葉をかけられなかったのです。僕は思いました。「なるパパは、本当に死んだのだろうか?身体を動かそうにも、動かせないのではないだろうか?」
ふと、思いつきました。僕は、携帯で「背中で聞こえるユーモレスク」を探したのです。配信サイトです。ありました。直ぐに、それをダウンロードし、なるパパの耳元で鳴らしたのです。曲が始まった時でした。動き出したのです。
心臓が鼓動を始めたのです。
「なるパパ!聞こえてるよね!一緒にやった曲だよ!」
モニターの数字は50、60と上がり続けます。曲が終わると、モニターの数字は一桁に戻ってしまいます。もう一度、流します。すると、また心臓が動き始めます。
「なるパパ!こっちだよ!こっち!そっちに行っちゃいけないよ!」
何度も曲を再生し続けました。死んではいません。身体が動かないだけなのです。120台まで回復した瞬間もありました。きっと、プレイをしている夢を見ているのでしょう。思いつく限りの言葉を投げかけて、こちらに戻しました。
「パパ!パパ! 早く用意をして!お客さん、もう待ってるわよ! お客さん、満杯よ!」
ママがそう叫ぶと、止まった心臓が、また動き出しました。
「なるパパ!約束でしょう!一緒にライブやるって約束したでしょう!」
なるパパの目から涙がこぼれ始めました。そのような状態が2時間半ほど続いたのです。もしかしたら、戻って来るのではないかと何度も思いました。生きる方へ一生懸命のように見えました。しかし、顔はだんだんと黒ずんで行きます。精神は生きていても、身体が死へと向かっているのです。僕は、心の中で言葉を投げかけました。
「なるパパ。もう十分だよ。あなたに出会えたことを感謝します。僕も、いつかそっちに行きます。その時に、必ず一緒にやりましょう。本当にお疲れ様でした。」
心で語りかけたその瞬間に、数値は一気に落ちて行き、0になってしまいました。人は、臨終を迎えた後も、耳だけは聞こえているのです。戻って来ようと頑張っているのです。ちゃんと、お見送りができました。それから数分後、医者が病室にやって来ました。
「こんな体験は初めてです。我々は死に対して考え直さなければなりません。」
なるパパはミュージシャンのままで、逝きました。素晴らしかった。幸だったでしょう。
それから、数ヶ月後、ママから電話がありました。
「何かねぇ。家に楽器があると想い出すばかりでね。処分しようと思ってるの。倉庫の奥からアコースティックギターが出てきてね。楽器屋さんに電話をしたら、20万円で引き取ってくれると言うのよ。」
「どんなギター?」
「読めないわぁ。Gi・・までは分かるんだけど。黒とベージュが混ざり合ったやつで、ボディに丸いボリュームスイッチがあるわよ。」
「ママ、それ、ギブソンって書いてない?」
「ああ、本当だ。ギブソンって読める。」
「それ、ビンテージでね。ジョンレノンが作らせた特別なギターだよ。20
万円なんてものじゃないよ。オレが買うから、絶対に売らないで。」
鳴瀬昭平さん、僕はあなたが残してくれたギターを、今もステージで使っていますよ。あなたが残してくれた、僕への贈り物です。ありがとう。