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【社説】

週のはじめに考える 五輪の旗を持つ手には

 今日にも東京都の新知事が決まり、八月五日にブラジルで五輪開幕、六日は広島原爆の日。濃密な週のはじめに考えます。「東京五輪」のあとさきを。

 二〇二〇年東京五輪に向けて全国も注視した都知事選は今日、投開票。それが誰になるかは別にして、新知事の最初の海外出張先はブラジルになるかもしれません。

 八月下旬、リオデジャネイロ五輪の閉会式で、次の開催地が五輪旗を受け継ぐ晴れ舞台です。

 けれども、晴れがましさはそのひととき。浴びる脚光が消えた後は、手にする五輪旗の重みが相当ズシリとくるはずです。

◆平和への思いが重く

 都知事の政治責任に加え、多くの国民が「東京五輪」の合言葉に込めてきた、平和への思いもまた重くのしかかるからです。それは平和だからこそ五輪も開ける時代を、尊いと思うこと。その尊さを身に染みてよく知っており、代々大切にしてきた日本人ならではの「思い」といえるでしょう。

 歴史をたどれば、ちょうど八十年前のきょう、一九三六年七月三十一日。四〇年五輪の開催地に東京が決まったことを伝える大ニュースが歴史の始まりでした。東京新聞の前身「国民新聞」が翌日出した号外の見出しは「東京オリムピック 光輝ある実現」。だが、折から日中戦争が長引きそうな時局に日本政府は二年後、開催権の返上を決め、四〇年東京五輪は幻と消え去ります。

 時は流れて、一九四九年夏のある日。東京・日比谷の連合国軍総司令部(GHQ)で、マッカーサー最高司令官と対峙(たいじ)する一団がいました。田畑政治会長率いる日本水泳連盟の表敬団です。後の“フジヤマのトビウオ”古橋広之進選手らも同席していました。

◆執念が呼び寄せた縁

 六四年東京五輪の招致までの流れに詳しい『祖国へ、熱き心を』(高杉良、角川書店)によれば、田畑会長らの訪問は、日本とはまだ国交のなかった米国への渡航許可を求める直談判でした。

 一年前のロンドン五輪に「敗戦国」日本は出られずじまい。ならばロサンゼルスでの全米選手権大会に当時最強の古橋選手らを出場させて、その強さを公式記録に刻みたい。田畑氏の執念でした。

 そこまでの執念の源泉を、著内の談話にくむことができます。

 「わたしは悔しくて悔しくて歯ぎしりが出そうです。…戦争で(昭和)十五年と十九年の二度オリンピックが中止になったのが、残念でならんのです」

 昭和十五年はすなわち幻の四〇年東京五輪。戦争への並々ならぬ憎しみがその源泉でした。

 執念は通じ、選手団の渡米は実現しました。そして実はこの渡米が、日本スポーツ界に「恩人」を引き合わせることになります。

 ロス在住の日系二世フレッド・イサム・ワダ氏。あの『祖国へ、熱き心を』の副題『東京にオリンピックを呼んだ男』その人です。

 ワダ氏は、四九年の全米選手権に出場する選手団が宿舎を探しているとの新聞記事をたまたま目にし、自宅の提供を申し出ます。その縁でスポーツ界幹部と親交を結び、六四年東京五輪の招致では、中南米諸国を自費で回って東京への投票を呼び掛けました。

 ロスでの古橋選手らの活躍は、米国で日本人、日系人社会への評価を高め、戦争の遺恨を引きずる日米間の軋轢(あつれき)の緩和に役立った。それへの感謝も、ワダ氏が祖国での「平和」五輪に身を尽くす原動力になったといいます。

 開催地を決める西独ミュンヘンでの投票は東京の圧勝でした。

 そしてもう一人。こうして実現した六四年東京五輪に、ひときわ強く「平和」を印象付けた人がいました。聖火リレーの最終走者、坂井義則氏です。当時無名の大学生ランナーになぜ大役が回ってきたか。自身には「何の説明もなかった」という坂井氏ですが、その出自から理由を推察できます。

 広島に原爆が投下された一九四五年八月六日、爆心地近くの広島県三次市生まれ。三年前、坂井氏本人が本紙に、この人選の意義を語っていました。「平和の祭典の象徴として、敗戦国の日本が平和国家になったことを世界に示したかったんだろう」と。

◆引き継がねばならぬ

 「平和国家」になった日本は、六四年東京五輪を弾みに空前の繁栄を享受した。いま急速な高齢化が進む先の未来に、どれだけ繁栄の果実を引き継げるか微妙だが、「平和国家」は引き継げます。

 むしろ引き継がねばならない。先人たちが平和への思いを託した「東京五輪」が再び巡ってくるのなら、なおさらしっかりと。

 三週間後、ブラジルで誰かしら五輪旗を受け継ぐ舞台に重ねて、私たちの「平和国家」の引き継ぎにも思いを馳(は)せてみるのです。

 

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