*星空文庫

脱獄囚と少年  ~優しく撃って~

阿部匡廣 作

脱獄囚と少年  ~優しく撃って~
  1. 第一章 おばあちゃんの命日
  2. 第二章 脱獄計画
  3. 第三章 風船爆弾
  4. 第四章 脱獄
  5. 第五章 深夜の県警本部
  6. 第六章 人質事件
  7. 第七章 記者会見
  8. 第八章 トウモロコシ畑の銃声
  9. 第九章 追うもの、逃げるもの
  10. 第十章 発見された最初の人質
  11. 第十一章 浩介と健太の買物
  12. 第十二章 森田浩介の生い立ち
  13. 第十三章 まゆみのパフォーマンス
  14. 第十四章 車の乗り換え
  15. 第十五章 検問
  16. 第十六章 破られた検問
  17. 第十七章 浩介と健太の関係
  18. 第十八章 憩いの時
  19. 第十九章 やさしく撃って!
  20. 第二十章 発見
  21. 第二十一章 脱獄囚と少年と警官隊
  22. 第二十二章 別れのとき

思ったとおりの人生ではなかった。
 しかし、よかったとなら言える人生だったかもしれない
          (アルセーヌ・メルセデス・ヒロコ)

第一章 おばあちゃんの命日

 夫と死別したあと、独り身で三人の子供を育ててきた佐久間礼子は三十歳になったばかりだが、四十五歳近くに見えた。ほっそりとした体形で、まあまあの美人。カールのかかった髪は、かつて一度だけ、高校の卒業式に美容院に行ったきりである。
彼女の母親の人生も同じようなものだった。母は楽しく希望に満ちた日々を二、三年だけ送ったあと、若くして恋愛し、子供を生み、ずっと働きどおしで、結局は病に倒れて若死にした……母の二の舞は踏むまい……そう礼子は堅く心に決めている。

 彼女は昨年、隣町の山梨市から、ここ甲府市のはずれの宮原町にある賃貸一戸建ての家を借りて引っ越してきたのだ。
JR身延線国母駅から徒歩で二十八分ほどの距離にあるどちらかといえば殺風景な地区で、簡易建築の安っぽい家々が軒を並べ、それぞれの家が、ところどころに犬の糞が張り付いて黄ばんだ芝生だけの前庭に車を置いている。
礼子の家は、この界隈で最も小奇麗な通りにあり、芝生はそれなりに青く、家の塗装も新しく、生垣も手入れされている。ただ、この地区の風変わりなところといえば、隣町の堀之内町に、国道の中央道沿いに建っている甲府刑務所と少年鑑別所があることだろう。
この日、甲府盆地特有の蒸し暑い空に太陽が沈むころ、礼子は子供たちに食事をさせ、戸を閉め切って外出を禁止した。山梨県一帯を雷雲が覆っており、雷の警報が発令されていたが、外出禁止の理由はそれではなく、今夜だからこそ、外出させないのだ。今日は、彼女にとっては“母”の……子供たちにとっては“おばあちゃん”の大事な命日なのだから。今夜は家族みんなで“おばあちゃんの喪”に服さねばならない。
 キリスト教の一派『エホバの証人』の熱烈な信者である母は、子供たちへの(しつけ)は厳しかった。今夜は(ハローウィンのお祭り)だったが、母は『悪魔のお祭り』だと称して、子供たちがそれに参加することを禁じていた。
 子供たちは小学校で明日催される学芸会の話題に夢中になっている。
「本多雅子は白雪姫になるそうよ」直子が言った。その姿を思い浮かべて微笑している。直子は十歳にしては大人びて見えた。よくブラッシされた肩まで垂れる長い黒髪には、なんとなく生まれながらの気品が漂っている。
「でも、あの子、太っているじゃない?」
同じ十歳の……ただしボサボサ髪の……圭子が応じた。直子から遅れること四十五分後に、正反対の気性を持って生まれた双子の妹だ。
「あの子は森の小人(こびと)になればいいのよ。それだったらピッタリだわ」
まるで毒ヘビにフォークを突き刺そうとするかのような顔をしている。
健太が微笑した。手作りモップに似た前髪を垂らした八歳の弟で、思いつめたような大きな眼のせいか、いつも心配そうな顔をしているようにみえる。その表情からすると、わずか八歳ながら、すでに『これがただの言い争いでない』ことを理解しているらしい。
もっとも小さいころには健太は、二匹のバラクーダ(カマス科の獰猛な魚)の前では自分の意見を控えるべきであることを学んでいたのだ。
「わたしなら、シンデレラの劇にするわ」と、圭子が言った。「それか、ピーターパンね」
「ピーターパンは男の子よ」と、直子。
「女の子ならティンカー・ベルでしょう? 健太ならピーターパンになれるけど……飛べないからダメね」
 健太は口元に半ば笑みをうかべ、次に姉が口にする気の利いたセリフを待った。
「健太は森の小人になったら?」そう言って、圭子は、にっこりと弟に微笑みかけた。
「ぼ、ぼくはフラッシュ・ゴードンがいい」
 健太はトーストに穴をほじくりながら独り言のように呟いた。
 そのとき、母親がミルクとマーガリンをテーブルに置き、滑るように自分の椅子に腰を下ろした、まっすぐ息子の目を見つめ、パンに穴をほじくる息子の手を軽く叩いた。
「お腹を空かしているアフリカの子供たちのことを考えなさい」
「うちは、ほかの家とは違うのよ、健太」と、直子。
「一人一人が信仰を強く持つことで、それだけ高い所に上がれるの」
 母親が四つのグラスにミルクを注ぎながら言った。
 突然、玄関の呼び鈴が鳴った。子供たちは全員が持っていたグラスを置き、目で母親の動きを(うかが)った。母親は立ち上がり、決然とした足取りで玄関へ行った。
 礼子が戸を開けると、近所に住む神田司郎……三十五歳くらいで体重約二十キロオーバーの太った家庭的な男がおだやかな笑顔を浮かべって立っていた。その前には、ハローウィンの仮装をした黒い覆面の小さなスーパーマンとティンカー・ベルが誇らしげに並んでいる。
「お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ!」三人の子供たちがいっせいに叫んだ。
 その後ろには三人の母親たちが気恥ずかしそうな笑みを浮かべて手を振っていた。
「お近くの神田司郎と、その家族です。こんばんは」と、神田は言った。
「ここから先、二軒目に住む者なんですが、お目にかかるのは初めてですね。引っ越してこられたかたの歓迎会にお誘いにあがったんですが……」
 神田の目がそれとなく礼子のほっそりとした腰のあたりに注がれている。疲れた目と髪をしているが、その眼差しには温かみが感じられた。噂によると、彼女は女手ひとつで三人の子供を育てているという。
 神田は誘いかけるように……あたかも『お暇な折には、ぜひ我が家にお立ち寄りください』とでも言うように……礼子に微笑みかけた。
礼子は外の子供たちのほうへチラリと目をやり、ふたたび神田司郎を見た。
  「ごめんなさい。今日は亡くなった母の命日ですから、どこにも出かけませんのよ」
そう言うと、軽く頭を振りながら髪を後ろへ撫でつけると、愛想のいい男性に応じて、丁重に微笑を返した。
「それは知りませんでした。どうかお母様のご供養をなさってください。お邪魔して申し訳ありませんでした」と、詫びながら頭を下げた。子供たちの後ろにいる大人たちも、顔を見合わせてなにかひそひそと話しあっている。
 直子と圭子は窓際に立ち、じっと外にいる子供たちに熱っぽい目を注いでいる。
「やあ、健太!」
 スーパーマンが、母親の後ろに半身を隠したざんばら髪の健太に声をかけた。
「やあ、幸治!」健太もニタリと笑って級友に挨拶した。
「どうして、ぼくだって分かったのさ?」スーパーマンは胸を膨らませ、力こぶを作ってみせた。
「向こうへ行って、食事をすませてしまいなさい、健太」と、礼子が息子の背中を押しやると、ドアのノブに手を伸ばしながら、自分も後ろへ下がった。
「いやあ、ご迷惑をおかけしました。さあ、みんな階段を下りて……」神田は恐縮したように頭を下げながら、笑顔で言った。
「次の家だ。ほら、早く……それでは、また。えーと……」玄関の表札をちらっと見ながら、「佐久間さんですね? お会いできてよかったです」と後ずさりしながら、神田はニヤッと笑うと、ドアを閉める礼子に片目をつぶってみせた。
 礼子はドアを閉めると、首を横に振った。
 《わたしにウィンクするなんて、どういうつもりなの? イトー・ヨーカ堂国母店で働いていたって、わたしにウィンクする男なんて一人もいないのに……》
 そう胸のうちで呟くと、礼子はキッと頭を上げ、玄関の鏡を見ないようにしながら台所へ戻った。
 神田司郎は、通りで待つ親たちのところに戻りながら、子供たちを次の家へと追い立てていった。
 一方、小さな騒動の去った慎ましやかな家の中では、直子がキャセロールから丹念にマッシュルームを取り除きながら、ぼんやりと皿を見つめていた。圭子もいつになく黙り込んでいる。
 健太は夢の国で遊んでいた。夢の国の通りへ出て、派手な服を着た闇の精霊仲間と笑い合っている。
「健太、お食べなさい」母親は何事もなかったように言った。
「ねえ、お母さん、どうして佐和子のお母さんは……」お得意の切なげな声で問いかける圭子に母は言った。
「圭子、お母さんは佐和子さんのことなんてどうでもいいの」と、母親が遮った。
「今日は、大切なおばあちゃんの命日なのよ。みんなで、亡くなったおばあちゃんのことを心から偲んで、供養をしなければならないの……わかったわね」
 圭子はうなずいた。
 全員が隣のお座敷に置かれている仏壇を振り返って、その中からおだやかに笑いかけているおばあちゃんの写真を見つめた。それから、また黙々と食べ始めた。
 また、玄関の呼び鈴が鳴った。礼子は片手をあげて子供たちを制し、「聞こえないふりをなさい」と言い、食事を続けるように子供たちに、うなずきかけた。
 三人の子供たちは、それぞれのツナ・キャセロールの皿を、うなだれて見つめた。
 呼び鈴が執拗に鳴り続ける。今日は長い夜になりそうだ。
「健太、玄関の表の明かりを消してきてちょうだい」母親が命じた。
「はい」健太は素直に立ち上がったものの、そのもの悲しげな眼は、こう言っているように見えた……『ハロウィーンの夜に玄関の明かりを消すなんて、八歳のぼくにはつらすぎるよ』と。

第二章 脱獄計画

 黒塗りのトヨタ・ランドクルーザーが中央道を下り、一般道路を抜けて甲府刑務所の正面前に到着した。車が停車すると、運転手側の窓が下りた。
「よお、こんばんは、黒川さん。なにか忘れ物かい?」
 守衛が声をかけると、詰所から出てきて、手でポンと制帽の上を叩いている。何か異常ないかと、守衛は車内をのぞきこんだ。なにしろ、こんな時間に黒川が来るのは珍しい。
「そうなんだ、田中さん」
 宮川が車の中からにっこり笑顔を見せた。
「明日、八王子まで行くもんでな。ちょっと仕事を持っていこうと思ってさ」
 ずんぐりとした愛想のいい看守助手をしている男で、刑務所内の資材の入手と配給の責任者だ。この男は、ここでは誰からも好かれていた……ただし、毎晩、家に戻る者だけにかぎる。常時ここで暮らす者たちは永久に誰をも好きにはならない。だからこそ、ここの常住者なのだ。
「仕事、仕事、仕事」そう言って、守衛の田中誠はにやりと笑った。
「おまえさん、五十五を越えた歳して捕まったんだってな」
 黒川は首をかしげて守衛を見た。
「スピード違反のことだよ」と、田中。「ついてないな。戻ったら、金曜の夜にでも一杯おごるぜ」
「わかった。すぐ戻る」そう言って、黒川は、またもや笑顔を見せた。
「八王子は大学に左翼かぶれのガキが多すぎて、いらいらするからな。まるで害虫の巣みたいな場所だよ、あそこは。知ってるか? やつらはこの前、南米のなんとかいう革命家を支援する運動をしたってさ。こんどは一体何の運動をしでかすか知れたもんじゃない」
「さあ、通った、通った。学校に戻る時間だよ、黒川さん」
 守衛は声を上げて笑い、クリップボードで車の屋根を叩いた。
「あまり遅くなるなよ」
 門が開き、ランドクルーザーは中へ入って行った。 

 ここ甲府刑務所は山梨県甲府市にある、男性受刑者を収容する刑務所である。
 受刑者の処遇指標(分類)では、犯罪傾向が進んだ者(B指標受刑者)、日本人と異なる処遇を必要とする外国人(F指標受刑者)、禁錮判決を受けた者(I指標受刑者)を収容している。
 刑務所暮らしも長い、三十八歳のB指標受刑者の森田浩介は、壁を削っていた。その疲れた目がこう語りかけている……『どこかへ行けるとは一瞬たりとも思わないが、ムショ暮らしも、これだけ長くちゃ、やりきれなくて何かをせずにはいられない……』。
 そのやりきれなさが我慢の限度を越え、浩介は変わらぬ日々を変えるために、いちかばちかの大ばくちをするしかないと決めたのだ。先の尖ったL字の鉄製金具でコンクリート壁を削るというのだから、まさに大ばくちには違いない。
 同じ房の宮内修造……血の気の多い下劣な男だ……が、しきりに唇をなめながら戸口を見張っている。誰も、この宮内(単に年を重ねただけの二十九歳の男)と一緒にキャンプしたいとは思わないだろう。入所したときの心理分析では『知能の低い正常者で、かんしゃく持ち』と診断され、観察のために二か月間、独房に放り込まれた。
 刑務所付きの心理学者は、この時の観察から、宮内が実は『知能の高い正常者』であることを発見した……それもかなり危険なウジ虫のような性悪者だと付記している。そのため心理学者は宮内修造について『機敏だが、精神的なバランスを欠く』と記しながらも、彼を一般囚人の部類に振り分けざるを得なかった。
 しかし、この一般囚人の房内では、修造は長生きできないかもしれない……どんな容疑で彼が捕まったかを周囲に知られてしまえば……
 修造は子供への性的ないたずら……要するに子供に対する痴漢行為……をしって捕まったのだ。これは通常の囚人に受け入れられる犯罪ではない。それに加えて、彼はすぐ(切れる)気性の男だ。どう考えても、『長生き可能』の文字はついてこない。
 あれこれ考えた末、看守長は宮内修造を森田浩介と同じ房に入れることにした。浩介には、修造の本性を見抜くだけの頭がある。あるていど自分を制御できる浩介のことだから、修造の持つ質の悪い気性を、適当に抑えてくれるだろう、と思った。
 いまのところ、この組み合わせは実にうまくいっている。森田浩介は、宮内修造のような常軌を逸した変態の犯罪者を嫌っており、そのことは宮内本人にも伝えてある。それに修造より歳が上で、刑期も長い浩介には、新入りと揉め事を起こして刑期を延ばすような危険をおかすつもりはないはずだ。もちろん修造は、そのあたりの事情を心得ており、何回となく浩介を挑発した。しかし、浩介の目の奥がキラリと光りはじめたとき、修造は身を引くことを覚えた。この房で(いさか)いを起こしたら、傷つくのは自分であり、その時は、誰もが見て見ぬふりをすることを悟ったのだ。宮内修造は森田啓介がいるために、自らの攻撃性を抑えた。その結果、普段はおとなしいが、いつ爆発するかわからぬ狂暴な男だという評判を得て、それがあったからこそ、今まで生きてこられたのだ。
 
 浩介が小さく声を上げた。ノミ代わりの鉄製金具が薄いコンクリート壁を突き抜けたのだ。向こうに空間がある。
「じいさんの言うとおりだったな」そう言って浩介はコンクリート壁に開いた穴を広げ、もう片方の手を中に突っ込んで暗闇の中を手探りした。
「まちがいなく、じいさんの言うとおりの通気孔だ」そうつぶやきながら浩介は、さらに穴を広げ、その向こうの薄い金属の内壁に手を走らせた。
 修造が振り向き、格子越しに手をくねらせて伸ばして隣の房のすみで腰かけていた老人をつかんだ。じっと浩介らの様子をうかがっていた(かん)の強そうな老人だ。
 修造は、その老人のシャツを引っ張って立ちあがらせて訊ねた。
「この通気孔は屋根まで続いてんのか?」
「昔はな」老いた囚人は答えた。「壁で塞がれるまでは続いてた。ここから、まっすぐ奥の壁へ突き当たって、うえへ上がるんだ」
「もし違っててみろ。戻ってきてその舌を引っこ抜いてやる」と、修造はすごんだ。「そのあとで、その舌をくわせるからな」
「手を離しやがれ!」老人は甲高い叫び声を上げ、ぐいと身を引いた。
「この出来損ないの変態野郎」
 修造が思わず笑って手を離すと、老人はばったりと倒れた。そして修造に向かって、しきりに罵声(ばせい)を浴びせつづけている。
 修造は身体を真っ直ぐに起し、啓介にならって寝台の後ろで、しゃがみこんだ。啓介は懸命に壁の穴からのぞく波形のついた金属の通気孔の合わせ目をこじ開けている。
「早くしてくれよ」修造が興奮気味に囁いた。
「素手で鉄板を曲げりゃいいじゃねえか。匂うぜ、シャバの匂いが」
 壁の穴が浩介の両肩が入る大きさに広がった。
 そのとき、「看守だ!」入口近くに腰掛けていた老人が、声をひそめて叫んだ。
 浩介と修造は寝台に飛び乗り、三秒もしないうちに二人とも素知らぬ顔で毛布にくるまった。じっと三十秒ほど待つ。何も聞こえない。
 突然、老人が笑い出した。そして「愚か者めが」と、ばかにした身振りをして言った。
 修造がパッと飛びあがり、老人の喉を絞めはじめた。
 浩介はすばやく修造をつかんで引き戻し、壁の穴のところへ戻れと身振りした。
 修造は老人に、警告の指を突き立てた。
「くだらねえ真似をしやがると、あとで好物を送ってやらねえぜ」
 そう言って、修造は老人にニヤリと笑いかけてから、向きを変えて浩介に続いて脱出口のそばへ戻った。
「じいさんの好物って何だ?」浩介が通気孔の合わせ目を広げながら訊ねた。
「驚いたな。本当のことを言ったって信じねえと思うけどな」と、修造。
 浩介は修造に顔を向けた。
「言ってみろ」
「後でな。気が向いたら教えてやるよ」修造は、内緒ごとをする子供のように意地の悪い笑みを浮かべた。
 浩介は、まんまと修造の手口に引っ掛かった自分に腹をたてて首を振り、穴の中へ身体を押し入れた。

第三章 風船爆弾

 大人の監視から解放されたスーパーマンと(踊る骸骨)は裏庭を走り抜け、低い垣根を越えて佐久間健太の隣の家に忍び込んだ。駐車場の陰に隠れて、家のすみにあるホースの差しこみ口まで行く。そして寝室の窓の下で、しゃがみ込んで風船に水を詰め込みはじめた。
「あんまり膨らますなよ」スーパーマンが言った。
「あんまり大きくすると、おまえじゃ投げられなくなるからな。これくらいの大きさにしとけ」
「父さんは子供のころ、風船にペンキを詰めたんだってさ」骸骨が言った。
「教えといてやるけど、親父は大嘘つきなんだ」と、スーパーマン。
 水を詰めた風船の口をしばり、そっと地面に並べている。
「おまえ、さっきの親父の顔を見たか? 健太のおふくろを見る目をさ。リブ・タイラーに似ていたよな。あのおふくろ、ガリガリのオールド・ミスみたいじゃなかったな」
「オールドミスって何だい?」
 スーパーマンは、うんざりしたように呻いた。
「本気かよ、竜二。おまえってやつは知らないことだらけだな」
「そんなこと言ったって、自分だって知らないんだろう。このマスかき野郎」と、竜二。
 スーパーマンは、思わず笑い声をあげた。
「マスなんて知らないくせに、そんな言葉を使うなよ。オタンコナス……いつか、ひでえ目に遭うぞ」
 一方、佐久間家では双子の姉妹が台所の流しのまえで前かがみになり、ツナ・キャセロールをこそげ落として夕食の皿を洗っていた。その横で弟が踏み台に乗って、ふきんで皿を拭いている。母親の礼子はテーブルで古い写真のアルバムをめくりながら、皿洗いの様子を監督していた。そのとき……
 突然、ドシン……ドシンと家を揺さぶる大きな音が聞こえた。玄関横の窓に、なにかがぶつかる音だ。
「何事なの、いったい?」母親は跳びあがった。
 健太は踏み台から滑りおり、ふきんを抛り出して居間に走り込んできた。たった三つの家具と、幾何学模様のはいった絨毯を敷いただけの質素な居間だ。少年はカバーをかけたソフアの上に登り、カーテンを引いた。双子の姉たちも玄関のドアに向かっている。
「健太、もどりなさい!」母親が叫び、「あなた達二人も、早くドアから離れなさい!」と言うなり、姉二人を引き戻し、まるで化け物が押し入ってくるかのように娘たちを抱き寄せた。
 外では歩道の縁石のところから、スーパーマンが屋根に向けて風船を高く放り投げ、玄関のドアに向けて凍らせた投げ縄をビューンと投げつけた。ドスン! バーン!大当たり。
「水風船爆弾だ。どんどん行くぞ!」スーパーマンが叫んだ。
 家の中では、健太が小さな歓声を洩らした。
 またしても、小さな(踊る骸骨)の竜二が玄関ドアに向けて、水風船爆弾を力一杯投げた。
「それ、仕返しだ!」と喚声をあげている。しかし水風船爆弾はポーチの手前で落下し、階段のところでバシャンと(はじ)けた。竜二は次の風船をつかんで駆け出し、今度はドアの三メートル手前から投げつけた。今度はドアに風船が命中した。「ストライク!」
 家の中の窓際から健太は、この猛攻撃を胸を躍らせながらポカンとして見つめていた。
 ……すでに健太の心は、わくわくしながら、近所の子供たち全員による攻撃に備えていた。まもなくバシャン、ドシンと総攻撃が始まるぞ! 健太は顔のすぐ前の羽目板に風船がぶつかっても(ひる)まなかった。予想外の愉しい夜だ。しかし、その時、母親の手が後ろから伸び、健太は窓際から引きはがされて、カーテンがピシャリと閉められた。

第四章 脱獄

 森田浩介は通気孔の腐った木ぶたを蹴り開け、屋根の上へ転がり出た。そして急いでエアコン・ユニットの大きな影の中に入った。浩介のあとから外に出てきた修造も、屋根の端に隠れている浩介のところまで走ってきた。二人は、そこから構内を見渡した。
 サーチライトの投げかける卵形の縁までジリジリと進み、それを越えて一段低い屋根に滑り下り、さらに下の屋根へと下りていった。
 浩介が何かを見つけたらしく急に左方向へ飛びだし、管理棟へつづく屋根の上を四つん這いになって進んでいった。修造も彼に追いつこうとしたが、ちょうどサーチライトの光が回ってきたので、身を沈めて光をやりすごし、また屋根の上に戻った。少し時間をおいてから全力疾走し、管理棟の屋根に跳びのって必死に浩介の姿を目で追った。
 浩介は管理棟の屋根から正面玄関へ身を乗り出して、なにかを見ている。修造もそっと浩介に身を寄せて下を見た。そこには……ちょうど真下に管理事務所の入口の前に……黒塗りのランドクルーザーが止めてあった。
「おれも、おまえも普段の心がけが良かったらしいな」修造が声をひそめて言った。
「ここではっきり言っておく」浩介はしゃがれた声で囁いた。
「おれは、おまえが嫌いだ。外に出たら、別々だぞ」修造には目もくれない。
「おれだって、てめえなんか嫌いだ」そう言って、修造は浩介の背中で握った手を小さく振りまわした。
 浩介は、足音を忍ばせて屋根の端からぶら下がり、全身を丸めてすっと入口の屋根に下りた。
 管理事務所の中では、守衛がそのかすかな物音に気づいた天井を見上げたが、ちょうどその時、看守助手の黒川が守衛の机のところへやってきて、自分の書類カバンを開けた。形式的に検査を受けるべく、上着の前を開け、カバンの中の資料の山を見せた。
「囚人も、秘密書類も隠してやしないよ」黒川は、夜勤の守衛に言った。
「今度は安全運転を心がけろよ、黒川」守衛が答えた。「ま、たっぷりと調達してくるんだな、町の金持ち連中から……」
 黒川は微笑した。「お抱え運転手つきの車に、美人の女房つきでね。おれたちは仕事選びを間違ったな」
「そうかもな……でも、現実から目をそらすわけにはいかないってものよ」と、守衛は言い、手を伸ばしてブザーを鳴らした。
 重い網目状の防護扉が……つまり、ここでは『お客』にとっては自由への最後の障壁が……ゆっくりと開いた。
 黒川は資料の詰まった重いカバンを持ち上げ、にこやかに手を振って前かがみの姿勢で扉をくぐり抜けた。さらに外側の扉を押し開け、湿っぽい秋の夜の空気のなかに出た。
 もともと北海道出身の彼には、この甲府盆地特有の重い湿った空気には、いつまでたっても慣れなかった。屋外にでると、とたんに汗をかき、必ずといっていいほど上着が背中まで汗で濡れてしまう。
 黒川は眉をしかめ、コンクリートの階段を下り、両側に花を植えた小道を通って自分の車のほうへ向かった。管理棟の正面を間隔を置いて照らすサーチライトが顔をかすめても全く気にしない。しかし一瞬、光がまともに目に差し込んだときには目を細めた。
 その瞬間、浩介と修造のふたりが上から跳び下りてきて、彼を鋏むように着地した。
小太りの黒川が身構えるよりも速く、浩介は黒川の口を手でふさぎ、髪をつかんで頭をぐいと後ろへ引いた。すかさず修造が彼の上着の中へすっと手を入れた。
「やったぜ! ピカピカの三八口径スペシャルだ」と、小さく叫んだ。
「声を出すんじゃない」浩介が低い声で制すると同時に、黒川の身体を引きずって車のわきに(かが)ませた。
 修造は黒川の大きく見開いた目をのぞきこんだ。
「ああ、たまらねえ。これで、おまえの頭を吹っ飛ばしてやりてえ!」そう言って、修造が車のドアを開けると、浩介は茫然としている黒川を運転席へ押し込んだ。その間も修造が彼の頭に銃口を押し当てていた。
「わかってると思うが……」浩介が冷静な声で黒川に告げた。「ことと次第によっては、おまえさんは今から二分間のうちに大事なものをたくさん失う。家族は? いるな?」
 看守助手の黒川明は浩介をすがるような眼で見つめて、うなずいた。もう一人の男とは違い、この男の目にはまだ正気が感じられるし、なんとなく話が通じるような気がした。
「どっちの人生を取るか、自分で選べ」と、浩介がつけ加えた。

 黒川がまっすぐ前を向いて車を走らせてきた。正門のところでスピードを落とし、守衛の田中が手を振っている。彼はためらうことなく門を開けた。黒川の乗ったランドクルーザーが門をゆっくりと通り過ぎる間、守衛はニヤニヤ笑い続け、「速度制限を守れよ」と、後ろから大声で叫んだ。しかし黒川からは何の反応もなかった。目をまっすぐ前に向けたまた、太った顔面が汗だくだ。クルーザーは車道に入り、そのまま夜の中を走り去った。
 守衛は頭を振り、「あんなふうじゃ、やつも長生きできねえな」と、不審そうに呟いた。
「働きすぎだよ、まったく。ありゃあ、間違いなく若死にするタイプだ」
 ようやくクルーザーが街の中央を走る車道に入ってスピードを上げると、その後部座席の床に張りついて隠れていた浩介と修造は大きく息を吐いた。
「制限速度だと?」修造が上機嫌で言った。からだをゆっくり超し、後部座席に座ろうとしている。
「下手なまねしやがったら、おまえの目玉をぶち抜くからな。この太っちょめ」
 そう言って、修造は黒川のうなじに三八口径の銃口をぐいと突き着けた。黒川がビクッと身をそらせている。
「よし、それでいい」
 森田浩介が前の座席に滑りこみながら言った。
「町なかは四十キロで走れ。ヘッドライトなんか使って、おかしな真似をするな。二十号線を東へ向かい中央道にはいるまで走り続けろ」
 もう三人の乗る車は、刑務所から続く道路沿いの町を通り抜けかけていた。人影はない。
 車が町の住宅街を通っているとき、向こうから警察のパトロール・カーが近づいてきた。森田浩介と宮内修造が低く屈みこんだ。黒川は速度を落とし、左折の方向指示灯をつけて止まった。
「今のところ、おまえはまだ生きている」
 森田が歌うような口調で黒川を脅しにかかった。「おまえの子供には、まだ父親がいる」
 黒川明の上着もシャツも汗でぐっしょり濡れていた。修造が運転シートの裏から銃口をぐいと押すと、運転する黒川は頭をビクッと反らせた。そのとき、パトロール・カーが隣に並び、制服警官がこちらを見た。とっさに黒川は片手を首に当て、首を揉む格好をした。警官は目を離し、パトロール・カーはゆっくり走り去った。
「なかなかのもんだ。いい生存本能してるじゃねえか、看守さんよ」と、修造。
 ランドクルーザーはそのまま左折して町中を進んだ。
「とめろ!」突然、浩介が低い声で命じた。
 黒川は驚愕の目を浩介に注いでいる。
「静かに車を停めろ」浩介が繰り返した。

  * * * *

 薄暗い寝室の中で電話のベルが鳴った。犬が目をつぶったまま鼻を鳴らす。もう一度、ベルが鳴った。今度は犬も起き上がって飼い主をつついた。十五歳のゴールデン・レトリバーで、すっかり電話にも慣れた様子だ。三度目のベルが鳴ると、犬は飼い主のうえに覆いかぶさり、耳に向かって唸り声をあげた。
「わかった。ありがとうよ、ジロー」
 飼い主の男は不機嫌な口調で答えて、受話器に手を伸ばし、ナイト・スタンドの明かりをつけた。何の飾りもない殺風景な壁に囲まれた典型的な独身男の寝室が照らし出された。
 その男……六十歳で、白髪まじりの長い髪と、額の張り出した引き締まった顔の持ち主……細川宗一郎は両脚をくるりとベッドから下し、椅子にかけてあるスボンに手を伸ばした。電話の用件は何なのか? つい頭の中で最悪の事態を思い浮かべてしまう。
「もしもし……ああ、おれだ……」
 細川は電話を聞いているうちに顔をしかめはじめた。できれば耳にしたくない知らせだ。とりわけ、こんな午前三時……ちらっと壁の掛け時計をみた……という時間には。
 顔をベタベタ舐めまわしにくる犬のジローを押し戻し、床から靴下を拾い上げて履きながら電話を聞いていた。
「それで、どこまで逃走したんだ?……まだわからない?……県警と白井さん(知事)にはもう連絡したのか?……いい、知事にはおれから電話しよう……ああ、わかっている」
 細川は一度、電話を切ろうとしたが、ふと思いついて訊ねた。
「ところで、さっき、隣の独房の男は何もかも知っていると言ってたな……それで、その男はなんて言ってた?……ああ。まあ、しかし運のいいやつだ。少なくともベッドで死ねるんだからな」

第五章 深夜の県警本部

 真っ黒なランドクルーザーが無人のまま、ナリタヤ・マーケットの駐車場で停まっていた。甲府市のちょうど東のはずれにある道路沿いの小さなマーケットの前だ。この深夜営業の店は、南へ数百メートルにわたって続く安酒場の並びの端にあり、酒やビールを飲んだ帰りの客が店の前をちらほら通っていく。店を経営する頭の禿げた男は、自分を幸運だと思っている。店を始めてここ五、六年ほど、繁盛してきた。この先、悪くなる理由も見当たらない。しかし、今夜、突然、その幸せな日々に終わりがやってきたのだ。
 店の中から一瞬、死の銃声が響き、夜の冷気のなかでこだました。
 森田浩介がカウンターのレジスターの向こうから店のフロアを見下ろし、修造を見やった。冷やかな目だ。修造は相手にニヤリと笑い返し、店の中央にあるブック・スタンドからポルノ雑誌をひっつかんで三八口径の銃口でページをめくった。看守助手の格子縞の上着を着ている。
 浩介はバールでレジスターをこじ開け、札束を一つ掴むと、もう一度、フロアを見まわしてからカウンターを跳び越え、出口へ向かった。
「おい、待ってくれよ!」
 修造が叫んだ。さらに二冊の雑誌をつかみ取り、チョコレート・キャンディを鷲掴みにして急いで後を追った。
 フロアに横たわる太った経営者の手が血だまりのなかで微かに震えていた。

 山梨県警本部は近年、県庁舎のそばに、舞鶴通りに面して総合庁舎として新しく建てられた県防災新館(地下二階・地上九階)の建物の中にあり、五階から最上階の九階を警察本部が占めている。茶褐色の壁面とガラスを交互に組み合わせた鉄筋コンクリート造りのモダンな外装の建物で、一階の外側……中心市街地への動線となる南側には……紅梅北通りの歩道から自由にアクセスできる開放的な空間「紅梅デッキ」が設えられてある。
 しかし、今夜、九階のエレベーター前には、特別捜査隊の隊員が、この尋常でない時刻に警察本部を訪れる者の名前をすべて書き留めていた。突然、隊員が背筋をピンと伸ばし、エレベーターから出てきた者に敬礼した。当然、いま入ってきた者は誰にでもわかる。その男の顔写真が右壁に掲げられているのだから。この時刻はこの階だけに明かりがついていた。
 自分の部屋に落ち着いた細川宗一郎は受話器を取って電話をかけた。しばらく話し合ったのち、ゆったりした声で言った。
「……知事が心配されるのは、よくわかります」
 片手に持ったコーヒーをすすり、もう片方の手のくるぶしの上で奇術の練習をするかのように銀色の百円硬貨を転がしながら、首と肩の間に受話器をはさみ込んで話している。
「しかし、あの連中には囚人の習性が染みついていますからな。老いぼれの山犬みたいに、すぐ住み慣れた穴倉へ戻ってきます……ええ……仕事ですから……わかりました……それは、もちろん。どうぞ休んでてください。午前中に、また電話で新しい情報を伝えます。それまでには、すべての資料が届いているはずです。悪党共も捕まっているかもしれませんしね。それじゃ、奥様によろしく……」
 細川はため息をついて受話器を戻し、その受話器をじっと見つめた。見つめているうちに、ふたたび電話が鳴りだした。同時に四人の腹心の部下たちが、ぞろぞろとオフィスに入ってきた。ひとりは大きな地図帳を抱え、もうひとりは……岩井徹は……ネクタイを結んでいる最中だ。
「ネクタイなど必要ないぞ、岩井」と、細川が言った。
「今度のやつらは狂暴だ……慎重に取り掛からんと命にかかわる」
 また電話のベルが鳴った。
「やつら、銃を持っているんですか?」岩井が訊ねた。
 細川は、からかうような表情で岩井を見つめた。
「クマが銃を持っていると思うか?」
 まだ電話が鳴り続けている。細川は、その音を意識の外へ追い払おうとするかのように目を閉じた。

第六章 人質事件

 午前五時、目覚まし時計がけたたましく鳴り響いた。
 佐久間礼子は目を開け、手を伸ばしてベルを止め、ふーっとため息をつきながらも習慣どおり、起き上がった。ベッドから出て、毎朝欠かさず行う儀式に取りかかる。亡き母から受け継いだ信仰(エホバの証人)の祈りを行えば、どんな厳しい苦痛にも耐えられるし、どんな苦しい試練にも耐えられる。しかしこの腐敗した現実は、多くの人間の中で最も誠実で敬虔な人間にも忍びよってくる。このことは神の試練に耐えきったヨブが一番よく知っている。神の試練は浮世の姿とは関係なく下されるのだ。
 礼子はスリッパを履き、バタバタと居間を通り過ぎた。引き出し式の二つの二段ベッドで三人の子供たちが眠っている。礼子が台所の明かりをパチンと点けたときにも、双子の姉たちはぐっすり眠り続けていたが、健太は半分目を覚ますとくるりと反対側を向き、頭を毛布の中に突っ込んだ。

 黒塗りのランドクルーザーは、町の南側の荒川沿いの道路を徐行していた。夜明け前の町をライトもつけずに進み、スーパーマンや(踊る骸骨)がベッドで心地よく眠っている神田家の前を通りすぎていく。ちょうどそのとき、神田司郎は昨夜はじめて会った近所に住むしなやかな腰をした女性に触れたいという衝動を感じて目覚めたが、もちろん、その衝動を実行に移すわけにはいかない。そのままトイレに行って小便をし、戻ってまた眠りについた。
 浩介が運転をし、修造は窓から身を乗り出してそのブロック一帯の様子を偵察した。しかし、残念ながら裕福そうな家は一軒もない。
「あそこにレクサスがあるぜ」修造がぼそっと言った。
「レクサスなんていらん」浩介は答えた。「外車がいい」
「外車だってオイルが漏るんだぜ。車は車だ」
 浩介はブレーキを踏んで車を停めた。
「じゃあ、レクサスを()ろう」
「県境を越えてからにしたほうがいい」修造はしばらく浩介を見つめたあと、ギーッと音を立ててドアを開けた。
「この車に乗っているのは、もううんざりだ。外車を捜してみるよ」と、言うと車を降り、バタンとドアを閉めて、タバコに火をつけながら闇のなかへ歩み去った。
 修造は表通りに面した一軒の家の裏の明かりがついているのを見つけた。この辺では唯一の、人間が生きている印だ。目を細めて明かりを見やり、光に吸い寄せられる()のようにフラフラとそっちへ寄っていった。

 宮内修造は外に出て、夜の町をうろつけるのが嬉しかった。このまま夜明けが来なければ、もっと幸せな気分になれるだろう。
 修造は三重県四日市で育った。港近くの化学工場の分解蒸留塔の見えるところだ。夜には爆発音が大音響を上げ、悪魔のような眺めが見えた。彼は不気味な照明を受けて煙と炎を吐く尖塔と、その周囲を圧倒する大音響とに常に接していた。しかも修造の運命を決定したのは、この海浜の地獄ではなく、頭の中に閃光をもたらす炎のほうだった。この男には、心理学者の言うところの衝動抑制が欠けていた。
 彼にとってはおもちゃとはそれを破壊するのにどれだけ圧力をかければいいかをみるためのものであり……バイクとは、それを動かなくするのに何回ぶつければいいかをみるためのものであった。罪の意識がなく、父親がいないだけの普通の子供だった。だが近所の子供の腕を折って、夏中、付近の家から立ち入り禁止を宣告された。小学四年生の時の担任からは『仕返しを受けることを承知しなければ、修造を教室にいれない』と言われた。
 思春期を迎えると、宮内修造は犯罪すれすれの悪ふざけをするようになり、それを続けた。将来の継父に実母との結婚を思い止まらせようとして、肉料理にゴキブリ駆除剤を入れた。男は何の疑いもなくそれを食べて嘔吐(おうと)痙攣(けいれん)に苦しんだが、なんとか無事に回復した。修造に不利な証拠は何一つなかったが、男に言わせれば、何の証拠もいらなかった。結局その男は実母との結婚を断念し、町を去っていった。
 こそ泥、嘘、反動的な暴力……彼はいわゆる(非行少年)だった。十五歳のときには近所の犬の口を接着テープでふさぎ、体温を異常にあげさせて殺すと、母親は警察に相談して息子を津市にある少年鑑別所へ送った。手に負えない問題児には拘束服を着せた。ほとんどの子供は、早く家へ帰してもらうために行儀よくなったが、修造は『行儀よくする』という言葉の意味さえ理解できず、ある日、夜陰にまぎれて脱走した。その結果、二度と母親にも会えなくなってしまった。
 青年期に達すると、常習的な反抗と、町の住民をレイプした疑いとで数年間、刑務所に入れられた。その後、あちこちの町を渡りあるく放浪者となり、酒癖の悪い酔っ払いとして過ごし、流れ着いた箱根町で運輸会社の運転手として働いていたが、しょっちゅうトラブルを起し、社長から解雇された。それを恨んだ修造は、夕方、自家用車で帰ろうとする社長を殴り倒し、バールで身体を滅多打ちにして半殺しにしてしまった。その結果、彼は重度の障害罪で甲府刑務所に送られたのだ。

 佐久間礼子は寝室にもどって身支度を整えると、台所へいき、フライパンの中で卵を割った。いつもの手順で、塩を振り、かき混ぜ、トースターにパンを放りこむ。調理台の上に弁当箱を三つ並べ、小さな動きの流れ作業で、それぞれに同じものを詰めていった。
 果物、ゼリー、サンドウィッチ、パラフィン紙に入れた漬物。魔法瓶に入れたミルク、さらに子供たちをびっくりさせるためのちょっとした添え物を少々……

 そのとき礼子は、柵のかげから、開いている網戸だけにした窓越しに二つの目が、彼女がかいがいしく働くさまを見つめているのに気づかなかった。
 おりしも、息子の健太が白いブリーフと縞のTシャツ姿で、足をひきずりながら台所に入ってきた。
 健太は台所のテーブルから椅子を引きずってきて冷蔵庫からバターを取り出し、朝のお手伝いをした。お母さんのトーストにバターを塗る作業だ。
 二つの目は、さらに家に近づいてきている。
 礼子は屈んで健太の頭を撫でた。「ありがとう、健太。お姉ちゃんたちを起こしてきて」
 健太は素直に椅子を下りて、子供部屋へ二匹のバラクーダ(カマス科の獰猛な魚)たちを起しに戻っていった。
 礼子は皿と食器と箸をつかみ、台所のテーブルに並べた。しゃんと身体を起して、食器棚から紙なプキンを取る。
 そのとき、網戸の向こうから聞きなれない男の声がした。
「おれの分はたっぷりにしてほしいな」
 礼子は跳びあがるほど驚いた。網戸に顔が押しつけられており、男がこれ見よがしにピストルを見せている。礼子は震える手を両脇にたらしたまま、気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐いた。
 その見知らぬ男、脱獄犯の宮内修造は裏口を開けろと身振りした。
 礼子は途中で壁の電話を見ながら、ドアを開けに行った。男はすばやく中へ滑り込み、室内を見まわしてから、台所のテーブルに腰を下ろした。
「コーヒーはないか?」
 気取ったニヤニヤ笑いを浮かべて、修造は言った。

 森田浩介は暗い車道を音を立てないように歩き、ピカピカの白いスカイラインの周囲をまわった。
 ドアロックの真ん中で裏のポーチの明かりが一つだけ点灯している。彼は向きなおり、車のドアロックをかなてこでこじ開けはじめた。すでに暗い夜が、しだいに仄白い朝を迎えかけている。ついてない。浩介は立ち上がって裏のポーチの明かりを見た。通りの向こうで網戸がぴしゃりと閉まり、犬が嬉しそうに吠えながら庭に走り出てきて、早朝の仕事をはじめた。

 修造はバターつきトーストを口に詰め込み、礼子に笑いかけて調理台へ移動した。
「ちょっと刺激が足りないな。ケチャップをくれ」
 修造は食器棚の上のボトルに向けて指を振った。強張(こわば)った表情の礼子がケチャップを手に取り、まるで相手の磁力に引きつけられるかのように修造の方へ身体を傾けてケチャップを突きだした。礼子が近づくと、修造は相手の手首をつかんで引っ張り、自分の膝の上に座らせて鼻で笑った。冷たい銃口を彼女の胸に当て、背後から女の柔らかい髪に鼻を押しつける。そして女の耳元で囁いた。
「この家には男はいねぇんだろう?」

 佐久間礼子の家の裏手で独り暮らしをしている七十歳の本多良郎は震える手で、ゆっくりと眼鏡をかけて冷蔵庫からコーヒー缶を取りだした。昔は化学工場で働いていた老人だ。手が震えるのは、何十年もの間、山梨市の殺虫剤会社で神経組織を刺激する化学薬品を作っていた過去の遺産である。コーヒーを計って注ぎながら、佐久間家をちらりと見やった老人は窓に駆け寄り、もう一度前の家を見た……その間、ずっと震える手で調理台にコーヒーをまき散らし続けながら……

 礼子はわき腹に三八口径のピストルを突きつけられたまま脱獄囚の膝の上に捕らえられつづけていた。男の片手が気ままに自分の身体を撫でまわし、ブラの下に入ってくるのを茫然として耐えている。心の中では必死に考えをめぐらせ続けていた……なんとか、この狂暴な錯乱した男を落ち着かせ、自分や子供たちの人生から追い出す方法は何かないだろうか? これは今までにも、他の男に対して取らなければならなかったことだ。
「食べさせてくれよ。かわいい女神ちゃん」
 そう言って、修造は笑った。今は天国にいる。ほんの数時間で、わびしい自慰の夢想から、生きた温かい言いなりになる女を膝の上に乗せる現実まで、自分の運命が開けた。
 礼子はフォークでスクランブル・エッグをすくい、修造の口へ運んだ。男は相手を挑発するような表情で食べ物をなめてから、うまそうに飲みこんだ。
 健太が足を引きずりながら部屋に入ってきて、ピタリとその場に立ちすくんだ。
「おやおや、なんてこった! ちゃんと男がいるじゃねえか!」
 脱獄囚は母親の首筋にキスし、耳をなめまわしながら、健太に笑いかけた。
 健太は猛烈な勢いで部屋を突っ切り、男に飛びかかった。だが、簡単にピストルで払われ、大の字に倒れた。
 その瞬間、森田浩介がドアから飛びこんできて修造の側頭部を素早く蹴った。相手は椅子から転げ落ちると意識を失った。
 ピストルは床を滑り、健太の足に当たって止まった。少年は流しの前に凍りついて、じっと浩介を見つめた。長身で、髪を短く刈り、白シャツにズボンだけの囚人姿をした浩介をちらりと横目で見て、トーストを一枚とり、裏返して上品にかじった。
 礼子は起き上がって居間に続くアーチへ走った。そこにパジャマ姿の直子と圭子が来ている。母親はがくがく膝を震わせながら双子の娘を後ろに隠して押し戻そうとした。
「血が出てるぞ!」修造がわめいた。
 起き上がって耳をさすり、指についた血を見たのだ。
「こんなまねをして嬉しいのか?」
 浩介は、じろりと修造をにらみ、ひざをついた。目の高さを部屋を出て行きかけた健太に合わせている。少年の足元に転がるピストルを見やり、やがて健太に視線を向けた。
「坊や、名前は何ていうんだい?」
「ケ、ケ……健太」八歳の少年は懸命に答えた。おびえきり、必死に涙をこらえている。
「ようし、健太……そのピストルを拾っておくれ」と、浩介が言った。
「おれに貸せ!」修造が膝立ちになり、手を伸ばして声を張り上げた。
「黙れ」浩介は相手を振り返りもせずに命じ、健太に話しかけた。
「いい子だから、そのピストルを拾って、ここへ持っておいで」
 少年は屈んで、銃把(じゅうは)を持ち、のろのろとピストルを拾いあげた。浩介に一歩近づき、そしてもう一歩近づく。
 母親は唖然として急にすすり泣きはじめた。その後ろで直子もしくしく泣き出し、圭子は驚きのあまり目を大きく見開いたままだ。
 少年は母親のほうを見たら気がくじけると判っていた。それで、まっすぐ浩介の目だけを見て進みつづけた。やがて、相手から腕の長さのところまで来ると、ピストルを差しだした。
「『手を挙げろ』って言ってごらん」浩介は真剣な口調で言った。
 健太はためらったが、「手を挙げろ……」と言い、「森田浩介」とつけ加えた。浩介の刑務所支給のシャツに縫い付けてある名札を読んだのだ。
 浩介は大声で笑い、床に尻をついて座った。「いいぞ、坊や。頭がいいんだな」
 そのとき、外で音がしたので、浩介は正気に戻り、健太からピストルをひったくって見に行った。裏の本多良郎が網戸の外に立っていた。なんとか散弾銃を構えているが、手が震えている。
 老人が一言も発しないうちに、浩介は健太を捕まえ、ぐいと引き寄せてから、三八口径で本多老人の顔を(ねら)った。修造はさっと立ち上がって母親を捕らえた。
 直子が金切り声をあげ、今度は圭子も一緒に「きゃあ!」と声をあげた。
「じいさん、銃を下に置きな」浩介が言った。「あんたには、おれを撃てない。この子に当ったら、どうする?」
 そのとき、電話が鳴った。
「出るな!」浩介が立ち上がって言った。脇に健太を引き寄せている。
「いいか、おまえたちに……」本多老人が言いかけた。
「聞こえねえのか、おい!」修造が金切り声を上げた。母親を前に押し出して盾にしている。おびえた表情で目を飛び出さんばかり見開き、耳から血をながしていた。とてもみられた姿ではない。
「お母さん!」直子が泣き叫んだ。
「大丈夫よ」母親が震え声で答えた。
 電話はまだ鳴り続けている。老人は散弾銃を震わせながら、どうしてよいか分からずに脱獄囚の一人を見やり、つづいてもう一人を見た。いま自分は武器を持っている。何をすべきか分かっていた。この機会を失ったら、ずっと後悔するだろう。
「それを下に置け」
 浩介は老人の銃を指差し、まっすぐ老人の目を見て鋭い口調で言った。こういうときの森田浩介は、まばたきもせず相手を見据えて最大限の説得力を発揮する。もし警察官だったらさぞ有能な警部になるだろう。やがて老人は、相手に言われたとおりに銃をガチャンと裏のポーチに置いた。
 電話の音はまだ止まない。
「うるさい!」
 修造がわめき、電話器を壁からもぎ取った。急に耳が聞こえなくなったような沈黙が訪
れた。直子はまた、しくしく泣きはじめた。
 修造は母親を引っ張って裏口へ向かいながら叫んだ。
「この女を連れていこうじゃないか」
 それを見ても老人はただ震えながら、裏口の外で彫像のように突っ立っている。
「だめだ」と、浩介が言った。
「じゃあ、人質もなしに、どうやってここから出るっていうんだ?」修造は言い、「近所の連中はみんな起きている」と、老人を指さした。
「こいつみたいな英雄気取りが刑事(でか)を呼んでくるぞ」
 老人が目を細めて修造を見た。
「この坊やを連れて行く」と、断乎とした口調で浩介が言った。
 一瞬、あたりがしんと沈黙に閉ざされた。
 母親の礼子が突然、抵抗を開始し、突進した。
「やめて!」
 修造は母親を掴んで脇へ放り投げた。母親はよろよろと流しの下に倒れた。同時に双子の娘たちが泣きわめいた。
 健太は手を振り回して力のかぎり浩介を叩いた。
 浩介は少年を抱え上げると、老人に台所に入るようにピストルを振って指示し、修造に、『先に行け』と身振りした。
 修造は荒々しく老人に身体をぶつけて脇へどかせ、裏口からすり抜けて外へ出た。その後に少年を抱えた浩介が続いた。
「坊やは必ず返すから」とだけ母親に言い、浩介は健太を抱えたまま家を出ると、急いで修造の後を追った。
「健太!……」母親は這い上がるようにして起き上がり、後を追いかけながら叫んだ。
 浩介はピストルをさっと修造に投げ、少年を助手席に押し込んだ。車のボンネットを跳び越え、追ってきた母親を芝生の上に押し倒してから運転席へ滑り込む。エンジンがかかり、ランドクルーザーはキーッという音を立てて飛び出した。
 騒動を聞いて目を覚ました近所の人々が部屋着やパジャマを着たままの姿で家々から出てきた。修造は身を乗り出して頭の上にむけて発砲した。人々は地面に身を伏せたり、急いで家の中は逃げ込んだ。
「家の中で眠ってられないのか、おまえら!」修造が大声でわめいた。おまけに、もう一発を発射し、明かりがついたばかりの大きな磨き板ガラスのピクチャー・ウィンドーを撃ちぬいた。
 老人は弾をこめたかどうかも確かめず、やみくもに銃を持って佐久間家の裏から走り出て庭を横切り、汚名を挽回しようとした。車が目の前を通るとき銃を構えた。
 母親が金切り声をあげた。「やめて!」
 老人は発砲した。目の前にあったステーション・ワゴンのサイド・ウィンドーが粉々に砕けて外れた。
 ワゴンの持ち主が、隠れていた低い木の後ろから立ち上がり、腹立たしげに老人を見た。
 母親は通りに出て車を追いかけたが、あきらめて立ち止まった。
 車は一度スピードを落とし、次のブロックの先で左へ曲がり、姿を消した。
 母親は押し殺した叫び声をあげて、娘たちのいる家の中へ走り戻った。

第七章 記者会見

 日が高くなった頃、山梨県警特別捜査本部では警官や一般職員、専門家、報道記者たちがせわしなく動きまわっていた。いつでも囚人の脱獄は大ニュースになる。
 細川宗一郎は昨夜と同じ服を着たままだった。どうせここへ来ることになるだろうと思ったからだ。
「ああ、知事、それはよくわかっています……」
 そう受話器に向かって話しながら、目の前のファイルをあちこち動かして何かを捜していた。
 細川の腹心の部下である岩井徹は彼のコーヒーを温め直して、本部長お気に入りの格子柄の魔法瓶からストレートのジェリトル(強壮剤入りのアルコール飲料)を少しいれた。
 岩井は髪をクルーカットにした、ずんぐりした四十五歳の男だ。見かけは公認会計士という感じだが、とても感じのいい親しみやすい顔をしていて、細川の目鼻立ちのはっきりした鋭い顔とは正反対である。彼の仕事は細川本部長……つまり彼の言う隊長(チーフ)……の前の邪魔者を徹底的に排除し、また彼の飲みものを運ぶことだ。
 岩井徹はこういうことをするのが嬉しかった。五歳の時に火事で両親を亡くし、その後、金目当てに引き取ってくれる養家を転々とした。そういうところに引き取られた子供は下宿人以上には思ってもらえない。事実、そのとおりだった。今の家は県警本部の大きくて殺風景な建物で、彼の好みに合っていた。この男の皮膚にかすり傷でもつけようとすれば、隊長(チーフ)に対して正面から攻撃するか、秘かに攻撃するかしかない。だが、そうやっても、この男の(はがね)のような腕をふるわれたら最後だ。岩井が戦った後には血か皮膚の断片しか残らないだろう。
 いま岩井はデスクに積み上げた書類の山に手を伸ばし、隊長(チーフ)が必要とするだろう二つのファイルを引っ張り出した。
 細川は電話の向こうで続くおしゃべりを無視して、横目でファイルを読んだ。最初のファイルは宮内修造のもので、にやけた顔写真が右上に貼ってある。彼は警察記録の一枚目を人差し指でたどった。慣れた手つきだ。一種の親しみがこもっている。細川は法考古学者のように犯罪と刑罰の骨を見ただけで、その人間の人生を思い描くことができた。さらに生い立ちの記述、下された判決の要約、仮釈放中の報告などをすばやく読み取ってから、次のファイルへ移った。
 次のファイルの裏表紙には『森田浩介』と書いてある。細川は警察記録を読みながら、ファイルに貼ってある写真をじっと見つめた。どこかで見たことがあるような気がしていた。その顔には確かに見覚えがある。受話器から聞こえてくる騒がしい声のなかで、深い記憶の断片がつながろうとしていた。警察記録、写真……無愛想なその囚人のしかめっ面……おれはこの男を知っている……記憶が甦りつつあった。
 「細川? 細川、聞いているのか?」受話器の声がわめいた。
 細川は写真を見つめ続けた。しかし、漠然とした記憶の靄のなかでその顔が判然とした形をとるまでには至らない。
 岩井徹が身を乗り出して小声で呼びかけてきた。
 「チーフ……」
 「うん?」細川はちらっと岩井のほうを見た。
 「電話が何か言ってますよ」岩井が囁いた。
 細川は急に我にかえった。「ああ、知事……すみません。ちょっと考え事をしていただけです。それで?」
 岩井は腕時計のガラス蓋を指で叩いて、また細川に囁きかけた。「記者たちがもう一時間もまっていますよ、チーフ」
 細川は電話の声に集中しようとしたが、自分の存在にきづいてもらうのをまちかねてドアのところに立っている人物に気を散らされた。その女……肩まで垂れる長い髪を大きくカールした足の長い若い女……に、『入ってこい』と身振りした。さらに顎をしゃくって『そこの岩井と一緒にソファに座っていろ』と示して、電話を切ろうとして思い直し、岩井の腕時計を鼻先から押しのけて、ふたたびファイルに目をやりながら、受話器に話しかけた。
 「ああ……よくわかってます……わかりました」
 細川は軽く首を振って受話器を置いた。そしてコーヒーの入ったマグカップを引き寄せて、またファイルを見つめだした。まるで時間やそばの人間を忘れたかのような集中ぶりだった。 
 ソファに座っている若い女、小笠原まゆみは二十八歳で、率直にいって掛け値なしの魅力的な女性だった。本人は細川の注意を引いたら、すぐに部署につくつもりらしい。そんな魅惑するような眼で、まっすぐ細川を見つめている。
 「なんて言ってました?」岩井が訊ねた。
 「誰が?」気を散らされて、細川はいらいらと問い返した。
 「県知事がですよ、チーフ」と、岩井。
 細川はファイルを閉じて不機嫌そうに岩井を見上げた。
 「今年は選挙の年だってさ」と言うと、まゆみの方に注意を向けた。
 「あんた、昼間から酒を飲むのか?」
 「え……いいえ」まゆみはこの頑固そうな男を、どう扱ってよいかわからなかった。
 「前のやつは酒を飲んでダイエットをしてやがった」
 「前の何がですか?」まゆみは、わけが判らないと言う風に訊ねた。
 「秘書がだよ」と細川。
 「わたしを誰か他の方とお間違えのようですけど」
 まゆみは細川の長椅子でまっすぐ背筋を伸ばして言った。
 「わたしは県知事のご要請を受けてきたものです」
 そう言うと、落ちてくるコインを待ち構えるかのように期待をこめた表情で細川を見た。
 頭が混乱した細川は当惑した表情で助手を見やった。
 「岩井!……いったい全体これは何のことだ?」
 「思い出しました」岩井は散らかったデスクの上のファイルをどけて、何かを捜し始め、若い女に向かって言った。
 「たしかに今朝、あなたことで何か来ていましたね」岩井は、細川の机の上の書類の山をかき分けながらまゆみをちらりと見た。
 「誰からきたんだ?」
 細川は書類を引っ掻き回す岩井に不快感をあらわにし、ぴしゃりと自分の手を岩井の手の上に置いて制止した。しかし、岩井はチーフの手を押しのけて、書類の山に穴を掘りつづけ、やがてテレックスのメッセージ用紙を捜しだした。
 「県知事からです、チーフ」岩井は言った。「これです」
 岩井はメッセージの文面を読み始めた。細川は怖い顔をして用紙をひったくった。
 二人の様子を見ていたまゆみは、しびれを切らしたように「わたしは小笠原まゆみと申します。甲府刑務所の犯罪学者です」と名乗り、前かがみになって手を差しだした。
 その手を無視して、細川はますます困惑した表情でテレックスを読み続けた。岩井がきまずそうに間に入ってまゆみと握手した。この女を好きになれるかどうかわからないが、これが紳士的な行為というものだろう。
 「あまり前例のないことかも知れませんが、知事からご指名を受けたものですから……」と、小笠原まゆみは言った。 
 「『……県の法執行官に協力されたい』」細川はテレックスを読み上げた。
 「『対象業務は特別捜索本部の刑事問題に関する全ての事項を含むものとし……』なんで、こんなことをするのか説明がない……」と、細川。
 「たとえば仮釈放や労務釈放の計画はもちろん、刑事犯の逃亡事件も含まれます」まゆみが言った。
 細川は疑わしげに小笠原まゆみを見やり、何か言おうとしったが、そのときまた電話が鳴った。岩井が出て、ろくに相手の言うことを聞きもせずに答えた。
「いますぐ行くよ、白石」
 岩井は受話器を置いて細川に向きなおり、「いらついてますよ、チーフ」と言って壁の真鍮の横木からチーフのコートとひもタイをつかんで渡した。
「あなたが予定を組んだんですよ。あいつらにとってはいい儲け話ですからね。よだれをいっぱい垂らしてます」
 細川はコートを受け取り、しぶしぶ応じた。
「おれにだって何をやれば儲かり、何をやれば生皮を引んめくられて死ぬかぐらいわかっとる。こんなことに係わったら、おれたちは無事じゃすまんぞ」
 つづいて彼はタイを締め、背を丸めてコートを着た。その間ずっとまゆみを見つめ続けている。まるで、こうして見つめていれば核心がつかめるというかのようだ。
「計画では」ふたたびまゆみが話し始めた。「関係者たち一人一人の行動歴を理解すれば、仮釈放中の違反や逃亡を避けられます。とくに刑事犯が逃亡した場合は逮捕の手掛かりが得られます」
 まゆみは屈託のない表情で、細川を見た。
 岩井はまゆみを見つめて、『こんな話は聞いたことがない』という驚きの表情でチーフを見た。
 ウエスタン・スタイルのブレザーコートを身に着けると拳銃を滑り込ませた。荒々しいがなかなかの男前だ。
 まゆみは細川がドアへ向かうのを目で追った。ドアにたどり着く前に彼は振り返り、トレードマークの、片眉を上げた目でまゆみをじっと見据えた。
「まず第一にだ、小笠原さん……」
「まゆみで結構です」
「……第一に、まゆみさん。これは『仮釈放中の逃亡事件』ではない。脱獄犯の追跡だ。甘っちょろい学者さんの話を聞いても、何の助けにもならん」
「では、何が役に立つんですか?」まゆみは強い口調で反駁した。
「猟犬のような鼻と、アンテナ付きの脊髄と、大量のコーヒーだ」
 そう言って、細川はドアから出て行った。
 まゆみは身動きひとつせずに、出て行くチーフを見送った。だが岩井には、避けようのない数多くの運命の輪が猛烈な勢いで内側へ回り込んでくるのが見えた。

 ゆったりした豪華な部屋というわけではなかったが、細川宗一郎のお蔭で、報道陣は会議室を占領できた。耳を聾するさまざまな話し声や機材がぶつかったり、倒れたりする騒音が会場を領していた。
 細川宗一郎は今日も予定の時刻よりかなり遅れて入ってきた。いつもこうして遅れて現われなかったら、彼はチーフにはなれなかったろう。常に彼が姿を見せるときは、それを見た人々を喜ばせる方法を計算していたからだ。
 チーフが正面の檀上に現われるなり、報道陣は一斉に細川の名を呼びながら、先を争うようにして演壇に押し寄せてきた。
 「よく聞いてくれ」細川は言った。「一度しか言わない。昨夜十時ごろ、甲府刑務所から囚人が二人……森田浩介と宮内修造が通気孔を抜けて脱獄し、刑務所の職員の車を乗っ取って正門から逃亡した。さらに午前一時ごろ、町の東のはずれにある道路沿いのナリタヤ・マーケットを襲い、店主を殺害したものと思われる」
 ひとりのずんぐりした顔なじみの記者が大声で細川に訊ねた。
 「その刑務所の職員も、囚人たちと一緒にいるんですか?」
 「一緒にいたのは刑務所を出たときだ」細川は答えた。「われわれが駆けつけた時点では、問題のマーケットに生存者がいなかったんでね。職員がいたかどうかはわからない」
 彼は次に自分の名を呼んだ女性記者を指差した。
 「囚人たちの警察記録には、どう書いてあるんですか?」女性記者が質問した。
 「子供にとってのクリスマスイブと同じくらい長々と書いてあるよ」
 細川は可能なかぎりの思いやりをこめて答えた。
 「森田は武装強盗罪で三十年の刑、宮内は殺人未遂と仮出獄中の逃亡罪で二十年の刑だ」
 「ということは……」地方ラジオのレポーターが、マイクを突きだして質問を始めた。
 細川がそれを(さえぎ)った。
 「……最後まで言わせてくれ……今朝、もう一人、人質を取った……この町の民家からで、被害者は八歳の少年だ。朝食のテーブルから連れ去られた」
 「森田か宮内に性的犯罪の犯歴は?」ひとりの記者が訊ねた。
 「変質者かどうかという質問なら、そう、一人は……宮内がそうだ。新聞配達の少年をレイプした」
 「その犯罪について、もう少し詳しいお話しをお聞かせ願えませんでしょうか?」
 一番前にいた若い記者がやや固くなって質問した。
 「お聞かせする話はないと思われます」
 細川はわざとかしこまって答えた。「被害者が未成年のため、名前は伏せてある。また将来の成人としての生活を妨げることのないよう詳細は知らされていない」
 若い記者は頭を深々と下げて、さっそく手帳に書きこんでいた。
 「本部長、脱獄者をどのようにして逮捕する計画ですか?」女性記者が訊ねた。
 「公式には」細川は答えた。「二人を追跡するために特別チームを結成し、全力でそれを遂行するとしか言えません」
 「それでは、非公式には?……」中ほどの上背のある男性記者が質問した。あたりにくすくす笑いが起こった。みなが答えを待った。しかし細川はためらった。何か迷っているらしい。
 「非公式には……」やがて細川は口を開いた。
 「やつらを狂犬病の犬だと思って、追うつもりだ」というなり、彼は皆に背を向けて立ち去りかけた。とたんに、その場にいた全員の手がさっと上がり、数々の質問が騒然と彼の後を追った。
 細川は一瞬立ち止まると、くるりと向きなおって演壇の前に戻った。
 「わたしの知っているのはこれだけだ。ここで小笠原まゆみさんを紹介する。この方は県知事のオフィスから直接ここへ派遣されてきた。心理学的な人物評なら、この女性のほうの専門だ。あとの話は、この方から聞いてくれ」
 細川は脇へ行きかけて、もう一度、机の前へもどり、「きみ! 相手は女性だ。気楽にいけよ」と、一番前にいる若い記者に声をかけて一瞬だけ笑ってうなずくと、そのまま部屋を出て行った。
 不意をつかれた小笠原まゆみは、その場に立ちつくしたが、すぐに緊張をほどき、初めての記者会見をうけるべく、きびきびと演壇に歩み寄った。
  《いやだわ、きっと厄介な質問をうけるでしょうね。でも目立つチャンスだわ》
 そう胸の内で自問すると、顔を上げ、記者団に微笑みかけた。
 記者たちはまゆみを見やり、挙がっていた手を一斉に下した。しんとした沈黙があたりを領している。ひとつも質問が出ない。常に情報も求めるマスコミ陣も、この艶やかだが、固い笑みを浮かべている女性をどう扱っていいかわからないらしい。
 細川は数メートル先のホールでしばらく聞き耳をたてていたが、やがてため息をついて歩み去った。
 記者会見の行われている部屋では、最後部近くにいた記者が、とうとう手を挙げた。そしてまゆみに微笑みかけている。
 まゆみは、その男のほうを向いた。
 「ご質問ですか?」
 「はい」記者は言った。すらりと背の高いハンサムな男だった。
 まゆみも微笑み返し、それからまじめな顔になって待った。
 「今夜、お暇ですか?」と、記者が訊ねた。
 まゆみは侮辱した男をにらみつけ、さっときびすをかえすと、足音も荒々しく部屋から出て行った。
 「わたしは本気で、お聞きしたんですよ!」男はまゆみの後ろから呼びかけた。

第八章 トウモロコシ畑の銃声

 その日の昼下がり、浩介はランドクルーザーで国道を避け、甲州市へ至る笛吹市郊外の県道を走っていた。隣には健太がまだブリーフと茶色の縞のTシャツ姿で座っている。修造は後部座席に座り、初めて車に乗る子供のように夢見心地で、窓外のものすべてにじっと目を凝らしている。自由になれたのを心から喜んでいるらしい。
 ふたりとも刑務所の白い囚人服から、ドライブ向きの服に着かえていた……ジーンズにTシャツ、そして格子縞の綿のスポーツシャツの短いそでをまくり上げている。
 バキューン! 修造はピストルを窓の外に向け、狙いをつけて発射した。道路ぞいの背の高い水タンクから、激しく水が噴き出す。彼は八歳の子供と同じように笑った。
「ピストルの弾をおもちゃにして遊んでやがる」浩介は言った。「そっちのおじさんは、坊やよりも子供だな、健太」
 健太は微動だにせず、表情も変えなかった。深い物思いにふけるあまり怖さを忘れかけていたのに、今の発砲のおかげで荒々しい現実に引き戻されたのだ。
 バキューン! バキューン! 修造はもう二度、おもしろ半分に発射した。今度は車の中だったので、屋根に二つの穴が開いた。修造はニヤリと笑って健太の頭に手を伸ばし、少年の髪をくしゃくしゃにした。そのうち健太を怒らせようと両手を座席の後ろの両側からまわして、脇腹をくすぐり始めた。健太は(おび)えながらも必死に涙をこらえた。
 そのとき、浩介が片手を延ばして修造を後ろへ押し戻した。修造はシートに身を埋めて銃を手でもてあそびながら、バックミラーに映る浩介の目をじっと見つめた。
「何を怒ってやがんだ? せっかく人質を手に入れたっていうのに」
 浩介は無言で運転を続けた。
「あんた、子供はいるのか、森田?」修造が何かを企む口調で訊いた。
 浩介は不機嫌な目で修造を見た。
「おまえはどうなんだ!」
 後ろの座席にいる修造を見ると、ゴキブリに肌を這われたような気がする。
「おれはまだ若い。子供なんか作っている暇はねえ」と、修造は応じ、浩介の席の後ろを銃口で突いた。「いいあ、おれが庭で子供の遊び相手をしてる姿が想像できるか? あんたはどうなんだよ、森田」
 森田浩介は考え込んで運転をつづけ、やがて答えた。「男と女が一緒に入る刑務所の話を聞いたことがあるか?」
「聞いたことはあるさ」修造が言った。「でも、長続きしなかったんじゃねえか」
「どうして、そう思う? おれはそこに入っていたことがある。おれたちはウサギみたいにおとなしくしていた。看守が芝を刈ってるときでも、おとなしくしてた」
 修造は鼻を鳴らした。
「でも一人ぐらいは服がはちきれるくらい腹がでかくなった女が出たかもしれんな」
 修造は薄ら笑いをした。「なるほど……このチビの健太みてえな子供ができてたかもしれねえってわけだな。それでわかったよ、森田のお父ちゃん」
「勘だけはいいな、宮内」浩介は言った。「だが看守二人と手の早い囚人も女の服を脱がせてた。刑務所は女の子供を始末したよ。森田浩介二世は生まれなかったし、この先も生まれんだろう。この世では一人も、おれの子供は生まれない」
 修造は浩介と健太を交互に見比べた。
 《こいつら、『親子ごっこ』してるんじゃねえのか?》 
 彼は不快げに顔をしかめた。

 ランドクルーザーは土ほこりをまきあげ、果てしなく続く農場やブドウ園の間を縫って田舎道を飛ばしていた。この辺りは勝沼ブドウの産地で豊かな収穫期を迎えたばかりだった。たんまり稼いだ栽培者たちは家の中でくつろいでいる。だれも、泥道をドタドタ音を立てて近づいてくる危険のことなど気づきもしなかった。
 健太は家からこんなに遠く離れたことはなかった。今までにない自由な境遇に突然ポンと放り込まれて呆然としている。だが本当のことをいうと、内心、ちょっぴり楽しんでもいた。眼前に広がる農場やブドウ園は、男の子にとっては万華鏡だ。それに、ここ丸一日間だれも健太に「だめ」と言ったりしない。
「三百年前は、ここを北へ向かって何が走っていたか知ってるかい、健太?」
 車が広い谷間を抜けているときに浩介が訊いた。
「恐竜?」
 浩介はくっくっと笑った。「いま走っているこの道をだよ。何千もの武田藩の侍たちが都を目指して歩いていたんだ」
 健太にはそうした光景は思い浮かばなかった。
 そのあとは、しばらく沈黙が続いた。修造は後部座席で居眠りをしている。
 健太は遠くに見える高速道路と、そこを走る車の列を、じっと見つめ、「すぐおうちへ帰れるよね」と訊いた。
 浩介は健太を見つめた。やせた男の子で、下着姿のままだ。
「ああ、すぐ帰れるさ。でも、まだだよ、健太」彼は言った。「まだやることがあるんだ」

 車は道の片側にしか明かりのついていない小さな町にやってきた。町の中心部に入る前に速度を落とし、一つの公衆電話ボックスのそばで停まった。
 修造は後部座席で上半身を起こした。
「何で止まるんだよ?」
 浩介はバックミラーで修造の顔をのぞいた。
「この近くに、いとこがいると言っていたな?」
「だから何だよ?」
「電話しろよ。ほとぼりが冷めるまで、おれたちが転がりこめるかどうか探りをいれてこい」
 浩介の要求を受けて、修造はちょっとの間、首をかしげていたが、やがて身体を前に倒してイグニッションからキーをさっとかすめ取った。それから耳障りな笑い声をあげると、修造は車から這うようにして下りた。のろのろと公衆電話ボックスへ歩み寄っていく。
「あの人、どうしてキーを持っていったの?」健太が訊ねた。目で、修造がこの町の薄い電話帳をめくっている姿をじっと見つめている。
「おれに置いていかれない用心さ」
 浩介は噛みしめた歯の隙間から声をだして答え、バックミラーで背後の状況を確めた。
 健太にも、キーを持っていくの用心深い考えだと飲みこめた。
「あの人を置いてっちゃうの?」健太はわずかに期待をこめて訊いた。
「ああ、そうする」浩介は当たり前のことのように答えた。
 修造は二十ページほど、電話帳をまっぷたつに引きちぎり、ボックスの中から勢いよく飛びだし、もったいぶった足取りで車まで歩いてきた。顔には苦い作り笑いが浮かんでいる。車にするりと入り込むとキーを浩介に投げ返した。どうやら無駄骨だったらしい。車はふたたび動きだした。
「引っ越したらしい」修造が言った。
「どっちみち向こうの話なんか聞こえやしなかったさ。まだ耳から血がでるんだもんな」彼は痛む耳にそっとさわった。
「今度こんなことをしてみろ……」
「何だ?」浩介が素っ気なく言った。
「何だだと?」修造が言い返した。
「おれを脅かすつもりか」
「脅かしじゃねえ。事実を言っているんだ」
 修造はこのセリフを使う機会を待っていたのだ。そして挑むように身構えた。
 浩介は腕を伸ばして健太の手をとり、ハンドルに載せた。
「そうら坊や、ハンドルを握ってごらん」
 健太はハンドルを握れる期待で興奮しきっていた。それでもぶつけないように気を配り、ハンドルを真っ直ぐに保とうと背中を丸めて懸命に運転した。
 浩介はフロントシートごしに振り返って修造と向かい合った。
「おまえの鼻の骨をぶち割ってやる。こういうのを脅しというんだ」
 修造に笑う暇も与えず、浩介は力いっぱい修造の顔を殴りつけて拳銃を奪った。鼻から血がほとばしり出た。修造は殴られた鼻を両手で覆った。
 浩介は身体をまわして前を向き、すっかり肝をつぶしている健太からハンドルを取り戻した。「いいか、これが現実だ」
 今にも修造が立ちあがって浩介に殴りかかってくるのではないか……車内に肉と血が飛び散り、車が走りながら右に左に傾き、ついには道から飛び出して横転してしまうのではないか……そんなことを想像して、健太はハンドルを握る手を震わしながら、息をのんだ。
 だが、修造はこそこそと身を引いた。そして、まるで小さな男の子のように、あらわな憎しみを精いっぱいこめてわめいた。
「こんなことしゃがって、いつか殺してやるからな」
「そうだ、いまのが脅した」浩介が応じた。「違いがわかったようだな」
 修造は言い返すこともできなかった。血だらけの顔をぬぐうのに忙しくて、口を開く暇もないらしい。血が顎からシャツに垂れ、耳からも新たな血がにじみ出てきている。しかし、その表情には、彼の心の中で激しい怒りが荒々しく燃えさかり、はけ口を探し求めている様子が現われていた。
 車が急停止した。広々とした麦畑の角に、ポツンと一件の小さな店がひっそりと建っているのが浩介の目に入った。彼は埃っぽい分かれ道へ車を乗り入れた。
「いいかね、健太。よく聞いておくれ」浩介は言った。「おじさんは今からあそこにパッと行って、タバコを買ってくる」
「ビールもな」修造が両手の隙間から不機嫌な声を出した。
「ほうら」浩介は健太に回転式拳銃を持たせた。「こうやって持つんだよ……」
 少年の小さな手を上から覆ってグリップを握らせ、少年の人差し指を引き金にかけた……いつでも相手に危害を加えられる形だ。「このまま、まっすぐ、こいつの目と目の間を狙うんだよ」
「何のまねだ?」修造が言った。鼻を覆っていた両手をだらりと垂らしたので、血がズボンへ流れおちた。
「いいかい、あいつが少しでも動いたら、この引き金を引くんだよ」浩介は少年に話しかけ続けた。「ほうら、ここから指を離しちゃだめだ」
 修造はくすくす笑いはじめ、それから頭を後ろにのけぞらせて哄笑(こうしょう)した。浩介は手を伸ばし、三八口径拳銃の撃鉄を起こした。それを見て修造は、はじかれたように頭を起し、ばか笑いをぴたっと止めた。
「てめえ、ほんとに狂いやがったのか!」修造がわめいた。
「まあ、これが現実ってもんだ」浩介が修造に答えた。「ようやく言葉の意味が分かってきたようだな」
 浩介は車から降りて窓から手を差しいれ、健太の構えた拳銃の位置を、修造の鼻にまっすぐ狙い定めるように直した。
 やがて満足した浩介は、歩いて店の中へ入って行った。

 風雨にさらされた粗末な看板の下をくぐって、浩介は小さな店の中へ入っていった。看板には(カスタマーズ)と書いてある。店内には四列ほどの狭い通路が並んでいるが、陳列棚には目ぼしい商品がほとんど見当たらない。店の者の姿はない。
 浩介はあたりを見まわして待ったが、しびれを切らして叫んだ。
「おい、勘定!」
「聞こえてるよう!」カウンターの奥から小柄な男がよろよろと立ちあがった。つば広の釣り用帽子をかぶって、さっきからずっとそこにいたのだ。
「ソーダはどこにある?」浩介が訊いた。
「暖かいのは表の窓際。冷えてるのなら奥のクーラーの中だ」
 肥満した腹をゆすりながら男は言い、グルメ・サンドウィッチも作ってるけどね」と、期待をこめてつけ加えた。あまり信用できないしろものだ。
「どんなやつだ?」クーラーの中をかきまわしながら浩介は訊いた。

 健太の手はかすかに震えていたが、銃口はまっすぐ修造の頭を狙いつづけていた。
「拳銃を撃ったことがあるのかい、坊主?」修造が言った。「本物の拳銃だぞ」
 健太は返事をしない。自分の任務に心を集中させていたが、店の方をちらっと盗み見た。早くあのおじさんに戻ってきてほしい、としきりに思っていた。
「バーン!」修造が声を上げた。「本物の拳銃は坊主なんかの手に負えやしねえぞ。反動がくるからな。すげえ反動だぞ。おめえなんかひっくりかえっちまう。BB(ガン)なんかとはえらい違いだ」
「黙ってて、おじさん」健太は気力を振り絞って言った。
「いや、おめえは拳銃をぶっぱなしたことなんかありゃしねえ」修造は話つづけた。
「おめえは家で三人のケツの裂けた女どもと暮らしてて……親父はいねえ。きっと大きくなったらホモになるだろうな。ホモってなんだか知っているかい?」
 健太の頬を玉の汗が流れ落ちた。ホモという言葉の意味はよくわからなかったが……何かいかがわしいことだと見当がつく。学校で父親がいないことをあざけられると、健太はいつも惨めな気持ちになった。でも今は、そんなことでへこたれてはいられない。
「これから、ゆーっくりと、そっちへ寄っていくからな。いいか?」
 修造は両手を挙げ、その手をそろそろと前に突き出し、「ちゃんとお話ができるようにな」と言って前部座席の縁までにじり上がった。
 少年の両手は震え、引き金に置いた指に力が入った。この男がもっと近づいてきたら、引き金を引こう。そのほうが誰かのためになることだもの……。でも、いったい誰のためなんだろう? 浩介おじさんのためかな? それとも、お母さんのためかな? 
「ほうら」修造が言った。「さあ、おれたちは男と男のホモ仲間だ。坊主も男だろ、え?」

 (よろず屋)の店内で浩介はコカ・コーラ六本入りパック、六個入りムーン・パイ、ビーフ・ジャーキーをどっさりと、ガムを何個かカウンターに置いた。店主は自家製のサンドウィッチをのせた大皿を前へ押し出した。ロースト・ビーフ、ハム、野菜サラダをマヨネーズで味付けして挿んだ三角形のサンドウィッチである。
「うちの特製のサンドウィッチだよ」
 そう店主は言い、蝿を手で追い払いながら笑顔を作った。
 浩介は顔を近づけてその品物をよく見た。パンが干からびて皺がより、縁が黒ずんだパンだ。彼は軽く首を振った。店主はあきらめたように首をひっこめ、さっとサンドウィッチをカウンターの下へ引っ込めた。

 修造は車のフロント・シートにあごをもたせかけ、両腕を健太の脇腹にまわし、「かわいいちっちゃなパンツをはいているじゃねえか、坊主」と言いながらニヤリと笑った。
「おい、坊主のお母さんは下着に名前を刺繍してるのかい? イニシヤルか何か?」
 修造の手が、ゆっくりと少年の白いブリーフに伸びてくる。
 少年の両手は震えていたが、三八口径の銃口を修造の顔からはずしていない。その顎は、厳しい覚悟を見せて固く引き結ばれていた。
 修造は指を一本、健太のパンツの前ゴムの中へ滑りこませ、そろそろとゴムを引っ張って広げた。
「さあて、この中に何が入っているのかな?」修造が言った。
 健太は下を見ようとはしなかったが、動揺のあまり頭の中がばらばらになってしまいそうだった。
 修造はパンツのウエスト・ゴムを引っ張ったまま、健太のペニスの先っちょをのぞいた。
「ずいぶんと、ちっちゃいな、え?」
 修造は熱っぽい顔で健太のペニスを見つめた。
 健太は我慢しきれず、目を自分の腹に移した。その瞬間、間髪を入れず修造は拳銃を奪い取り、健太が視線を戻す前に銃口を逆さにむけて少年の鼻に狙いを定めた。
「目よりも手のほうが速いんだよ」と、言って修造はパチッと拳銃のふたを開け、中を調べてから銃身を回転させた……スロットは(から)だった。
「あのクソったれ!」修造がわめいた。「なんてこった、(たま)が入ってねえ」

 浩介はさらに何品かをカウンターに置いた。
「これで全部ですかい?」店主が訊いた。
 浩介はうなずいた。
 店主はタバコの火をもみ消して、黄ばんだ指で金額をメモして計算した。
「全部でニ千五百円です」
 浩介はジーンズのポケットから、コンビニエンス・ストアで盗んだ札束を引っ張り出した。店主は目を丸くした。浩介は必要な金額を払った。
「ねえ、旦那」店主が品物を袋に詰めながら訊いた。
「どんなご商売をしてなさるんで?」
 啓介は札束をポケットに押し込みながら、「中古車だよ」と答えた。「中古車を買って修理するんだ。今朝はレクサスを一台、甲府まで売ってきたところさ」
 店主に、いかにももっともらしい『商売人どうしなら分かるだろう』という表情で笑ってみせた。
「ご冗談を」と、店主も笑い返した。

 修造は少年を後部座席の自分のそばへ引きずり込み、拳銃を持つ手を少年の首に巻きつけた。すすり泣く健太を抱き寄せ、少年の首に自分の頭を載せている。
「もうちょっとくっつけよ」と言って修造はうめき声をあげた。健太はそのすきを突いて身をよじり、力いっぱい修造の耳を噛んだ。
 修造は悲鳴をあげて拳銃を取り落した。健太は拳銃を拾い上げ、車のドアに突進して必死で車外へ逃げ出した。そのまま大声で泣きながら、すぐそばのトウモロコシ畑の中へ走り込む。
 修造は両耳から血を流していた。動くたびに痛みがつのる。それでも後部座席から這い下りて、よろよろと畑へ向かって歩き出した。
 健太はなきじゃくりながらも視界を曇らせる涙をぬぐい、背の高いトウモロコシの間を一心に走り抜けた。トウモロコシは健太の背丈より三十センチは高い。少年は前へ前へと突き進んだ。走り続けなければ、殺されてしまう。
 修造は大股で歩き進んだ。狂ったようにニタニタ笑い、トウモロコシをかき分けて前進してくる。背伸びして少年の姿を探し、迷子の子犬を呼ぶように口笛を吹いた
「必ず見つけてやるからな、坊主」修造は大声で叫んだ。「出てきた方がいいぞ」 健太は足を取られて転倒し、拳銃が手から離れて転がった。あたりをかきまわして拳銃を探し、ようやく見つけ、ふたたび立ち上がって走り出した。走って、走った。いつになったら終わるのだろう。健太はまた転んだ。今度は、もう起き上がれなかった。疲れ切って、へとへとになっていた。涙がとめどなく流れ、健太は修造に見つからないように地面にうずくまった。

 浩介は買った食品の袋を抱えて店から出てきて、車のドアが開いているのに気づいた。フロント・シートに袋をドサッとおろしてトウモロコシ畑に目を向けると、遠くは畑の中ほどでトウモロコシが揺れ、修造の頭のてっぺんが見え隠れしている。浩介は猛スピードでそっちを目指して斜めに走り出した。
 修造は立ち止まって耳を澄ましたが、何も聞こえてこなかった。身をかがめて前へ進み、少年の小さな姿を目で探す。
 健太は身動きもせずに、横たわっていた。遠くでトウモロコシの茎がさらさらという音を立てている。その音がだんだん近づいてきた。やがて間近に迫った。
 健太はそっと音のする方を向き、身体をこわばらせて拳銃の狙いを定めた。そして引き金にかけた指に力をいれた……。
 そのとき、浩介の顔が背の高いトウモロコシの茎の間から覗いた。
 浩介は少年に『そのままでいろ』と身振りで合図し、それから少年の拳銃に手を伸ばした。健太は拳銃を渡し、浩介がジーンズのポケットをさぐる様子を見守った……。
 少年がなかなか見つからないので、修造は忍び足で歩き回り、その姿を目で追い求めた。
「おい坊主。坊主よう」と、修造は囁いた。「見つからないようにって神様にお願いしたほうがいいぞ」
 そのとき、何かが彼の目に入った。ちらっと色が見えただけだ。修造は四つん這いになって前よりも素早く這い進んだ。厚く生い茂るトウモロコシ畑をかき分けて進むと、三八口径の銃身と人間の目とが向かい合った。
 浩介だ。片膝ついて拳銃を構え、片目を閉じて、もう片方の目を細めて照準器を覗いている。
 修造は車のヘッドライトを浴びた動物のように、その場に凍りつき……それから笑いだした。「何をする気だ? それでおれを殴るってのか?」
 浩介は拳銃を握ってないほうの手を開き、なかの弾薬筒を見せた。修造のニヤニヤ笑いが引っ込んだ。
「森田、頼むよ!」修造が懇願した。「おれとおまえは友達(だち)だろ!」
「とっても仲良しのな」浩介が冷やかに応じた。
 健太は命からがら店へ向かって駆けだした。そのとき彼の後ろで……ずっと向こうのトウモロコシ畑の中で……恐ろしい銃声が一発バーンとはじけた。

 健太は車に向かって走り、店やトウモロコシ畑とは反対側のタイヤの蔭に隠れた。タイヤに背中をぴったりくっつけ、膝をかかえてうずくまった。
 反対側のトウモロコシ畑から浩介が現われた。目的のある歩き方……ひとつの仕事を終えて次の仕事に向かう男の歩き方だ。あたりを見まわして健太の姿を捜した。
 銃声を聞きつけた店の主人が、野球バットを片手に構えて店の表へ様子を見に出てきた。
 車までたどり着いた浩介は、くるりと反転して店主に拳銃を向けた。
「電話はあるか?」
「いや、ない」店主は答え、バットを地面に落とした。両手を大きく広げ、立ったままの姿勢で可能なかぎり服従の態度を示した。
「じゃあ、店の中に入って、おれたちが行ってしまうまで床に伏せてろ」浩介が言った。
 店主は回れ右をして、さっさと言われたとおりにした。こうなった以上、逆らっても始まらない。店主が店の中に姿を消すと同時にドアは閉まり、あたかも手品のように、窓に『閉店』の掛札が下がった。
 浩介が運転席側にまわると、健太が震えながら後部車輪のそばにうずくまっていた。
「さあ、乗っておくれ」浩介が言った。
 修造ではなく、浩介が一緒だとわかってほっとした健太は、ハンドルの下を這って助手席のドアの脇にうずくまった。
 ランドクルーザーは表通りに戻り、沈みかける太陽を目指して走り去った。

第九章 追うもの、逃げるもの

 特別捜査本部チーフ、細川宗一郎の要請で、エアストリーム社から日本の道路事情に合ったナローボディ(車幅二、五メートル以内)のキャンピングカーが借りだされた。その車の使用は、今回の脱獄事件の緊急性を考慮して事前に知事の許可を取っていた。
 その移動執務室(モービル・ホーム)エアストリームに、いま細川チーフが乗り、腹心の部下と共に、国道四一一号線を東へ向かって疾走していた。
 四一一号線は山梨県甲府市から山梨市、甲州市、大菩薩領を経て西多摩郡多磨町を抜け東京都八王子市に至る一般国道である。大菩薩領のあたりから山間を通るため急坂やカーブが多く、気が抜けない。
 逃亡した脱獄囚がそちらへ向かったという情報があったわけではないが、これは細川の長年の勘に基ずく行動だった。平坦な幹線道路である中央自動車道を使うはずはないと直感したのだ。しかも、彼らは東関東方面へむけて逃走しているということも予感していた。
 先導するピックアップを運転しているのは細川の部下の倉田進だが、ショットガンを小脇にかかえて車がカーブを切るたびに身をすくめながら、後ろのモービルホームの全反応を見守っているのは知事の側近遠山の部下堀田だ。
 (エアストリーム)の中では、岩井がヘッドホンで短波無線を聞きながら山梨県から東京都にいたる精細な道路地図を壁にピンで留めていた。新顔の刑事田沼光一は何を考えているのかわからないといった表情でひとりポツンと自分の席に座っている。
  小笠原まゆみはテーブルの上で何か自分だけのメモを書きつけていた。その奥で細川宗一郎はテーブル付きの専用席にどっかりと腰をおろしている。
「目撃情報が入りました」岩井が無線席から声をかけた。細川の耳が緊張する。
「山梨市内の笛吹川を渡ってすぐのところにある四一一号線沿いの商店です。この先、約三十キロの地点です」
 岩井徹はハンドマイクを置き、地図にピンを刺して後ろへ下がった。
 細川チーフが前へ出てきた。「やはり、やつらも四一一号を走っていたか!……ようし……国道四一一線と、それと交差する二一一号線、三〇六号線の東方向八十キロ範囲を道路封鎖しろ」
「あいつら、そんなに遠くまで行っていますかね?」岩井が言った。
「それは、おれにもわからん。やつらも同じだろう」細川は答えた。「脱獄して嬉しくてしょうがないんだ。日曜日のドライブさ……やつらにとってはな」
「日曜日のドライブですか」岩井は笑いながらバリケード班に連絡しはじめた。
「気に入りましたよ。あなたがその言葉を使うのは、これまで一度も聞いたことがありませんからね、チーフ」
 細川の動きを一つも逃がさずに目で追っていた小笠原まゆみが困惑の表情を見せた。
 彼はその表情に気づいた。
「何か気になることがあるのかね?」
「ちょっと、まだ早すぎるかも知れませんけど」まゆみは思い切って言った。
「あの二人が仲間割れしたときに備える代わりの封鎖プランは考えていらっしゃいますか? たとえば南へ抜ける一三七号線とか、西へ向かう一四〇号線とか……」
 誰もが目を丸くしてまゆみを見つめた。細川宗一郎の言うことに疑問をさしはさんだ者は、いまだかって一人もいなかったからだ。
 無線装置をいじっていた岩井がまゆみの方を振り返った。
「どうして二人が一緒にいないと言い切れるのかね?」
 まゆみはためらい、チーフは待った。他の全員と同じように苛立った表情をしている。
「何か言いたいことがあるんだろ」チーフが催促した。「だったら、言ってしまえ」
 まゆみは気を取り直して、思いどおりに言うことにした。
「いま、あの二人が置かれている状況は一種の妥協状態です。あの二人が、それほど長く一緒にいるはずはありません」
 皆は沈黙してまゆみの次の言葉を待っている。まゆみは続けた。
「森田と宮内は完全に正反対の人間です。森田浩介は犯罪者の中の犯罪者です。強盗、一対一の殴り合いなど、およそこういう連中が男らしいと考えることしかしないタイプです。反対に宮内修造の警察記録は痴漢行為と軽犯罪のオンパレードです。卑劣で、俗悪で、年がら年じゅう、犯罪でつまずいてばかりいるタイプです。仲間割れするのは目に見えています」
「だが、人質がいるんだぞ」岩井が側面から反論した。「どっちが、どっちの人質を取るか……コイン投げでもして決めるのかね?」
 チーフは流しへ歩いていき、カップとスプーンを洗った。
「同じようなことが前にもありました。厳密な予測は誰にもできません。でも、これはいずれ二人が直面しなければならないジレンマです」まゆみはチーフの背中に目をやった。
「だからこそ、早めに手を打たなければなりません」
 チーフがタオルでカップを拭きながら振り向いた。目はまゆみの頭の上を通り越して窓の外を見つめ、返事を待つまゆみと視線を合わすのを避けている。ふた呼吸ほどおいてチーフは言った。
「おれたちにはジレンマはない。やつらにもだ。人質は一人に絞るだろう……もう一人は始末するはずだ。まだ殺していないとすればだが」
「たしかに、人質が二人もいては足手まといでしょう」まゆみは答えた。「それで、どちらを始末すると思いますか?」
「もしやつらが……」チーフはまだまゆみの方を見ないまま続けた。「網にかかるとか孤立するとかして混乱状態になったとしたら、一般大衆が騒ぐ対象になるのはどっちか?無邪気な子供のほうか、それともいけすかない小役人のほうか?」と言って、カップを食器棚に戻してタオルを掛けた。その微かにいらついた表情が言っている……この忙しい追跡のさなかに、なんでおれが犯罪捜査のイロハを講義しなきゃならないんだ?
 チーフはスプーンを取ってシャツで拭き、自分の(オフィス)へ戻った。
 他の男たちは、この新米の出しゃばり女を、一同が注視するなかで軽くいなしたボスのてぎわに、それぞれ思い思いに満足してくすくすと忍び笑をもらした。
 まゆみは首のつけ根まで真っ赤になった。その目はモービルホームの後部へ戻っていく上背のある細川の後ろ姿に、あたかもライフルの照準器のように張り付いたままだった。

 細川はオフィスの椅子に座ってコーヒーをカップに注ぎ、スプーンでかき回した。まゆみがテーブルの前に現われても、顔をあげようとはしない。まゆみは髪を後ろへ払って厳しい表情をした。
「細川チーフ、お話があります」
 チーフは無言でコーヒーをかき回している。
 まゆみは白くなりかけた細川の頭のてっぺんを睨みつけた。
「どうして、そう意固地になって、わたしに恥をかかせようとなさるんですか?」
 あらゆる会話の中で、こういう話ほど彼の苦手なものはない。こんな話に付きあわされるくらいなら、自分の爪の下に楊枝を突き刺されるほうがまだましだ。そもそも、話し方のコツがわからない。これまでに彼は二回、結婚の入口まで行きかけたが、肝心のところで胸のうちを打ち明けた話し合いという『落とし穴』をうまく乗り越えることができずに失敗した。彼も努力しなかったわけではない。だが、男には口で言えることと言えないことがある。結局、女たちは将来を見越して彼の前から去っていき、彼はそこで犬にすべてを打ち明けて結婚話は終わった。
「おれは、もともと頑固者でね」チーフはそっけなく言った。「まあ我慢して付きあっていれば、そのうちわかる。それまでは丈夫な尻とユーモアのセンスで切り抜けるんだな」
「ユーモアのセンスなら誰にも負けません」まゆみは言い返した。「でも、あなたを一種のシャーロック・ホームズみたいに思っている馬鹿な人たちの前で得意げにヒーローを演じるあなたの引き立て役になるのはまっぴらです」
 細川はその言葉を平然と聞き流して、コーヒーをすすり……その拍子に呻いて顔をゆがめた。
「なんてまずいコーヒーだ」
「わたしが言ったことを聞いていらっしゃらないんですか?」まゆみはいきり立った。
 しつこく問い詰めるまゆみに、細川はようやく顔をむけた。
「聞いてるとも」
「ほんとですか。じゃあ答えてください」
 まゆみの整った顔は怒りで真っ赤になった。額に垂れている髪の毛が濡れて幾筋がほつれかけている。
「何を聞いていたんだっけ?」平然と細川は問い返した。
 まゆみは首を絞められたような声を上げた。
「ああ、もう! これじゃ吹雪の中で(むち)をもって蜂の大群を追い払うようなものだわ! どうして、そうわたしを困らせなきゃ気がすまないんですか?」
「きみは、いったい何をしに来たつもりなんだ?」細川が応じた。
 まゆみが振りかえると、岩井と田沼が面白い見世物を愉しむかのように熱心にこの騒ぎを見守っている。彼女はいきなりバタンと仕切りを閉め、真っ向から細川と向かい合った。
「わたしを何だと思ってるんですか? 男の子のロッカールームに迷い込んだ愚かな女学生ですか? そうだとしたら、とんでもない思い違いだわ。自慢じゃないけど、これでもこの大失態つづきの事件関係者たちの中では二番目の頭を持っているんですからね」
 細川は値踏みするようにまゆみを見た。
「きみのIQなんか訊いてはいない。どんなつもりで来たのかと訊いているんだ」
「もちろん、知事に命じられたとおりの仕事をするつもりですわ」
 まゆみはチーフをにらんだ。
 チーフは少なくとも、その点では彼女を高く買っていた。このいかにも女らしい堂々たる傲慢さ。これほど強気な女は珍しい。
「その知事さんだがね……おれはたまたま彼とは仲のいい友人で、毎年一緒に狩りに行くほどだ。だが、この事件に関しては成功するも、失敗するも、引き分けるも、おれの運しだいで、知事とは関係ない。その点では知事もおれも互いに暗黙の了解をつけている」
 そう言うと、チーフは椅子にゆったりと座り直してブーツの足をテーブルに乗せ、その底をまゆみの方に向けた。これは一種のテストだ。気骨のある男はこれを侮辱と取り、挑戦と受け止める。こうされたら、机に載せた相手の足を払い落すか、デスクを回って置かれた足の横に腰をかけるかして挑戦を切り抜けなければならない。どちらもできないような能なしなら、部屋を出て行くしかない。
 まゆみはどちらもしなかった。ただ、あいかわらず強硬にまくしたてた。
「知事はこの県の最高責任者です。ですから最終的な責任は当然……」
「くだらん」細川は一蹴してテーブルから両足を降ろした。ゲームの判らんやつにゲームをしかけたって何の面白味もない。
「責任ってのは睡眠時間をけずって仕事をしている者が取るものだ。一番でかい胃潰瘍をこさえたやつこそ責任者なんだ。もしかすると、この騒ぎは流血沙汰になる……だが、そうなっても知事はたった何票かの票を失うだけだ! だがおれは、おれのほうは……」
 細川は個人的な話に深入りしすぎてきたのに気づいて自分を抑え、途中でやめた。
 まゆみは、細川がいま口にしかけたことに何か言いにくい事情があるらしいのに気づいた。
「あなたのほうは……いったい何ですの?」まゆみの声が微妙にやわらいだ。
 細川は話題をはぐらかした。
「じゃあ、こういうことにしよう。おれが間違った方向へ行っていると思ったら、そのときは遠慮なく、そう言ってくれ。賛成するとはかぎらないが、一応、話は聞く。感情を害したり、プライドを傷つけたりしたことについては、帰りにみんなに一杯おごるから、それで我慢してくれ。だが、それまではだめだ。心配することは他にいくらでもある」
 細川は立ち上がった。「それでいいなかな?」
「けっこうです」まゆみは答えた。
「じゃあ、これで一件落着だな」チーフはまゆみを見下ろした。
 まゆみはドアへ向かい、出て行こうとした。そのときチーフが声をかけた。
「ところで、もう一人ってのは誰なんだ?」
「もう一人?」まゆみが振りかえった。
「きみが二番目の頭脳の持ち主なら、一番目は誰だ?」
「脱獄した森田浩介です」まゆみは答えた。「刑務所で検査したんです」
 チーフは表情を変えなかった。
 まゆみは一瞬、細川を見つめ、それから部屋を出て行った。

    *  *  *  * 

 甲州市に近づくにつれて、森林地帯と農作地が交互に現われ、次第に山間道路の気配が強くなり、甲州葡萄(こうしゅうぶどうお)で知られたブドウ園が散在している。
 母と姉二人だけでひっそりと暮らしてきた八歳の健太にとっては、こんなに様々な変化を見せる景色は一度も見たことのない驚異の世界だった。健太はまだ怖くて楽しむどころではなかったが、これを楽しむべきかとうか真剣に考え込んだ。コカ・コーラをがぶ飲みしながら……家ではコーラを飲んだことがない。ところが今日はサイダーもオレンジ・ジュースもミルクも出なかった。コーラだけを飲みながら、健太は自分を誘拐した男の方をちらちら盗み見た。
 浩介も、ときおり、ちらっと健太の方を見やった。少年がコーラを飲んでしまうと、浩介はザックに手を入れてコーラの瓶をもう一本取りだした。ダッシュボードで栓を開けて少年に手渡した。
「ありがとう」健太は答えて、また、一口飲んだあと、訊ねた。
「ぼくを拳銃で撃つの?」
「そんなことはしないよ……おれたちは友だちどうしだ」と言った。そして少年の顔つきから、彼がその言葉にホッとする反面、複雑な思いで受け止めているのを見てとった。
 この子は、自分が修造の友だちだと思っているに違いない。
「もしおれがドライブ仲間を選ぶとしたら、おれはいつでも修造じゃなくて、坊やを選ぶね」
「あの人を撃ったの?」健太は問いかけた。車は四つ角にさしかかった。健太と同じ年頃の子供たちが空き地で遊んでいる。
「ああ、撃った」浩介は答えた。
 長い沈黙がおりた。車は人家の少ないブドウ畑の中を走っている。
 浩介は健太の寒々とした頼りない気持ちを感じ取った。
 ……ちくしょう、まだ思い出してしまった。浩介の母親は、よくどこの誰とも知れない男たちと連れだって、どこかへ姿を消した。その間、彼は母親の女友だちのところに預けられるか、公園に追いやられて午後を過ごした。そのころ面白くもなんともない映画を見て過ごしたこともある。母親と浩介には、一言も話しかけようとしない男とまる一日過ごしていなければならないこともあった。男は食堂で健太の真向いに座って母親としゃべったり笑ったりしているのに、少年がいることにまるで気づかないような顔をしていた……
 台所の(はさみ)で刈ったらしい頭に、よれよれの下着。身体をこわばらせて横に座っているみすぼらしい姿の健太を見ていると、服役中の虚しい日々にも思い出さなかった子供時代の出来事が、浩介の脳裏に次々と甦ってくる。
「おい、坊や」浩介は言った。「この車を運転してみるかい?」
「ぼく、できないよ」健太が言った。
「大丈夫だよ、おじさんがついているから」
「でも……」少年はためらっている。その顔には……やってみたいけど、でも、できっこないや……というあきらめの表情がみえる。
 浩介はいきなりブレーキを踏むと、車を停めた。そして運転席を少し後ろへずらすと、少年に向かって言った。
「さあ、坊や、おじさんの前に座ってごらん」
 少年がハンドルと浩介の身体の間に入り、浩介が後ろから抱きかかえる姿勢をとった。
「ハンドルを握ってごらん」
 少年は小さな手でこわごわハンドルを握った。
「さあ、これで、きみが車のハンドルを操作するんだよ……ブレーキとアクセルはおじさんが操作するからね」
「それじゃ発車するよ」浩介はエンジンをかけ、ブレーキをそっと緩め、クラッチを入れる。車はゆっくり走り出した。走り出すとともに、車は少し左へ曲がり始めた。
「坊や、さあ、しっかり握って、ハンドルを真っ直ぐに直して……そう、それでいいんだ。結構、うまいじゃないか!」
 浩介は少年を褒めた。
 健太は緊張した眼差しをまっすぐ前にむけながら、ハンドルを操作している。そして次第にスピードをあげながら、少年の運転する車は田舎道を走り出した。
 浩介は自分のなかに抱えた少年の身体の温もりを感じながら、アクセルとブレーキを操作していた。やがて、少年の頬に微かに微笑みが浮かび、次第にそれが顔いっぱいに広がっていった。その強張った身体からも緊張がほぐれていくのが判る。
「いいぞ、坊や……このまま、しばらく走ろう!」浩介が囁いた。
「うん!」嬉しそうな声が返ってきた。
 いまや、少年は満面に興奮と満足の笑みをうかべてハンドルを握っていた。浩介の顔にも、一種の感動とも思える優しい表情が浮かんでいる。
 ふたりの操縦する車は、一路、甲州市へと近づいていた。

    *  *  *  * 

 笛吹市郊外の県道沿いにあるスーパーマーケット(カスタマーズ)の砂利を敷きつめた駐車場へ、山梨県警の特別捜査チームを乗せたモービル・ホーム(エアストリーム)が滑るように入ってきて止まった。あたりには県警や地元警察の車が集まり、警官や物見高い野次馬が群がっている。大きなモービルホームのドアが勢いよく開いてステップが下され、やがて細川宗一郎が熱い陽射しの中へ降りてきた。すぐ後から腹心の部下たちが現われ、うやうやしく少し離れて後を追った。
 大股に歩いて来て細川を迎えたのは地元笛吹署の警部だった。頭をぐっとそらせ、手を差しだしたが、濃いサングラスを取る様子はない。
「笛吹署の石原です」
 警部は手足の長い大柄な男だった。いわばハンサムな部類にはいる顔立ちの男だが、すでに中年にさしかかっていて腹のあたりがせり出しかけている。
 細川は彼が腰にそれぞれ違った懐中電灯を四本ぶら下げているのに気づいたが、そっちの方は見ないようにした。
「森田に間違いないのかね?」チーフは問いかけた。
「絶対に間違いありません」石原警部は答えた。「まず、その男がベルトに挟んでいたリボルバーですな。目撃者の証言も一致します」
 石原は、店のドアのそばに立って額の汗を拭う店主を親指で差し示した。「もちろん、車もです。それと人質の少年。いま人質は一人だけですが、その子であるのは間違いありません。八歳くらいの男の子で背丈も合致しますし、スボンもはいていません。ひどい恰好ですが、暴力を加えられた様子はないそうです」
 石原はゆっくりと時間をかけてタバコの火をつけ、うまそうに煙をくゆらせた。まだ何か話すことがあるらしい。じりじりしながら熱心に話を聞いていた小笠原まゆみが、なかなか切り出そうとしない相手に(ごう)を煮やして先を続けさせようと前へ進み出かけた。岩井がその腕をつかんで後ろへ引き戻し、目でにらんで思いとどまらせた。
 細川は、こういう年季の入った古ダヌキをせかしても逆効果なことをよく知っていた。そのようなことをすると、相手はプライドを傷つけられ、つむじを曲げてしまう。
「このあたりじゃ大きな事件なんてめったに起きません」
 石原が意味ありげにタバコを吹かしながら言った。
「たいていは車の盗難かこそ泥です……しかし、今度の事件は違いますな。まさに捜査に値する犯罪です」彼の表情が急に晴れやかになった。いよいよ取っておきの核心部分に入ってきたらしい。
「あなたがたが見える五分ほど前のことですが、別のものを発見しました」

 石原は四本の懐中電灯の一本を指がわりに使い、明るい陽射しの中でかろうじて見えるその光で、蒼ざめた宮内修造の顔を照らしだした。修造はそよそよと揺れるトウモロコシ畑の中に身動きもせずに横たわっていた。きれいに貫通した弾丸の跡が彼の額に穴をあけている。不愉快なことのほうが多かった修造のこの世の人生に終止符を打った一発だ。
 ほとんど死の苦しみはなかったろう……何年も前に彼がスコップで内臓をえぐりだした霊柩車の運転手の苦しみにくらべれば、よほど楽だったはずだ。
 石原は、きれいな傷口にたかる晩秋に特有の(はえ)を払いのけた。
 あたりを歩きまわっていたまゆみが胸の悪くなったような顔を向けたが、そばには近寄らなかった。
「少なくとも誰がやったかだけは、はっきりしているな」
 細川は屈んでいた姿勢から立ち上がった。そして、大きなジグザグのコースをたどってトウモロコシ畑の中を戻った。途中で地面の様子を調べ、トウモロコシの倒れている場所を見ながら歩いている。
「この手の前科者のすることは理解できませんな」急いで追いついてきた石原が言った。
「何が原因で暴発するのか、いつも謎です。刑務所で相棒だった二人が一緒に計画を練って脱獄する。それが、逃げてまだ一日しか経たないうちに、いきなりこれですからね。争った様子もない。ただ、一人がトウモロコシ畑へ出てこいよ。おまえと別れたいんだと言う。もう一人がのこのことついて行く。それだけです。これをどう考えたらいいんですかね?」
 細川には、すでに見当がついていた。トウモロコシ畑の中を歩いた跡がひとつの地点に集まっているのを見て、何が原因で発砲沙汰になったのか、おおよその推測がつく、
 まゆみが細川の横に現われた。細川はため息をついて説明しかけた。
 しかし、まゆみが先に口を開いた。
「森田も馬鹿なことをしたものですわ。修造と男の子を残して買物に行くなんて。修造がトウモロコシ畑の中で男の子に性的ないたずらをしようとしたので、それをやめさせようとして撃つはめになったのに違いありません」
「いい線いってるな」と、細川。
「でも、まだ腑に落ちないことがあるんです。森田の例のIQ報告です」
 細川は、ただ頭を振っただけだった。そのまま何も言わずにトウモロコシ畑の中をモービル・ホームへ向かって歩いて行く。
「どういうことですか?」まゆみが追った。「どこがおかしいんですか? 森田は、とても頭の切れる男です。どのファイルを見てもそうです。でも、この行動はどう見ても利口な男のやることではありません」
「しかし、口実を探していたとすれば、話は別だ」
「口実? こんな残虐なことができる男に口実なんて必要ありませんわ」
 細川は仏像のように無言で歩いた。まゆみは彼に歩調を合わせて歩き、燃えるような眼で彼を睨みつけながら返事を待った。
 石原警部は二人よりだいぶ遅れた。三十メートルは引き離されている。
 細川はモービル・ホームのドアに辿り着いた。
「きみのファイルを、もう一度よく読んでみるんだな。森田という男は挑発されないかぎり暴発はしない」踏み段を上りかけた細川は、途中でやめて後ろへ退いた。 そのまま、しんぼう強く両手を組んで、まゆみが先に車に乗り込むのを待っている。

    * * * * *

「何年も先のことなんか、決める必要はない」浩介は言った。
 ランドクルーザーは舗装していない道路に戻り、古い(わだち)の中を横揺れしながら、土埃を派手にたてて走っていた。いまは少年は助手席へ戻り、浩介が慎重に運転している。浩介は話を続けた。
「坊やの年頃には、おれは何をしたいかなんて全然決めてなかった。何をしたくないかはわかっていた……要するに、何もしたくなかったな」
 健太は新しいコーラを引っ張り出した。
「ぼくは、大きくなったら御言葉(みことば)を広めるんだ。聖書の伝道師になって」
 浩介は少年の顔を見た。「おもしろそうか?」
「ううん」
「前にダンス・ホールで会った男は発明家だった。おもしろい奴だったぞ。そいつはこういうアイディアを持ってた……象籠(ハウダ)って知ってるか?」
「ううん」と、健太。
「人が象の背中に乗るための、でかい籠だ。インドで使う」
「ハウダっていうの?」と、健太が言った。
「この男は、飛行機の胴体を使った。全日空で飛行機の胴体をいじってたんだ。そこで、自分の車の屋根にそのハウダを取りつけた。屋根に穴を開けて、田舎をドライブしてる最中に家族が屋根に上って景色がみられるようにってわけだ。窓やら何やらも全部ついている。車向けのハウダは当たって、何百万も稼げると思ったんだな」浩介は愉快そうに笑った。坊やはどう思う?」
 健太はしばらく黙っていたが、やがて言った。「どうって?」
「いまどき、象籠(ハウダ)がついている車なんて、見たことあるかい?」
 浩介はにやっと笑ったが、少年を見たとたんに陰気な顔になった。
「何を考えてる、坊や?」
「なんにも」
「当てたら、教えてくれるか?」
 健太はうなずいた。
「お母さんのことだろう」と浩介。
 健太は身動きもせずにじっと前を見つめ続けた。図星なのだ。
 浩介は車を停めた。人家らしきものはひとつもない。
「わかってるよ、健太」と、浩介が言った。「だが、まわりを見てごらん。こんな所で坊やを降ろすわけにはいかないだろう?」
「教えてくれないか」と、浩介は言った。「坊やは右利きか、それとも左利きかね?」
 健太はおとなしく右手をあげた。
 浩介はアクセルを踏み込み、車は右側の道を走り出した。
「それじゃ、こっちの道を行こう」浩介は言った。「タイム・マシンに乗ったこと、あるかな?」
 健太は首を振った。
「あるはずだよ。これを何だと思う?」
「車」
「ちがう、ちがう。これは二十一世紀のタイム・マシンだ。おれがキャプテンで、坊やはナビゲーターだ」
 浩介はダッシュボード全体を指差し、「ここにある……これが未来だ」と言って、バックミラーを叩いた。「ここに見える……これが過去だ。時間がたつのが遅すぎて、いますぐ未来へ行ってみたいと思ったら、このアクセルを踏めばいい。いいね?」
 車は左右に激しく揺れながら、石ころだらけの道をスピードをあげて突進した。ちょっとスリルがある。
「それから、今この時が過ぎてほしくないと思ったら、いいかい、このブレーキを踏むんだ。スピードが落ちる」
 浩介がぐいとブレーキを踏むと、車は横滑りし、土埃をまきあげて止まった。
 健太は目を大きく見開き、命がけでドア・ストラップを握りしめた。
「ここが現在だよ、健太。現在ってのが続く間は、せいぜい楽しまなきゃな」と、浩介は大声で笑ってアクセルを踏んだ。車は三百六十度回転し、土埃を四方八方に巻き立てた。
「そうとも、これはおれたちのタイム・トラベルだ!」浩介は威勢よく叫んだ。
「早くスカイラインを見つけなきゃ。おれの父さんはいつもスカイラインに乗ってた」
 健太はスピード感にあふれたドライブに半ば胸を躍らせ、半ばは恐ろしさで身動きができなくなり、ドア・ストラップにしがみついた。
 ……遠くはなれてしまった優しい母親のことが、その懐かしい笑顔が、次第に心の中から押し出されていく……

    * * * * *

 細川宗一郎の専用車はまだスーパーマーケットの外の道路脇に止めてあった。県警らの車は全部いなくなっている。ときおり、車で客がやってきてマーケットで用を足したが、店主が話して聞かせなければ、外に大きな車があるのは誰も気にしなかった。
 店主は、客が来るたびに話して聞かせた。回を重ねるごとに話しに磨きがかかってくる。三八口径を突きつけられ、その後警官がどやどやと押しかけてきたときの興奮はおさまったが、その代わり店主は肝っ玉をすえて、再び参戦するつもりになった。死ぬ覚悟もできている。
 ビールを一ダース買いに来た近所の青年、二人は、店主に最初から改訂版の話を聞かされた。猟銃をふりまわしながら、「やつが目の前にいるのに、あの子がいるんで撃てなかったんだ。それで奴は命拾いしやがった」
 青年たちは、店主の話しより、彼の後ろの棚にあるウイスキーをもの欲しそうに見やっていた。
 
 チーフの部下の倉田は運転席で、いたずら半分に、いろいろなつまみをひねって時間を潰していた。
「そいつは車内通話装置(インターコム)のスピーカーだぜ」ラジオの隣のダイヤルを倉田ばいじくりまわすのをみて、堀田が鋭い声で注意した。「それで車の後部と連絡し合う」
 倉田は興味を引かれた。「どうやってやるんだ?」
「まず、スイッチを入れるんだ。でも、先にスピーカーのボリュームを上げたりしたら……」
 その瞬間、倉田がスピーカーのスイッチを入れた。車内通話装置が甲高い音を発して窓ガラスをピリピリ震わせ、「……スピーカーが壊れるぞ」と堀田が言い終わったときには、軋るような音をたてていた。
 スピーカーが壊れてやがる……車の後部でチーフが肩をすくめた。まだ耳鳴りがする。振り返って車の前部をにらみつけた。
「ここの備品には、保証書がついているんだろうな」倉田がそっと堀田に言った。
「故障しているもの全部のリストを作ってくれ」
 チーフは地図のあるところへ歩いて行き、あちこちの交差点に、警察の道路封鎖箇所を示すピンを刺した。
「これでやつも、一巻の終わりですね」と岩井はいった。
「遅かれ早かれ、やつは幹線道路へ戻る」チーフは応じ、「農場から店までをいちいち封鎖するほどの人手はない」と言って、地図上の府中を指差した。
「森田はここで刑期を務めて労務解放されている。このあたりの様子は知り尽くしているはずだ」
「そのことは資料に書いてありませんでしたわ……ここで労務解放されたなんて」
 小笠原まゆみはびっくりして言った。「どこからの情報ですか?」
 チーフは答えず、考えに没頭して地図を凝視した。
 岩井のヘッドホンが情報を伝えてきた。
 やがて彼はチーフに向き直って報告した。
「笛吹署の車が甲州市の勝沼へ向かっています。農夫の目撃証言を得たそうです……ランドクルーザーの」
 誰も何も言わないうちに、まゆみが割り込んだ。
「ほんとう? 同じ車をそのまま使ってるなんて、おかしくありません? つまり、ここでこういうことをやった後では、足がつきやすいわけですから」
 細川と岩井がそろってまゆみを見た。
 まゆみは素早く言い直した。
「もちろん、あの車を乗り捨てたのなら話は別ですけど、その目撃証言は古い情報だと思いますわ。あるいは、勘違いでしょう」
 そう言いながら、まゆみはもう声に出して考えるのはやめよう、そう思った。
「追いますか?」と、岩井はチーフに問いかけた。
「事態がはっきりするまで、ここにいよう」と、チーフは答えた。
「ここは静かだ」

    * * * * *

 一人の農夫がコンバインで穀物を刈り取っている小さな畑のそばの田舎道を、ランドクルーザーが通り過ぎた。農夫は家から離れた畑で刈り取りとしていたので、家へ通じる舗装していない長い私道の入口で車が止まったことに気づかなかった。シルバーの車体で横腹の下に黒い傷のある四年乗ったセダンのスカイラインと骨董品的な軽トラックが、家のそばの並木の蔭に止めてある。
「さあ、健太」浩介が言った。「カー・ショッピングをしよう。あの銀色のスカイラインのセダン見えるな? 坊やに、頼みたいことがある。そっとあそこへ行って、車の中を覗いて、キーがついているかどうか見てきてほしいんだ」
 健太は、シルバーの車を見てためらった。『しろ』と言われたことがいいことか悪いことか、自分のわかる範囲で判断しようとしている。じっと浩介の顔を見ながら考えていた。
「いやならやらなくってもいいよ」と、浩介。「でも、やってくれれば恩に着るよ……坊やは新しいナビゲーターみたいなもんだからな」
 それで充分だった。健太は決心してドアをあけて外へ滑り降り、私道を歩きはじめた。
「おおい、健太」と、浩介が呼んだ。「ついでにラジオがついているかどうかも見てきてくれ」
 聞こえたという合図をしてから、健太は大急ぎで道を走って行った。よれよれの下着をつけ、泥だらけの足にはひっかき傷を作り、トウモロコシ畑を這い回ったため膝が血で汚れている。
 農夫は遠くの畑の端でコンバインの向きを変えようとしていて、みずぼらしい小さな少年の姿がスカイラインのまわりを回って運転席の窓から中を覗いていることに気づかなかった。ハンドルの側のイグニッションからキーがぶら下がっているのが見えた。健太はそっと農家の方を覗い、それから遠くのコンバインの方を見た。最後にトラックも覗いて、キーがついたままなのを確めて、大急ぎで車に戻ると、運転席の窓から中を覗きこみ、やや声はひそめたものの、農夫に聞こえてもおかしくはない声で、浩介に告げた。
「ちゃんとキーもラジオもついているよ」
「よくやった」浩介は言い、自分の車からスカイラインまでの距離と、コンバインからその車までの距離を比べた。
「ガソリンスタンドで止まってくれない?」健太がせわしない声で言った。そわそわと足踏みしている。
「なんで?」浩介は少年を見つめた。
「おしっこ!」
「坊や、ここは大自然の中だぞ。小便なんて、そこらへんの溝の中へしろよ」
 浩介はそう答えると、車から降りた。
 健太がよたよたと繁みのそばへ歩いていって放尿しようとしている間に、浩介はゆっくりとスカイラインの方へ歩いて行き、途中でランドクルーザーのきーを畑の中へほうった。
 農夫は、ふと自分の家のそばで何かが起こっていることに気づき、コンバインのブレーキをかけて、しばらくそちらのほうを覗っていた。
 健太は繁みの前に立って、体勢を整えた……少し前までは今にも洩れそうだったのに、なかなか出てこない。ペニスをゆすって足を広げ、畑の方に顔を向けて、気を楽にしてやや遠くを眺めた。
 浩介はスカイラインの運転席に座り、二、三度キーを回して燃料を送り込みながらエンジンをかけた。エンジンは唸ったが、すぐに切れてしまった。
 何か異変が起こっているらしいと感づいた農夫は、慌ててコンバインから降り、駆け足で、自分の車をいじくりまわしている闖入者の方へ近づいてきた。
 やっと小便が出てきて、健太はほっと安堵のため息をついた。優しいが、やはり恐ろしい男と一緒にいて、断続的な恐怖に襲われて緊張していたため、いつもよりずっと長く、気分が悪くなるほど長い間、“おしっこ”を我慢しつづけていたのだ。ようやく勢いよく出始めると、少年は言いようもなく安心した。身体中の緊張がほぐれてくる。
 一方、浩介は何度もエンジンをかけようとしたが、か細い唸りに続いて咳き込むような音がでるだけで、始動しない。
「動け、こんちくしょう!」浩介は車に向かって腹立たしげに叫んだ。
 この土地で六十年以上も同じ農作業をしてきて真っ黒に日焼けした農夫は、息を切らしながら走った。いまは何が起こっているのか、はっきりわかった。
「こらあ、それはおれの車だ! おい!」大声で叫んだとたん、耕した土の塊につまずいて転びそうになった。
 浩介はアクセルを思いっきり踏み込んで、一気に点火した。やっと、エンジンが動き始めた。ギヤをバックに入れ、急激に加速してバックのまま道を走り、溝のそばまで来て急停車した。
 健太は思いっきり放尿している最中で、まだ終わっていない。
「早く乗れ、健太!」と、浩介は叫んだ。
 だが、少年はいかにも気持ちよさそうに放尿をつづけている。
 農夫は四十メートルほどの所まで迫ってきた。両腕を振りまわして目を怒らせ、怒った雄牛のように鼻孔を広げて、まっすぐ二人のほうへ走ってくる。
 健太は突進してくる農夫に気づいてハッとした。急いで終わらせようとしたが、小便はまだたっぷりコーラ一本分は残っているらしく、なかなか止まらない。
「健太! 乗るんだ!」浩介はどなりつけた。
 少年は通り道にしぶきをまき散らしながらパンツを引き上げ、車の方に走ってきた。そして、開いている助手席のドアから飛び乗った瞬間、浩介はアクセルをいっぱいに踏み込んだ。同時に、怒り狂った農夫が追いついて来て、閉まりかけたドアにぶらさがった。
 車は横揺れしながら次第にスピードをあげたが、農夫は自分の財産である車に命がけでしがみつき続けた。
「車を停めろ! 気でも狂ったのか!」農夫は金切り声でわめいて、健太につかみかかった。少年は全力で身をかわして、農夫の手から逃れた。
 浩介がシートの下に手を入れて、拳銃の握りをつかんだ。次に何が起こるか見てとった健太は、自分から農夫の手に飛びつき、力いっぱい相手の手に噛みついた。
「痛てて!」農夫は悲鳴をあげてドアをつかんでいた手を離して道へ落ち、ごろごろと転がって灌漑用水路の中へ転落した。
 浩介は拳銃をシートの下に戻し、「やるじゃないか」と、健太に声をかけ、農夫が溝の中であばれまわって、ようやく抜け出し、道端に座り込むのをバックミラーで確かめた。
「いったい、坊や、コーラを何本飲んだんだ?」と浩介が訊いた。
「四本」と、少年は答えて後ろを向き、農夫を……後に残してきた哀れな犠牲者を見つめ、驚嘆の目で浩介を見上げた。
 浩介は頭を振って笑った。
「これだけは間違いない。坊やは、どえらい歯をしてる」
 大人が認めてくれた。それは、少年にとって予期しない喜びだった。お百姓さんに噛みついたことを、お母さんはなんて言うだろう? いや、なんと言うかわかっている。
 ……おまえは悪魔の風にあちこち吹き流されやすい哀れな子供ね……
 いまは、あまりこのことを考えるのはやめよう……健太は後ろにもたれて、悪魔の風にもてあそばれることに決めた。

第十章 発見された最初の人質

 運転係の倉田進も今は、ほかの仲間と一緒に後ろの移動執務車(エアストリーム)の中で待機していた。車に備え付けのライターで、さきほどから何度もタバコの火をつけようとしているのだが、いっこうに火がつかない。彼は腹立たしげにライターをもとの場所へ、ぐいと突き戻した。
「このライターも壊れている」倉田は堀田に不平をこぼした。「ちゃんと修理リストに入れとけよ」ただ待つことに退屈し、怒りっぽくなっているようだ。倉田は窓から外を見つめ、声を殺して唸るように呟いた。「そろそろ出発しようぜ」
 メイン・ルームの隅でポツンと座っている新顔の田沼光一の方を向き、自分のマールボロをひょいとあげてみせた。
 田沼は首を振って身振りで答えた……『いいや、ライターは持っていない。それにタバコごときもので思いわずらう暇はないんだよ、おれには』。そのあとで、田沼はまゆみの方を振りかえって、皮肉っぽい笑いをうかべた。しかし、倉田が中指を突き立てて軽蔑の仕草を見せたのには気づいていない。
 こうした無言のやりとりを『オフィス』から見ていたチーフは、そろそろ動き出す必要性を感じた。そうしないと、部下たちが始める子供じみた(けんか)の仲裁をする羽目になりそうだ、と思った。
 突然、ヘッドホンをつけた岩井が無線機に飛びついて音量を上げ、「県道二〇号近くの笛吹市石和町の東六キロ」と耳から入ってくる情報を復唱し始めた。通信が終わると、「了解」と言って、後ろのチーフに大声で報告した。「やつら、車を盗んだそうです……石和町の農場から」
「倉田」チーフは声をかけ、ゆっくり立ち上がった。「エンジンをかけろ。出発だ」
 倉田と堀田の二人が喜びいさんで立ちあがり、(エアストリーム)から走り出て、前方の赤い牽引ピックアップによじ登った。倉田がエンジンを始動させる。またたくまにモービル・ホームは走り出し東へ向かった。
 後部の(エアストリーム)の中では、だれもが嬉しそうな顔を浮かべていた。動き出したことに、ひとまず安堵している様子だ。
 チーフは腹心の岩井のそばへ歩み寄り、相手の肩越しに彼のメモをのぞきこんだ。
「それで種類は?」と、チーフが訊いた。
「種類って何です?」岩井が訊きかえす。
「スカイラインですわ、盗まれたのは」代わりにまゆみがファイルから顔も上げずに答
 えた。
「車の持ち主が地元警察に話したところによると、その車は買物用に使ってたらしいんですが……サイドブレーキの効きが悪いそうです」と、岩井は言い、まゆみをちらりと見やった。「どうしてスカイラインだと、わかったんだい?」
「森田浩介はスカイラインが好きなんです」まゆみが淡々とした口調で答えた。
 岩井は両眉をつりあげ、何も言わずに向きを変えて大きな地図帳に顔をうずめた。
「チーフのおっしゃるとおりでした」やがて岩井が言った。
「やつは農道をはずれて県道二〇号を走ってます。どうしますか?」
 細川は、しばし地図上で作戦を練ってから応じた。
「二〇号と、さらに並行して走る中央道へつながる一宮御坂ICの道路封鎖を強化しろ」
 岩井が再びヘッドホンに耳を傾けた。なにか新しい情報が入ってきたらしい。
「なんだって?」ヘッドホンの付属マイクで訊きかえしている。やがて岩井はチーフを振り向いた。
「地元警察が『もし森田浩介を見つけたら、撃ってもいいか』と訊いてきていますが」
 細川は何も答えずに窓の外を見つめた。長い沈黙のあと、彼は答えた。
「だめだ」
 岩井は耳からヘッドホンをもぎ取り、問いかけるようにチーフを見やった。まゆみもファイルから顔を上げ、窓際にいる背の高い細川を見つめた。
「……応答せよ、一号車……応答せよ」無線の声がヘッドホンから洩れてくる。
「岩井、いないのか?」
「早く、言ったとおりに伝えろ」
 チーフは流れ去る車外の風景を見つめたまま、岩井を促した。
 岩井は乱暴にヘッドホンをつけ、マイクに向かって答えた。
「えーと……答えはノーだ」
「それは『撃つな』と言う意味か?」無線の声が確認を求める。
「そうだ、ノーだ!」岩井は繰り返した。「ああ、そうだ。そういうこった。ノーというのは『撃つな』ということと同じ意味だ。どうぞ」
 チーフはまゆみがファイル越しに、こちらを見つめているのに気づいた。まわりに視線を走らせると、ほかにも同じような目がこちらを見つめている。
「山下刑事のような低能に、鹿打ちライフルで手当たりしだいに撃たれちゃ、たまらんからな」と細川は言いながら、自分でも弁解ぎみなのがわかった。
 新顔の田沼光一が今のやりとりに口元をニヤリと歪め、謎めいた笑いを見せた。
「当然、撃てるわけありませんわ」まゆみが口を開いた。「子供も一緒なんですもの」
 そのまゆみに、細川が射るような視線を向けた……『おれをかばうんじゃない』と、その目が言っている。
「それじゃあ、小笠原さん」田沼が訊ねた。「あんたは、やつが自首してくるとでも思ってるのか? のこのこ出てきて子供を手渡してくれるとでも? おとなしく拳銃も返上してか?」
「そうなるかもしれないし、そうならないかもしれないわ」まゆみが答えた。
「そりゃまた、ずいぶんと飛躍したご推理だな」田沼が声をあげて笑った。
「もう一つ飛躍した確かな推理を話しましょうか?」と、まゆみ。「その誘拐された坊やは、以前よりも今のほうが良い状況にいるはずよ」
 チーフはまゆみに賛成したい気持ちを抑えて言った。
「変態の宮内修造に、もてあそばれて死ぬよりはな」
 まゆみはチーフをキッと睨んだ。
 田沼が立ちあがってトイレのほうへ歩き出し、「じゃあ、どうして撃ち殺さないんですか?」と、すれ違いざまに何気なく問いかけて、チーフの視線を受けながら、そばを通りすぎてトイレの前で立ち止まり、返答を待った。
 しかし、チーフは、若い田沼に何も答えなかった。
 田沼は肩をすくめ、岩井の方を向いて訊ねた。
「便所は故障してないだろうな?」
「ああ、大丈夫だ」と、岩井が答えた。「レバーを思いっきり強く押せ」
 ふたたび岩井は無線に全神経を集中させて聞き入った。そのうち突然、チーフのほうを向いて報告した。
「盗まれた運転免許証が、道路封鎖のところへ届けられてきたそうです。まだ、例の農場へ向かいますか?」
 チーフは「ああ、もちろんだ」と、答えたあと、「いやな予感がする」と呟いた。
 
 県警特別捜査チームの車が停車している道路わきは、以前に健太が母親のもとから……甲府市の自宅の台所から……連れ去られって以来、初めて、ほっと一息いれ、長々と小便をした排水溝の反対側だ。小さな男の子が膀胱(ぼうこう)に一回分の小便を貯めて我慢するには長すぎる距離だ。そして知事のRV車の慣らし運転としても長すぎたようで、道路わきでRV車はボンネットを開けて湯気を出し、シューシューと音を立てていた。
「こいつのエンジン整備は、あんたがやってんのか?」と、岩井が知事側近の遠山に訊ねた。部下の堀田がファン・ベルトを張るのを手伝っている……二人とも高温の金属で火傷(やけど)しないように気を配りながら。
「ああ、そうだ」堀田が不機嫌な口調で答え、「おれは専任の運転手だからね。この車の組み立て工場で、エンジン系統からなにから、ぜんぶ自分でチェックした……はるばる工場までいかされてな。知事は何でも、ちゃんとするのが好きで、ヘマが大嫌いなんだ」と言って頭をボンネットから引き出した。
 倉田が首を振って言った。「ひでえもんだ」
「なにがだ? どうしてだ?」と、堀田が言った。
 倉田が、ためらいがちに話しだした。
「この車……クラッチがセカンドに入りがちなんじゃないか?」
「いいや。どういうことだ?」堀田は問い返した。
「じゃあ、クラッチが滑るんで、おかしいと思わなかったか? すぐキシキシ音がしただろう?」倉田は言った。「おれの感じじゃ、だれかがクラッチペダルに体重を少々かけすぎたと思うな」
「そんなことあるものか」堀田が反論した。「おれしか運転しないし、おれは絶対そんな……しかし……まあ、少しは調整が必要だろう。なんだって新車だからな」
「おれがあんたの立場にいたら、もっとよく面倒みるけどね」倉田は深刻な声で言った。

 農場内の私道の向こうに家が見える。その家から白衣を着た男が走り出てきて、待機している救急車の方へ駆け寄った。そして勢いよく後ろのドアを開け、また家の方へ戻って階段を駆け上り、もう一人の救急士が足つきのストレッチャーを運び出すのを手伝った。そこに縛りつけられているのは、ここの農場主だ。意識はあるらしく、空をじっと見つめ、渋皮のような顔を苦痛でくちゃくちゃにゆがめている。その女房と思われる痩せた初老の女性がすすり泣きながら夫に付き添っていた。
 チーフはランドクルーザーの後ろのドアにもたれて、農場主が救急車に乗せられる姿を見つめた。農場主の女房が車に乗り込むまえに泥だらけの長靴を慎重に脱ぎ、それを救急士の男に手渡している。男は外から後ろ扉をそっと閉め、前の運転席へ回った。その途中で黄ばんだ草地のうえに、老婦人から受け取った長靴を放り投げた。そして救急車は走り去った。
 家から出てきた小笠原まゆみが、老婦人の小さな長靴を拾い上げ、チーフの方へ歩いてきた。草地では、地元の警察官や助手たちが、一メートル間隔で地面を捜しまわって、一つのものを探している……誰もが発見者になりたくないと思う一つのものを。
 岩井徹が捜査作業から抜けだしてチーフとまゆみのいるランドクルーザーに歩み寄ってきた。脱獄囚の森田が乗り捨てていった車である。
 チーフはランドクルーザーの後部ドアを上に引き上げ、座席の後ろに置いてある大きな四角いトランクを見た。なにかひどく嫌な臭いがする。トランクには頑丈な鍵が掛かっている。
「今回は死体はでませんでしたね」と、岩井が言った。
 チーフがそばに寄ってきた岩井に言った。
「うちの車からバールを持ってきてくれ」
「バールですか? どうかしましたか?」
「このトランクが気になる」と、チーフは言って、鼻を歪めた。
 岩井がバールを取りに行くと、チーフはちらりとまゆみを見やった。
「あんたは向こうの車の中で待っていたらどうかな」
 まゆみは心外な様子で答えた。「いいえ、けっこうです」

 ランドクルーザーに残されていた大きなトランクのふたがバールによってこじ開けられた瞬間、トランクの中身が……臭っていたものが何だったかが……分かった。
 チーフと岩井とまゆみの表情が変わった。まゆみは吐き気と嫌悪で顔色を変えて、(はじ)かれたように駆けだした。
 トランクの中には、ぐしゃりと折り曲げられた血だらけの遺体があった。甲府刑務所で資材配達と配給を担当していた看守助手の黒川明だ。つまり最初の人質である。殺された時の年齢は五十五歳を越えたばかりだった。家では三人の十代の男の子が父親の運命の結末の知らせを待っている。
「おや、お仲間だ」と、チーフが言った。心の奥底に悲痛を押し隠している。
「たぶん自分でトランクの中に入らされ、そのあとで撃たれたんでしょう」と、岩井が言った。
 血しぶきの跡から見て、そう考えるのが妥当だ。
 チーフは微かに唸ると、家の方へ歩き出した。まゆみが家の外の水道口のところで屈みこんでいる。繰り返しこみあげてくるものを必死でこらえていたのだ。
 チーフはまゆみの一メートルほど手前で立ち止まり、草地の向こうを見つめた。
「誘拐された坊やにとっては良い状況が確認できて、よかった」と、誰にともなく呟いた。
 まゆみはさっと身体を起し、今にも投げつけんばかりに手にした農夫の長靴の片方を振り上げた。しかし、チーフは優しい表情で、ハンカチを差し出している。まゆみは黙ってハンカチを受け取った。
「ブラックユーモアだよ、まゆみさん。これがなきゃ、おれたち全員が吐いていたところだ」と声をかけ、ゆっくりとRVのほうへ戻っていった。
 まゆみはハンカチで手を拭き、そして顔をぬぐった。無残な死体を見て感じた怒りに震えながら、ゆったりと歩いて行く男の後ろ姿を不思議そうに見つめていた。

第十一章 浩介と健太の買物

 スカイラインは二〇号線を東へ向かって走り、一宮町の十字路で左へ折れて農道へ入った。今までのところ森田浩介は幸運だった。一度も、途切れるような行き止まりの農道に入り込んではいない。
「坊やの目は大きいね。誰に似ているのかな?」
「お父さん」
「じゃあ、きみの名前は誰がつけたのかな」
「お父さん」健太は答えた。いきなり父親のことを訊ねられて、どぎまぎしている。ちょうど父親のことを考えていたところだった。家を離れてからの健太は、これまでになく父親のことを考えるようになっていた。
「お父さんとは、うまくいっているんだろう?」
「うん」と、健太。
「庭でボール投げしたり、鬼ごっこしたりするのかい?」
「そんなことしないよ」
 浩介は健太をちらりと見やった。「なんでしないのかい」
「お父さんは家にいないんだ。本当は」健太は答えた。
「そうか。すると……坊やのお父さんはいるのかい? それともいないのかね?」浩介が訊ねた。「最後にお父さんに会ったのは、いつだい?」
 健太は肩をすくめた。
 浩介は、その無言の意味を理解し、それ以上何も言わなかった。
 車は軽快に走っている。彼は思った……あの農場のじいさんは、週末の買物にだけ、こいつを使っていたんだろう……それでこんなに調子がいいんだ。
「坊やと、おれは似た者同士だな。健太」浩介はまた話しかけた。「二人とも男まえの悪
党だし、どっちもコーラが好きで、ろくでなしのお父さんしかいない」
 グサリ! 浩介の最後の言葉が健太の心に突き刺さった。ちがうよ……健太は浩介を睨みつけ、心の中で言い返した……ぼくのお父さんは、ろくでなしなんかじゃないぞ。
「きっと戻ってくるって、お母さんは言ってた」健太は言った。「ぼくが十歳くらいになったら、きっと戻ってくるって」
「それはね、坊や……」浩介は答えた。「まるっきりの嘘だ。お父さんは戻ってこないだろうね」
 健太の顔に深い失望の色が浮かんだ。
 ……早く慣れたほうがいいんだ、健太。そのほうが、おまえのためなんだぞ……
 浩介は心の中で語りかけた。
 「おれたちみたいな人間はね、健太」浩介は話し続けた。「自分ひとりで生き抜いていかなくちゃならないんだ。どんなに苦しい運命でも。それを最後まで生き抜いていかなければならないんだ」

 車は早いスピードで走り続けた……まさに、その苦しい運命を生き抜こうとするかのように。本能の告げるままに浩介は、勝沼までいけば、中央高速道に乗れる。まさか、あれだけの交通量の多い広い道路を封鎖して、検問するようなことはしないだろう、と思った。
 途中で、土埃の立つ間道に入り、ポンプ一つきりのガソリンスタンドへ入った。まわりには一台も車は見当たらない。風景は止まったままだ。
 浩介は車をポンプ近くへ寄せた。すると突然、陽炎(かげろう)の中から現われたように、つなぎを着た十五歳くらいの少年が、健太の座る窓側に姿を見せて、車の中をのぞきこんでいる。その少年の見事なほどの出っ歯に、健太も浩介も目を奪われた。
「いらっしゃい」少年が言った。
 歯の歪みが、いくぶん話し方にも影響している。しかし人柄には影響していないとみえ、少年は健太が見たこともないような人懐っこい笑顔を浮かべた。
「自分の名前を言ってごらん」浩介は健太の腕をひじで突いた。
「健太っていうんだ」少年に向かって言った。
「満タンですね」少年は、そう答えると、さっそく向きを変えて給油しはじめた。
「ほらね」浩介が言った。「これからも先に自分の名前を言ってごらん。なにもかもやってもらえるよ。王様になったみたいにね」
 健太は思わず笑顔をうかべ、浩介と一緒に車の横を通り、建物の裏へまわって、ちゃんとしたトイレで用を足した。先にトイレから出てきた健太は立ち止り、ガソリンスタンドの少年を見つめた。少年は、走行中に張り付いたフロントガラスの虫を拭き取っている。
「それだけ出っ歯だったら、鍵穴の向こうからでも、リンゴが食べられるね」健太は少年に言った。「これは、お父さんがよく使う冗談さ。今は旅行に行ってて家にいないんだけどね」
 少年は健太を見た。『信じられない』という表情を浮かべている。やがて、少年は顔をゆがめて給油ノズルを乱暴に元に戻し、足早に歩き去った。「くそがき!」そう言い捨てる少年の声が健太の耳に聞こえた。
 トイレから出てきた浩介にも、少年の言葉が聞こえた。
「あいつ、坊やに何かしたのか?」健太に訊ねた。
 健太は会話の一部始終を話した。
 浩介は給油ノズルを取り上げ、ふたたびガソリンをいれた。
「むかし、おれの知り合いで、悪い事ばかりしっている男がいてね……つまり、まあ、おれみたいなやつだな」浩介が給油しながら話しはじめた。「あんまり悪いことばかりするもんだから、試しに、その男の耳をピンで留める(こらしめる、という意味)ことになったんだ。悪いことするのは、耳が突き出ているからだって言うわけでね」と言ってガソリンを入れつづけた。「でも、あの子は、悪い人間じゃない」
 健太は浩介の話を聞きながら、建物の向こうにいる出っ歯の少年を見つめた。腹立ちまぎれに走り去った少年は、足を高々と上げて空を蹴りあげている……まるで、そこにサッカー・ボールがあるかのように。
「じゃあ、健太」浩介が言った。札束の中から数枚の紙幣を引き抜き、差しだしている。
「これを、あの子に払っておいで」
 健太は、なんと言おうかと迷いながら、年上の少年に近づいていった。急に自分が汚れた下着を着ていることに気づいて、恥ずかしくなった。少年にお金を差しだして言った。
「ぼくのお父さんは旅行中じゃない。家出をして、いなくなったんだ。でも、さっきのような悪口を言ったなら、きっと、ぼくは、お父さんにぶたれたと思う」
 少年は健太からお金を受け取った。目を真っ赤にしている。
「いいよ。もう気にしなくて」少年は言った。「じゃあ、一緒にいる男にひとは誰なんだい? おじさんかい?」
「ううん、ちがう。ぼくを連れてきたひと」健太は答えた。「お母さんのところから」
「養子になるってこと?」少年は訊ねた。
「ううん、ちがう。そうじゃなくて……ぼく、なって言ったらいいのかわからない」
「じゃあな。気をつけてね」
 そう言って、出っ歯の少年は健太と一緒に車の方へ歩き出した。そして手を振り、建物の中に入って行った。
 健太も車に乗った。スカイラインは元の道にもどり、また東へ向かった。
 健太は無言で何かを考え込んでいる。やがてしばらくすると、健太は浩介の方を向いて訊ねた。
「さっきの突き出た耳の男の人のことだけど……どうなったの? そのあとで」
「ああ、あの話ね……」浩介は言いよどんだ。健太から訊かれないことを願っていたのだ。「その男の人は、ある女の人にデートを申し込んだんだ。ずっと前から好きだったんだが、勇気がなくていいだせなかったんだがな。そしたら、女の人は『いいわよ』って、オーケイしたんだ。男の人は大喜びしたんだが、デートのためのお金と新しい服がいるもんだから店へ泥棒に入って……」浩介は肩をすくめた。「それでまた刑務所へ逆戻りしちゃった」
 健太は浩介の話す複雑な世界について、また考えこんだ。車が急に吹きだした突風の中に入り込んだが、まもなく走り抜けた。

 一和町の商店街の雑貨と衣料品を扱っている店(ラ・パーク)に、二人の客がやってきた。二人の乗ったスカイラインは店の横の側道に入って停車する。
「さてと。そのパンツとシャツを脱いで半ズボンに着替えるとしょうか?」と、浩介が言った。健太がうなずく。
「ようし、それじゃあ、行こう……あ、その前に通称を考えなくちゃいけないな。通称っていうのは偽の名前のことだよ。わかるね? ほかの人の前では、お互いに偽の名前で呼び合うことにしょう」
 浩介はエンジンを切り、深々と座り直して、ゆっくり身構えた。
 健太はわけがわからないながらも、この偽名で呼び合うことが気に入ったらしい。
「さあ、考えよう」浩介が言った。「なんでもいいから、好きな名前を言ってごらん」 
「どんな名前でもいいの?」

 浩介と健太が店へ入った。そのとき、伊藤由紀は……三十歳の教師のような女店員……手にいっぱいの靴の箱を棚に戻していた。そして、二人の新しい客が入ってきたことに気づいた。
「いらっしゃいませ」由紀はにっこり笑った。
 浩介は、この小うるさそうな女性を見たとたん、胸のうちで呟いた……おれのタイプじゃない。由紀は健太に興味を覚えたようだ。健太は恥ずかしそうに縮こまって浩介の後ろに隠れた。
「こちらの坊やにはズボンが、お入り用ですわね」そう言って、由紀は屈んで健太の顔をのぞきこんだ。
「じつを言うと」浩介が言った。「靴と下着もいるんだ。サイズはこの子に訊いてください。さあ、このお姉さんと一緒に選んでおいて、和也」彼は健太を和也という名で呼んだ。
 相変わらずキョロキョロ見回す健太の目が、なにかを捕らえた。棚のついた円形の服掛けだ。ハロウィーンの衣裳が掛けてある。その上には、こう書かれていた。『お買い得品……来年はこれで決まり!』
 その服掛けから飛び出してぶらさがっているのは……(仲良しお化けの)キャスパーの衣裳だ。それに目を奪われた健太の耳には由紀の言葉が耳にはいらなかった。
 一方、浩介は巻いてある電気工事用の粘着テープの端を引きちぎり、試に手の甲に貼って、また引きはがしてみた。ぴったりと、くっついて剥がれない。

 由紀は和也(健太)に似合うスニーカーのサイズを捜していたが、一足選んで、その箱を引っ張りだして振りかえった。和也(健太)がいない。彼女は後ろを振り向き、そして微笑んだ。キャスパーの覆面(マスク)をした和也が立っている。
「あら、まあ」と、由紀。「(仲良しお化け)ね。『わっ!』と言ってみてちょうだい」
「わっ」和也(健太)が自信なげに言った。
「それじゃあ、あんまり怖くないわね。和也さん」由紀は、また微笑した。「でも、パパにお願いして買ってもらえば、来年まで練習できるわ。それに、お買い得品よ。今年のハロウィーンには何になったの?」
「強盗」和也(健太)は、床まである大鏡に映る自分の姿にうっとりして答えた。

 地元警察のパトカーが町の通りをゆっくり走っている。運転する加藤巡査は、側道に止められたスカイラインに気づき……見かけない車だ……パトカーを止めた。
 二人しかいない交番のナンバー・ツーである加藤は、警察官になってまだ一か月も経っていない。それでも二十一歳をとうに越しているわけは、山梨学院大学の入学試験を果敢に何度も受けなおし、とうとう去年に諦めたという事情からくる。加藤は目を細め、車の後部ナンバープレートの番号を呟きながら、ダッシュボードのノートの番号と照らし合わせた。
「わあ、クソッ……」加藤は思わず悪態をついた。まぎれもなく手配中の車だ。この発見に……警察官として、またとない機会に……彼の心は複雑に揺れた。
 浩介は両手いっぱいに品物を抱えてレジへ向かった。もうひとりの店員の洋子がにっこりと笑顔を見せた。浩介は途中で網棚からサングラスを取り、掛けてみた。
「どう? 似合うかな?」
「よくお似合いですわ」洋子が答えた。
 浩介は両手の品物の山にサングラスを加えて、その女店員に手渡した。
「もうほかにお買い忘れはございませんか?」そう言って、洋子はふたたび微笑した。
 浩介はうなずき返した。「あんたらほどニコニコよく笑う店員は見たことがない」
 洋子は思わず大きく笑い声をあげた。そして後ろを振りかえって店主が見ていないかどうかを確めてから、ささやいた。「うちの店主が毎月、コンテストをするのよ。それで、一番愛想のいい店員は二万円のボーナスがもらえるの」そして入口のドアに視線を向けた。「ほら、表に投票箱があるでしょう?」
 浩介も笑いながらうなずいた。
 ガラス窓の向こうの事務所では、店主の篠原敬三が、テレビのチャンネルを変えると、ちょうどローカルニュースが始まったところだった。ニュースキャスターが喋っている。
「……ひきつづき、森田浩介の捜索が行われています……昨夜、甲府刑務所から逃走した森田浩介は、身長百八十センチ、体重七十八キロ、髪は短く、中肉の体形、武器を所持していると思われ、(バックに森田の顔写真が映っている)。厳重な警戒が必要です。最後に姿が目撃されたのは……」
 女店員の洋子がカウンターで浩介が購入した品物の金額をレジスターに打ち込んでいるところへ、由紀と和也(健太)が通路から姿を現し、カウンターにジーンズとスニーカー、そして下着とTシャツを置いた。
「着るものは、これくらいでよろしいかと思いますが……」由紀は浩介に向かって言った。「和也さんは来年のハローウィーンのための衣裳が、どうしても欲しいようですわ。いかがでしょう、半額になっておりますし……」そう言って誘いかけるような笑みを浮かべた。
 しかし、浩介は上の空でしか聞いていなかった。意識は上方のガラス窓に向けられ、顔は仮面のように無表情だ。そのガラス窓の向こうからは、店主の緊張して見開いた目が浩介のほうに向けられている……キャスターの声に耳を傾けながら。
「……森田は八歳の男の子を人質として連れており……」
 浩介は店主の目を見据え、健太の方を見ずに話しかけた。「それは、また今度にしよう。車に戻りなさい、和也(健太)」
 店主は今にも呼吸が止まらんばかりに気を動転させた。
 
 表の通りでは、加藤巡査が賢明にも店の前からパトカーを充分に引き離し、交差点をふさぐ形で停車した。
「こっちはオーケーだ」加藤は無線で報告した。
「こっちも準備完了」
「了解」無線を通して声が返ってくる。通りの反対側では、もう一台のパトカーば道路を封鎖していた。運転をしている松本巡査は「県警の連中がくるまで、奴を足止めしとこうぜ」と明るく答えた。それにもかかわらずタバコに火をつける手が微かに震えている。これが平和に終わる事件ではないことは、長年、警官を勤めている彼にはわかっていた。

 勝沼町菱山の十字路で待機しているRVの中で、無線の連絡を受け取った岩井が、“やった!”というようにテーブルをこぶしでバシンと叩いた。
「笛吹市一宮町で、やつを足止めにしたそうです」大声で後ろのチーフに報告する。
 そしてチーフがうなずき返すと同時に、RVはエンジン音を響かせて動き出し、最大速度で南へ走りだした。
 (ラ・パーク)では、洋子が浩介の買った品物を袋に詰めていた。頭ごしに繰り広げられている無言のやりとりには、まったく気づいていない。店主は、まるで浩介の顔のすべての輪郭を記憶しようとするかのように、目をむいて浩介を見つめた。浩介もにらみ返し、ゆっくりと首を振って無言の警告を発した……『ばかなことは考えるなよ』。
 健太は言われたとおりに入り口に向かって歩き出したが、ハロウィーンの衣裳の陳列のまえで、足をゆるめた。立ち止まって、キャスパーの衣裳一式を人差し指で撫でている。そして、その陳列の向こうへ回って、ほかの衣裳をうっとりと眺めた。
 浩介は洋子からお釣りを受け取ると、そのうちの二千円を洋子のブラウスの胸元へ押し込んだ。
「あんたが、いちばん愛想がいいぜ」
 その浩介の言葉に、洋子が温かいお礼の笑顔を返した時には、もう彼はドアの方へ歩き去っていた。
 ドアから見えなくなりかけた浩介の背中に、洋子は慌てて声をかけた。
「(ラ・パーク)をご利用くださいまして、ありがとうございました!」

 浩介は店から二歩も踏み出さないうちに、パトカーが二台、一ブロック向こうに止まっているのに気づいた。それぞれのパトカーの中にはまだ若い警官が乗っており、身をかがめて店の方へ目を凝らしている。浩介はぞろぞろ歩く老人たちのグループに紛れ込み、一緒になってのんびりしたペースで通りを歩いて行った。
 健太はまだ店内でハロウィーン陳列棚のそばをうろつき、どうしてもそこから離れられないでいた。ふと顔を上げると浩介がいない。健太は誰かに見られていないかあたりを見まわして確め、少しのあいだためらい、それからキャスパーの衣裳の箱をつかんでTシャツの下へ押し込んだ。そのまま素早く店の出口へ向かう。ドアを押して通りへ出る健太の顔は赤く火照っていた。健太は初めて本物の犯罪行為を実行して、興奮すると同時に怯えていた。気が咎める様子で前後を振りかえっている。
 浩介はパトカーが停止したままであることを確認し、老人たちの列からそっと抜け出して路地へ入った。そしてスカイラインに乗り込み、後部座席をのぞいて健太の姿を捜した。少年がいない。健太がいない。浩介はハンドルに手を叩きつけ、車をスタートさせた。バックミラーに二人の警官のうち年かさのほうの松本の姿が映っている。彼の車の後を追ってパトカーを路地に乗り入れてくる。赤い回転灯がぐるぐる回りだした。
 浩介の車は通りへ出る道をふさがれてしまった。それで彼は論理的な行動をとることにした。車のギアをバックに入れ、アクセルを力いっぱい踏み込む。
 松本巡査はこの思いもよらな急発進に不意をつかれて動転し、パトカーのギアをバックに入れた。スカイライン後部はパトカーのフロント・バンパーに激突し、そのままかなりの速度で相手を街灯にぶち当て、集配トラックに押しつけた。その集配トラックの持主は飼料店から二十キロ以上もある腐葉土の袋を抱えて出てきたところで、自分のトラックがパトカーにずるずると押されて自分の方へ向かってくるのを目撃して悲鳴をあげた。
「ちくしょう、おおい、やめろよ!」
 男は叫びながら手に抱えていた袋を取り落した。右に左に傾きながら乱暴に突進してくる二台の自動車から逃れようと、男は踵を返すと慌てて後ろへ走った。
 健太が店の入り口から出てくると、大きな金属のかたまりが路地から飛び出してきた。スカイラインはいったん止まってからギアを前進に入れ土埃の舞い上がる路地の中へ一直線に戻ってきた。
 とても常人とは思えない運転で、浩介はスリップしながら角を力まかせに曲がり、裏道へ入って、そこに乗り上げた。すぐブレーキを踏み、車は軋りながら止まった。用済みの(たる)やうず高く積まれた箱の山、廃棄タイヤ、子供の遊び道具、壊れたぶらんこ……路地は行き止まりだった。
 浩介は車をバックさせ、店の横にある小道まで後退し、車輪を軋らせながら止まった。

 健太は店の前で立ち往生していた。どうしたらいいかわからない。逃げたほうがいいのかな? でも、どっちへ? いま手のひらに穴があきそうなほどヒリヒリしているこの包は置いていったほうがいいんだろうか?
最初(はな)から何か変だと思ってたのよ」洋子が甲高い声で言った。洋子も由紀も安全なガラスのドアの中から大騒動の成り行きを見守っている。
「ねえ」由紀が言った。「あの人、息子を置いてっちゃったわよ」
「まあ、ちょっと!」洋子が言った。「あのチビ公ったら……そのへんの町のゴロツキと変わらないわね」
「なんで?」と、由紀が訊いた。
「あのキャスパーの衣裳をタダでもってっちゃったのよ」洋子が憤慨して言った。
「万引きだわ」
 突然、スカイラインが横道からあらわれ、キキーッと音をたてて、大通へ入っていった。車は大きく横滑りターンし、道路の向こう側の文具店前のパーキング・メーターを押し倒し、それから車体を真っ直ぐに立て直してスピードを落とさずに大きな車止めに衝突した。
 初老の紳士が大声を出して、たまたま美容室の前に居合わせた町の人たち六、七人をまとめ、急いで店の中へ避難させた。これを見て、通りのあちこちから他に十人ほどの人々が続いて美容室の狭い店舗へ入ってきた。店内は人々でぎゅうぎゅう詰めになり客用椅子の上に並べて貼ってある夢のヘアスタイルの写真だけしか見えなくなった。
 加藤巡査はパトカーの中にしゃがみこみ、自分の方へせまってくる光景に目を疑った。慌てて車のギヤをバックに入れ、時速約五十キロの速度で通りを逆進した。
 松本巡査が無線で加藤に必死で呼びかけてきた。「そこから出ろ! パトカーを二台もつぶすわけにはいかん!」
 加藤巡査は後ろ向きに車を疾走させ、奇跡的に他車をよけたが、穀物サイロの列をなぎ倒した。だが、浩介の車も追いついて来て、つい鼻の先まで迫ってきた。加藤は振り向いて浩介のしかめ面と向かい合い、その車に()かれる覚悟を決めた。そのまま加藤のパトカーは穀物小屋に激突した。
 浩介はハンドルを切ってブレーキを踏み、車を土埃の立つ道をUターンをしてこれまで来た方向へスピードをあげて戻った。
 健太は(ラ・パーク)の前でおびえながら、タールに漬かった虫のように立ち往生していた。どこへも行かず、かといってこの空恐ろしい騒動を最後まで見届ける勇気もない。とうとう泣き出してしまいそうになったとき、急に背後からいくつかの目に見られていることに気づいた。
 洋子がガラスを叩き、「和也(健太)! このチビすけ。万引きは犯罪なのよ!」と人差し指を健太に向けて振った。女なら、いくつになってもやらずにはいられない動作だ。
 浩介は少年を見つけて、ミラーで位置を確め、まっすぐ店の正面ドアめざした。車は滑りながら急停止し、浩介が声をかけた。
「来るなら来い。和也……」
 少年は店の方を振りかえった。洋子が人差し指を突きつけている。由紀はなにかを期待してボーとなっていた。少年は足をぐらぐらさせ、歯をがたがた震わせてその場に凍りついた。
「逃げ切れやしないわよ。そこのチビ!」洋子が叫んだ。
 健太は洋子の咎める声から逃れて車へ向かって突っ走り、開いていた助手席の窓から車内へダイビングして乗り込んだ。
 浩介はその場から脱出する前に、シートの下から拳銃を引っ張り出し、ガラス戸のちょうど女たちの頭上めがけて一発撃ちこんだ。ドアとそのまわりの窓がこなごなに砕け散り、洋子と由紀、それに化粧品や他の商品が床に山崩れのように散乱した。
 スカイラインは通りをレーシング・カーのように驀進した。松本巡査はパトカーから出ようとしていたが、浩介が置き土産に、そのパトカーの側面を激しい勢いでこすりながら走り去ったので、思わず車の床に身を伏せた。
 パトカーの無線がわめいている。「松本さん?……松本巡査?……大丈夫ですか?」
 通りの向こう側から、加藤巡査が自分のパトカーの床に身を伏せたままで年上の同僚に無線で呼びかけているのだ。
 まるまる二分間、大通では何の動きもなかった。やがて土埃がおさまると、町の人たちはこれで嵐が去ってしまったことを願った。一人、また一人、ぱらぱらと美容室から出てきて、静まり返った通りを用心深く左右を見ながら歩きはじめた。

 浩介は車を道路から三十メートルと離れていない古い物置小屋の裏に停めた。後部座席に手を伸ばして衣類の入ったカバンを取って、「さあ」と健太に声をかけた。
「その汚れた下着を脱いでジーンズを着てくれ」と言った。
 健太は車のドアの陰でシャツの下からキャスパーの衣裳箱をそっと取りだそうと苦心していた。
 浩介は少年の動きに目を留め、「何を持ってるんだい?」と訊いた。
「お化けの服」健太は答えた。自分の犯した窃盗罪に屈辱を感じ始めている。膝の上で箱を開けて服を引っ張り出した。
「あの店から?」浩介が訊いた。「くすねてきちゃったのかい?」
 健太はうなずいた。最悪の事態を予想して怯えている。
「そうか、じゃあ、健太……着てみてごらん」と浩介が言った。
「怒らないの?」
「ま、お互いに理解しあおうよ」浩介は箱を手に取って表を上にし、「人の者を盗むのは悪いことだ。わかるね? でもね。どうしても要るものがあって金がなかったら、しばらくは拝借するのは、まあ許されることだと思うよ」と言って健太に箱を返した。
 健太はちらっと浩介を見てから箱を破ってあけ、衣装を取りだして広げ、押し頂くようにして見つめた。やがて着ていたTシャツをもがきながら脱ぎ、ブリーフも取ろうとして、ふとためらった。動作が途中で凍りついている。
 浩介がそれに気づいた。「どうしたんだい?」
「別に」
 彼は健太が股のうえを両手で覆っているのを見た。
「なんだい? おれの前で脱ぎたくないんだね」
 健太は首をすくめた。
「おれにペニスを見られるのを心配してるんだろう?」と、浩介。
「だって……小さいから」健太はかぼそい声を出した。
「いま、なんて言った?」と、浩介。
「ちっちゃいんだ」
「うーん、そうか。じゃあ、ちょっと見てあげようか?」
 深刻なことでも、大したことでもないのに……浩介は首をかしげた。
 健太は、まだためらっている。
「さあ、本当のことを言ってあげるから」
 健太は勇気を奮って下着をおろした。浩介は顔をほころばせた。
「おやまあ、健太。おまえの年頃にしちゃ立派なもんだぞ」
 健太は浩介を見た。自分ではそれと気づいていなかった心の重荷が奇跡のように消えた。少年はニッコリ笑って男らしさを取り戻し、キャスパーの衣装に着替え始めた。
 身をよじって衣装をきこんでいた。浩介は外に目を配りながら、ゆったりとシートにもたれかかった。この場所で一日つぶしてもいいな……そんな雰囲気だった。
 健太はキャスパーの服に両腕を通し、わくわくして前のじッパー引っ張り上げた。
「かっこういいじゃないか、健太……」浩介は急に口をつぐんで身を起こして耳を澄ませた。「やつらが来る」
 サイレンの響きが聞こえた。パトカーが来る。四台のハイウェイ・パトロールが、西のほうからサイレンを派手に鳴らしながら走ってくる。
 浩介と健太は、古い物置小屋の裏のくぼ地に隠れた。何十年もかけて風と雨が地面にうがってできた小さなくぼ地だ。スカイラインは道路から見えない位置に置いてある。
 パトカーがそのまま通り過ぎてしまうと、浩介はすぐに車のエンジンをスタートさせ、すばやく道路に乗り入れて反対方向へ走りだした。

第十二章 森田浩介の生い立ち

 小笠原まゆみはファイルにあった森田浩介の写真を見つめた。じっと長く見つめていれば、浩介の心理とこれからの行動の秘密がつかめそうな気がする。ファイルに二ページ目を開いた。彼の少年時代の写真だ、十四歳の時の浩介だ。ちょっと突っ張った感じのハンサムな少年である。
 まゆみは浩介の若年犯罪のリストと、それぞれの処分の跡をたどった。少年の頃に一人の男を撃った大きな事件を除いて、浩介の初めの頃の法律違反は大したものではない。地元警察署は、その射撃を事故だったと処理している。万引き、こそ泥、軽窃盗罪、未成年飲酒、保護観察、ふたたび保護観察、少年院入り三ヵ月、そして告訴取り下げ、すべてありふれた記録だ。神奈川県のゴルフ倶楽部近辺で一九四二年五月十二日(浩介が十七歳のとき)に逮捕されるまでは……。いわゆる『車両横領』、つまり盗難車の乗り回しと言ったほうが判りやすい。逮捕後の判決は神奈川県の久里浜特別少年院入り二年。
 二年ですって? まゆみは丹念に彼の前科記録を呼んだ。そこに書いてあることより、書かれていないことのほうが往々にして重要だった。この記録には何かが抜け落ちている。一九四二年に森田浩介は大きく転落した。犯罪行為が一段とひどくなったというのではなく、刑期の面でだ。なぜ? 記録は語っていない。

 無線が大きな音をたて、岩井は頭をうつむけてメモを書きなぐった。それから大声でチーフに告げた。「森田は電気工事用テープと縄と子供服を買っています」
 チーフは窓の外へ目をやりながら、地図に見入る岩井の背後に近寄った。
 まゆみはほくそえんだ。思ったとおりだ。森田浩介は子供の面倒を見ていた。あのトウモロコシ畑で少なくとも少年を人質にした脱獄囚の一人は死んでしまった。だれも表立って認めようとはしないが、彼女の指摘が正しかったことを裏付けている。
「でも、まだ一つ、解けない謎がある」岩井が言った。「なぜか子供は逃げ出す隙があったのに逃げなかったんだそうだ」
「きっと死ぬほど怖かったんだわ」まゆみが言った。「あの子の目から見たら、森田は大人なのよ。彼がちゃんと世話をしてくれる限り、あの年頃の子供は、たちまち大人の影響を受けてしまうわ」
「そのほかにも、あんたの知らない事情があるんだよ」岩井徹は話をつづけた。
「子供がハローウィンの衣装を盗んでいる」
「なんてこった」チーフが言った。「あの二人は仲間になりやがった」
 岩井は地図を見た。一宮町で途中下車してから、勝沼方面へ向かっている様子です。恐らく勝沼インターから中央道に入り横浜方面に向かうはずです」
 チーフはため息をついて唸った。

「どうして横浜なんですか?」まゆみがチーフに問いかけた。
「横浜は森田が育ったとこだよ。昔の横浜を知っているのはチーフだけですよ」
 岩井がちらっとチーフを見やりながら言った。
「チーフと神田警部は、横浜県警で何年か勤務していたんだ。伊勢佐木警察署でしたよね、チーフ?」
 細川宗一郎は答えず、無言で地図を見つめ続けた。
 まゆみはさっき読んだ記録に何か関連することが載っていたことを思い出した。ファイルを開けると、すぐにそれは見つかった。一九五〇年に森田浩介は横浜で逮捕されていた。逮捕したのは神田刑事。当時、伊勢佐木署にいた細川のパートナーだった警官である……罪名は自動車窃盗……
 いまが最高のタイミングだ。まゆみは上智大学の総合人間科学部心理学科である手法を学んでいた。あるいはみんなの気持ちを引きこむことができるかもしれない。
 ……笑いものになるだけかもしれないけど……それが何なのよ……
「いいか……おれは森田浩介だ」まゆみは突然、男言葉で話し始めた。ゲームの始まりだ。「おれは横浜の伊勢佐木町で育った……」
 全員が驚いたようにまゆみに顔を向けた
 ……まゆみは全員を何かに引きずり込もうとしている。しかし、何に引きこもうとしているのか?
「この女性(ひと)は何をやらかそうというんですか、チーフ」岩井がそっと訊いた。
 チーフは無言でまゆみを見つめている。
 まゆみが言葉を続けた。「おれは八つのときに人を殺した。その理由を知りたいか?」
 しんとした沈黙があたりを領している。誰も自分からこのゲームに付き合おうとはしなかった。
 チーフが窓から振りかえり、まゆみを質問する役を買って出た。
「ああ、なぜだ?」チーフが質問した。「どうして奴を殺したんだ?」
「あいつが何度もお袋をぼろぼろになるまで殴りつけたからだ」
 岩井はチーフが話のきっかけをつくったからには、積極的にかかってもいいのだなと判断した。
「どうやって殺したんだ?」今度は岩井が訊いた。
「銃で撃った」まゆみは答えた。「古い小さな三二口径だ。ダンスホールの部屋ごとに一丁ずつ置いてあった……ダンス・ホールと称してはいたが、つまりは売春宿だった。営業用の部屋全部に、娼婦の自衛のために三二口径が隠してあった。そういうところで、おれは暮らしていた。銃の隠し場所は全部知っていた。そんなガキだったんだ。何にでも頭を突っ込んだ」
 チーフはひとりこの話の輪から離れ、移動執務車(モービル・ホーム)の横窓のまえに陣取って、外の景色を眺めていた。
「八歳の子供が売春宿で何をして暮らしてたんだ?」岩井が訊いた。
「いい質問だな」まゆみは答えた。「でも、それはお袋に訊いてくれ」
「一九四〇年代の話だな? 大不況の時代だ。みんな金のためなら何でもした。どこでだって同じような暮らしをしてただろう。お袋さんは屋根の下にいられただけでもラッキーだったと思うな。それで警察は何の処分もしなかったのか……その殺しを?」
「おれが撃った男は紳士じゃなかった」まゆみは答えた。「地元警察からあれやこれやで追われている男だったんだ。イタチみたいな卑劣な男だった。殺されて当然の男だと宿のおかみが警察に証言してくれた。だから警察も手間がはぶけたというわけで、一件は不問に付された」
「ひどい話だな」岩井が言った。「浩介を里子かなんかに出してやらなかったのか?」
「たしかに、おれは学校にいれられた。それまで学校の勉強したことなんかない。八歳で、一日も学校へ行ったことがなかったんだ。でもおれは字が読めた。自分で覚えたんだ。三文小説を読んでな。売春宿の女たちに付きまとうおれを追っ払うには読み方を教えるのが一番手っ取り早かったってわけだ。とにかくおれは学校へ上がり、みんなから三年遅れだったが、なんとか追いついた」
「じゃあ、今はうまくいってるはずじゃないか」岩井は、無線を監視しながら書いていた落書きから顔を上げて言った。
「あるいはな」まゆみは応じた。「しばらくは、まともだった。でも、おれは学校で優等生だったわけじゃない……今でも三文小説しか読まない。お袋はそのころ実際にかなりの金を稼いでいた。横浜の下町に小さな家を買った。いい靴や服も買ってくれた。その頃のおれは夢みていた。大きくなったらビルをいくつか手に入れて、年老いたお袋の面倒を診てやるんだと……しかし、おれが十二歳のとき、お袋は死んだ」
「どうしたんだ?」と、岩井。「売春宿で殺されたのか?」
「ああ、だが、あんたの考えているような死に方じゃない」まゆみは言った。「森田須磨子は売春宿の浴室で首を吊った。それしか苦しみから逃れる道はなかった。検屍の結果、梅毒の末期だとわかった」
「たった十二歳の子にとっては、なまやさしい出来事ではなかったろうな」新顔の田沼が口をはさんだ。苦しみの多かった自分の十代の頃を思い出したのだ。
「おれはがっくりしちまった」と、まゆみ。「でも決して他人に、自分の心の傷跡をさらしはしなかった。学校を辞め、売春宿で働いた。稼いだ金で娼婦を買った。何人かがガキのおれにもやらせてくれた。ませたガキだったんだな」
「親父はどこにいたんだ?」岩井が訊いた。
「誰も居場所なんか知らない。つまり、いまどこにいるかってことはだ」と、まゆみ。
「おれが六歳のとき、親父はお袋を捨てた。当時おれたちは横浜の郊外に住んでいた。建設現場で働いていないときの親父はケチな悪党だった。やがて、神奈川県愛甲郡の宮ケ瀬ダムの建設現場で仕事についた。そして帰って来なかった」
「それから……」チーフが口をはさんだ。みんなに背を向けたままで車窓を眺めている。だがその頭の角度から、ずっとチーフが話を聞いていたことは見てとれた。
「お袋が死んだ後で一度だけ親父が、ふらっと現われた」まゆみは話し続けた。「その時の親父は横浜刑務所から仮釈放されたところだった。いわゆる『暴行罪』……『暴力や脅しで罪を加重された窃盗罪』ってやつだな」
「というか、強盗だ」と、チーフが訂正した。
「その通りだ」まゆみは応じた。「おれは親父と二人で横浜市内にアパートを借りた。でも、一年後には、おれはまた、トラブルにはまり込んでいた」
「どんなトラブルだ?」岩井が訊いた。
「おれがすっかり気にいっちまったスカイラインのクーペを盗んで乗り回したんだ」と、まゆみが答えた。
「なんだ。そんなものはトラブルのうちに入らない」田沼が素っ気なく言った。
「おれも、そう思ってたさ」まゆみは言った。「判事はおれを横須賀にある久里浜少年院へ入れた。そこで番長格の年上の少年に市民の敵になるための基礎技術を習ったんだ」
「じゃあ、そこで犯罪者になる修行を積んだわけだ」と岩井が眉をしかめながら言った。
「あなたも、お見通しだったんですね、チーフ?」
 細川は答えなかった。一人で、どこか遠くを見つめている。
 まゆみはじっと彼を見守った。
「じゃあ、浩介……」若い田沼光一が質問した。「これから、どこへいくのか教えてくれよ。おれたちの捜しまわる手間が省けるからよ」
「そう簡単に森田は、わたしたちに目的地を教えるつもりはないわ」まゆみは答えた。
「『なぜ森田浩介は、そこを目指すのか?』という疑問に答えたほうがいいでしょうね。そうすれば、行先もわかるわ」
「チェッ!」と、田沼は吐き捨てた。このゲームには、もううんざりしたという表情だ。
「そりゃ、逃げるおれを警察が追っ駆けてくるが、おれは北へでも、南へでも、どこでも行けるんだぜ……なかなか面白いゲームだったが、お嬢さん。いま、いったい自分がどこを目指しているのか、奴自身にもわかっちゃいないんじゃないのか?」
 みんなが若い田沼に目を向けた。確かに彼は自分の立場を主張する方法を心得ている。それが全員を苛立たせた。田沼の言うとおりかもしれないし、違っているかもしれない。どちらにせよ、ゲームはもうおしまいだ。みんなは、ふたたび、それぞれの思いにふけりはじめた。
 田沼光一は間違っている……そう、まゆみにはわかっていた。森田浩介は当てもなく車を走らせているのではなく、確実に、どこかへ向かっている。刑務所生活に鬱屈して脱獄した囚人なら、必ず強い動機を持っているはずだ。自分の行動が束縛される辛さを森田は骨身にしみて知っている。まっすぐ一番欲しいもののところへ行くのが当然だ。人生で一番大切だと考えているもの……刑務所の中で切望してやまなかったものを目指すだろう。
 彼が欲しかったものは何か? 自由だろうか? 女か? セックスか? 暖かさか? あるいは復讐かもしれない。過去に森田が心の底から殺してやりたいと思った誰かに対する復讐か? もし事実やファイルの行間に隠された秘密から、彼の切望するものを見つけ出すことができたら、この捜索隊はそこへ急行できるし、少なくとも奴の行く手から危ない人間たちを救うことができるかもしれない……そう、まゆみは思っていた。

第十三章 まゆみのパフォーマンス

 スカイラインに乗って浩介の道連れをつとめるのはナビゲーターの健太(キャスパー)だ。お面をかぶり、ジッパーを首まであげ、手には地図を持っている。
 そのとき、キャスパーのお面の目の穴から、健太は自分達のほうへ向かって走ってくる奇抜な代物を発見し、「ほら見て!」と、声を上げた。大きくて不格好なものがゆらゆら揺れている。キラキラ輝くガラスと金属製の胴体が一ダースもの車輪の上に載って滑るように走っている。

 牽引トラックの中では倉田進が、運転の最中にフロントガラスのワイパーを直していた。ワイヤーがからまったか電気系統の故障で動きが鈍くなったのだ。調子っぱずれのわいぱーの先が音を立てて動いている。調子よく正確に動いていないだけでなく、ときどき視界からすっかり消え、ぐるっと回転してフロントガラスの下のボンネットをこすり、反対側からまた出てきたりする。
 倉田がワイパーのふざけた動きに声を上げて笑ったので、居眠りしていた堀田が目を覚ました。
「ワイパーに何をしてる?」堀田が詰問した。
「おまえな」倉田はクスクス笑って言った。「ワイパーをこんなふうに動かせるのは神様だけだよ」

 一方、対抗して走ってくるRV車(エアストリーム)を見た健太の興奮ぶりに目を細めながら、近づき、クラクションを二回鳴らして返答を待った。
 倉田は運転している堀田を見た。堀田は『いいよ』とうなずいた。倉田はププーッと二回クラクションを鳴らして。シルバーのスカイラインへの挨拶だ。
 健太は笑って手を振り、二台の車が互いにシューッとすれ違った。

 まゆみは窓の外をじっと見つめていたが、車が疾走中になぜクラクションを鳴らしあったのか確めようと首を伸ばした。車の運転者の姿はよく見えなかったが、(仲良しお化け)のキャスパーだけは見違えようがなかった。車の色と型も、はっきりと目に入った。
 彼女はすばやく倉田を振りかえった。「子供がハロウィーンの衣装を盗んだと言ったわね。何の衣装?」
「ええと……キャスパーだったと思う」岩井が答えた。「(仲良しお化け)のキャスパーだ。ここにメモがあるから……」
「あれがそうよ!」まゆみが叫んだ。「いま、すれ違ったわ」
 チーフは一瞬まゆみを見つめ、大声で怒鳴った。
「車をUターンさせろ!」
 岩井は車内通話装置に駆け寄り、ボスの命令を倉田に伝え、「Uターンだ!」と、ほえたてた。「いますれ違ったのが、奴だ!」
 岩井は脱獄囚発見を連絡しようと短波無線機にかがみこんだ。
 牽引トラック(ピックアップ)の倉田は必死になって、連結車両をターンさせる場所を捜し始めた。
「ここは狭いよ」堀田が心配そうに言った。アスファルトの二車線道路の両側にある排水溝を目で確かめている。
「チーフがターンしろと言ったら、すぐターンするんだ」と倉田が言った。
「できない」堀田が応じた。
「すぐターンするんだ」再び倉田が言った。
「できない」堀田が叫んだ。「無理だ……おれはやらん!」
 業を煮やした倉田がいきなりブレーキを強く踏んだ。その反動でモービル・ホーム(エアストリーム)は大きく揺れ、車輪が軋んだ。
 短波無線に向かっていた岩井がまゆみのほうを向いた。表情で、『子供は元気そうだったか?』と訊いている。
「笑って手を振っていたわ」まゆみが答えた。
「そんなことをしゃべるな」チーフがビシリと決めつけた。
「じゃあ、なんと言えばいいんですか?」岩井が問いかけた。
 一番前の席で堀田が唸った。「うまくいきゃしないよ! 慎重にやれ!」
 だが倉田には、若いのに年寄りくさい農村出身の若者の言うことなど聞くつもりはなかい。ただひたすらにブレーキを強く踏みつづけた……
 しかし、倉田が乱暴にブレーキをかけたので、牽引トラックの牽引装置は二つに折れ曲った。高速で走っていた移動執務車(モービル・ホーム)は、先頭の小さなトレイラーに対して斜めになり。それを曲がった方向へ引っ張った。つながった両車全体は横滑りして道からはずれて、一緒に道路脇の藪に激しく突っ込み、あっという間に岩棚の上を跳び越え、川岸近くの藪の上に落ち、停止した。
 まるで神業のように人間の技術を生かした(驚くほど超近代的な移動警察本部)は、今や石ころだらけの干上がった川底や露出した石灰石と並んで、長々と身を横たえていた。
 倉田を先頭に、乗員が次々に車の中から外へ出てきた。倉田は後輪のそばに立ち、髪をかきむしってくやしがった。チーフは通りすがりに車体を一瞥(いちべつ)して、最悪の予想が当たった事を確めた。やっちまった!
「完全に、はまりこんだようです、チーフ」倉田が言った。
 チーフは歩き続け、押しつぶされた樹々とやぶを抜けて、道路へ戻った。そして脱獄囚を乗せた車が颯爽と走って行った方へ向かって道の真ん中を歩いて行く。

 まゆみは一人だけ車に残って、ファイルを丹念に読み続けた。このファイルの右上にある写真は脱獄囚の写真ではく、チーフ、つまり細川宗一郎の写真だった。今よりも若く、警官の制服を着ている。これは細川のファイルである。まゆみは今回の任務を命じられて細川のオフィスへ急いで向かう前に、県警の記録室でこのファイルを手に入れてきた。
 いわば、自分の臨時の上司に関する記録を請求してきたことになる。尋常のことではない。だが、あえてまゆみは、ある予感に基づいてそうした。この人物は伝説的な法の執行者で、しかも時には、知事の片腕ともなっている。念には念をいれてやらなければ、自分はとうてい太刀打ちできない相手なのだ。まゆみは全力を尽くしてチーフと調子を合わせていくつもりだった。あたかも、父親にふさわしい娘にならなければならないように。
 小笠原まゆみは、父親小笠原利通が溺愛(できあい)していた輝かしい長男である兄の後に生まれ、その兄は若くして死ぬという二つの不幸を背負っていた。まゆみは男の子でもなく、父の名を継ぐ利通二世でもない。
 父親は卓越した弁護士だが、いわば、がむしゃらで、あけすけにものを言うタイプの力強い男である。そして父親にそっくりな息子が、自動車事故であっけなく人生に終止符をうってしまった。その事故が起こった頃のまゆみは反抗期のティーン・エイジャーで、東京のカトリック系の女子高校の生徒だった。兄が事故死したとき、まゆみは放校されかけていた。夜、寄宿舎の窓の外にある樹の枝に座って喫煙し、その樹を燃やしてしまったのだ。夜な夜な女生徒の多くが樹に登って喫煙していたが、樹に火をつけたらどうなるか見てみようと提案したのはまゆみだった。
 東京へ戻ったまゆみは、父親のために兄、細川二世の代わりになろうと数年間苦闘を続けたが、誰を喜ばすこともできなかった。それで今ここで、なんとか父親に認められようと……自分なりに力を発揮しようと努力している。だからこそ、チーフを相手に苦闘しているのだ。しかし今の自分は、チーフに認められるために本当に最善を尽くしているのだろうか? 彼女は自問していた。
 いま、まゆみの指は、細川の履歴の半ばあたりの記載事項で止まっていた……一九三八年から四二年まで横浜県警に勤めていた部分である。細川は一九四二年の九月の終わりまで、ここで勤務した。また、記録には、森田浩介が四二年五月に、この県で、岩井がチールのパートナーだと言った男に逮捕されたとある。少なくとも書類上では、チーフと森田はここでぶつかる。いま追っている脱獄犯と過去に接触した覚えがあれば、チーフはその事実を口にするはずだ。いや、口にしないだろうか? いいえ、必ず口にするはずよ……と、まゆみは思った。すると二人の過去は交わらなかったと結論するしかない。
 彼女は首を伸ばして外を眺めた。まだ道を歩いている細川の姿が見える。立ち止まり、いまにも佐久間健太少年が連れ去られた方角へ歩いて行きそうな様子を見せた。
「あの……小笠原さん!」まゆみのテーブルのそばに現われた岩井が声をかけてきた。
 まゆみは岩井を見上げた。「何か?」
「ああいうことは、大学で教わったんですか?」と、岩井。
「ああいうことはって?」
「さっきの……男言葉を使った話し方です。パフォーマンスというのでしょうか。まるであなた自身が森田になりすましたかのような喋り方ですが……」
「ああ、あれ。そうよ」岩井の態度が目に見えて変化したことで、一種の自信めいたものが自分のなかに感じられた。
「やはり大学ですか。わたしは……わたしには大学教育の経験がないもんですから」
 岩井は首を振り、隔壁によりかかった。
「わたしは、たたき上げの現職警官です。油送管の設置の仕方や屋根板を釘つけにする方法などを教える学校を出たあと、警官になったんです」
 まゆみには、このタイプの警官はひと目でわかった。どういう育ちかも……
「あなたのやった方法は、わたしにはちょっと驚きでした……非常に効果的でしたね。ひとりの人間の生き様を表現するのには……」
 そう感想を述べると、岩井は隔壁から離れて車の外へ出た。
 細川はまだ道路の真ん中に立って。地平線を見つめていた。彼はまばたきもせず、じっと目を据えていたが、ペッと唾を地面に吐いて、また森田浩介のことを考え始めた。

第十四章 車の乗り換え

 浩介はスカイラインのボンネットの上に座って、青い空を見つめた……心の目は、自分の欲求と願望の風景を見つめていた。いまのところは一時的だが満足している……これまでの十二年間を取り戻そうとするかのように頻繁に何度も欲求と願望に接近した。これまでに彼がやってきたことは、これを追い求めることだけだった。おれの母親……売春宿で忙しく働き続けてきた母……も自分の欲求と願望を追い求めていたのだろうか? 
 いま改めて取り出し、明るみに出した父親はどうだったのだろう? 父は目指すものを見つけたのだろうか? 一体どんなものを見つけたのか? 浩介にはわからなかった。
 お化けのキャスパーが車のドアをバタンと閉めて、前のフェンダーに寄りかかり、浩介と同じように遠くを見た。
「二十年前に、この道を出発したんだよ」と、浩介は言った。「そして、まだ旅は終わっていないんだ」
 健太はキャスパーの面をあげ、かすかにうなずいた。
「どうやら、決定的な時が来たようだよ」と、浩介は話を続けた。
「こんどは坊やの出番だぞ。この道を通ってハイウェイへ出るか、歩いて他へ行くか、どっちがいい?」
「どこへ行くの?」と、健太が訊いた。目的もわからずに物事を決めるほど無分別な子供ではない。
「歩いて旅行したいかね?」
「どのくらい?」と、健太は訊ねた。
「うん、そうだな、二千キロ以上にはならないはずだ」
 健太は浩介を見て、心配そうな顔をした。話のわかる相棒になりたいとは思うけど、でも……
「たぶん、坊やの考えのほうが当たっているだろうな」そう言って、浩介は車から滑り降りた。「食料を調べておかなくちゃね」
 健太は車の前部座席へいって袋や紙くずをかき回した。
 浩介はあたりの田園風景を見渡した。少し先の道路の分かれ道の左側に大きな看板が二つ立っている……『勝沼ぶどう郷まで十キロ』、『勝沼ゴルフ倶楽部まで三十キロ』……樹木に覆われた道の一キロほど先に、古い立派な(にれ)の樹のある農家が見えた。長い大枝が二、三本よじれて家の一部へ覆いかぶさっている。
 健太が再び姿を現した。胸元にキャンディを入れる袋と、食料袋を抱えている。
「どのぐらいあった?」と、浩介が訊ねた。
「ソーダ一本……ガムがいくつか……ムーン・パイ半分」と、健太は答えた。
「せいぜい一人分だな……それじゃ、行こうか」と言って、石ころだらけの道を大股で歩きだした。一瞬、健太はその場を動かずに浩介の姿を見つめていた。それから、半分残っているムーン・パイを口に押し込み、浩介に追いつこうと急いで後を追った。

 浩介は、石ころだらけの道を早足であるき続けた。行く手の農家は雲一つない空を背景に、ただ一軒だけポツンと立っている。健太は小さな足を懸命に動かして、できるだけ遅れないようについて行った。
「どこへ行くの?」健太が息を切らしながら訊いた。
「お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ」をやりに行くんだよ、健太」と浩介が答えた。
 健太は凍りついたように立ち止まった。浩介は健太がついて来ないのに気づいて、足を止め、振りかえった。
「どうした?」
「『お菓子をくれ』はやっちゃいけないんだ」と、健太が言った。
「え?」
「お母さんが、だめだって」
「『お菓子をくれ』がか?」浩介は信じられないという口調で訊いた。
「なぜ、だめなんだ?」
「信仰に反するから」
「信仰に反する? そんな馬鹿な宗派は、何なんだ?」
「(エホバの証人)」
「くそったれめ」と、浩介は悪態をついた。「おれは絶対に、そんな宗教は信じない」 
「それも……だめだよ」
「それもって、何がだ?」
「悪い言葉……“くそったれ”って言ったでしょう?」
 浩介は両手をあげて空を仰いだ・
「やれやれ、他に何がだめなんだ?」
「お酒、たばこ」
「なんてこった! ああ、いや、ごめん……」
「それから、肉体を汚すこと全部……たとえば、ホモとか」
「おまえ、ホモってどういうことか知ってるのか?」浩介は驚いて訊ねた。
 健太は首を振った。「わからない。でも、聖書に、いけないって書いてあるから」
「おやおや、大した信仰だな」
「全部聖書に書いてあるんだ」
 浩介は驚嘆して首をふった。
「何が肝心なとこなのだ、よくわからんな」
「神の意志を実行する人は永遠なんだって、お母さんがいつも言っているよ」
 健太は大真面目で言った。
「ぼくたちは、歓喜の世界で永遠に生きるんだ」
 浩介はしばらく健太の顔を見つめていたが、右手をのばして少年の肩におくと、なだめるように言った。
「まあ、こういうことや何かでいやな思いをさせるつもりはないんだがね、健太……だが、それだけはどうも……」と、言葉を切り、肝心なところは、少年の顔を見つめた。
「いいかね、その……永遠に生きるとかって言うのは、その時になったらそうだろうが、今は今だ。いいかい、今の健太に訊くよ……健太のお母さんに訊くんでもないし、エホバに訊くんでもない……健太は『お菓子をくれ』をやりたいのか? それとも、やりたくないのかい?」

 浩介と健太は庭を横切って楡の樹の枝の下を通り、農家の入口へ向かった。
「さあ、健太。ドアをノックして、誰かが出てきたら『お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ』って言うんだぞ。わかったね?」
 ふたりは戸口で配置についた……浩介がちょっとためらってから、キャスパーの面をおろした健太にうなずいて見せ、向き直って玄関のブザーを押し、「人が出てくるまで待つんだよ」と囁いた。
 まもなく六十五歳くらいの農家の主婦が内側のドアを開け、網戸の向こうから二人の訪問者に笑顔を見せた。
「さあ、健太」浩介が囁く。
「お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ」と、健太が言った。
「まあ、見たこともないくらいに可愛い小さなおばけちゃんねえ」
 農家の主婦は言った。背が小さく、細い白髪が風で逆立ちまるで後光のように見える。どこからともなく家の戸口に現われた小さな子供を見て、満面に笑みを浮かべている。
 主婦の背後の家の中に人がいないかどうか、浩介は目を光らせた。何も動くものの気配はない。
「もう一度言ってごらん、健太」と、浩介は囁いた。
「お菓子をくれなきゃ、いたずらするよ、おばさん」
「おやおや、ハロウィーンは昨日だったと思うんだけどねえ」と、農家の主婦は言った。
「いたっずらされるしかないかねえ。わたしの特製のカラメルかけポップコーン・ボールは、もうなくなっちゃったのよ。近所の子供たちが大勢押しかけて来たもんでね」
 主婦は、どうしようもないといった様子で両手をあげた……この家ではお菓子はもらえないというわけだ。
 浩介はほんのわずかだけ前へ出て笑顔を作り、シャツをひきあげてズボンに差しこんだリボルバーを覗かせた。相手が目をとめてその拳銃を頭に刻み込むまで、シャツをあげたままにしておいた。シャツをおろした時も、まだ笑顔を見せていた。
 老女はドアから後ずさった。その顔から満面の笑みは消えている。
「そこで待っててちょうだい」と言って姿を消した。
「よくやったね」
 浩介は健太の肩を叩いた。それから頭上を見上げて、電線を捜した……農家から近くの電柱へ伸び、そこから遠くの本線へつながる電話線を。
 年老いた主婦が、台所や食器棚で見つけたものを腕いっぱいに抱えて、急いで戸口に戻ってきた。網戸を開けると、抱えているものを差しだす。健太は嬉しそうに袋をあけて、主婦がその中へ落してくれるものを見守った。パンの塊、マスタードの瓶、キャンディ、ジャム、バター、クリーム・チーズの包み、塩味のクラッカーの包み、スープの缶が二個。最後に紙ナプキンも入れてくれてから、また中へ消えると、小さな財布を持って現われ、中味……千円札が三枚と小銭がたくさん……を健太の袋の中に入れた。
 健太は袋を覗き込み、「どうもありがとう」と言って、キャスパーのお面の陰で笑ったあと、向きを変えて、低い玄関ポーチから跳び下りながら、(こういう「お菓子をくれ」は盗みじゃないだろうか)と、内心では考えた。
 浩介に袋の中味を見せてから、振りかえって、気前のいい老婦人に手を振った。老婦人はすでにドアを閉めて鍵をかけているところだった。
 浩介と健太は庭を横切り外へでた。
「普通の人の親切を甘く見ちゃいけないぞ、健太」と浩介は言い、半歩さがって健太の背後に手を伸ばし、そこから家につながっている電話線をつかんで、ぐいと引っ張った。電話線はプツンと切れて垂れ下がった。浩介はその線を脇へ投げ出して、健太の後を追った。しかし健太には、浩介のやったことが何なのかわからなかった。

 浩介は解放感に包まれながら、軽快に車を走らせていた。
 しかし、彼は自分が警察の人間たちの心の中に燃え上がらせた激怒を知らなかった。自分が通った跡に放り出された大きなモービル・ホームのことも知らなかった。もし、そのような事実を完全に理解したとしても……いまだに泥の中で身動きもできなくなっている追跡者を乗せた移動執務車を見たとしても……彼の考えは変わらなかっただろう。
 浩介は確信していた。きっとうまく警官たちの追跡を振り切って、はるかな自由の天地まで行きつけるはずだと。
「その中に肉はないかね?」浩介は問いかけた。「ミートローフの缶詰とか、ウィンナーソーセージとか?」
「ないよ」健太が答えた。
「それじゃあ、坊や、マスタード・サンドウィッチを作れないかな?」
「作れるよ」
「ようし、それを作っておくれ」
 健太はスライスされたパンを取り出して、四枚をダッシュボードの上に並べた。
「いくつ作るの?」
「自分の好きなだけ作っていいよ」浩介は答えた。
 健太は、さらに六枚を追加して並べた。ダッシュボードの上がパンで覆い尽くされた。マスタードの瓶を出して蓋を開けたが、それを塗る道具がないので、あたりを見まわした。浩介は座席を探ってガムの包み紙を引っ張り出し、その一枚を健太に渡した。健太はそれを使ってマスタードを塗り始めた。
 スカイラインは勝沼ぶどう郷へむかっていったん坂を登り切り、こんどはゆるやかな坂を下り始めた。坂の下では、ある家族が道の脇に車を停め、ポプラの雑木林の中でピクニックをしていた。
 健太は車がその家族に近づいて横を通り過ぎるとき、その家族をうらやましそうな目で見つめた。両親と、七歳くらいの男の子と、それより二歳くらい年上の女の子だ。木陰に毛布が敷いてあり、真新しい茶褐色の、たくさんの荷物を積んだステーション・ワゴンの後ろでは、料理用の焚火が燃えている。
 父親はパンに分厚いビーフハンバーグをはさんでいた。母親はクーラー・ボックスからソーダ水を取りだしており、子供たちはそれぞれの袋からポテトチップをむしゃむしゃ食べている。皆、愉しげに笑いながら喋りあっていた。明らかに楽しい休暇を過ごしている家族にちがいない。健太は、うっとりと見入っていた。
 その家族の光景の何かが、浩介をも魅惑した。グーンとアクセルを踏んで坂を登り、頂上に達すると、何か遠くのものが彼の目を捉えた。浩介は急ブレーキをかけ、坂を少し戻って、車を停め、サイドブレーキを引いた。手を伸ばして、最初にできあがったサンドウィッチを掴み、エンジンをかけたまま車を降りた。
「ここにいてくれ」浩介は健太に言った。「なあ坊や、マスタードをけちらなくてもいいよ」
 健太はうなずいて、それぞれのパンの上に黄色くて粘っこいマスタードを更にたくさん塗りつけた。
 浩介はもう一度坂の頂上まで歩いていった。ここ数キロ四方で一番高い場所だ。浩介は三百六十度の眺めをじっと見つめた。坂の下のまっすぐ前方に彼の視線が定まった。
 中央道ハイウェイのインターチェンジに通じる入口に検問のバリケードが張られ、車の列がエンジンを空回りさせて順番を待っている。
 車の中では、健太が一枚一枚のパンに忙しく二層目のマスタードを塗っていた。そうした作業をしながらも、健太は例のピクニックをしている幸せそうな家族の方を振りかえっていた。そのとき、わずかに車が動いた。健太はあたりを見まわした。まだ浩介は坂の頂上にいる。ふたたび車が十センチほど後ずさりした。そして突然サイドブレーキが外れ、車が後方に走りだした。
「わあ! おじさん! おじさん!」健太は金切り声をあげた。
 浩介が振りかえると、スカイラインが少しずつ速度を増しながら、坂をバックで下りていくところだった。浩介は全速力で走って後を追ったが、車はすでにそのまま走りはじめていた。
「ブレーキを踏め!」浩介が鋭く叫んだ。「ブレーキを踏むんだ! 真ん中のだ!」
 健太は持っていたサンドウィッチを放り出し、運転席へ滑り込んでハンドルをつかんだ。大人たちがやっているのを数えきれないほど何度も見てきたから、そのまねをして足でブレーキを探った。だが、彼の脚は足半分だけ短すぎた。今度はブレーキを見ようと身をよじりながら、つま先で踏もうとした。だが、身をよじったせいで頭がダッシュボードの下へもぐったとき、車が右へ向きを変えて道路の外へ飛び出した。
 車を追って必死に走って追いかけてきた浩介が、健太に、「頭を起せ!」と叫んだ。「ハンドルを左へ切れ! こっちだ! 左だ!」
 ポプラの雑木林のそばでくつろいでいる家族の父親、小沢進は、この出来事の展開を最初から見ていた。いまや小沢の最悪の悪夢が現実のものと化していた。スカイラインが自分の家族と、買ったばかりの新車、トヨタのステーション・ワゴンのほうへ曲がってきたのだ。
「みんな逃げろ!」小沢は叫んだ。「木の陰に隠れろ! 早く!」
 小沢自身は別の方向へ走った。新しい車のほうへ。
「車なんていいわ、あなた!」妻が叫んでいる。
「バカ言うな!」夫は叫び返しながら、運転席へ突進した。「まだ千五百キロしか走ってないんだぞ!」
 小沢は半狂乱になってキーを回し、エンジンをかけてギヤを入れた。ちょうどそのとき健太がハンドルを左に回し、スカイラインは農地の方へ方向へ方向を変え、あとほんの十センチのところで、すれすれにさっと体をかわして通り過ぎた。
 そのとき、血の気を失った小沢のところへ浩介が息を切らしながら近づいてきた。
「ブレーキがイカレてて……」ゼイゼイとあえぎながら浩介が言った。
「危ないところだった」小沢はドアを開けて車から飛び降り、浩介にホッとした笑顔を見せた。「小沢です」と名乗った。
 浩介は微笑み返して小沢と握手した。「飯島です」
「ほんとうに怖かった」小沢が言った。「まだ二か月しか乗ってなくてね。いま試運転しているところなんですよ」
「きれいですね、ほんとうに」浩介は車の線や優雅さに感心したように褒めた。
「ところで小沢さん、わたしの車のブレーキは故障していますので、あなたの車に乗せていただけるとありがたいんですが……わたしと息子は、ここから八キロほど離れたところに住んでいるんです。あの車は明日にでも取りにきます」
 
 スカイラインには、小沢のオールズモービルのそばをかすめて通過したあとも、反対側の坂を半分上るだけの力があった。しかし、やがて勢いを失って止まり、ふたたび坂を下り始めた。(仲良しお化け)のキャスパーはまだ運転席にいる。次第にバックで下る車の速度が速さを増し、まっすぐ小沢と浩介のほうへ恐ろしい速度で突っ込んできた。
 健太は声を限りに叫び、ハンドルをとれる高さを保ってできるだけ下へもぐった。小沢はパニックを起こして頭をめぐらし、隠れるところを探した。
 浩介はスカイラインが向かってくる道路の真ん中へ足を踏み出し、その場に立って、突進してくる健太の顔を見つめた。
「ブレーキだ、健太! ブレーキをかけろ、思いっきり!」浩介は叫んだ。
 健太はふたたび床に滑り降り、両手でブレーキ・ペダルを掴むと、全体重をかけて力一杯、床に押しつけた。タイヤがキーッという悲鳴をあげて滑りながら、浩介の膝頭(ひざがしら)から十センチのところで止まった……もし、止まらなければ、彼は跳ね飛ばされていただろう。
 健太の顔がダッシュボードの上にぴょこんと覗いた。浩介は健太に誇らしげな笑顔を見せた。
「よくやったね、健太! えらいぞ!」
 手荷物棚のてっぺんで震えていた小沢は、大きなため息をつき、安堵に微笑を浮かべて這い降りてきた。

第十五章 検問

 国道二〇号から中央自動車道へ乗り入れる勝沼インター・チェンジに配置された検問所には山梨県警ハイウェイ・パトロールのパトカーが八台と、地元甲州市警の車が四台、集まっていた。
 トヨタのステーション・ワゴンの並ぶ列を担当するパトロール隊員二人は、次々と免許証を確認して車内を覗き込む動作を繰り返していた。目的は二人連れの、それも男と小さい男の子が乗っている車を見つけることだった。しかし、次の車に狂った犯人がいるかも知れないというわりには、厳重な調べ方ではなかった。それどころか、二人で楽しげに話しあったり、冗談を言い合ったりしている。
 脱獄した重罪犯人とその人質が最後に目撃されたのは笛吹市一の宮町の近辺だったが、あの前科三犯の甲府刑務所からの脱獄囚が子供の人質を連れて、のこのこと、主要ハイウェイであるこの中央高速道に入るために、警戒厳重な勝沼ICにやってくるわけがないと思っていたのだ。
 ステーション・ワゴンの車内では、小沢とその妻が前の席に座っていた。浩介と健太は後ろの子供たちの席に座り、小沢の息子の孝之と美由紀が真ん中の席を占めていた。孝之は健太にグリーン。ホーネットは虫じゃなく、スパイダーマンは蜘蛛じゃないことを説明していた。
「やれやれ、健太。きみは十年くらい火星にいたんじゃないのか?」と、冷やかすように孝之が言った。
「じゃあ、あれは本当の話なの?」健太は訊きかえした。
「何が? グリーン・ホーネットがか?」と、孝之。
「あれも、ただの作り話?」と、健太が言った。
 孝之は頭を振って答えた。「あたりまえだよ、トンカチ頭の火星人くん」
 二人は一緒に笑った。
「不自由させてすみませんね、飯島さん。」小沢が後ろへ声をかけた。「うちの子供たちは、そうやって後ろで遊ぶのが好きなんですよ」
「いやいや、まったく気にしていませんよ、小沢さん」浩介は答えた。
 小沢がバリケード前に並ぶ列の先頭へワゴン車を進めると、浩介は毛布をあごまで引っ張りあげて身体を下へずらし、二つの動物のぬいぐるみの間に頭を埋めた。
 隊員のひとりが車に腕をついて小沢の免許証を求めると、健太はグリーン・ホーネットの漫画を熱心に読んでいるふりをして、頭を隠した。
 隊員の制服のボタンが車の塗装をこするのを心配そうに見やりながら、小沢は免許証を取りだした。
「何の検問ですか?」
「囚人が脱走したんです」隊員は答えた。「まあ、念のためです」と言って大ざっぱに免許証に目をやり、ちらりと後ろの席を見た。そこには妻と思われる女性や子供たちがいるのがわかった。
「どこへ行くんですか?」
「府中へ……休暇でね」小沢は答えた。「買ったばかりの車ですから、六十キロ以上は出さないようにしているんです」
 浩介は後ろで死にそうな思いをしていた……おしゃべりの小沢が一刻も早く会話を切り上げるのをいらいらしながら待っていた。健太は漫画を読み終わっており、(仲良しお化け)のキャスパーの仮面のひもを手でもてあそびながら、所在なさそうにしている。
 隊員は免許証を返し、「では、良い休暇を」と言って一足下がった。
「ありがとう」小沢は軽く頭を下げて、車を前へ進めてそっと加速した。そして検問所を出て田園地帯へと入っていった。
 浩介はふっと大きくため息をつきまがら思った。
 ……彼らは車に乗った男と子供の二人連れを捜している。この家族づれと共に車にいたのは正解だった……
 
 茶褐色のトヨタのステーション・ワゴンは小沢の見事なアクセル操作で、あきれるほどゆっくり走っていた。時速六十八キロから六十九キロ……ときどき最高速度七十二キロ。
 後ろに座る浩介はくつろいで車窓から移りゆく景色を見つめながら、ときどき車内の様子に目を配っていた。
 子供たちは何かの遊びに夢中になっている。娘の美由紀は、夢中になって飛び跳ねた拍子に、手に持っていたセブンアップをこぼしてしまった。中身の液体がシートの背一面に飛び散り、運転している小沢の髪にもかかった。
「こーぼした! こーぼした!」弟の孝之が嬉しそうにはやし立てた。同時に小沢は頭の後ろが濡れたのを感じて、妻と一緒に顔を娘に向けた。
「まあ、美由紀!」母親が言った。「パパの新しい車のカバーに、なんてことするの」そして、まだ跳ねている娘からコップを取り上げた。後ろへ手を伸ばして娘の腕を掴み、ぎゅっと握ってぐいと引っ張る。「何度、言ったらわかるの? 車の中で跳びはねちゃいけません! 行儀よくしてらっしゃい!」
 娘は心配と恐怖で泣きだした。母親が娘を座席に押し戻す。父親はまっすぐ前を向いて運転をつづけた。
 浩介は黙ったまま、車内で繰り広げられる出来事に注意深く目を光らせている。
 母親が後ろへ手をのばして、ティッシュペーパーでシート・カバーのソーダ水を拭きとている。娘はまだ泣き叫んでいた。
「これだからな、子供は!」父親が低く唸った。
 娘の泣き声がますます大きくなった。
 それで父親は態度を和らげた。
「いいんだ、いいんだよ、美由紀」彼は娘の腕をなでさすりながら、「車はすぐ元通りになる。パパはちっとも怒ってないよ。だけど、これからは気をつけるように約束してくれるね」と言って、また運転に戻った。
「そうだ、そうだ、すぐ元通りになる」小沢はブツブツと呟いた。娘はもう泣き止んでいた。
 そのとき、浩介はゆっくり身体を起した。そして通り過ぎていく窓の風景を見ながら心からの笑顔を作り、声を張り上げた。
「今のところは、これでいいぞ、小沢さん。しかし、もう一つ頼みがある」

 わずか五分後に、小沢一家とオールズモビルの状況は一変した。
 全員が車から降りて道路脇に立っている……ママもパパも二人の子供も。それに旅行カバンと上着とガイドブック、ピクニック用クーラー、漫画の本も路上に放り出されていた。
 一家の表情がすべてを物語っている。どうしていいかわからない……まさか、こんなことが起こるなんて信じられない。
 浩介は最後の二つの縫いぐるみを娘に手渡した。そして弟の頭を軽く叩き、最後に小沢に手を差しだした。
「ちょっと借りるだけだ、小沢さん」浩介は言った。「心配しないでいい。必ず返す」
 健太は前の座席に座って窓から様子を眺めていた。この突然の予定変更に驚いているふうでも、ショックを受けているふうでもない。いままでワゴン車の後部で小沢一家と仲良く過ごしていたのに、突然またピストルを見せられたときには確かに彼もぎょっとした。しかし、この予期せぬ急展開が浩介には当たり前なんだと、次第に健太にもわかってきた。それに彼は子供だ。子供は現実の変化に素早く順応する。なにしろ毎日が新しいことの連続なのだ。ただし、健太にも不安を感じ、やめて欲しいと願うものがあった。あのトウモロコシ畑で宮内修造という現実の存在を終わらせた(殺した)浩介の突然の激しい暴力行為……これだけは、どうしても彼には馴染めなかった。
 小沢は気が進まないながらも浩介の手をぎゅっと握り、そして振った。胸が痛むほどの心配を、この恐ろしい男にもわからせようと、ひと振り余分に振った。
「おねがいだ、新車なんだから」小沢は言った。「最高速度七十二キロ以下で走ってほしい。最高でだよ……少なくとも、これから先、八百キロ走るまでは」
 彼の顔に苦悩が滲み出ていた。
「わかってるって」
 そう答えて、浩介は小沢一家全員に威勢よく敬礼してみせると、軽い足取りで運転席へ回り、(仲良しお化け)のキャスパーと共に出発した。
「手を振ってやれ、健太」
 浩介は機嫌よく、そう言って路肩から車を離した。
 健太は手を振った。小沢の子供たちも手を振りかえす。健太はくすくす笑いだした。
「みんな、変な顔してる」
「そうか?」浩介は言った。「しかし、小沢は正しかったんだ。もし抵抗してたら、どうなったと思う? おれはあの男を撃つはめになったかもしれないし、そうなったら、彼の家族はどうなる?」と言って、一瞬、考えた。「やっぱり、あれでよかったんだ。小沢は良いパパだし、そうなりたいと自分でも願っているんだろうからな」
 浩介は一席ぶちおわると、アクセルペダルを一気に床まで踏み込んだ。車の強力なエンジンが前開して轟音をあげ、タイヤが軋った。車はぐんぐん加速し、ハイウェイを突っ走った。
 一方、道路脇で立ちつくしている小沢は苦悩に身をすくめて、それを見送った。これまでの誇りと喜びが、一瞬にして失望の世界へと沈んでいく。

第十六章 破られた検問

 ハイウェイ・パトロール主力部隊と地元の警察官たちが勝沼ICや中央道を封鎖して、一台たりとも、この難所をすり抜けさせはしないという意気込み感じられた。
 車のあいだから、一人の警官が、ふと目を上げて中央道ハイウェイを疾走する夥しい車列の間の、前方の何かに目を留めた。道路の端をとぼとぼと歩いて戻ってくる一行の姿だった。旅行鞄や帽子、クーラー・ボックス、漫画の本などを持った小沢一家だった。先頭の小沢は毅然と頭をあげて歩いている。子供たちには今の状況が、まだはっきりとわかっていなかった。小沢夫人は大きなカバンを二つ両手に下げ、しんがりをつとめている。すっかり、しょげ返った様子で重そうに足を引きずっていた。

     * * * * *

 動かなくなった移動執務車(エアストリーム)の中では、岩井徹がヘッドホンを手から落とし、後ろのチーフに向かって叫んだ。
「奴に抜けられました。場所は中央道の勝沼ICです。くそったれが! おっしゃった通りでした!」
「マイカー旅行者一家を脅して車を奪い、府中方面へ逃走中だそうです」
 田沼光一が軽蔑するように鼻を鳴らした。「道路封鎖が、聞いてあきれるぜ」
 チーフは苛立たしげにため息をついた。

 相変わらず動かないガラクタと化した車のなか……あたりはすでに夜のとばりが下りていた。チーフは物思いにうけっていた。魔法瓶のコーヒーをすすっている。
 いびきをかいて死んだように眠りこけているのは倉田と岩井だ。その二人を夕食の残骸が取り囲んでいた。食べ残しを乗せた皿が散らばり、タバコの吸い殻が灰皿や、飲み残したコーラの瓶やコーヒーカップに突っ込まれている。
 堀田がうめき声をあげてげっぷをした。もう楊枝で念入りにきれいに歯をせせり終わり、今は洗面用具の袋から出したデンタルフロスで歯の掃除をしている。
 まゆみはマグカップを手にしてすすりながら歩き回り、壊れたモービル・ホームの後部座っている細川チーフを見つけた。
「みんなまだ寝てるのか?」顔を上げずにチーフが声をかけた。
「ええ」と、まゆみ。
「もう一時間寝かせといて、元気を回復させよう」チーフは言った。「それからパトカーを呼んで、中央道を神奈川方面へ向かおう。こんどは道路封鎖と検問は完璧にやるはずだ。横浜までは絶対に行かせない……」
「横浜っていえば、あなたの思いでの場所ね」
 まゆみが何気ない口調で言った。
「きっと思い出がよみがえるでしょうね」
「そうだな」細川は深く考えずに答えたあとで、ふとまゆみを見た。
 その瞬間、二人は同時に気づいた……細川が口を滑らせたことに。
 細川は何かを洩らしてしまった……ほんの些細なことだが、たしかに何かを洩らした。
「そこに、おれのファイルもあるのか?」チーフは目を細めてまゆみを見た。
「一九六〇年代ですもの、チーフ。だれのファイルだってあるわ」
「なんて書いてある?」
「あなたが横浜の伊勢佐木署に勤務していたこと。岩井さんはあなたが神田清刑事の相棒だったと言ってたわ。神田刑事は森田浩介を逮捕したでしょう、十七歳のときに」
「ああ、その通りだ」細川は認めた
「じゃあ、あなたは逮捕の現場にいたのね」
「一九四二年のことだ。若いはねっかえりの男はだれでも一度は逮捕された時代だ」
 まゆみはうなずいた。
「たしかに、そうね。でもなぜか森田の場合だけは、どこか違うようなきがするんだけど」
「別に違いはないさ」細川は言いきった。目をそらせて窓の外を見ている。
 まゆみは少し考えて、やはり先へ進むことを決めた。
「十七歳の少年が、盗難車を乗り回しただけの罪で久里浜特別少年院に二年間もいれられるという厳しい量刑を受けたかしら? 無茶だわ」
 細川はまゆみを見つめた。
「そうだな」と、彼は同意した。
「よくあることなんですか?」まゆみは更に訊ねた。ここで話をうやむやにするつもりはない。
 細川は少し身体の向きを変えた。こんな風に他人から追及されるのは好まない……特に青二才の女からは。そのうえ、なんと自分はいつのまにか、まゆみに協力するはめに陥っている。それで、ますます落ち着かない気分になっていた。
「なぜ、保護観察にしなかったの? 森田には家があり、母親もいたのよ」
 細川は頭を後ろへそらして星に目を凝らした。
「ファイルには何と書いてある?」
「当時の前科記録には何か軽窃盗罪を犯したと書いてあったわ。でもまだ若かったし、何年かは手を汚さずにいたのよ。森田が判決を受ける前の取り調べ報告書には、自分で字を覚え、かなり頭が良くて、向上心もあると書いてあったわ」
 長い沈黙が続いた。まゆみは自分の勘を信じ、そのまま先へ進むことにした。
「お袋と一緒になって信じてやりたいと思った殺人犯もいたし」細川が言った。「決して許せないコソ泥もいた」
 こう口にしながらも、細川はそれが偽りのない真実でもないし、きちんとした説明になってもいないことを承知していた。だが今は深く論じる時でも場所でもない。  彼はこの話を終わりにすることに決めた。
「この話はこれで終わりにしよう。いまさら森田の過去を論じても始まらないだろう?」
 そう細川はきっぱりと言った。
 そして、「それより、クレージーだと思わないか?」とつけ加えた。
「何のこと?」
「眠らずに前科三犯の脱獄囚と(仲良しお化け)のキャスパーを追っ駆けてることがさ」
 まゆみは半ば微笑みながら反論した。
「眠るですって? 眠るのは引退後のためにとっておくものよ」
「失言を悔やむなよ、お嬢さん」と、細川は冷やかすように言い、コーヒーをもう一度、ゆっくり口に含んだ。

    * * * * *

 雲ひとつない薄青い空に、ふたたび太陽が昇ってきた。また一日中厳しい暑さが続きそうだ。ハイウェイ・パトロール車が、広い道路を疾駆していく。走行する車は、早い朝のせいで、まだ数えるほどしかいない。まだどこからも情報が入ってこない。

「まだ、通り過ぎちゃいないよな」
 パトカーの後部座席から声がした。知事の腹心、遠山が眠い頭をもたげて、首を伸ばしてあたりを見まわしている。
 二人の警官は一晩中車を走らせてきたような疲れ果てた顔をしている。事実そうしてきたのだ。
「あれは何だ?」運転していた警官が指を小刻みに揺すって道路の下を示した。
「あれが、そうです」助手席の相棒が答えた。
 パトカーとレッカー車は大きな車体の後ろへすっと入って止まった。知事ご自慢の移動執務車(エアストリーム)は、一段低い溝の中で車体を斜めにして停止していた。以前は輝いていた車体は、土埃と泥の層の下に埋まってしまっていた。右側の車輪がはずれ、溝に転がっている。重い大きな車体が、厚板と干し草の山の上に寄りかかっている。そばには壊れたジャッキが抛り出してあった。
「ああ何てこった」
遠山は深くショックを受けて泣き出しそうになっている。
「知事はきっとカンカンになって怒るぞ」
 二人の警官は言葉もなく、無残な姿をさらけ出している車体に近寄っていった。
 遠山は急いで車の中へ入った。中にはたくさんの塵芥、何かをこぼした跡のほかは空っぽだった。遠山は喘いだ。車の状態は彼の予想をはるかに超えていた。
「いったい、あいつらはどこにいったんだ?」遠山はほえたてた。見回すたびに、さらにひどい箇所が目に入る。ここには汚い食べ物のしみ、あそこには縫い目のほつれた寝椅子……
 そのとき、客室の後部から眠そうな唸り声がして、部下の堀田が頭をもたげた。
「うーん、みんなパトカーに乗って行っちゃいましたよ」堀田はしゃがれ声で言った。
「いつ?」と、遠山。
「わかりません」堀田は答えた。「ええと、四、五時間前かな」
 遠山は落胆のあまり、ごみを脇へ押しのけてカウチに倒れ込み、両手に顔をうずめて呻いた。「ああ、滅茶苦茶だ。細川チーフは何か言っていたか?」
「ええ……」堀田はふらふらと立ち上がり、服をはたいて身なりを整えた。
「何と言った!」遠山が大声をだした。
「ああ、ええと、細川隊長はこうご報告するようにと言っていました……この車の状況は隊長の承認シール受領済みである……」
 遠山の顔に血が昇ってきた。
「それから隊長(チーフ)の椅子を返してほしいと」と堀田は続けた。
 遠山の顔は紅色に染まり、それから紫色に変わった。
 朝なのに、もうすでに暑くなっている。そのなかで車外でまっていた二人の警官の耳に、車内から金切り声が聞こえてきた。その一瞬後、すさまじい音がしてチーフが使っていた椅子が窓ガラスを破って飛んできた。椅子はいったん跳ね返って岩に激突し、まっぷたつに裂けた。

第十七章 浩介と健太の関係

 そのはるか北東では、中央道を二台のハイウェイ・パトロールカーが縦列を組んで疾走していた。
 後続車を運転する高野巡査は、自分の護衛している男……まだ頭のはっきりしていない岩井徹を見て、こみあげる笑いを抑えきれずにいた。岩井は無線を聞いて、膝に乗せた地図で脱獄犯の目的地を三角法で決定しようとしている。倉田と新顔の若い田沼は後部座席に陣取り、できるだけ互いに相手から身体を離していた。
 先導車には斉藤巡査……二十五歳の痩せて鼻っ柱の強い警官が、運転に心を集中していた。山梨県警特別捜査本部長、細川警視正を乗せて運転する機会なんて、めったにあるものではない。
 後部座席で、まゆみは細川に静かに話しかけた。
「わたしの考えていること、知りたい?」
 細川はうなずいた。
(はかり)は子供のほうに傾いているわ」まゆみが言った。
「そう思うか? ……おれたちは今、刻々と事件を強行解決する瞬間に近づいている。おそらく血を流すことなしには解決できない」
「それでも……」と、まゆみ。
 細川は唸った。
「あのね。推論の積み重ねなのよ……ステーション・ワゴンの一家が森田と少年の仲をこう言ってたわね。あの二人は愛し合っているという様子ではなかった。おとぎ話みたいな仲でもなかった。それでも何か、互いに相手を尊重し合っていた。これで合ってる?」
「異議はない」細川は答えた。「だが、森田浩介が父性本能を備えているなんて希望を作りだすなよ。彼には生存本能がある。冷酷無情で最悪のことをしでかしかねない」
「そこなのよ!」まゆみが言った。「森田はあの子を普通の意味での息子扱いはしていないわ。猫かわいがりも、いちいち指図もしていないし、軽く見てもいない。自分があの子の年頃にそうしてもらいたかったように扱っている。尊重してるのよ。ただの無邪気な子供じゃなくて、ちゃんと自分というものを持った1人の人間としてね」
「だとすると?」細川が問いかけた。
「わたしの直感では、森田はあの子を子供の頃の自分と同じように見ているのよ」と、まゆみは答えた。「彼は子供をまったく自分と同一視している。息子とかいう存在じゃなくてね。健太は、すなわち浩介なのよ。そうとなると……」
 まゆみは細川の顔を見つめた。(この人、ちゃんと話しについて来ているかしら?)
「そうとなると?」細川は問い重ねた。
「健太が子供の頃の自分であるという幻想が続いている間は、あの子は無事だってことだわ」と、まゆみは答えた。 
「その幻想が続くのは何故だ?」細川は訊いた。この話がどこへ行くのかはっきりわか
らなかったが、それでも興味をそそられた。
「あの子のしつけの良さが救っているのよ」まゆみは言った。「健太はいまどき珍しいほど礼儀正しい良い子だわ。あの年頃にしては年長者のいう事をよく聞くし、高い理想を持つ母親の、そして健太が身に着けている宗教観の成果よ。きっとそうだわ。大事なことは、健太がそのような態度でいるかぎり……森田と仲良くして相手を尊敬し、従順だったら……あの子は無事だってことよ。森田浩介は幻想を持ち続け、自分がして欲しかった通りに健太のことを見て、扱うわ。幼い頃の精神的外傷(トラウマ)を負った過去のやり直しよ。少なくとも、今度だけは心理学者の言うことが当たっているわ」
 細川も理解し、銀色の思案の世界の中で進む手掛かりをつかんだ。
「少年が森田に逆らいはじめたら、母親を恋しがって大げさに泣き叫んだり、家に逃げ帰ろうとしたら、たちまち精神病質者の森田浩介が戻ってくる……森田は子供を道端のヒキガエルのように踏みつぶすってわけか」
「おそらくね」まゆみが言った。「でも、そうはならないと思う。森田浩介のファイルには、無目的な暴力行為の記録はないわ。すぐに精神病質の態度に戻ってしまうという点は当たっているけど、そうなるのは、あなたが彼を挑発した場合だけよ。それも、巧みにね」
「ああ、わかっている。いまは子供が浩介を挑発するようなことをしでかさないように祈ろう」と、細川は真剣な表情で言った。
 彼の口調からは、論理的説明はもう充分だという気持ちが読み取れた。この凶悪な脱獄事件そのものにうんざりしているらしい。

第十八章 憩いの時

 浩介は頭を後ろにもたせかけて口をあけ、くたびれはてて眠っていた。彼の内部の世界が、休息を求める魂を苦しめさいなんでいる。
 幻覚のような夢にかぶさって、疲れ切った魂の慰撫を求めてラジオのチャンネルを回した。ノスタルジー溢れるカントリー・ソングが流れてきた。
 居間や浩介の心に、赤ん坊の頃に撮られたスナップ写真が浮かんでいた。柔らかい髪の一歳児で、通りかかる人みんなに笑いを振りまき、まるで天使のようだ。白髪まじりの父親が、十八か月の赤ん坊を抱いて座る母親の後ろに立つ写真。母親は女の魅力に溢れ、ほっそりとした身体にふんわりと長い髪を持ち、大きく暖かく包み込む色っぽい目つきをしている。幼い男の子の顔が、眠っている浩介の心に大きく迫ってきた。天真爛漫に笑う赤ん坊の浩介だ。ぼやけた父親の顔がそれに取ってかわった。あからさまにそらせた目からはどす黒い怒りがこぼれ出ている。
 八歳の彼が浮かんできた。背が高くほっそりした少年に成長し、ハンサムで、いまの健太と同じ歳なのに、もっと年上の印象を受ける。自信たっぷりに軽い笑いを浮かべていた。どこか抜け目のない微笑で、無邪気さが失われてしまったことを匂わせている。彼と並んで立ち、広い川の岸の柵にもたれてポーズをとっているのは彼の母だ。まだ愛らしい瞳をしていたが、腰のあたりが厚みを増していた。懸命に笑みを浮かべているが、もはや昔の清純さは失っている。次はどこかの歓楽街が現われた。けばけばしい看板には(クイーンメリー・ダンスホール)と書いてある。横浜伊勢佐木町の自称「ナイト・クラブ」が立ち並ぶなかの一軒だ。次に店の中のシーン……母親はけばけばしく淫らでセクシーな衣装を身に着けている。あかぬけしない姿だが、唇に浮かんでいる俗っぽい冷笑が印象的だ。誰ともしれない酔った三人の男たちが母の身体のいろいろな部分に手を置き、彼女を囲んで抱え上げている。母も酔っているらしい。
 同じ衣装を着た母が八歳の浩介にダンスを教えている……彼の身体はぎこちなく、内心の困惑ぶりを表しているが、顔は母を見上げてうっとりしている……やはり母からダンスを教わっている別のシーン。今度の母の顔はたるんでおり、酔っぱらっているとはっきりわかる。
 浩介は車の中でみじろぎして姿勢をかえ、何かに悩まされているかのように頭を振った。そして、また夢の中へ沈み込んでいった……
 母がまた踊っている。今度はクラブのなじみの客とだ。ぎょろっとした目の田舎の伊達男で、びっちりしった黒いスボンをはき、派手なネクタイをしめ、がっちりした体型で、片手で母の尻を抱いている……今度は同じ男にキスしている。というかキスされている。男の腕全体に刺青(いれずみ)がある。母はバーのカウンターで刺青男の膝に座っている。大酒を飲んで頭を後ろへ投げ出し、片手を男の首にまわしている。男の手は母の太腿に置かれている……浩介はカウンターの端に座り、独りぼっちで母と男の卑猥な姿を見つめている……
 苦しみにさいなまれながら眠る浩介の心の中で、さまざまな映像が繰り返し現れ、重なり、そしてまた繰り返された……浩介は母の腕に抱かれてダンスをしている……刺青男(いれずみおとこ)が母と踊り、ぴっちりしたズボンに包まれた足を母に絡みつけている……ふたたび刺青男の腕が母の尻をつかみ、酔っぱらった母に、舌を入れてキスをしている……今度は刺青男が床の血の海の中に倒れている……
 浩介は、また身動きした。ずっと同じ刺激に苦しめられつづけたせいだ。だんだん音が大きくなって無意識の世界へ侵入してきた。消耗しきった浩介の頭はだらりと垂れた。
夢は、さらに続く……
 警官は茫然と立ち尽くす踊り子たちとバーのなじみ客を押しやった。刑事が流れた血の中に横たわる死体を突っつきまわしている。母はそばのバーの止まり木にもたれかかって、警察担当カメラマンと取材記者がうろうろするのを、見るともなく見ていた。
 母の顔が大きく焦点を結ぶ。怖がっているというより、正気がどこかへいってしまった顔だ。刺青男は、エナメル革の靴を履いた足のつま先を上に向けて、床に横たわっている。口元には自分の死が信じられないという笑顔が凍りついている。

 ……ゴロゴロという音が耳をつんざき、オールズモビルの車内は真昼のように照らし出され……浩介はその光から逃れようとした。
 強烈なライトに目をくらまされながら、シートの下で拳銃を探る。たちまち全身が冷たい汗に包まれた。監獄のサーチライトだ。浩介はその光源である塔を見て目を細め、拳銃の引き金の位置を確めた。標的は、あれだ……
 
 浩介の目がはっきりし、彼の意識が、いままでの夢の世界から現実へと戻っていた。
 大きなコンバインがエンジンをアイドリングさせて、ステーション・ワゴンの真正面に止まっている。五十がらみの日焼けした男が運転台から降りてきて、さりげなくステーション・ワゴンの方へ歩いてきた。痩せたしなやかな身体つきで、顔は笑っていない。人生とは辛抱強く耐えて、過酷な労働に没頭することなのだ……そう男の顔は語っていた。ワゴンの前を横切って運転席側の窓に近づいてきた。
 助手席の健太も目を覚ましていた。その顔には激しいおびえが見える。巨大なコンバインが振動し、そして見知らぬ大柄な男が近寄ってくる。ふと、健太は(あること)に気づき、さらに恐怖をつのらせた。浩介が脚の側で拳銃を握り、銃身を半分右脚の下に隠している。指は引き金にかかっていた。健太は祈った……
 男は浩介の側の窓に顔を向けて、何メートルか離れたところで立ち止まった。そして大人の男と少年が畑の真ん中に停めた車の中に座っている姿を、じろりと見た。
「怖がらせるつもりはなかった」コンバインの運転手が言った。「おれは夜、仕事をしている。そのほうが涼しいからな。車が故障したのか?」
 浩介は眠気を払おうと頭を横に振った。
「おれと息子はお宅の畑でちょっとひと眠りさせてもらってたんだ」
 浩介は友好的な態度で応じた。まだ、頭が、ぼうっとしている。
「いや、これはおれの畑じゃない。おれはここの地主に雇われて働いているだけだ。どこから来たんだい?」
「東京の調布から中央道にのって来たんだ。甲府から富士吉田のほうへ行くんだ」
 浩介は甲府からとは言わずに、逆の方角を言った。
 じつは相模湖ICのちょっと手前を走行しているとき、数台のパトカーが浩介のステーション・ワゴンを追い越して、八王子ジャンクションの方へ急行するのを見て、彼は直感的に道路封鎖を予見し、そのまま相模湖ICで中央道を降りて一般道に入り、そして田園地帯を相模湖の方へ車を走らせていたのだった。
「そりや長旅だな」男が言った。「あんたがた、なにも車の中で寝たりすることはないぜ。うちの寝椅子の使い手がないんで、たたんでしまってあるんだ」
「わざわざ出してこなくたっていいよ」浩介が答えた。「それに、そろそろ道へもどらなくちゃ」
「遠慮することはない。おれが朝いちばんに起こして、何か食わせてから送り出してやるよ」と親切に言って、男は手を差しだした。「おれは白石だ」
 浩介は白石の手を握り、「こいつは息子の和也……おれは飯島だ」と言った。

 コーヒー沸かし器がガスレンジの上でカタカタ音を立てている。パーコレーター上部のガラス器の中へ、コーヒーがのぼっていく。白石の妻、さゆりが火からポットをおろし、フライパンを手際よくひっくり返し、熱いサラダ油を目玉焼きの上にかけまわして仕上げをした。さゆりは五十歳をいくつか過ぎたばかりだったが、一生を農場と家の仕事で働きづめに生きてきたので、年より老けた印象を与えた。
 いや、さゆりの仕事はまだ終わっていない。浴室のトイレで、まだ床に届かない二本の小さな足がぶらぶら揺れている。やがて水を流す音がして、小さな二本の足は床にとんと降り立った。春樹……白石の六歳の孫息子がそうっと歩いて玄関の最短コースを通り抜け、居間に入ってきた。
 春樹は折りたたみベッドの周囲をひとまわりして立ち止まり、じっと目を凝らした。浩介は口を開けたまま、軽くいびきをかき、腕を投げ出して眠っている。その向こう側に、浩介の片腕を枕がわりに小さな健太が眠っていた。
 春樹はベッドの反対側にまわり、健太の小さな寝姿をもっとよく見ようとした。頭をベッドの端に寄せ、健太の寝顔に顔を近づけた。そしてさらに顔が触れ合うほどに近づけた。
 健太の目がぱっと開いた。「あああああ!」健太は驚いて目を覚まし、甲高い叫びをあげてベッドの上で起き上がった。
「あああああ!」春樹も健太の反応にびっくりして声を上げた。
「あああっ!」浩介がすばやくベッドから跳び下りて叫んだ。健太の最初の叫びが終わる前には、すでに立ってあたりを見まわしていた。
 春樹は跳びあがって台所へ逃げ出し、さゆりのエプロンの結んだ紐の後ろへさっと隠れた。さゆりは微笑を浮かべて居間に入ってきた。
「この子が起こしちゃったのかしら?」さゆりは浩介たちに問いかけ、つづいて孫の方を向いて言った。「起こしちゃだめと言ったでしょう」
 浩介と健太はそろって荒い息をついていたが、やがて落ち着き、春樹と自分たちのおびえぶりに笑いだしていた。
「何でもありませんよ、奥さん」浩介は言った。シャツを着て、靴を捜している。
「あたしはさゆり」さゆりは親しみのこもった笑みを浮かべた。「白石の家内よ。この子は孫の春樹」
 さゆりの身体に半分隠れるようにして、はにかんだように笑っている。「おれ六つ」
「ぼくは八つだ」健太が言った。「和也っていうんだ」
 
 さゆりは浩介のカップに三杯目のコーヒーを注ぎ、健太はガスレンジの上で焼いたトーストの最後の一口をほおばった。春樹は、このキャスパーの扮装をしたもじゃもじゃ頭の男の子と仲良くなりたくて、健太が食べ終わるのが待ちきれなかった。
「ねえ、おいでよ」春樹が言った。「向こうに小川があるんだ。見に行く?」
「もちろん」と答えて、健太は浩介に相談しないでドアから出て行った。毎年訪ねてくる従兄(いとこ)みたいに、ためらいもせずドアの向こうへ消えていく。
 夜の長い仕事を終えて帰ってきた白石が、駆けていく二人の子供たちを途中で捕まえ、春樹を連れ戻した。健太もその後に続いた。
「おはよう」浩介は言った。
「おはよう」と答えて、白石は青いオーバーオールの止め金をはずし始めた。
「ゆっくり眠れたかい?」
「朝ごはんは?」妻が声をかけた。
「いや、まだだ」白石は答えた。「おいチビ、トラックから魔法瓶を取ってきてくれ」
 春樹は、健太と二人で窓際で何やらクスクス笑っていて、言いつけを聞かなかった。
「聞こえんのか、チビ?」といって、白石は大股で歩いて行き、孫の耳を平手で殴った。春樹は甲高い悲鳴をあげ、まっすぐドアからトラックへ向かって駆けていった。痛む耳を手で押さえている。
 浩介と健太の二人は白石を見上げた。とても正しい叱責とは思えなかった。
「男の子は、少しの分別も持ち合わせておらん」と、白石は鼻を鳴らし、汚れた汗臭いシャツを脱ぎながら廊下を歩いていった。

 浩介は、そろそろこの家を出て、車を走らせるべきだと悟った。それなのに浩介と健太と春樹は、愉しく盛り上がって遊びに興じ続けた。子供は貪欲に楽しいことを求める。
 浩介は春樹の身体を『く』の字に曲げさせ、両足の間に両手を入れさせた。そして、下へ手を伸ばして春樹の両手をつかみ、手際よく引っ張り上げると、子供の身体は宙返りした。春樹は嬉しそうに笑いころげてながら起き上がった。この笑いは伝染する。三人とも大笑いした。
「もう一回!」春樹はせがんだ。「やって!」
 妻が台所から入ってきて、カウチに座っている健太の髪を、目を細めてくしゃくしゃにした。
「この子のお母さんは?」妻が訊いた。
 浩介は身体を起してさゆりに微笑みかけた。「今回は家に置いてきたんです。男同士の夜遊びってやつですよ」
 浩介は軽くダンスのステップを踏み、小さなサイド・テーブルにぶつかった。
「やあ、こんなものがある」浩介は言った。
 古い木製キャビネットに、旧式の蓄音機がおさまっていた。浩介は回転盤を指でまわし、七十八回転レコードの山を物色しながら口ずさんだ。
「奥さん、すごい骨董品を持ってるね。おれは……」
「地主の西條さんが、もう使っていないからって、くれたのよ」さゆりが答えた。
「やった!」浩介がレコードにほれぼれと見とれながら言った。「レッド・フォーリーだ。これが音楽ってもんだ。ほんとに久しぶりだなあ」
「それはオールデイーズ(昔はやった歌)なのよね。とっても素敵」さゆりは言った。
 彼女の笑いには陽気さと皮肉が入り混じっていた。
 バスルームでは白石がくつろいだ普段着のズボンを下して便座に腰掛け、この場でしか得られない休息にひたっていた。居間から古いレコードのガリガリいう音が聞こえてくる。

 レコード・プレーヤーから身体を起し、あたりを見まわす浩介の目に生き生きとした光が宿っている。
「踊れるかい、奥さん?」
「だめよ。全然できないわ」さゆりは尻込みした。
「さあ、おれがリードするから」と、浩介はさゆりを自分の腕の中へ引き寄せ、ゆっくりと、だがしっかりとさゆりの動きを自分の動きに合わせた。むき出しの硬材の床を何回か不器用にターンしてから、二人のダンスは次第にさまになってきた。
 春樹がクスクス笑ってポンと足を出すと、自然に健太も笑った。浩介とさゆりは、さらに滑らかに踊れるようになり、部屋中をぐるぐる回った。二人の頭の中から、苦しかった歳月の記憶が少しづつ、こぼれ落ちていく。
「飯島さん、ほんとにダンスがうまいのねえ」さゆりは笑って、いつになく敏捷に動いた。こんなに速く動いたのは、畑で出くわしたへびの青大将から逃げたとき以来だった。
「それはきっと、おれがダンス・ホール兼売春宿で育ったからですよ」
「冗談でしょう」さゆりは言った。息を切らしてはいるがこのダンスをやめる気はない。
「いいや、奥さん」浩介は言った。「おれのお袋は、いつもろくでなしどもとダンスしていた。そのあとは裏の小部屋でひと騒ぎしてね。子供のおれにとっては、いい災難さ」
 これは昔の記憶から掘り起こされた言葉だ。いまや浩介の心は過去へ飛んでいた。
 浩介は、健太と春樹がダンスを見てクスクス笑いながら二人を見つめている。
「立てよ、和也」浩介は呼びかけた。「坊やも春樹と踊ったらどうかね?」
「さあ、踊ってちょうだい」さゆりも促した。
 子供たちはしぶしぶ立ちあがり、たがいに相手を見つめ合い、ポカンと口を開けた。二人とも照れている。
「ほいきた、ダンス・ボーイズ登場!」浩介が笑いながら言った。
 子供たちは腕をつかみあい、大人たちの真似をしておずおずと互いの周りを少しだけ回った。そのうち二人もすぐに音楽に合わせられるようになり、笑いながら踊り続けた。

第十九章 やさしく撃って!

 レコードが終わった。みんなで手をたたき、くすくす笑ってあえいだ。浩介はレコードをひっくり返しにいき、バスルームから聞こえてくる声を聞いた。ラジオだ。
 まだ、白石は座って黙想にふける姿勢で爪の手入れをしながら、便意を催すのを待っていたが、アナウンサーの伝えるニュース速報に耳を傾けた。
  「……捜査中の甲府刑務所脱獄囚、森田浩介に関する最新情報をお伝えします。森田は武装しており、非常に危険です。いまだに八歳の少年を人質にして連れまわっているものと思われます。最後に目撃されたときは、オールズモビルのステーション・ワゴンを運転していました。茶褐色の車体で、勝沼ぶどう郷付近でピクニックを楽しんでいた一家から強奪したものです。森田は身長一八五センチ、中肉で……」
 そのとき、いきなり手が伸びてきて、一本の指がラジオを切った。白石は不審げに、その手の上をたどった。その目は浩介の大きな目にぶつかった。彼は白石の向かい側のバスタブの縁に腰を下ろして厳しい表情をしている。
「おれたちはすぐ出て行く」浩介が言った。優しげな落ち着いた声だ。
「おかしなことをしたら、全員殺す」
 白石は心臓の鼓動が速まるのを感じ、ゴクリと唾を飲みこんだ。
「もう終わったのか?」浩介は訊ね、「終わったようだな」と言って、白石にトイレット・ペーパーのロールを渡した。

「あなたの言った甲府ってどんなとこなの?」さゆりが言った。「あたし、そんな遠くまで行ったことないのよ」
 健太はつい油断してさゆりを見上げ、頭に浮かんだことを、うっかり話してしまった。
「うん、いいところなんだ。ほんとにいいところだよ。ぼくは犬を飼ってて……健太っていうんだ。猫もいて、ええと……名前はルースとナオミ……木の上に遊び小屋があって、毎年ハロウィーンにはその木の家を飾って……」
「おいで、和也」浩介は顔をだして言った。白石の後についてバスルームから戻ってきたのだ。「出発の時間だよ」
「あなた?」妻が問いかけた。「どうかしたの、あなた? 幽霊でも見たみたいよ」
 さゆりは夫の方へ歩きかけた。
 ダンスの興奮冷めやらぬ春樹は浩介の方へ走りよって相手のまわりをぐるぐるまわった。
「もう一回、やって!」春樹はせがみ、自分から上体を倒して足の間に両手を突っ込んだ。
「だめだ!」白石がどなった。「チビ! おばあちゃんのところへ行け!」
 瞬時に妻は何か大変な事態が起こったらしいと気づいて、夫から浩介へ視線を移して、孫の方へ手を伸ばした。
「ねえ、おじさん、もう一回やって!」春樹は状況の変化に少しも気づいていない。
 浩介はにっこり笑って身をかがめ、少年の願いに(こた)えようとした。だが、白石の動きのほうが速く、孫をピシャリと殴りつけて床へ倒した。春樹は床へ転がり、痛さと驚きで泣き叫んだ。
 浩介も同じように素早く反応した。身をひるがえし、怒りを込めて白石の顔を思いっきり殴りつけたのだ。それから彼を追いかけ捕まえ、相手を床へ放り投げた。
 この激しい暴力行為を見て健太の心は暗くなり、しゅんと沈み込んだ。カウチに戻って凍りついたように座り、成り行きを見守っている。一瞬にして喜びが恐怖に変わった。もう暴力はたくさんだ。やっと健太にも真の事情がわかりはじめてきた。浩介が暴力をふるうたびに心が暗くなってくる。
 浩介が……もう一人の浩介が……ズボンから拳銃を取り出し、床に伸びている白石に歩みよった。その身体の上に屈みこみ、相手の喉をつかんで口の中に銃口を押し込んでいる。次に、まるで縫いぐるみを扱うかのように相手を抱え上げて椅子の上へ放り投げた。
「なぜ春樹を殴った?」浩介は白石を詰問した。こわばった奇妙な声音だ。
「孫がおまえの言うことを聞かなかったからか?」
 浩介は顔を白石の顔に近づけた。鼻が相手の鼻と十センチほどのところまで迫っている。
「はしゃぎすぎたあの子が、おまえの言うことを聞かなかったからか? まったく、おまえってやつは他人の胸くそを悪くする野郎だ」
 浩介は相手の顔につばを吐いた。そして身体を引いて立ちあがり、健太のほうへやってきた。そして健太に拳銃を手渡して言った。
「あいつらを狙え」
「ぼく、ぼくは、いや……」健太は怯えて言った。
「狙え!」浩介がどなった。
 健太は拳銃を受け取り、狙いを定めた。ときどき頬をゆっくりと伝う涙をぬぐっている。
 さゆりは震えて台所のドアの脇に立ちつくした。白石は妻のところへ行き、その手をとった。
 浩介はまだ泣きじゃくっている春樹のそばにひざまずいた。
「さあ、ぼく」彼は言った。「もう一回宙返りしたいのかね?」
 春樹は首を横に振り、「もういいよ」と、泣きじゃくる合間に答えた。
 浩介は春樹の両腕を優しくつかんで立ちあがらせ、「さあやろう、足の間に手をいれて」と、なだめる口調で言った。
「危ないことはしないよ」浩介は春樹にゆがんだ笑顔を見せた。
 春樹は祖父のほうを向き、走って行った。
 健太は拳銃を膝の上に落した。浩介が泣いている春樹のところへ静かに歩み寄って、祖父から引き離すのを見て、恐怖を募らせている。浩介はすすり泣く春樹を部屋の中央へ連れ出した。
「春樹はもう二度とおまえを信じないぞ。おまえのせいだ。わかってるな」と浩介は祖父に言い、春樹の方を向いて「足の間に手を入れてごらん、ぼく」と、優しく声をかけた。
 春樹は涙をぬぐった。そして上体をかがめ、フリップをする用意をした。浩介は手を伸ばし、春樹少年にフリップをしてやった。その間も目だけは、ずっと白石をみつめつづけている。
「もう一度やろう」浩介は言い、もう一度、春樹にフリップをさせてやった。さらに三回……四回。きびしい視線は白石にむけたままで、その表情を探っている。まるで彼に何かを教えているようだ。
 やがて浩介は、まだ泣き止まぬ春樹を放して祖父母のもとへ行かせてやり、健太の膝から拳銃を取りあげた。
「和也」浩介は健太に言った。「車へ行って縄を持っておいで」
 健太はカウチに両手の手のひらを当て、その場に凍りついたようになって、浩介から顔をそむけて部屋の向こうを凝視しつづけた。
「健太!」浩介は厳しい声で呼びかけた。だが、白石につばを吐いたときのような敵意はなかった。
 健太はしぶしぶカウチから身を引きはがしてドアへ向かった。春樹の前を通り過ぎるとき、二人の目は絡み合い、健太はためらった。できたばかりの友だちの怯えた目が懇願している。何かを、すべてを懇願していた。
 健太は頭を垂れてドアから出て行った。鉄道の枕木で蓋をした古い井戸を通り過ぎて、土の庭を横切った。やがてステーション・ワゴンのドアを開けてから動きを止め、家を振りかえる。しばらくの間、健太はそのまま動かなかった。何か自分にできることがあるのなら何とかしたい……いま起っていることを信じたくない……

 浩介は拳銃を手にしたまま、椅子に座って白石とその妻と春樹少年の向かい側に、コーヒーテーブルを引き寄せた。自分は、そのテーブルに座り、三人と向かい合った。
 やがて、浩介は白石に目を向けて言った。「さあ、その子を抱いてやって、愛していると言え」
 祖父は手を伸ばして孫の腕をつかみ、少年を膝の上に乗せた。「愛してるよ」しゃがれた声に恐怖の色が滲んでいる。
「そんなんじゃだめだ、おやじさん」浩介は拳銃を振って言った。
「もっと本気で言うんだ」
「この子は、わしが愛しとることを知っとるよ、あんた」白石は苦しげに言った。
「それじゃ、そう言え」
「お願いです、あなた」さゆりが声を震わせて、「あなたは、もののわかった人だと思うわ。きっと、善良な人です」と言って、孫の片手を握りしめた。
「いいや、おれは善良な人間じゃない。だが、それほど悪人でもない。ただ、人種が違うだけだ」
 さゆりは片手を口に当てて唇の震えを止めた。脚をがくがくさせて、籐の椅子を夫と孫の横に引き寄せ、腰を下ろす。
 網戸の外で、健太がこの光景を覗き込んでいた……拳銃を常に見えるように構えて、浩介が低いテーブルに座っている。その正面で三人が震えながら、相手の一言一言に耳を傾けている。理解できないのは、浩介が楽しんでいるらしいことだ。
「言うんだ、白石」浩介は言った。「そんなに手間はかからんだろう」
「愛してる。春樹」白石は涙を浮かべて言い、少年を抱きしめた。傷跡のある年老いた顔を涙が流れ落ちる。彼は死を覚悟した。浩介の顔に愉快そうな笑いが浮かぶのを見て、さらに悟った……わしら三人とも、今日この日に、こんな恐ろしい形で……白石は孫を固く抱きしめた。
「まさに美しい光景だな」浩介は静かに言った。心から、そう思った。ドアの所にいる健太を見つけると、手招きして中へ入らせ、キャンディや食料の入った袋を受け取った。中身をコーヒーテーブルの上にあける。キャンディ、クッキー、パン、砂糖、老婦人の小銭と札。そして、ロープ。
 浩介はロープを手に取り、白石のポケットから大型ナイフを引きだして、長めに切った。そのロープを使って白石から順に、三人を椅子に縛りつけていく。
 健太は動転して、そわそわと足踏みしながら、浩介がこの一家を、まるで仔牛のようにくくりつけるのを見守った。もっと悪いことが起こるような気がするのだが、何と言っていいのか、どうすればいいのか、わからなかった。エホバの祈りを唱えようとしたが、気が散って、「主よ……」という文句しか考え付かなかった。
 三人を縛ってしまうと、浩介はレコード・プレーヤーの所へ行って、すれきれたレコード盤をもう一度かけた。ボリュームをあげる。元の場所に戻って、捕虜にした相手たちと対面した。
「車で待っててくれてもいいんだよ」と、浩介は振りかえらずに健太に言った。
「ここで見ていてもいい。もう坊やは自分で決められる年だ」
 健太は激しい恐怖に駆られて死にもの狂いで外へ飛び出したかったが、できなかった。子供ながら、自分が外へ出てしまえば、本当に恐ろしいことが起こるのを止める者が一人もいなくなると感じた。でも、ここにいると……
 浩介は再びコーヒーテーブルの上に座って、三人の人質に目をすえた。自分のほうが今にも泣きだしそうな顔をしている。目を閉じて顎を銃身の上に乗せ、暗誦でもするかのように命令した。
「目を閉じろ、春樹。白石、おまえとさゆりは子供をしっかり抱くんだ。それから、おまえたちも目を閉じろ」
 健太は声を殺して泣き出した。処刑だ! 浩介はこの人たちを殺そうとしている。この光景に背を向け、それからまたくるりと向き直った。全身が震えている。
 浩介は目を閉じていた。まるで、どこか別の世界に、別の時間に、別の場所にいるかのように見える。やがて、かすかな笑みが唇をよぎって消えた。
「お願いです。あなた」まゆみが哀れっぽく言った。「そんなことをしても、何にもならないでしょう?」
「持っているものは何でもやる」白石が、苦悩に満ちた顔で言った。この狂気の瞬間にふさわしいもの、家族を救えるだけのものを、何も持っていないことを承知している顔だ。
 浩介の耳には二人の言葉が入ってこなかった。そのまま目をあけると、銃身から顎をあげ、撃鉄を起して銃口をゆっくりと白石の方へ向けた。
「天にいます我らの父よ」まゆみが震え声で祈り始めた。「願わくば御名(みな)のあがめられんことを。御国(みくに)の来たらんことを……」
「シーッ……」と、浩介が言った。「シーッ……。シーッ……」
御意(みこころ)の天のごとく」まゆみは恐怖にかられて祈り続けた。家族全員のために、最後の祈りをあげている。誰にもそれを止める権利はないし、自分からは止めようともしない。
「……地にもおこなわれんことを……」
「シーッ……。シーッ……」再び、浩介が繰り返した。まゆみをにらみつけている。
「一緒に言って」まゆみが、夫と孫に頼んだ。「神様にお祈りして」
 三人は声を合わせて祈った。「……我らの日用の糧を今日も与えたまえ……」
 浩介は急に向き直った。健太に妙な一瞥を与え、拳銃を健太と自分との間の床の上に置き、コーヒーテーブルの上に散乱した品物の中から絶縁用のテープを見つけ出した。
 健太は撃鉄を起こしたままの拳銃に目を落した。
「……我らに負債(おいめ)ある者を我らが許したる如く」縛られた三人の人質は祈り続けた。「我らの負債(おいめ)も許したまえ……」
 浩介は巻いてあるテープを少しづつちぎり取って、一枚をぴしゃりとまゆみの口に貼りつけた。
「……我らを賞試(こころみ)に遭わせず……」白石と孫の春樹が祈り続ける。ついに浩介は二人の口にもテープを叩きつけて、祈りの言葉をやめさせた。
 息を切らして浩介は三人の前に膝をつき、三人に目を据えたまま、背後の床に手を伸ばして拳銃を手探りした……拳銃は手に触れなかった。顔をあげると、健太が歯を食いしばって、両手で拳銃をつかんで、まっすぐ浩介に向けていた。
 浩介の顔がうつろになった。それから、かすかな歪んだ笑顔へと形を変えた。この瞬間もまた、これまでに健太ともめた瞬間と同じように、浩介流に落着させ、また前と同じようにうまくやって行けるだろうと予想する笑顔だ。片手を開いた……
 健太は相手が頭を突きだしたのを見て、自分の強烈な決心を意識し、一瞬のあいだ、自分の感情を殺して行動しなければならないと直感した。これは永久に実行できないであろう行動だ。浩介が両手を開いた。微かにゆがんだ皮肉な笑みをうかべて囁くように言った。
「……坊や、優しく撃ってくれ!」
 健太にはその声は聞こえていなかった。瞬間、健太は引き金を引いた。耳をつんざくような発射音が響き、浩介の顔が驚愕したように強張り、そして、もう一度うつろになった。

 拳銃の反動で健太はむき出しの床に勢いよく倒れ、起き上がって四つん這いになった。木の葉のように全身を震わせている。
 浩介は手を差しだして健太を見つめたまま、尻もちをついた。自分の腹に目をやると、赤黒い染みがTシャツに広がっていく、片手でそこをおさえ、健太へ視線を戻した。
 健太が床に倒れた振動でレコードの針が中央へ滑り、曲の終わった所でリズミカルに溝をたどっている。
「健太?」不審げな声で、浩介は言った……まるで初めて健太をみるかのような声だ。
 健太は目が回るのを感じ、今にも気絶しそうな気分だった。それでも自分が持っている拳銃を見つめ、それから浩介の脇腹から噴き出る血を見つめた……それから、口にテープを貼られた白石一家の怯えた顔を見つめた。あっという間に健太は立ちあがり、拳銃を両手でしっかりつかんで、ドアめざして走り出した。
 玄関から外へ飛び出すと、懸命に、枕木で造った井戸枠の所まで走った。拳銃を井戸の中へ放り込み、井戸のわきで立ち止まって、一瞬、家を見つめて自分の心臓の鼓動に耳をすました。そのあと今度は、延々と(わだち)の刻まれた車道をハイウェイの方へ向かって走り出した。
 二十メートルほど行った所で立ち止まって家の方を見やると、そのまま猛烈な勢いでステーション・ワゴンに駆け戻った。よじ登って半身を窓から中にいれ、手探りでキーを抜いた。再びハイウェイの方へ走り出し、はずみをつけてキーをできるだけ遠くの牧草地に放り投げてから、また走り出した。

 居間で、浩介はあちこち手をつきながら立ちあがった。その顔は、ショックで表情を失っている。ふらふらとドアの方へ歩いて行き、ふと立ち止まった。
 振りかえってポケットを探り、ナイフを取り出すと、白石一家の方を凝視し、三人の方へ歩き出した。
 まゆみが再び祈りの言葉をもぐもぐと呟きはじめた。やはり、最後の時は来るのだ。孫の方へ身体を傾けて目を閉じ、三人の死が素早く訪れますようにと祈った。
 浩介はおとなしくナイフをコーヒーテーブルの上に置き、「おもてなし、ありがとう」と言って、またドアへ向かい、朝の輝きの中へよろめきながら出て行った。

「健太!」浩介はあたりを見まわして呼んだ。
 返事はない。牧草地でさえずる鳥の声と、家の裏の茂みを鳴らす風の音しか聞こえない。目の届く限り、動くものは何も見えなかった。
 ステーション・ワゴンまで辿り着くと、なんとか前の席に入り込んだ。しかし、キーがない。座席の上を見る。キーは? 拳銃は? ドアを押し開け、ころげ落ちそうになって、ドアで身体を支えた。車のまわりを、キーを捜して歩く。後ろに点々と血の痕が残った。
 しばらく車にもたれて力を取り戻し、怪我の程度を見極めようとした。それから、未舗装の私道をハイウェイの方へ向かって、地面にキーが落ちていないか、牧草地の縁を探して歩きはじめた。
 健太がキーを放り投げた所に近づいた……キーは道から八十センチほど高くなっている畑の上に落ちて、朝日を受けて光っている。道の反対側にある畑の方を探していた浩介は、腹痛が激しくなるのを感じ、ふとキーのある方へ向きを変えた。そして膝をつき、手で腹を抑えながら唸り声をあげた。

 健太は、小さな足を最大限に動かして郡道を走りつづけた。(仲良しお化け)のキャスパー姿のまま、顔に恐怖の涙の痕をつけ、胸が痛くなるほど息をはずませている。何度も振りかえっては、浩介が追って来ていないかどうかを確めた。

 浩介は道の左右を見てどなった。「健太! 坊やを傷つけるつもりはない。誓う!」
 それから、未舗装の私道のカーブが幹線道路へ向かう方向へ進み始めた……健太が辿った道だ。
 健太は長いカーブを回った所でもう走れなくなり、立ち止まって柵の杭にもたれると、風にあたった。振りかえると、牧草の間から数百メートル後を浩介が苦しげに進んでくるのが見えた。
 健太の心臓が止まりそうになった。健太は道路脇の溝を這ってわたり、身をくねらせて有刺鉄線の柵の下をくぐった。キャスパーの衣装が(とげ)にひっかかる。小さな叫び声をあげ、懸命に身をよじって柵から離れたが、衣装の細長い切れ端が刺にひっかかったまま残った。そのまま、広大な畑の中へ走り込んだ。
 無蓋のトラックが一台、坂を登って現われ、この長くカーブした道路を下ってきた。畑のそばを通り過ぎる時、この土地の所有者である中年の農場主は運転席から奇妙な光景を見た……(中良しお化けの)の小さなキャスパーが狂ったように、自分の畑の中を走っているのだ。
「いったい、何事だ?……」 
 農場主、本多竜太郎は、スピードを落として呟いた。
「こんな人里離れた所で、誰が……」
 言葉が途中で途切れた。そばを通り過ぎる浩介が目に入ったのだ。眩暈(めまい)でもするかのようによろよろと道を辿る浩介の様子に、本多は思わず振りかえって男を眺めずにはいられなかった。同時に、田舎の住人がどこでも反射的にとる行動……車を止めて手を貸してやるという行動に出ることができなくなった。それよりも、バックミラーに映る浩介の姿に目を据え、進路を変更してトラックを白石の家の方へ向けた。
 農場主は、ドアが開いたままのステーション・ワゴンの後ろで立ち止まり、中を覗きこんだ。座席にも地面にも、血の痕がある。農場主は顔をしかめ、用心しながら血の滴りを辿って家の方へ向かい、玄関のポーチまでやってきた。
「白石?……奥さん?」
 叫んだが、返事がない。本多は、昔、暗がりで侵入者を待ち伏せていた年老いた偏執狂の農夫に脚を撃たれたことがある。あのときは母が作った菓子を持ってきて、玄関のドアの中へ滑り込ませようとしたのだ。今では、相手に声や動作で呼び寄せられないかぎり、他人の家のドアには近づかないようにしている。
 白石とさゆりの名を呼びながら、本多は小作人の家のまわりを一周し、やがて台所の網戸から中を覗いた。「白石?……」と、どなった。うめき声が聞こえたような気がする。本多は網戸を蹴ってあけ、身構えた。銃声はしない。慎重に家の中へ踏み込んだ。

 浩介は腹を押さえて、苦しげな息づかいをしていた。重い足取りで道を進み、ときどき健太の名を呼んだ。そのとき、有刺鉄線にひっかかった黒と白のキャスパーの衣装の切れ端が目に入った。その方へ進んでいき、溝を渡って、柵の向こうを眺めた。広大な牧草地で、あちこちに樫やハコヤナギの木がある。中央に大きな樫の木があって、そばに水の涸れた小川の底が見えた。苦痛をこらえて身を屈め、柵の鉄線の間を通り抜けると、丈の高い草の中に見える草が倒れた跡をたどった。

 一方、本多は台所の端まで歩いて行き、中を見まわし、ゆっくり居間に入った。そして、白石とさゆりと孫の春樹が椅子の上で縛られ、口をふさがれて、じっとこちらを見ている光景をみて仰天した。

 畑を横切って進みながら、浩介は叫んだ。
「あれはすごかったぞ、健太! ……坊やは英雄(ヒーロー)だ。坊やがどうやってあの人たちを助けたか、明日、全部の新聞に載るだろうな……」
 立ち止まって苦しい息をついている。
「おれも本当は、あの人たちを傷つけるつもりなんかなかったんだ。おれは生まれてから今まで、二人しか殺してない。おれの母さんを傷つけた男と、坊やを傷つけた男だけだよ……」
 何も聞こえなかったが、浩介には健太が近くにいることがわかっていた。

 健太は、大きな樫の木のそばの、草の生い茂った湿地帯へ滑り込んだ。やぶを駆け抜けて肩越しに振りかえる。浩介の声があたりに響いた。
「このことを、よく話し合おうじゃないか。腹を割って話し合って、解決しよう。そうしたら、また一緒にやっていける……運転もさせてやるぞ。坊やのやりたいことをさせてやるよ。どうだい?」
 健太は目の前に広がる牧草地を見渡した……それから、葉をいっぱいつけた大きな樫の老木へ向き直った。そして、その木をよじ登り始めた。自分と浩介の声との間に、いつも木の幹がくるようにしている。登るのに都合のいい節がいくつもある。地上三メートルほどの高さに休むのにちょうどよさそうな、よく茂った丈夫な枝がある。買ったばかりの新しいスニーカーを履いた男の子なら、苦も無くその枝まで登りつけるはずだ。

第二十章 発見

 後ろのパトカーに乗っている岩井の声が無線を通して聞こえてきた。細川チーフは佐川巡査に、ボリュームを上げるよう合図した。
「聞こえますか?」岩井の声。「奴は中央道を勝沼ICで下りて一般道に入りました。今、勝沼町近くの農場にいました」
「どのくらいかかる?」チーフは運転している佐川巡査にたずねた。
「最高に飛ばして三十分ですね」
 チーフは身を乗り出し、前の座席の背もたれ越しに手を伸ばしてマイクをつかんだ。
「死体は?」
 そう問いかけ、その返事を待ってチーフは沈黙して頭を垂れた。
「死体はありません。農家の家族は全員が無事です。農場主は『子供のおかげだ……子供が犯人をうまく邪魔してくれた』と言っていました。森田は子供を追って外へ出ています。地元警察の人間がそちらへ向かっていますから、まもなく詳しい報告が聞けるでしょう」
「ついて来い」と、チーフはマイクに向かって言った。「それからな、岩井。最初そこに着いた人間が誰であっても、心を落ち着けて行動しろと言っておいてくれ」
 まゆみがチーフの腕に手をかけて言った。
「少年の母親を、ここへ連れて来られるのなら、連れてくるべきよ」
 いまでは、チーフにも、まゆみの考えを退けるのはためにならないことがわかっていたが、それにしても、これは無意味な思いつきとしか感じられなかった。
「うまくいけば、今にも追いつめられるというところなんだぞ。おそらく、流血沙汰になるだろう。それでも母親を連れてきて、怖いおもいをさせる必要があるのか?」
「たしかに、プラスとマイナスの効果があるわ」と、まゆみが言った。
「わたし達はいま、大軍を投入しようとしている……機動隊、たくさんのライト、サイレン、銃などをね。それでは子供は怯えきってしまうわ。わたしたちは、あの子が知っている森田以上に恐ろしく見えるはずよ。母親が姿を見せるのは、確かに逆効果かもしれないけど、こちら側の人間の中では、あの子にとって、ただひとり見慣れた顔だわ。これが必要になるか、あるいはすべてを台無しにするのかわからいけど」
 チーフは一瞬だけ考え込み、おもむろにマイクを口元へ上げた。
「岩井、少年の母親を急いでここへ連れてくる方法はないか?」
「調べます」岩井は応じ、カチリと無線を切った。
 数分の後、岩井からの返事が来た。
「母親を自家用ヘリで、こっちへ飛ばせる準備ができているそうです」
「飛ばすって、誰がだ?」チーフが疑わしそうに問い返した。
「知事です」と、岩井。「チーフが頼んでくるのを待っていたんだそうです」
 チーフは頭を振った。『なんてこった……政治家ってやつは』と、胸のうちで呟いた。
「じゃ、やってくれ。少年の母親を送ってもらってくれ」と、マイクに向かって言った。
「もし母親が、われわれよりも先に現場に着いた場合は、現場に近寄らせるなと伝えてくれ。近寄らせるなとな」
 チーフは無線を切ると、まゆみに向き直った。
「少年は森田の邪魔をした。ということは少年を護っていた盾がなくなったわけだ。もう殺されたかもしれんな」
「森田が急いで少年を追って、相手を見つけた時にまだ興奮していれば、殺されたかもしれないわね」と、まゆみ。「でも森田が、すぐに少年を殺すほど興奮していなければ、彼は少年を殺さないでしょうね。わたしは二人が改めて親しい関係を築くという方に賭けるわ。その方が双方の利益にかなうもの」
 チーフの表情は、まゆみの言うとおりであることを切望するが、とってもそうは思えないと告げていた。
 まゆみは重ねて言った。
「少年がまだ生きているのなら、わたしたちが姿を現すことで森田に少年を殺させるように追い込む形になるわ。だからこそ、母親がいたほうがいいのよ。そのような事態を食い止めるためにね。家族的な会話をさせて、法律だの、銃だの、慈悲だの、刑務所だの……なんて言葉を使わせないようにするの。個人的な、家族的な会話だけをさせるべきだと思うわ。二人が道中で体験した最近の二回の他人との接触を思い出してちょうだい。どちらの場合も、相手は家族づれだったわ。その人たちは、どういうわけか誰も殺されなかったのよ」
 チーフは疑わしげに眉を上げた。今までとは違う種類の法の執行方法だ。まゆみの考え方は、思い切って大きな賭けをする楽観的なやり方ではないだろうか? おれの考え方は違う。そうなり得るというだけの理由で事態を悪化させたくない。そのような結果をもたらした数々の例を記憶しており、その記憶に基ずくものだ。
 彼は座席の中で力を抜いて後ろへもたれ、目を閉じた。パトカーは中央道を疾走しつづけた。
 まゆみは、チーフの悲観主義を感じ取った。自分には、チーフが間違っているという確信はない。彼女は座席の端に腰掛けたまま、動かなかった。

 通報に応じて最初に到着したのは、黒と白の地元の警察の車だった。ライトは点けているがサイレンは鳴らさず、人目につかないように、未舗装の私道を白石の家へ近づいていった。年老いた酒飲みの助手は緊張しており、左手で運転しながら、右手で拳銃を握っていた。家の玄関の網戸が激しい勢いで開いて誰かが出てきたので、強くブレーキを踏み、両手で銃を構えた。
 出てきたのは農場主の本多竜太郎だった。助手は銃をおろし、事情を聴取しようと車から降りた。
 本多は助手の腕を捉えて、向きを変えさせ、「あれが犯人の車です」と言って、ハイウェイへ続く私道の方を指差した。「歩いて行きました。あっちの方へ。拳銃を持っています。白石の話だと、三八口径のようです」
 本多は後ろへ下がった。指さした方向へ助手がただちに出向くものと思ったのだ。
「完全な報告を作らなければ」と助手は言って、尻のポケットからノートを引っ張り出した。
「そんな、今でなくてもいいでしょう! 精神異常の男が拳銃を持って、子供を畑じゅう追い回しているんですよ!」と、本多が叫んだ。
 助手は広大な牧草地をざっと見渡した。木立や、水の涸れた小川や露出した岩がある……待ち伏せするには絶好の場所だ。しかし自分はここでヒーローを演じるつもりなどない。
「たしかに、そのとおりだが……わたしの受けた命令は『非常線を設定し、増援隊に本事件全体を解決する多少の足掛かりを提供する』ことだ……もうすぐ増援隊が来る」
 本多はうんざりして鼻を鳴らした。小作人の白石と孫の春樹が網戸の向こうへ姿を現して、じっとこちらを見ている。

第二十一章 脱獄囚と少年と警官隊

 浩介は立ちどまって休んだ。もう樫の大木から見える所まで来ている。傾斜した広大な牧草地を見渡し、すぐに、健太はいないと見てとった。水のない川底に沿って、注意深く左右を眺める。そのとき、樫の木の枝で、何か白いものが動いた。浩介は何気なくそちらを向いた。
 もっと上の枝に登ろうとしている健太の腕は足が、ちらちらと見えた。彼は前進し始め、そろそろと湿地帯へ降りた。上を見ず、他の木や藪の中を通って健太のいる木の根元まで来ると、腰を下ろして休んだ。
「健太、北海道ってのは素敵な所なんだよ」
 浩介は木の上にいる少年に話しかけた。座る位置を変え、傷口から血が洩れないように前腕を強く圧しつけた。
「おれの父さんが北海道に住んでいるってこと、もう話したかな? この絵ハガキを送ってくれたのが、父さんなんだ。今、何て書いてあるか読むから、聞いてておくれ」
 もう一度、位置を変え、尻のポケットからゆっくり絵ハガキを引きだした。
「『かわいい浩介。わたしが家を出たのは、おまえのせいじゃない。まず、はっきりと、そう言っておきたい』……聞こえたかな? 健太」
 健太は木の上で身悶えした。恐ろしさに震えている。できるだけ浩介から遠くへ逃げたい……でも、同時に逆の思いにも捉えられていた。好奇心だ。この男の言うことを聞きたくてたまらない……どこへでもついていって、どこへ行き着くか見たくてたまらない……
 健太は頭を動かして、もっとよく声が聞こえるようにした。
「『北海道は美しい所だ』」浩介はゆっくり読みながら、つらい記憶を辿った。
「『冬はとてつもなく寒くて雪に覆われるが、夏は太陽が輝いて美しい。いつかおまえが会いに来てくれたら、お互いに相手のことを、もっとよく理解できるようになるかもしれない』」
 浩介は短い笑い声をあげた。
「手短で魅力的……それが、父さんのスタイルでね。『冬はとてつもなく寒い』だってさ……まるで、それが魅力的なセールス・ポイントででもあるみたいに」
 浩介は汗まみれの顔を仰向けて、樫の木の葉の間から覗く暑くて色の薄い空を見上げた。風が葉を何枚か吹き飛ばし、草をなびかせたが、暑い南風なので、何の慰めにもならない。
 さらに浩介は言う。「父さんは、よく、おれの頭をポンポン叩いて、他の人たちに言ったもんだ。『人生に疑問なんか持たずに生きるやつもいるし、なぜかと知りたがるやつもいる。この子は後のほうだな』ってね」
 聞いているうちに、健太は次第に怖れを忘れていった。
 浩介は目をとじた。
「だから、おれは北海道へ行きたかった。父さんに会いに行こうと思ったんだ。たぶん、初めはパンチをくらわすだろうが、最後には仲良くなって、一緒に座ってビールを飲んだり、話をしたり……」
 突然、痙攣を起こして浩介はひっくり返り、呻いた。脇腹を押さえてから、そこを見た。脇腹のあたり一面に血が染み出ている。苦痛をこらえて身体を立て直し、絵ハガキをポケットへ戻した。
「しばらく休憩しよう。そうすれば、坊やの決心もつくだろう。どうかね?」
 まるで独り言を言っているか、架空の連れに話しかけているかのように、返事を期待していない口調だ。
 健太は枝にしがみついて下を見下ろした。浩介が、もっと大きな声で話してくれればいいのに……話すのを止めないでほしい。ちゃんと聞いているから……北海道や、他に彼が行ったことのある場所のことを、もっと話してほしい。
 しかし、もう浩介は何も言わなかった。
 健太が木の根元を覗くと伸ばした浩介の片足が見えた。血のついたズボンと、靴が……

   * * * * 

 ハイウェイ・パトロールの車が十二台と、山梨県警特別捜査本部の精鋭を乗せた車が同じく十二台……白石の家の私道から背後のハイウェイまで、ぎっしり一列に並んでいた。
 また、この事件を広域捜査とみて警視庁との合同捜査となったため、警視庁より機動捜査隊員十名と共に小沢警部が派遣されてきた。
 いかつい顔で大柄の小沢警部は軍隊のようにきっちりと二列に整列させた十数名の警官たちを前に、力をこめて話した。
「県警の諸君には牧草地の外部を担当してもらう」唸るような声だ。
「県道の交差点及と中央道ハイウェイの道路封鎖に当ってもらう。銃を扱うより、ぽかんと見物する連中を処理してもらいたい。この前のこの種の事件では、この中の何人かは覚えているだろうが、後ろにいた人間が、興奮した警官に撃たれた」
 聞いている男たちの数人が笑った。緊張をほぐす機会はありがたい。
「今日は誰も興奮してはならない」と、小沢警部は話を続けた。「誰も、わたしか、まもなく到着する細川隊長の命令なしには発砲してはならない。この事には知事が関心を持っている。この事件全体を、支障なく完璧な形で終わらせなければならない」
「知事は、この犯人の何を気にしておられるのですか?」警官の一人が訊ねた。
「誘拐された子供のことだ……知事は子供のことを非常に気にしておられる。このことは諸君の頭に充分に叩き込んでもらいたい」
 白石と妻のさゆりと孫の春樹の三人は、農場主の本多と共に玄関のポーチに座って、彼らを見守っていた。白石は手を伸ばして孫を膝の上にのせ、長い間固く抱きしめていた。

    * * * *  

 浩介は目を閉じたままだった。脇の小さな血溜まりが次第に大きくなり、広がり始めている。土手のてっぺんまできた血の細流は、ゆっくりと、しかし確実に乾いた川底に向かって流れ落ち始めた。
 濃い血の流れが目に入ると、健太はもう我慢できなくなった。気をつけて木を降り、浩介のすぐそばの地面に降り立った。
 浩介は目をあけて笑顔を見せ、「健太、これだけは確かだ……おれは絶対にお化けを信じるよ」と言った。
 やっと健太は小さな笑みを浮かべた。
「撃たれたのは初めてなんでね」と浩介。
「ごめんなさい」と、健太は謝って、浩介のそばに、血溜まりとは反対側のまばらな草の上に腰を下ろした。
「いいんだ」と、浩介は言った。
「本当の話、もしどうしても撃たれなきゃならないんなら、坊やに撃ってもらいたいと思っていた……優しくね。誰か知らない人に撃たれるんじゃなくってね。あれこれ全部を考えると、これでよかったんだよ。まだビールも飲めるしね」
「ビールって、どんな味?」
「うーん、この世で一番うまい味だね」
 何かが健太の視野をかすめた。少年は用心深く立ちあがって首を伸ばした。二台のハイウェイ・パトロール車の屋根が見えた。ライトを光らせ、塵を蹴立てて、未舗装の私道を走って行く。
「逃げたほうがいいよ」と、健太が言った。
 
    * * * * 

 二台のパトカーの先頭の車の中で、まゆみは細川に目を据えた。
「この事件を平和的に終わらせるチャンスは、あなたが考えていらっしゃるよりも大きいと思うわ」この論点を追及するのは、それなりの意図があってのことだ。
「そう思えるんだろうな、きみには」と、細川チーフは応じた。親友の葬式に行く途中のような顔をしている。どんな理屈をまゆみが持ち出しても、細川は自分の考えを変えない。相変わらず陰気な顔をし続けている。
「ねえ、チーフ」
 佐川巡査が県警と同調している車内スピーカーに気をとられている隙に、まゆみは低い声で話しかけた。
「あなたと森田浩介とのことは、二十年も前のことでしょう。たぶん森田は覚えていないと思うわ……あなたを含めて、証言した警官のことなんて。他の警官も証言したんでしょう? 森田を少年院に入れることになったのは、あなたの証言のせいだけではないと、ご自分でおっしゃったじゃないの?」
 佐川巡査が車を回して白石の家に続く私道へ入れると、チーフはまゆみに冷たい視線を向けた。
「おれは昨日のことのように覚えている」と、チーフは言った。
「そしてあの男も覚えている。おれが自分の考えを自分の口で言ったんだからな。その理由だって……今でも目に浮かぶよ。あの子の目……きみが想像するとおり、卑屈でも意固地でもなかった。むしろ……いや、はっきりとはわからん……おれの立場に立って考えているような、おれの側から物事をみようとしているような感じだった。まるで自分から、このおれに、もっとひどいことをしてみろと迫っているような目だった」
 車が集合した警官隊の中で止まり、チーフは手を伸ばした。
「もっとひどいことをしてもろですって?」と、まゆみ。
「今日これからおこるようなことをだろう」と、チーフは答え、ドアを開けて車から降りた。正午の強い陽射しの降るなか、戦いの場へ足を踏み入れていく。

     * * * * 
 
「早く逃げないと」戻ってきて浩介のそばに膝をついた健太は言った。
「だめなんだ、坊や」と浩介は答えた。もう走れない。できるのは、この樫の木陰に座ってハエを追い、涼しい風が吹いてくれるのを待つことだけだ。
「これから行こうとしているところへ辿り着くには、大音量のラジオが付いたタイム・マシンが要るな」
 またしても視野の端に何かがかすめ、健太はハッとして振りかえった。なんのことはない……暑い風に吹かれていばらの茂みが動いただけだった。健太は不安げに浩介の隣に座り、目で斜面を流れる細い血の痕をたどった。その流れにアブがたかっている。

    * * * * 

  ミラー・シェードをかぶった小沢警部は汗をかきかき細川に近づき、背筋をぴんと伸ばして敬礼した。
「小沢です。チーフ。前にお合いしたことがあります。今も、わたしの部下の一人を連れていらっしゃるはずです……田沼光一を」
「この地域全体に非常線を張ったかね?」と、細川はたずねた。
「水ももらさぬ警戒ぶりです。カエルのあそこみたいに」と言ったとたんに、頭の中で警鐘が鳴り、小沢は残りの言葉をのみこんでまゆみを見た。
「失礼、お嬢さん」
「何か個人的なご体験に基づいたお言葉のようですわね。警部」とまゆみは言い、まっすぐ相手の顔を見つめた。
 細川は頬が緩むのを抑えて、問い重ねた。
「それで、犯人を見つけたのかね?」
「木のそばにいます……牧草地の中へ半分ほど入った所です」と言って方向を指で示し、たたんだ紙を開いて細川とまゆみに手描きスケッチを見せた。
 白石の家、道路、木……樫の木の所に、丸で囲んだX印がついていた。目標地点だ。
「周囲二百メートルくらい離れた所に、警官を配置しました。まだ犯人とは接触していません。怪しい行動があったときには、空に向けて威嚇のための発砲をするよう命じておきました」
「では、そこへ行こう」細川は答え、後ろのパトカーから降りた部下たちの方を向いた。
「倉田、拡声器を取ってくれ」
 倉田はうなずき、岩井に向き直って問いかける顔をした。
「トランクに入ってるよ」と、岩井が低い声で言った。
「どのパトカーにも備え付けてある標準支給品だよ。おまえ、いつから現場へ出してもらっているんだ?」
 倉田が細川チーフに電池式の拡声器を渡すと、小沢警部が先に立って案内した。
 チーフは、先送りしていた質問を口にした。
「で、子供は?」
「最後に見たときは大丈夫でした……森田は怪我をしています。どの程度のものかわかりませんが、まだ血を流しています」
 チーフは小沢に、早く自分たちを現場に連れて行けと手で催促した。
 まゆみは一行の一番あとからついていき、『なんてこと!』と胸の内で悪態をついた。人質の少年が誘拐犯の森田を撃ったという……しかも殺さなかった……人質の少年は何を考えてるのかしら……まったく、わけがわからない。うだるような暑さにもかかわらず、寒気がして身震いした。ふいに、身体中の毛穴からどっと汗が噴き出した。

 * * * * 

  健太は小川の水を両手ですくい、そろそろと運んできて浩介に飲ませようとした。だが、水は浩介の口をわずかに潤しただけで、大部分が顎とシャツへこぼれてしまった。また、急いで川べりへ行き、もう一度、水を汲んできた。今度はうまく浩介の口に流し込むことができた。健太は、また水を汲みに行った。
「ありがとう、坊や」浩介は言った。「ひとつ、男が知っていなければならないことがある。砂漠のまんなかに、たった一人で取り残されてしまったとき、どうやって水を手に入れるかだ。聞きたいかい?」
「うん」健太は浩介のそばに屈みこんで、あたりの落ち葉を手でもてあそんだ。
 そのとき、拡声器の声が聞こえてきた。
「森田! おれは県警特別捜査本部長の細川だ」
 浩介の口元に『なんだ、おまえか』と言うような笑いがちらっと浮かび、そして消えた。
 彼は目を閉じて木の幹に頭を持たせかけた。
「怪我をしているのはわかっている!」
 細川の声が上空を流れてきた。小さな牧草地の低地にいる浩介と健太からは何も見えなかったが、このときすでに二人のいる場所を大きく包囲して人員が配置され、最後の大がかりな決戦の準備が着々と整えられていた。
「百人近くの武装警官が、そこを包囲している」細川が言った。「まわりをよく見てみろ。おれがまっすぐおまえを狙っているのが見えるだろう?」
「おれのために、わざわざご苦労なこったな!」浩介は大声でどなり返し、「感激したぜ! だが、あいにく一、二歩さがってもらわなければならん! おれはメキシコに行きたいんだ!」そして、浩介は小さな声で健太に言った。「これは、もちろん冗談だよ」
 細川は包囲網のすぐ内側の小高い丘で拡声器を手にして立っていた。岩井と倉田とまゆみの三人も上がってきて、すぐそばに立っている。まゆみは気遣わしげだった。まわりの警察関係者たちのようにポーカーフェースでいようとしたが、それだけはできなかった。
 自分は、あの子供の母親であってもおかしくない年頃の女なのだ。
「森田、おまえには悪いが、そっちは方向違いだ」細川は拡声器で話し続けた。「それより、こうしてはどうだ。おまえはその子を解放し、おれたちは話し合う。冷えたビールでも飲みながら、ゆっくり話し合おう」

「ビールだとさ」浩介は健太に言った。「言ったとおりだろう?」
 そして、細川に怒鳴り返した。
「そいつはありがたいが、そうするわけにはいかん! おまえと仲間のやつらがここから引き上げたら、この子は解放する!」
 浩介はこの答えが相手の胸にしみこむのを待って、続けた。
「言うとおりにしないのなら、今すぐ、この子の頭をぶち抜く!」
 健太はてっきり裏切られたと思い込み、何がなんだかわけが判らないまま、ぎょっとした表情で浩介を見た。
「そんな顔をしないでくれ、坊や」浩介が言った。「拳銃なんて、どこにもないだろう。これは、ただの話し合いってやつなんだ。向こうが何か言って、こっちも何か言って、お互いに、どこかへたどり着くようなふりをし合う。どこにも、なんにも意味なんてありゃしないんだよ」
 これを聞いて、健太は少し安心した。
「ところで、あの拳銃はどうしたんだい?」浩介はさりげなく訊いた。かすかだが、まだ望みはある。
「井戸に捨てちゃった」
「うまいことを考えたもんだね」浩介は言った。これは本音だ。

「あいつ本気ですかね?」岩井が訊いた。
 細川は拡声器を横にぶら下げて考え込んだ。それからまゆみの方を向いた。
「きみはどう思う?」
 まゆみはためらった。自分の薄っぺらなうわべだけの理屈に、もううんざりしていた。
「この二日間に起ったことから考えると、森田は撃ってこないと思うわ」
 まゆみは慎重に答えた。
「やり返したんで、ちょうどおあいこになったんじゃないかね」と、倉田が言った。
「やつを撃ったのは、あの子なんだから」
 まゆみは首を振った。
「危険だったのは、森田が牧草地で少年をつかまえた時よ。でも、もう二人はその危険を乗り越えたわ。ということは、また相棒の関係に戻ったということよ。わたしは、このことを軽く見たくないの。あの二人は似合いのコンビなんだわ」
 倉田はげらげら笑い出しかけたが、すぐに自制した。
「ほんとは……そんな単純な話じゃないの」まゆみは説明しようとする努力をやめた。
「森田浩介にとって少年を撃つのはとてもつらいことだと思うわ。宮内修造の場合は何も感じなかったでしょうけど」
 倉田は沈黙した。
「ひとつだけ、はっきりしている」細川が言った。
「やつが子供を人質に取ったままここから脱出したら、おれたちはまた振りだしに逆戻りだってことだ」
「しかし」と、倉田。「子供を殺したら、やつは完全に死刑ですよ」
「ばか言え。どっちみち、やつは絞首刑だよ」岩井が言った。
「もういい」細川が制した。
「そんなに議論したけりゃ、電信柱を相手にやってくれ。あの血の跡から見て、どっちにしても、大した違いはない。今はあの少年の救出が第一だ」
 若い田沼光一が横長のレザーケースを脇に抱えて細川の横に現われた。イタリア製の黒い皮手袋をし、櫛を通したばかりのてかてかの髪をぴったりと後ろへ撫でつけている。
「ぼくは、どの位置につきましょうか?」田沼は細川チーフに訊いた。
 チーフは田沼を上から下まで一瞥した。
「帽子を撃ち落とせるか?」
「寝転がっても牛のケツの皮を撃ち落としてみせますよ」田沼は答えた。
 チーフはニコリともせずに言った。
「それじゃあ、この近くにいてくれ。おれが風邪をひいたら、おまえさんもクシャミをするくらい近くにな」
 
 そのとき、上空からバタバタと轟音が響いて、わき腹に警視庁のマークのついたヘリコプターが見えてきた。ヘリコプターは旋回して着陸態勢に入った。
「あれはきっと少年の母親でしょう」岩井が言った。
「迎えに行ってやれ」と細川が促した。

第二十二章 別れのとき

 浩介と健太は草をなぎ倒し、葉や茎を巻き上げながら飛んでくるヘリコプターを見守っていた。ヘリコプターは、すぐ近くまで飛んできて、道路の向かい側の牧草地に着陸した。
「見てごらん、坊や」浩介が言った。
「夢が本当になったよ。あれは坊やの宇宙船だろ?」
「ぼく、あれに乗れるの?」健太が訊いた。しかし、その声は決して嬉しそうではなかった。
「今日、その日がやってきたんだ」
 健太は目を大きく見開いて、胸をふさがれたように真剣な表情になった。すぐ向こうの見えないところから聞こえてくる人や機械の騒がしい物音が、何か恐ろしいことにつながりそうな予感がますます強くなってきた。今は宇宙船やヘリコプターに乗ることも、そんなに楽しいことに思えない。
「森田!」拡声器の細川の声が言った。
「ここに、その子の母親が来ている。何か言いたいことがあるそうだ」
 健太は、この知らせに飛びあがらんばかりにびっくりした。そして急いで川べりの低地の高台へ登って行き、目を細めて母親の姿を探した。
「どうしたんだ、健太?」浩介が言った。
「お母さんだよ」健太は息をはずませて答え、首を伸ばして前方を見た。
 突然、すべてが混乱した。風にざわめく草むらの向こうの道路わきに、一人の女性が警官たちに付き添われて立っているのが見えた……お母さんに違いない。健太は浩介の方を……木の陰の安全な自分たちの隠れ家を……振りかえった。ぼくは、どっちへ行ったらいいの? 少年の足元で地面がぐらついた。
「坊や、あの(仲良しお化け)の衣装を、まだ持ってるだろ?」浩介が言った。
「お母さんは『お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ』をやらせてくれると思うかね?」
 健太は泥の丘を急いで降りてきて、浩介のそばに屈みこんだ。
 浩介は肩をすくめた。
 「じゃあ、ひとつ賭けをやってみるか」何もやらないよりましだろう。
 浩介は、少年にほほえみかけた。いよいよ行動するときが来たようだ。
「さあ、あのお面をかぶってごらん」

 混雑した現場にパトカーがまた二台加わった。現場の牧草地や道路沿いに集まってきた警察の車は、これでもう三十五台になっている。空中には人の足の立てる土埃が舞い、あたりはまるでカーニバルのような騒ぎだった。また一台、車が青い警告灯を回転させながら県道を走ってきて人だかりの真ん中で止まった。今度の車は白色の救急車だ。
「信じられないわ」駆けつけてきた救急車を見てまゆみが言った。
「いったい誰が……?」
 岩井が手を振ってまゆみの目をとらえ、チーフの後ろを指差した。
「まあ……」まゆみはつぶやいた。二度目の驚きだ。
「ちょっと失礼」田沼光一がまゆみをちょいと突いてパトカーのトランクからどかせ、相手のほうをちらりと見た。そしてトランクを開け、中にレザーケースを置き、注意深く掛け金をはずしてケースを開いた。ケースの中には高性能の軍用ライフルが三つの部品に分解されて収められていた。
 田沼はこれ見よがしの馴れた手つきで素早く部品を組み立て、それを慎重にトランクの上に置いた。
 チーフの部下の倉田は若い田沼の手際の良さにしぶしぶ敬意を払いながら、その様子を注意深く見守った。田沼はベルベットのバッグを取り上げて高性能の照準器を取り出した。そして、その照準器のレンズを口元に持ってきて息を吹きかけ、特殊なクロスできれいに磨き上げた。
 ふと、田沼は背中に視線を感じて振り向いた。まゆみが見つめているのに気づくと、彼女に向かって自信たっぷりにニヤリと笑った。
 この追跡劇で田沼光一が秘密の任務を帯びていたとは、今の今まで気づかなかった。
 まゆみは胸がむかむかしてくるのを感じて、顔をそむけた。これからどんなことが起ころうとしているのか……それを考えるだけでも恐ろしかった。いったいこの狙撃手は子供を救出することに関心があるのかしら? それとも大きな獲物を仕止めるほうに関心があるのかしら? どっちなのかしら? だが、そのどっちだろうと大した違いがないことはまゆみにもわかっていた。

 健太の母親、佐久間礼子がチーフの指揮する前哨基地に案内されてきた。憔悴しきって痩せ細っていたが、それでもなんとか冷静さを失うまいと、けなげに努力している。
 倉田が拡声器を手渡した。礼子は怯えた表情でそれを受け取り、指示も何も待たずに、いきなり持ち上げ、あやうく取り落としそうになった。拡声器がガーッと耳障りな音をたて、それが礼子をますますあわてさせた。
 チーフが手を貸して持ち方を教えた。
「そのボタンを押して普通に話してください」
「あの人、気はたしかなんですか?」礼子は泣きださんばかりの表情で訊いた。
「自分がどんなことを言うか心配なんです。あの人を怒らせやしないかって」
「普通に話せばいいんですよ」細川は言った。「あの男が自分の家の庭にいるつもりで話しかけてください」
 礼子はちょっと考えこんで、それから、その何んとかいうものを持ち上げた。そして、チーフに教えられたボタンを押すと、今度はもっとすさまじいガガーッという雑音が出た。
「いいです。これは、わたしが持っていますから、あなたはあの男に話しかけてください」と、細川が優しく言った。
 礼子は拡声器に話しかけた。
「あの……お願いです。聞いてください。その子はわたしのたった一人の息子です。お金なら出します。できることは何でもします。お願いですから、その子を家に帰して。お願いですから、どうか……」
 拡声器はガガーッと最後に長い雑音を発して、ぷっつりと切れた。
 チーフは拡声器を倉田に投げ返し、怒って両手を高々と上げた。倉田と岩井は大急ぎで拡声器を分解しはじめた。
「いまのでいいんですよ」チーフは母親に言った。「代わりを持ってこさせますから」
 そして、うながすように倉田を見やった。

 健太はお面をかぶった。浩介は服のよごれを落してやり、にっこり笑って少年の姿を見やった。「お家へ帰る用意はできたかね?」
「うん」健太は答えた。今度ははっきり決心がついた。
 浩介は顔を上げて大声で呼びかけた。
「おーい、チーフ。そこにキャンディはあるかあ?」

「こいつはもうダメです」倉田は拡声器を直すのをあきらめて言った。
「じゃあ別のを探せ!」チーフはどなった。そして両手を口に当てて大声で浩介に問い返した。
「何だって!」
「キャンディだ! ハローウィンのキャンディだ!」森田の声が返ってきた。
「腹を空かせてるのか?」チーフは森田に問い返し、困惑顔で岩井の方を見た。
「とにかくキャンディを探してきてくれ」
 森田がまた叫んだ。
「そうすれば、この(仲良しお化け)をそっちへ引き渡す」
 チーフは岩井の方を見て、急いでキャンディを集める作業に取りかかるよう指示した。
「いまの言葉、聞いただろう?」

 倉田が、指揮を取るチーフの所へ走って戻ってきた。
「チーフ、拡声器はあれ以外にありませんでした」
 チーフは頭を振ってため息をついた。見ると岩井が道路へ戻って居合わせた警官たちからガムやミントやジェリービーンズなどの菓子をかたっぱしから集めてまわっている。
 田沼光一が車の後尾からこっち側へまわってきた。車のボンネットに寄りかかってライフルの照準器に片目を当てている。撃たれたらひとたまりもないような見るからに強力そうなライフルだ。
 母親は恐怖に怯えて泣き崩れた。
「もう、用意はできたのか?」チーフが訊いた。
「いつでも言ってください。一発で仕止めます」田沼は答えた。
「無茶なことはなさらないで!」母親が悲鳴に近い声で叫んだ。
「絶対に無茶なことはしないで!」そして口に両手を押し当ててむせび泣いた。
「あの子は、わたしの息子なんです!」
 チーフは田沼をじっと睨みつけた……
 田沼もチーフの表情に気づいた。だが、その表情にこめられていたのが森田浩介と、チーフ自身と、与えられた任務と、自分が下した判断に対する彼自身の矛盾した感情のすべてだと知ったら……田沼光一は仰天したに違いない。

  ……森田浩介の人間形成に細川自身が果たした役割、そして私生活を投げうって尽くしてきた仕事の究極の価値……それはいったい何のためだったのか? この牧草地に立って、社会のはみ出し者となってしまった一人の男の処刑……というよりは、許し難い流血の惨事となるかもしれないこの現場の指揮を取るためだったのか? 田沼光一はライフルを持った若造にすぎない。だが、この若造は彼が長年のあいだ繰り返してきた無数の非情な選択の重荷と、取り返しのつかない無念さのすべてを代表している……

 チーフは髪をかき揚げると、牧草地の彼方へ向かって声を張り上げた。
「ようし、取り引き成立だ! 菓子を用意した!」
「もう一つある!」浩介がどなり返した。
「この子の母親に、毎年、『お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ』を、やらせると約束させてくれ!」

 小さな谷の下の方では、健太が動揺しておろおろしていた。問題は今の最後の要求だった。健太は目をこらして母親の姿を探した。もうパニックを起こしかけている。今すぐにでも走り出しそうだった。
「坊や、あのリストを見せてごらん……ほら、昨日書いていた『自分のやりたいことの一覧表』をさ」浩介が言った。
 彼は木に背をもたれかけさせたままだった。衰弱しきり、立つ力もない。それでも、この今の瞬間を利用すれば、どんなことができるかを知っていた。だが早くしないと、それも手遅れになってしまう。
「おじさん!」健太が訴えかけるように言った。
「あのリストを見せておくれ」浩介の頭の中で考えが一つにまとまった。
 健太はポケットからリストを引っ張り出して浩介に渡した。
 浩介はその紙を取って読み、そして笑った。今の自分は半ば棺桶の中に足を突っ込んでいる。出血は止まらず、高く上った太陽に容赦なく照りつけられ、そのうえ、追いつめられて包囲され、にっちもさっちも行かない状況だ。それにもかかわらず、浩介は本当のところ、これを楽しんでいた。この反乱の最後のチャンスと、自分が仕組んで演じる不気味なシナリオを楽しんでいるのだ。
 一方、健太は緊張に神経をすり減らして、すすり泣きはじめた。
 浩介は、はるか彼方の細川チーフに向かって必死に声を張り上げた。
「要求はまだある! 健太が頼んだら、いつでも祭りに連れて行ってジェットコースターに乗せるし、綿あめも買ってやると約束するんだ! 一年に一度でいい!」
「お家へ帰りたいよ!」健太が叫んだ。
「まだある」浩介は叫んでリストをチェックした。
「大人になったらビールを飲むのを許してやること」
 そばで「ビールなんて飲みたくないよ!」と、健太はますます怯えて泣いた。
「だって、坊やのリストにそう書いてあるよ」浩介は健太に言った。
 そして今度はチーフに向かって声を張り上げた。
「それに女の子とのデートもだ!」そして小声で健太に言った。
「これは坊やのリストにはないけどね。でも、これを言っておけば、大人になったときの坊やは、きっとおれに感謝するよ」
 浩介はリストに載っている項目を再チェックした。
「これは済んだと……運転もした……あの宇宙船にも乗れる……」
 浩介は健太を見上げた。「まあ、こんなところかな」
 再び彼はチーフに向かって叫んだ。
「この子のお母さんに約束させるんだ! 約束しなければ、この子は渡さん!」
 健太は涙を流して泣きつづけた。
「ぼく……お家へ帰りたいんだよ、おじさん……お母さんは悪い人じゃない。きっと全部やらせてくれるよ」健太が言った。
「向こうの手にのっちゃだめだよ、坊や」
 浩介は健太に言い、チーフの返事を待った。やがて、牧草のへり越しにチーフの姿を見ようと首を伸ばした。

 じりじりと苛立ち、この交渉がおかしな方向へ変わってきたことに我慢できなくなった細川は、両手を口に当てて声を張り上げた。「要求は全部、受け入れる!」
 森田の声が聞こえてきた。
「母親の口から、そう言わせろ!」
 細川は母親の方を見た。どうします?
 母親は渋った。前へ出ようともしない。
 細川の顔が怒りで、どす黒くなってきた。

 健太が、また泣き出して立ち上がり、「ぼく、お家へ帰りたい」と言って、牧草地の斜面をよじ登りはじめた。
 浩介は手を伸ばし、健太の腕をつかんで引き戻した。そして、すすり泣く健太をそばに引き寄せ、自分の息子のように抱きしめた。
「気持ちはわかるけどね、坊や」浩介は言った。

 母親の礼子は、苦悩と動揺に顔をゆがめて口走った。
「そのようなことが、わたしたちの信仰に反することは健太も知っているはずです!」
 礼子はわかってほしいと訴えかけるようにチーフの顔を見た。
 ますますチーフは苛立ち、ついに抑えていた怒りを爆発させて、「そんなくだらんことを言っている場合ですか!」と一喝(いっかつ)した。そして口に手を当てて叫んだ。
「母親は約束すると言っているぞ!」
「母親の口から言わせろ!」浩介が叫び返した。
 チーフは振り向き、ぎらぎら燃える目で母親をにらみつけた。それが母親に通じた。論争は終わった。
「約束するわ!」母親は、あらんかぎりの声で叫んだ。

 浩介は健太を抱いていた両手を離して、目に涙をためた少年の顔を見た。
「お母さんのことを信じていいかね?」
「お母さんは、とってもいいお母さんだよ」健太はすすり泣きながら立ちあがった。
 浩介はポケットに手を入れ、苦痛をこらえて、盗んだ金の残りの札束を取りだした。
「お家へ帰ったら、これを隠しておくといいよ」そう言って、浩介はキャスパーの衣装のジッパーを開けて、札束をその中へ突っ込んで、またジッパーを閉めた。
「お母さんがもし嘘をついても、これがあれば自分でビールを買えるだろう」
「浩介さんって、ほんとは悪い人じゃないんだね」健太が言った。
「悪い人さ」浩介はさらりと答えた。
 はらわたをあたり一面にまき散らしているよなこのざまで、今さら善人ぶってみたところで何になろう。それに……この人生に幻想は禁物さ。この子に、(別れのはなむけ)として残してやれるものは、この教訓しかない。浩介はその教訓に従って生きようとした。かつて彼の母親がダンス・ホールでどんなことをして生計を立てているか知った時、彼はこの教訓に打ちのめされた。姿をくらまし続けていた父親の仕事が何であるかを知った時もだ。浩介は、もうそれ以上の不意打ちを食らわされるのはごめんだと思った。もちろん、それからも同じような不意打ちは遠慮なく襲ってきた。だが、この心構えがあったおかげで、それほどうろたえずに済んだと自分では思っている。たとえば、今日のことがそうだ。たしかに細かく見れば、驚きの連続だった。八歳の子供に撃たれるなどと、いったい誰が予想できただろう? だが、その結果そのものは……浩介には驚くようなことではなかった。
 彼は牧草地の向こうにいる警官隊がどんな準備をしているか、首を伸ばして見ようとした。
「さあ、健太、よく聞いておくれ」浩介は言った。
「両手を挙げて、ゆっくりあそこへ出て行くんだよ。それから、まっすぐ警官隊の方へ歩いていって、大声で『お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ』って叫んでごらん。わかったね?」
「浩介おじさんは、どうするの?」健太が訊いた。
「何か手を考えるさ」浩介は片手を差しだした。その手を健太は握ったが、突然、友だちのことが心配になってきた。
「じゃあ、お別れた、坊や。ドライブ、楽しかったよ」健太ににっこり笑いかけ、牧草地の斜面を登っていくよう、促した。
「ようし、もういいぞ、チーフ!」浩介は声を張り上げた。
「道を開けてくれ。いよいよ(仲良しお化け)のキャスパーのお出ましだ。おれが知っているうちで一番の(仲良しお化け)だぞ!」
 浩介は凍りついたように動かなくなった健太をそっと突っついて前へ押し出した。
 健太はとぼとぼと前へ歩き出し、牧草地の斜面を登り始めた。
「両手を上に挙げるんだよ。忘れちゃいけないよ」浩介が声をかけた。
 健太は斜面の上まで登り、両手を挙げた。

 双眼鏡をのぞいていた岩井が思わず微笑した。低く声を立てて笑っている。
「貸せ!」
 そう言ってチーフは双眼鏡を取り上げ、目に当てた。健太だ。斜面の頂上を越えて、こちらへ向かって歩いてくる。キャスパーの白いフード服にすっぽり身を包み、空まで届きそうなほど高々と両手を挙げていた。
 一方、健太はのほうは平坦な地面まで上がってきて初めて、自分と浩介を待ち受ける者たちの全貌を目にした。すごい数の人だ。あちこちで光線がくるくると回り、どこもかしこもライフルや拳銃や散弾銃だらけだ。その銃口のいくつかは健太に向けられていた。
 県警や警視庁の警官たちが……制帽をかぶり、そのうち何人かは、どこを見ているのかわからないサングラスをかけた男たちが……あらゆる方角から攻撃態勢をとって健太と浩介を待ち構えている。
「さあ、おいで」チーフが双眼鏡をのぞきながら、なだめすかすように言った。
「そのまま歩きつづけなさい!」
 しかし、健太は突然立ち止まり、その場に立ちつくした。
 チーフは双眼鏡を下した。「なぜ止まるんだ?」そう呟いて、母親の礼子を振り向いた。
「こっちへ来るよう、お子さんに呼びかけてください」
「健太、こっちへいらっしゃい!」礼子は必死に呼びかけた。
 健太はまだ茫然としている。
「そのまま歩いてくるのよ、健太!」大声で叫ぶ。
 ようやく健太の頭にも、現実がガラガラと音を立ててなだれ込んできた……大勢の警察官が集まり、ライフルと散弾銃の銃口が、こちらへ向けられている……
 健太は浩介の方を振りかえった。
 浩介は木につかまって必死に立ちあがり、水の流れに沿って、よろよろと逃げようとしている。しかし、身体じゅうの血を地面に流れ出させてしまった浩介は、すぐに崩れるように倒れ込んだ。
「健太……健太!」しきりに叫ぶ母親の声が聞こえる。
「どうしたの? こっちへいらっしゃい、健太。お母さんよ……」
 健太はいきなり駆けだした……倒れた浩介の方へ。
「健太!」母親が絶叫した。
 チーフはため息をついて双眼鏡を下した。
 健太は牧草地の斜面を滑りおりると、なんとか立ちあがろうと四つん這いになっている浩介に駆け寄った。そして、どうしたらよいのかわからずに立ちつくした。
 浩介は人の気配に顔をあげた。健太が戻っている。
「おれとしては、坊やに……」健太を見上げて話しかけた。
「かなりいい条件で交渉してやったつもりだが……まだ何か頼んどいてほしいことがあるんなら……」と、浩介は言いかけた。
「あの人たちは浩介おじさんを殺そうとしてるの?」健太は信じたくないという表情で訊ねた。
「とんでもない。いいか、健太……」彼は少年に嘘をつこうとした。しかし、できなかった。「まあ、そうだな」浩介は低い声で呟いた。

 田沼光一は愛用の高性能ライフルの引き金をなだめるように撫でた。そして薄ら笑いを浮かべ、位置をきめて、いつでも撃てるように構えてから、ニタリと笑った。
 チーフは再び双眼鏡をのぞき、また下した。肩をすくめ、眉をこすって、「あの野郎、気が変わったようだな」と独り言のように呟いた。
「え? チーフ、何ですって?」
「子供を解放するのを、やめたようだ」チーフは言い直した。
「かならずしも、そうとはかぎらないわ」まゆみが反論した。
 しかし、チーフは首を振っただけだった。その顔が田沼の方を向き、「そのまま待機しろ」と、射撃の名手に命じた。そして再び双眼鏡を目に当ててのぞいた。
 木立のなかで、何かが動いている……

 健太は片手を差し出し、浩介が起き上がるのを手伝った。
 浩介は健太の手を借り、立木に身体を押しつけてようやく立ちあがった。そして、木にもたれたまま、泥を払い落とすと、健太の手を握って戦場へ向かって一緒に斜面を登り始めた。
 双眼鏡をのぞいていたチーフは、そんな二人の姿を捉えた。二人は斜面を登り切ると、ゆっくりとこちらへ一緒に歩いてくる。
「いよいよ、二人が出てきた」ふーっと吐息を吐きながら、チーフが言った。
 浩介と、小さな顔に痛々しいほど真剣な表情をうかべた健太が広い牧草地を一歩ずつ確かめるように、そろそろと進んでくる。浩介は片手に健太の手を握り、もう片方の手で腹を押さえている。その表情はサングラスに隠れて読み取れない。
 チーフは双眼鏡を下ろし、帽子をつまみ上げて頭を掻いた。
「どういうつもりなんでしょうか、やつは?」
 小沢警部が横歩きでチーフに近づいてきて、話しかけた。手にした散弾銃は浩介のほうに向けたままだ。
「さあね。おれが訊きたいくらいだ」と、チーフ。
「森田は自首しようとしてるのよ」きっぱりとまゆみが言った。
 小沢警部は、じろりとまゆみを見やり、「忘れんでください。やつはまだ拳銃を持ってるんだ」と言って、また自分の銃の二連銃口の狙いを浩介に向けた。
「森田! 止まって、その子を放せ!」チーフが怒鳴った。
「両手を挙げろ! その子を放すんだ!」
「ああ、お願い、健太!」母親が同時に、すがるような声で叫んだ。
「お願いですから、森田さん、その子を返して! さあ、健太、戻ってきて……早く戻ってきてちょうだい!」
 この必死の呼びかけも、浩介と健太には、意味のわからない叫び声にしか聞こえなかった。二人は並んで話しながら歩きつづけた。
「どうやらこれで北海道へ行く夢も、おしまいらしいな、坊や」浩介がいった。
「知ってるか? 刑務所で友だちから聞いた話だけどね。昔、北海道のアイヌの人たちの中には、年老いて生きていくのも辛くなった人や重い病気になった人たちをな……氷に乗せて海へ流したんだって。ちょっとしたお葬式みたいなことをしてね。きっと冷えたビールや、クラッカーでも供えたのかな……」
 健太は、その情景を思い描いて引き攣った微笑をうかべた。
「止まれ! 両手を頭の上に挙げろ!」チーフが語気を荒げて繰り返した。
「逃げなさい、健太! こっちへ来るのよ、健太!」母親も声をふり絞って叫んだ。
「ああ、早く、言われたとおりにして、坊や……」まゆみも小声でせきたてた。
 小沢警部が田沼の方をちらりと見やった。
「チーフ、いつまで武器を持った野郎を罪のない人質の子供と一緒にさせておくつもりですか?」暗に催促する口調だ。
「準備はいいか?」チーフは田沼に声をかけた。
「万全です」田沼は答えた。
「じゃあ、やつに狙いをつけて待ってろ」チーフは歯を食いしばって命じた。
「しかし、おれが合図するまでは撃つなよ」

 牧草地では浩介と健太が相変わらず、ゆっくりとした足取りで、手に手を取って歩きつづけていた。突然、浩介が立ち止まった。見るからに苦しそうだ。
「坊やに、これをあげよう」と健太に言った。
 標的が動きを止めたので、田沼は少し緊張をゆるめて照準を合わせなおした。
「森田が立ち止まった」チーフが双眼鏡をのぞきながら言った。
「逃げるつもりだ!」と、岩井。
「いいえ、ちょっと待って!」まゆみが必死に叫んだ。
「やつから狙いを外すな!」チーフは田沼をどなりつけた。
 まゆみが大声で呼びかけた。「その子を放すのよ、森田さん!」
「やつが動きを見せたら、今度こそ仕止めましょう」と、田沼が唸るように言った。

 浩介は片膝を地面につき、苦痛をこらえて、そろそろと手を伸ばしてズボンの後ろのポケットに手をまわしながら健太に言った。
「ひよっとしたら、いつか坊やが……行けるかもしれない……」
「森田が拳銃を抜こうとしています、チーフ!」小沢警部が叫んだ。
 チーフは岩井から双眼鏡をひったくって、慌てて覗いた。
 浩介がズボンの後ろのポケットに手を突っ込んでいる。
 チーフは、いつでも『撃て』の命令を出せる状態で浩介の動きを見つめた……

 浩介は健太ににっこりとほほ笑みかけ、後ろのポケットから何かを持って手を出した……
 あの手つきからすると、拳銃であるはずがないわ……まゆみは確信した。
「やめて! ちがうわ。ちがうのよ!」まゆみは口の中で呟いた。
 その瞬間、田沼光一がライフルの引き金を引き絞った。
 バーン!
 浩介の胸が破裂し、耳にキーンとくる残響があたりの平原にこだました。
 浩介は膝をついたままガクンと後ろへのけぞり、驚いたような目で健太をみつめた。
 健太が悲鳴を上げて浩介をつかみ、倒れようとする浩介を抱きささえた。
「ああ、なんてことを!」まゆみも悲鳴をあげた。
 田沼が二発目を撃ちこもうと、照準器の十字に狙いを合わせたが、浩介の前で動いている子供が邪魔になって撃てなかった。
「やれやれ。見ておくれ、健太」浩介は流れ出る血を手で触りながら健太に話しかけ、「同じ日に二回も撃たれるとはね」と言ってため息をつき、まえへ崩れるように倒れかけた。健太が支えきれずに、よろよろと後ろへ二歩下がり、両膝をつく。一、二秒ほど、浩介はふらふらしながら起きていたが、やがてバッタリと後ろへ倒れた。
 そのかたわらで、健太は低く呻くような声をあげて泣いた。ひざまずき、浩介をのぞきこむ……まだ銃声が耳の奥で鳴り響いていた。

 母親がパトカーの前へ走り出てきた。警官たちも、ぞろぞろと続く。
「なにをやってるんだ、小沢! 皆を後ろへ下がらせろ!」チーフが吠えた。
 田沼光一は役目を終えて銃から目を離して立ちあがると、乾いた唇を舐めて言った。
「もう心配ありませんよ、チーフ。やつは、もう誰も傷つけることはできません」
 細川チーフは、まじまじと田沼を見つめ、顔をそむけた。
 牧草地で横たわる浩介のそばに、一人の警官が近づいた。警官は両膝をついて地上に寝かせたままの浩介の身体を慎重に調べた。横たわる全身に手を当てて調べ、身体の下も衣服の中も調べた。終わると立ちあがり、大声でチーフに報告した。
「拳銃は所持しておりません、隊長!」
 細川は田沼を振り向き、跳びかからんばかりの勢いで詰め寄ると、いきなり右から田沼にクロスパンチを打ち込んで、相手を地面へ倒した。田沼の大事なライフルが、岩だらけの地面にカタカタと音を立てて転がった。
 小沢は驚いてチーフに飛びつき、ほかの四人の警官も走りよってきてチーフを制した。
「まあまあ、落ち着いてください、チーフ」小沢が言った。
「いったい、どうしたと言うんです?」
 それで細川もようやく少し気を静めた。小沢が振り向くと、田沼が片膝をついて何とか起き上がろうとしていた。呆然として、何が何だかわからない様子だ。
 田沼は唇の血をぬぐって咳をした。そしてペッと一本の歯を吐きだしたが、それを見てもまだ何のことかわからない様子だ。
 小沢が視線を細川に戻した。まだ彼の心臓は早鐘を打ち、息も荒かった。しかし、怒りは次第に静まってきた。
「いったいどうしたんです? 原因は何ですか?」小沢警部が訊ねた。
 細川チーフは落した帽子を地面から拾い上げ、泥を払い落した。
「おれは『撃て』とは言わなかった」そう言い捨てると、チーフはくるりと向き直って行ってしまった。
 小沢警部は帽子を脱いで手で頭をなで、遠ざかるチーフの姿を目で追った。
「いったい何様のつもりだ!」と言いながら、屈んで田沼の腕の下に手を入れて、助け起こした。
 岩井がチーフの後から走って行って追いつき、並んで歩きながらチーフの顔を見つめた。
「おれも森田が拳銃を持っていると思いましたよ、チーフ」岩井が話しかけた。
「しかたがないじゃないですか。確かめようがなかったんですから」
 チーフはまっすぐ前を向いて無言で歩きつづけた。背の高いチーフの顔を見つめたまま、岩井はその場に立ちつくした。
 一部始終を見ていたまゆみも、歩み去るチーフを、じっと見送った。

 母親が手を差し伸べて息子を立ちあがらせ、愛しそうに胸の中へ抱きしめた。
 健太も力いっぱい母親に抱きついた。血まみれのキャスパーの衣装が母親のブラウスを赤く染めた。母親の礼子は涙を流しながら、息子の血まみれの衣装を脱がせようと前のジッパーを引き下ろした。中から千円札や一万円札がパラパラと落ち、熱風に吹き上げられて、ひらひらと乱れ飛んだ。
 息子が衣装の下に何も着ていないのを見た礼子は、またジッパーを途中まで引き上げ、息子の手を引いて、その場を離れようとした。
 しかし、健太は途中で立ち止まった。母親の手を反対の方向へ引っ張っている。
 礼子は振りかえった。健太は母親の手を離して、浩介のそばへ駆け戻った。そこに屈みこんで、浩介の手から絵葉書を引き抜いた。今はもうほとんど何も見ていない浩介の目が、それに気づいたかのように、かすかに(まぶた)をぴくつかせた。
 健太は浩介を見つめて立ちつくした。少し離れて周囲に集まってきた警官たちが何かひそひそと言葉を交わしている。
「救急車を呼んだほうがいいかな。どうだろう?」一人の警官が言った。
「もう来てるよ」別の警官が、人だかりの向こうへ首を伸ばして答えた。
 母親は優しく健太の肩を抱いて振り向かせ、その手を取って一緒に歩き出した。

 かすかに目を開けた浩介がくぐもった話し声のつづく周囲をよそに、唇をなめた。もう彼は別の世界にいた。消えかかる最後の力をふりしぼって、浩介は片腕を突きだし、その腕を頭の後ろに置いた。顔が、ゆったりとくつろいだ表情になった。
 その彼の動きに……まだ残っていた生命力に……警官たちは一瞬ぎょっとして、後ずさりした。
 突然、さっと吹いてきた風が、浩介の顔に牧草を散らし、頬に一枚の千円札を貼りつけた。しかし、彼の意識はなかった。

 ふたりの警官が母親と健太を急き立てて、人と車の群れを通り抜けて道路を渡った。歩きながら健太は、二、三度、丘を振りかえって、浩介が横たわっている方を見た。
 やがて警官たちは親子を誘導して隣接する牧草地を抜け、まぶしく光る球状のヘリコプターの方へ向かった。その時になって、健太は注意を前方へ向けた。
「ぼく、あれに乗るの?」ヘリコプターに目をくぎ付けにして言った。
 もし別の日だったら、どんなに嬉しかっただろう……胸のうちで呟いた。
「そうだよ。今日は坊やの特別の日だからね」と警官が答えたが、その顔に笑いはなかった。「さあ、お乗り」
 健太が先にステップを登り、母親が後に続いた。まもなくローターが回転しはじめた。
 ヘリコプターが舞い上がると、健太は顔を球状のガラス窓に押しつけて、じっと下を見つめた……

 まゆみは、自分の乗ってきたパトカーの向こうに立って牧草地を見渡す細川を見つけた。
 彼女は車にもたれ、チーフの様子を見つめた。
「森田はどこへ行くつもりだったのかしら?」まゆみが話しかけた。
 チーフはため息をついて頭を振るばかりで、何も答えなかった。また、彼女の方を見ようともしない。
「隠さないで」そう、まゆみは穏やかに言って車から離れ、細川と半ば向かい合った。
「あなたは全部ご存じのはずよ」
「おれは何も知らん」細川は上昇するヘリコプターの遥か向こうを見つめた。
「なんにもだ……」
 しばらくまゆみは細川の顔を見つめたが、やがて自分も彼と並んで車にもたれて同じ方向に目をやった。その目は、対決の場となった牧草地の上空から森の上を飛んでいくヘリコプターを、じっと追っていた。
 爆音を立てて飛び去るヘリコプターは、岩の陰で血を流して横たわる森田浩介の脳に一瞬のきらめきを呼び覚まし……もう一つの世界から彼を呼び戻した。瞼をぴくぴくさせた浩介は太陽の光をまともに受け、まぶしそうに目を開けた。外界を見ようと、懸命に目を細めている。ほどなくヘリコプターが一瞬だけ上空の太陽をさえぎって飛び去ると、死にかけた浩介の顔にかすかな笑いがよぎった。

 健太は顔と手をヘリコプターの窓に押しつけて、地上の人だかりの中に視線を走らせていた。その目が……呆然とした虚ろな目が……牧草地に横たわる浩介の姿をとらえた。
 健太は窓に張りつけた手の中で、ぼろぼろになった絵ハガキをぎゅっと握りしめた。心のなかに、ひとつの熱い想いが静かに湧いてくるのを感じた。しかし、それが哀しみなのか、懐かしさなのか、よくわからなかった。
 ただ、もう一度、あの人に会いたいと、健太はしきりに思った。しかし、二度と会うことのないことも知っていた。少年の目にじわりと涙が滲んできた。
 母親の礼子は目を閉じて息子のすぐ横に座り、片手で息子の背中を抱き続けた。緊張の連続で、もう全身が石のように固くなっている。
 健太は草の中で次第に小さくなっていく浩介の姿をじっと見守っていたが、ヘリコプターが遠ざかるとともに、やがてそれも見えなくなった。

 (とび)が一羽、太陽の輝く空に舞っていた。
 浩介は目を細めて空を見つめつづけた。やがて最後の一陣の風が、浩介の頬の上の紙幣をふわりとすくいあげ、空中で何度かひらひらとはためかせて、牧草地へ落した。
 すべてから遠ざかりつつある彼の細めた目は、まっすぐ太陽を見つめたまま動かなかった。その穏やかな目に、もう生命はなかった。

      《了》

『脱獄囚と少年  ~優しく撃って~』

この作品は、ハリウッドのヒット映画『パーフェクト・ワールド』をノベライズしたデュウィ・グラムの小説を基に、舞台を米国から日本に移して、私なりの感性と独自の解釈で翻案した作品です。したがって、自分の感性で新たに翻案し構成したとはいえ、そのベースに上記の映画と小説があるため、この小説を『第二次創作の作品』と位置づけ上梓いたしました。
この作品を読まれる方々が、ここに描かれた様々事件や概念を、その微妙なニュアンスをも含めて、ありのまま受け入れてくだされば幸いに思います。

『脱獄囚と少年  ~優しく撃って~』 阿部匡廣 作

ある夏、山梨県甲府刑務所から脱獄した森田浩介と宮内修造の二人は、逃走途中に民家へ押し入る。彼らは八歳の少年健太を人質に逃走するが、森田は少年に危害を加えようとした宮内を射殺したのち、人質の少年と二人で逃避行を続ける。 森田浩介を追跡する県警特別捜査本部長(通称チーフ)の細川宗一郎は、少年時代の森田を少年院に送った元横浜署の警官であり、それを契機に犯罪の常習犯となった森田に対して責任を感じ、自らの手で彼を逮捕しようと考えていた。チーフの捜査には、県知事の要請で犯罪心理学者小笠原まゆみが同行、二人は反発しつつも徐々に理解しあうようになる。一方、父親を知らず、(エホバの証人)の信者である母親もとで宗教上の厳しい戒律から年頃の男の子の楽しみは何一つ与えられずに育った健太に対して、自らの境遇(幼時に母と自分を残して去った父を知らずに育った)に似たものを感じた彼は一種の父親のように接する・・・・・

  • 小説
  • 長編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2016-07-28
Derivative work

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二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。