正法眼蔵 古鏡 47
金華山の国泰院弘瑫禅師に対して、あるとき僧侶が質問した。
僧問う「我々は、古鏡(永遠の価値を持った鏡)とたとえられておりますが、それを磨かない時はどの様でありましょうか。」弘瑫禅師言う「磨かない時でも、それは古鏡である。」僧問う「では、磨いたらどうなりましょうか。」弘瑫禅師師言う「磨いた後も、やはり古鏡である。」
国泰院弘瑫禅師と僧との問答について道元禅師が注釈されます。
この問答によって説かれているところの永遠の価値のある鏡というものには、磨いているときもあれば、、まだ磨いていないときもある、また磨いてしまった後という場合もある。しかしこれらはいずれも永遠の価値のある鏡に他ならない。
※西嶋先生解説
――人間にたとえて言えば、仏道修行を一所懸命しているときもあれば、仏道がある事さえ知らずに、仏道修行を全くしていないときもある。仏道修行を一所懸命して、長い期間が経った場合もある。そういう人間の様々なあり方が、すべて人間としての非常に尊い価値を具えている。――
人間が仏道修行をするという事は、そのようないつに変わらぬ価値のある鏡というものを一所懸命に磨くことである。鏡がガラスで出来ているとか、水銀が塗られているとか様々な分析的な考え方を入れてそれを磨くという事ではなくて、価値のある鏡としてそれを磨くのである。人間が努力するという事は、自分自身を磨くとか自分自身が磨くとかと言う事ではなく、ただ一所懸命努力する事が我々の日常のあり方であって、それが時間を越えた価値のある我々自身を磨くと言う事態である。
仏道修行を始めない時点においても、人間の価値がないと言う事ではない。世間ではまだ磨いていないから暗いと言うけれども、磨いていないから価値がないと言うわけではない、生き生きとした人間としてのあり方であるという点では、人間としての価値を否定するわけにはいかない。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「なぜ坐禅をするか」と聞かれるんです。その場合「健康で長生きする方法だ」と、こう答えていいんでしょうね。
先生
ええ、そう。健康というようなことも確かに大切な要素ですよ。私、最近書こうとして今準備している本の中で、幸福とは何かという事を四つに分けて言うと、気持ちが落ち着いていること、健康であること、実行が出来ること、人生の意味が分かっていること。(笑いながら難しいな!の声)
質問
「人生の意味」というのは説明が要りますね。どういう事なんですか、「人生の意味」と言いますと。
先生
それはやっぱり、仏道修行のねらいという事でもあると思いますよ。よく何のために生きているかわからないという人はたくさんいますよね。よくわからないけど、何となく生きている。だけどそれではやっぱり人間の生き方として寂しいわけ。何のために生きてるかという理屈ではないにしても、腹の底で「あ、これだ!」というふうなものを感ずる必要がある。人間として生きていくためには。「よく分からないんだけど食べなきゃ死んじゃうから食べてんです」という事では、人間のあり方としてはちょっと寂しい面がある。だから仏道修行というのは、そういう人生の意味を求めるという面が確かにありますね。
私は最近までは、仏道修行というのは、そういうことに関心を持った人だけがやるもんだというふうな考え方をしていましたけれども、どうもそうではないような気がする。人間として生きている以上やらざるを得ない修行のような気が最近するわけです。何で生きているのかということを究めないでは、人生生きている甲斐がないという、そういうことが誰の上にもあると思う。そうしてみると、仏道修行をして、何のために生きているかというのをつかむという事が我々が生きている目的だという、そういう考え方がどうも最近非常にするわけです。
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僧問う「我々は、古鏡(永遠の価値を持った鏡)とたとえられておりますが、それを磨かない時はどの様でありましょうか。」弘瑫禅師言う「磨かない時でも、それは古鏡である。」僧問う「では、磨いたらどうなりましょうか。」弘瑫禅師師言う「磨いた後も、やはり古鏡である。」
国泰院弘瑫禅師と僧との問答について道元禅師が注釈されます。
この問答によって説かれているところの永遠の価値のある鏡というものには、磨いているときもあれば、、まだ磨いていないときもある、また磨いてしまった後という場合もある。しかしこれらはいずれも永遠の価値のある鏡に他ならない。
※西嶋先生解説
――人間にたとえて言えば、仏道修行を一所懸命しているときもあれば、仏道がある事さえ知らずに、仏道修行を全くしていないときもある。仏道修行を一所懸命して、長い期間が経った場合もある。そういう人間の様々なあり方が、すべて人間としての非常に尊い価値を具えている。――
人間が仏道修行をするという事は、そのようないつに変わらぬ価値のある鏡というものを一所懸命に磨くことである。鏡がガラスで出来ているとか、水銀が塗られているとか様々な分析的な考え方を入れてそれを磨くという事ではなくて、価値のある鏡としてそれを磨くのである。人間が努力するという事は、自分自身を磨くとか自分自身が磨くとかと言う事ではなく、ただ一所懸命努力する事が我々の日常のあり方であって、それが時間を越えた価値のある我々自身を磨くと言う事態である。
仏道修行を始めない時点においても、人間の価値がないと言う事ではない。世間ではまだ磨いていないから暗いと言うけれども、磨いていないから価値がないと言うわけではない、生き生きとした人間としてのあり方であるという点では、人間としての価値を否定するわけにはいかない。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「なぜ坐禅をするか」と聞かれるんです。その場合「健康で長生きする方法だ」と、こう答えていいんでしょうね。
先生
ええ、そう。健康というようなことも確かに大切な要素ですよ。私、最近書こうとして今準備している本の中で、幸福とは何かという事を四つに分けて言うと、気持ちが落ち着いていること、健康であること、実行が出来ること、人生の意味が分かっていること。(笑いながら難しいな!の声)
質問
「人生の意味」というのは説明が要りますね。どういう事なんですか、「人生の意味」と言いますと。
先生
それはやっぱり、仏道修行のねらいという事でもあると思いますよ。よく何のために生きているかわからないという人はたくさんいますよね。よくわからないけど、何となく生きている。だけどそれではやっぱり人間の生き方として寂しいわけ。何のために生きてるかという理屈ではないにしても、腹の底で「あ、これだ!」というふうなものを感ずる必要がある。人間として生きていくためには。「よく分からないんだけど食べなきゃ死んじゃうから食べてんです」という事では、人間のあり方としてはちょっと寂しい面がある。だから仏道修行というのは、そういう人生の意味を求めるという面が確かにありますね。
私は最近までは、仏道修行というのは、そういうことに関心を持った人だけがやるもんだというふうな考え方をしていましたけれども、どうもそうではないような気がする。人間として生きている以上やらざるを得ない修行のような気が最近するわけです。何で生きているのかということを究めないでは、人生生きている甲斐がないという、そういうことが誰の上にもあると思う。そうしてみると、仏道修行をして、何のために生きているかというのをつかむという事が我々が生きている目的だという、そういう考え方がどうも最近非常にするわけです。
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