07/09・11・13・14・15・16・17・18・19・20・23//2016
展覧会・レクチャのお知らせ

design by Chishi Morimura/森村智子
エーテル再説─レゾンと芸術
薗部雄作・菅野傳授・松澤宥
─失われた芸術の俤をさがして─
その昔、エーテルというものがあった。…というか、あるんじゃないかなと思われていた。…というか、あるんじゃネ、ないと困るっしょと考えるひとたちがいた。
というのも、その頃突然、光もまた波であることがわかったからだ。
たとえば波…。
水から独立した波というものはない。
水があるから、波が伝わる。
このとき、水は、波の媒体だ。
この伝でゆけば、
やはり波である光が伝わるためには、やはり、なにか、媒体がなければならなくなる。
そこで考えだされたのが「エーテル」という仮想物体だったことは、みなさま、きっとご存じのはず。
エーテル……。
それは、あるものに運動を、したがって、
あるものと別のものあるものとのあいだに伝播を、遭遇を、影響をもたらす、
つまるところ「愛」=相互作用(interactions)の種を捲く、おてつだいさんにして、おせっかい焼きなのだ。
日本、明るすぎ。エーテル、もう、視えない……。
オノサトトシノブ
ツヅク
ヤング、EPR実験、アインシュタイン、ベル、アスペ
1964年・ベルの不等式
菅野傳授
薗部雄作
松澤宥
2016・07・25─31 12:00─19:00
最終日17:00まで 於 村上画廊 2
〒104-0031 東京都中央区京橋3-5-4第一吉井ビル2F
この度、まこと急なことながら、村上画廊2オーナー・吉澤正さんの要請にお応えして、ささやかな、とはいえ、自分としては《本質的》な展覧会を企画することになった。それで数日来、だいぶ緊張している。
今日7/13日の時点では、3人展のテキストも、30日のトークの内容も、まだすこぶるオボロ…。が、Chishiこと森村智子さんにこしらえてもらったDMのお陰で、ようやく、カタチのかけらが見えてきたような気がする。
気持ちをもりあげるためにも(ここのところ、いろいろあって、ウルトラ鬱がつづいている)毎日、なにか、書いてゆこう。
07・30 17:00─19:00
再入門・瀧口修造[の/と]美術批評
石川翠
J・タニカワ氏のための「再入門・瀧口修造[の/と]美術批評」ブログ篇
そのむかし、タキグチ・シューゾーというひとがいた。1903-1979。富山に生まれ、東京に没した。詩人、美術評論家、造形家などの肩書がある。
知ってるひとは知ってるけれど、知らないひとは知らないことだろう。あたりまえか。
で、ここでは、ふたつのことがらを扱うつもりなの。
ひとつは、美術評論(批評)とはなにか─。
もうひとつは、タキグチの美術評論(批評)とはどおいうものか─。
☆彡
というのも、タキグチの評論に眼をこらすことで、日本の美術評論というものの姿がゾゾゾと、みえてくる気がするから。
現在、「彼の評論とは、どおいうものか」を誰も問おうとはしない。
見ようによっては、ずいぶん相手にされてるというか、いろんなひとがいろんなやり方で
小突いたり、弄り回したり、玩んだりしているようにも思える。
褒めまくるひとがいる。反対に、否定するひともいる。
けれど、かれらはともに、その核心部には踏み込もうとはしていない様子。
(松澤宥に対しても、事情はまったく同じ)
上滑りするのは、なぜか?
ひとつは、「みたいものだけをみようとする」狭隘さのため。
もうひとつは、「みたくないものを排除する」ゆがみのため。
この二つは、結局同じことの表裏なのだけれど、
そこには、実は、タキグチの詩想に対する忌避がある。それも無意識の、いや、意図的な…?
ほおら、ほら、だんだん面白そうになって来たでしょ?
☆彡
ある対象に眼をむけるとき、わたしたちは、そこにまず、自分たちの見たいものだけをみる。
個人的に。セクト的に。社会的に。時代的に。歴史的に。政治的に。生命的に。
(ちなみに、美の現象を、セクト的にまなざしたものを、美術史と呼ぶ→宮川淳はこれを制度だと看破したエライ思想家だ。彼は美術史の外に駆け抜けようとした)
しかし、対象は、多様性をもっている、はず。
ひとつの網では掬えない。そこからはみだすものがある。
そして困った?ことに、はみでたものの方が、大切な場合も多いのだ。
☆彡
さて、まず、とても大切なこと─にもかかわらず、だれもが、この問題から眼をそらそうとする─
からはじめよう。
世の中には、次の一見、矛盾した言明がある。
1)タキグチ・シューゾーは、シュルレアリストである。
2)タキグチ・シューゾーは、いわゆる現代美術の擁護者である。
ひとびとは、たいていどっちかのスタンスで、彼をまなざす。信認する。
シュルレアリスムと現代美術は、原理的に相容れないはずなのに…。
これは一体、どうしたことなのか?
わたしは自身は、シュルレアリスムの門扉から、彼の宇宙に入り込んだが、
やがて、シュルレアリスム=現代美術複合体の壁にぶつかって、困ってしまった。
反対に、現代美術口から入って、同じようにシュールに遭遇し立ち往生!のおひとを
二人ほど知っている。
☆彡
この事態をどうとらえるか。
A)タキグチの宇宙は、寄木細工のパッチワークのでたとこまかせのコンコンチキの出鱈目のあっぱらぱあ →よって、探求の必要なし
B)見かけの矛盾の背後に、それを統一する見えない構造がひそんでいる→なら、探求の必要あり
すったもんだの逡巡のあげく、わたしはB)を採択することにした。
○そこには、まず、勘が働いた。なにか、あるだろうとの。
○また、タキグチ自身の書き残した「手がかり」もあった。→後で捕捉・引用『自筆年譜』から
○〈前期詩的営為〉である詩や美術評論めいた文をよく読むと、彼の〈詩想〉の露が散見できる。
☆彡
一見、シュルレアリスム=現代美術複合体という体裁下にある、その分裂した宇宙の淵にひそむ構造とは、なにか。
「タキグチ・シューゾー論」とは、あ、ねむい……。
……おお、仮眠から覚めた。
ええと、わたしにとって「タキグチ・シューゾー論」とはなによりも、1)でも2)でもなく、
第3の描像を得る旅のようなものとしてはじまったのでした。
では、どのようにして第3の描像に辿りついたか。また、その像とは?
これを説明するには、結論だけ書いても仕方がないので、
ご一緒に、彼の書き物(テクスト)を微に入り細をうがち、読み解いてゆく必要がある。
今回のレクチャーの心臓部がそれ。
が、めんどくさいので、後回しにしよう!!→ここに、描像を入れる。
がが、流石にそれはズルかろうというわけで、
ちょっぴり記しておくと……
後に、やはりあの宮川淳がそれを洗練し、イマージュ論に牽強付会したように、
一種のイマージュ論─それも多分にミスティシズムに染め上げられた、古代的な─
がタキグチの「詩想」、固定観念、鉱物質のもの、などだ。
それは、次のようなもの─。
どこかに、プライマルな物質(原・物質と呼んだほうがいいだろう)があって、
それが、あるとき、夢の通路をつかって、ふいに、コチラに現れる。
そのとき、原・物質は、言葉や影像という仮の姿をとって、わたしたちの世界に臨場する。
そして、言葉や影像=芸術は、プライマルな世界の原初の清浄な息吹を、此岸にもたらすのだ。
と、以上が、彼の「詩想」の第1原理である…。
たとえていえば、それは、草の葉や枝に付着した氷や塩の結晶のようなもの─。
スタンダールがその『恋愛論』中に一章をもうけた、あの〈ザルツブルクの小枝〉、 Le rameau de Salzbourg をほうふつとさせるもの─。
En 1822 il fait paratre De l’Amour o il dveloppe la cl戀re thorie de la cristallisation. L’essai selon ses dires ne connatra qu’une centaine de lecteurs. Stendhal y classe et analyse les diffrentes cat最ories de l’amour.
Le rameau de Salzbourg Aux mines de sel de Salzbourg, on jette dans les profondeurs abandonn攀s de la mine un rameau d'arbre effeuill par l'hiver : deux ou trois mois aprs, on le retire couvert de cristallisations brillantes. Les plus petites ...
あるいは三島由紀夫が『美しい星』中にしのびこませた「…
☆彡
たはは、こんなんで、ひとがついてきてくれるとは思えないが…。
もう、やるしかないっしょ…。
☆彡
アタマ変!
ですよね……。
でも、仕方がないのです。彼の戦前・戦中の書き物を分析的に読み解くと、そうした原理が導き出されてしまうのだから。
えっ? おかしいのは、お前のアナライズ、お前のアタマの方だって?
ま、そこは自分には、わからない。
何年も読んできての、そうとしか捉えられないという結論なのだ。
☆彡
第2原理、第3原理もあるけど、いまはパス。
さて、わたしの言う、第1原理が正しいという前提で、先に進もう。
とすると、どうなるか。
そう。
彼にとっては、シュルレアリスム/現代美術のちがいなどは、実は、はじめから問題になりはしない。
彼は、いわゆる芸術(作品・行為)と非芸術一般の裡に─いや、表面や近傍なのかもしれない─
に、つまり、人工/自然の分け隔てなく、そこに、プライマルな世界の
現前を、思わず知らず感知してしまう(幻視ともいえそう)、そんなキャラが彼なのだ。
☆彡
その態度は、特殊美学的ではなく、一般美学的だ。
美学には、すくなくとも、みっつの立場がある?
1) 人間の関与する美、つまりいわゆる芸術(作品・態度)を対象とする「特殊美学」と、
2) その外部に広がるとされる自然の美を対象とする「自然美学」と、
3) 1)と2)をともに対象とする「一般(普遍)美学」とだ。
ロジェ・ケイユワに、3)の原理を追求した『一般美学』(Esthetique generalisee)という本があり、タキグチの「詩想」を考える上でとても役に立つ。
繰り返すが、タキグチにとって、基本的に、眼前のなにかが、人工物であるか、自然物であるかは、さして問題ではない。
人工物に限っていえば、その社会的・時代的・文化的・市場的・個人的などなどの属性も、当然ながら度外視される。
その意味で、彼の「詩想」は「超歴史的・脱人間的」なまなざしといえるだろう。→エセー「アルチュール・ランボウ」を引く
☆彡
ツヅク
メモ 《R・ケイユワ・モデル》
世俗(人界)と、自然双方へのゆとりある、統合のまなざし。
ゲ―テ自然学の実践的、拡張版。
ひとは、政治・経済に偏ってはいけない。
かといってが、学問・芸術・倫理に没頭してもいけない。
その、はざま。
実践的エチカ……。
理想形態。
メドルマ・シュン。スミ・マロ。
だが、しかし、果たして???

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