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映画『シン・ゴジラ』レビュー(ネタバレページあり)

12年ぶりとなる東宝製作によるシリーズ最新作『シン・ゴジラ』のレビューです。総監督・脚本に『エヴァンゲリオン』の庵野秀明、監督に『進撃の巨人』の樋口真嗣、準監督に特撮の名手・尾上克郎を配した史上最大、そして史上最問題のゴジラ映画の誕生。実力派俳優が多数出演する日本映画の最高値。

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『シン・ゴジラ』

日本公開2016年7月28日/ゴジラ/120分

総監督:庵野秀明

監督、特技監督:樋口真嗣

準監督:尾上克郎

脚本:庵野秀明

出演:長谷川博巳、竹内豊、石原さとみ、市川実日子、犬童一心、柄本明、大杉漣、渡辺哲、高良健吾、津田寛治、ほか多数

レビュー(ネタバレなし)

映画の最後、「終」の文字が出るまで心配は消えなかった。本当にこのままで終わるのだろうかと半信半疑の思いが終盤まで意識の片隅に残り続けていた。

正確に表現すると「何の留保なく純粋に面白くて新しいゴジラ映画なんて作られるはずがない、、きっとどこかでコケるはず、、、」というこれまでのゴジラ映画で身につけてしまった自己防衛システムを作動させたままスクリーンに没頭し続け、そして「終」の文字のあとに、伊福部のテーマがドーンの流れたところで「本当に実現したんだ、、、!」と様々な感動が一挙に押し寄せ、すでに自分のなかで確立されていたはずのゴジラ像が全く新しいゴジラへと一気呵成に書き直されていく快感に、過去の名テーマたちを聞きながら、ほとんど溺れていた。

一言で説明すれば凄い映画体験だったのだ。

物語は東京湾で発生した謎の爆発を発端としている。漂流していたトレジャーボートの捜索最中に東京湾近郊で謎の大爆発が起き、その余波で、アクアラインは浸水、東京湾周辺の交通は麻痺してしまう。幸いにも死者は出なかったものの、その爆発の正体は不明だった。

火山噴火か、それとも地震か、緊急に対応した政府内でも意見がまとまらないなか、突如、東京湾に巨大生物の尻尾が浮かび上がった。

謎の爆発の正体、それは謎の巨大生物だった。未知の水生生物かとも思われたが、その生物は川を遡上し遂には上陸、東京の市街地まで到達。さらなる甚大な被害を防ぐために超法規的に自衛隊による「駆除」を決行しようとしたその時、地面を這いつくばるようにしていた巨大生物は突如「変態」を開始し、二足歩行で長大な尻尾を持つこれまでとは違う巨大生物に「進化」していった。

謎の生物の対応に手をこまねく政府だったが、矢口蘭堂内閣官房副長官の指揮の元で緊急対策部署を設置。そしてアメリカが秘密裏に調査していた極秘資料を米国大統領特使カヨコ・アン・パタースンより提供された矢口は、大戸島の伝説の怪獣「呉爾羅」を由来とする英名「Godzilla」日本名「ゴジラ」と名付けられた巨大生物の恐ろしい出自を知ることになる。

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(C)2016 TOHO CO.,LTD.

個別のゴジラ映画を論評することはさほど難しくない。

オリジナル(1954)との相関、音楽、特撮、そして人間ドラマと、その評価軸はシリーズ全28作(東宝製作)の蓄積もありほとんどテンプレート化されている。おそらくゴジラファンのほとんどはこのテンプレートに自分好みの要素を追記しアップデートした評価軸を持っていると思われるが、乱暴に言ってしまえば、それはただ過去作と比較しているに過ぎない。もしくはゴジラから派生した怪獣映画との対比であり、どこまで行っても閉じた世界での背比べでしかなかった。

しかしその閉じた世界は2014年に無理やりこじ開けられた。1998年にはその高い壁を前に何も出来なかったハリウッド製ゴジラも、2014年版ではこれまでにない強度でその壁を激しく揺さぶり、とうとう閉じた世界を守っていた硬い外皮にヒビが入れてしまった。そしてその隙間から外の世界が透かし見えるようになった。まるで突如現れた想定外の巨人に壁を叩き割れらたようなもので、この時点で東宝が取りうる態度は二つしかなかったはずだ。

ひとつは壊れた壁を直ちに修復し、何もなかったかのようにこれまで通り閉じた世界のなかで過ごすこと。

もうひとつは外への道が開かれたことを好機と捉え、閉じた世界だからこそ蓄積することができた純度の高い経験とアイデアのすべてをぶつけ勝負すること。

前者には勝ち負けはない。そもそも勝負すらしていない。しかし後者には勝って賞賛を浴びるチャンスもあれば、負けて二度と立ち上がれなくなる可能性もあった。みんな薄々感じていたことだとは思うが、負ける可能性の方が高かったはずだ。この閉じた世界のなかであってもかれこれ20年以上、ゴジラ映画は過去作との比較においてもインパクトを残せていない。大作になればなるほどに巨額の制作費が必要となる「怪獣映画」というジャンルのなかでは、ほとんど負け戦のようなもので、冷静に考えれば誰も引き受けたくないような重荷ですらあった。しかし東宝は挑戦し、庵野監督以下、製作陣は皆果敢だった。

結果、『シン・ゴジラ』の完勝だった。一本の日本製娯楽作品としても最高値を記録し、そしてゴジラ映画としても、前述した使い古されたテンプレートが無意味に思えるほどに針の振り切れた意欲と挑戦と完成度を誇っていた。過去のゴジラ映画との比較としても、そして娯楽大作としても、これは常軌を逸した作品だと断言したい。

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(C)2016 TOHO CO.,LTD.

ゴジラファンが3人集まれば、4つのゴジラ像が生まれる

きっとゴジラファンの方は多かれ少なかれ、こういった場面を経験しているのではないだろうか。俺のゴジラ観とあなたのゴジラ観、そしてあいつのゴジラ観をぶつけ合うと、なぜが新しいゴジラ像がどこからともなく現れ、まあこんなゴジラもありだよな、と妙に納得してしまうことがある。

「ゴジラとは核の申し子である」と言えば、「戦争で亡くなった英霊の集合体だ」という反論が登場し、違う方向から「敗戦で押し殺された日本人の真相心理の表象だ」という意見も出てくる。そもそも答えなど存在しない問いなのに、場合によっては非常にヒートアップする。興味がない人からからすればどうでもいいようなことかもしれないが、ゴジラファンにとって「ゴジラとは何なのか?」という問いかけと、それに対する態度とは自分自身の人間性の深い部分と密接に関わってしまっていると言ってもいい。

ゴジラという同じ対象に深い関心を示しながら、ファンの思想的分布図は右から左、保守から革新、護憲から改憲、そして核や原子力に対する反応など非常に幅広い。そこから分かるようにゴジラの意味的な許容範囲は恐ろしく広く、もはや本多猪四郎や田中友幸、円谷英二という一次資料だけでは説明不可能なまでにゴジラは肥大化を続け、不思議なことに、その後続く凡作や駄作の群れのなかにあっても、その魅力の核心は薄まることなく、逆にゴジラの意味に対する欲求は激しくなる一方だった。

新作にゴジラの意味が見出せないことで、逆にゴジラの意味的価値は上昇していく。ゴジラは、東京における皇居のように、中心を把握できない象徴として存在している。だから見る人によってゴジラは全く違う表情を見せる。それは手に触れられる確固たる存在ではなく、見るものにとって姿を変える象徴であり、その心象を映す鏡なのだ。

『シン・ゴジラ』ほど鏡としてのゴジラの特性を意識した作品はオリジナルを除けば存在しない。もしかすると『ゴジラ対ヘドラ』がそうだったのかもしれないが、その同時代を体験していない者にとっては推測の域を出ない。しかし『シン・ゴジラ』は鏡としてのゴジラの魅力を最大限に利用し、この時代が持つ虚実入り乱れる現実感と皮膚感を映し出した、ということで過去に前例がない。そして「現代の現実感」を最も象徴するポスト3.11の混乱を突発的なアクシデントとして扱うのではなく、戦後というゴジラ史と同義のタイムラインのなかで解釈しようと試みている。

本作では「現代に現れたゴジラ」という意味が、同時にゴジラそのものが生まれた「戦後」というキーワードのなかで完全に消化されている。ゴジラが持つ意味の核心を原子力や核の存在の善悪に求めるのではなく、核や原子力を必要としてしまった人類、そして被爆国でありながら原子力や核の恐ろしさを忘れていた日本人の戦後を象徴させ、その過ちを乗り越えるために我々が為さなければならないことを描いている。そのためにゴジラは変容する必要があった。ただ海から現れるゴジラでは偶然の天災の象徴となってしまいかねない。ゴジラは天災ではない。それと同様に、現代の閉塞感も3.11の地震が原因ではない。それはきっかけに過ぎず、ゴジラが現代に現れた理由もこの時代の閉塞感も、日本人それぞれの心象が引き起こしたことなのだ。

今回のゴジラの醜さと凶暴さとは、我々の心象を写しただけに過ぎない。ゴジラは僕であり、あなたでもあり、日本そのものでもあった。1954年のゴジラは凶暴でも威厳と風格があった。しかし2016年のゴジラには醜さと残酷さが加わっている。それは戦後の日本人が辿ってきた「進化」と同義である。我々日本人が60年前と比べて、残酷になり醜くなっただけのことだ。そのため今回のゴジラの形態が気に食わないという意見には全く同意でいない。ゴジラは鏡であるというこれまでの経緯を理解すれば、あれを醜いと拒否する態度とは自らの醜さから目を背けるだけの行為で、それこそが本作に登場する本当の敵の正体でもあり、打破すべき戦後の象徴でもある。

『シン・ゴジラ』では日本政府対ゴジラ、そして日本政府対戦後的状況という二つの対立項がそれぞれ独立した形で誕生しながら、最終的には一つに溶け合って終わる。そして「戦後はこれから続く」という劇中のセリフは、その戦いはまだ決着していないことを意味していることは明白だ。

とにかく尋常ではない魅力と引力を持った作品だった。

これまで「日本のいちばん長い日」と言えば1945年8月14日正午から翌日の玉音放送までの24時間だった。そして庵野秀明総監督が『シン・ゴジラ』を現代の「日本のいちばん長い日」として描いていることを、岡本喜八監督が写真出演していることをエンドクレジットで知って、初めて冷静になれた。そして冷静になればなるほどに、すごい映画を観たという実感が湧いてきた。

終戦は戦争の終わりであり、戦後の始まりだった。またいつかゴジラは、必ず現れる。その時、ゴジラはどんな変容を遂げているのか? そして僕らは変わられるのだろうか?

こんなに次のゴジラを想像せずにはいられないゴジラがかつてあっただろうか。あまり多用したくない表現だが、最終的には「傑作」という言葉しか思いつかないほどに、強烈なゴジラだった。

日本も、そしてゴジラも諦めずにまだやれる。

『シン・ゴジラ』:

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▶︎映画『X-MEN: アポカリプス』レビュー
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シン・ゴジラ
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