<※ここだけネタバレなしです>
『シン・ゴジラ』を観る前にこのページに来た方へ。この映画は、事前情報を何も入れずに観たほうが絶対にいい。なので、ネタバレに触れる前に早く劇場に行こう。すでに観た人からさまざまな評判が出始めているが、他人の評価を気にしすぎる必要はない。 そもそも、本職の映画評論家はさておき、私も含めてネットで映画の感想を書いている素人にとって、映画は美点を挙げるより欠点を挙げるほうが圧倒的にラクである。観ていて違和感を感じた部分を指摘すればいいからだ。一方で、巧みに描写された部分に対しては、我々は往々にしてそれが巧みであったことに気づきすらせず通り過ぎてしまう。だからついつい長所よりも短所のほうを多くならべ挙げてしまうし、「どこが整っていたか」よりも「どこが歪んでいたか」のほうが具体的に言語化しやすい。 『シン・ゴジラ』はかなり奇形な映画なので、イビツな点を特に指摘しやすい。本稿の後半で、私もこの映画に対してたくさん文句をつけているが、それとは別に、私が明確に言語化できていないすばらしい部分もたくさんある。あなた自身の感覚ですばらしい部分を発見するためにも、ぜひ劇場へ足を運んでほしいと思う。さあ、今すぐブラウザを立ち上げてチケットを取ろう!(ステマ) <※ここからネタバレあり>
ここからはネタバレ込みで『シン・ゴジラ』の感想。
映画トータルとしては不満な点がたくさんあるのだが、私はあるひとつの理由だけで、『シン・ゴジラ』は劇場で観る価値があったと思っている。それは、この映画が初代ゴジラ以来の、「ゴジラと観客とのファースト・コンタクト」を体験させてくれる作品だったからだ。 我々にとって、ゴジラはもはや想像の範疇に収まるお馴染みのキャラクターになっている。しかし初代ゴジラはそうではなかった。なにせ、当時の観客は誰もゴジラというキャラクターと、その能力を知らなかったのだ。「見たこともない巨大な生物が出現する」「その生物は我々の予想を超えた破壊能力を有していた」という展開は、絶大なインパクトで観客を驚かせたはずだ。 『シン・ゴジラ』に出てくるゴジラは、これまでの基準に照らし合わせれば、ゴジラと呼んでいいかどうかすらギリギリのレベルだ。しかし、本作のゴジラ初上陸シーンで、見たこともないおぞましい何かが画面に映る瞬間の驚愕や、東京大破壊のシーンでたかが大トカゲ1匹が本当の悪夢になる瞬間の絶望感こそ、60年前の観客が初代ゴジラを初めて見たときに感じた、未知の怪物に対する新鮮な衝撃と同じものだろう。 54年の映画『ゴジラ』をお手本に、ゴジラというキャラクターを現代に再生させるにあたり『シン・ゴジラ』が選んだのは、ゴジラの姿かたちや設定を初代に似せて再現することではなかった。この映画は、60年前の人々が初めてゴジラを観たときの「なんだこのバケモノは!」という驚きの感情を忠実に再現してみせたのだ。 本作のゴジラは、我々がこれまでに観てきたどんなゴジラとも違う。だからこそ逆説的に、“人知を圧倒する、見たこともない異形”という、初代ゴジラが持っていたキャラクターの本質をもっとも忠実に具現化している。 本作のゴジラは、かろうじて我々の知るゴジラの形状を留めているが、劇中で語られるように、あの姿から羽を生やすかもしれないし、双頭や三つ首のバケモノになるかもしれない。「ゴジラかくあるべし」と先入観と固定観念に縛られたオールドファンを嘲笑うかのようなゴジラ描写はすばらしく痛快だ。公開前に『シン・ゴジラ』のビジュアルを観て、「やっぱりゴジラは直立歩行で人類を睥睨するあの姿勢に意味があるよね~」などと、代わり映えのしない議論に終始していた我々ゴジラオタクの背後で、「ゴジラの本質は“人知を圧倒する異形”である。姿かたちや設定は重要ではない」という、1歩も2歩も先を行く結論を突きつける映画が作られていたのだ。本当に恐れ入りました。 ということで、『シン・ゴジラ』は、これまで積み上げてきたゴジラのキャラクターを放棄してまで、より本質的な部分で『ゴジラ』1作目の再現を果たした、作り手の勇気と志にあふれた映画だ。過去28作を経て、親しみ深い対象になっていたゴジラが、未知のバケモノに変わる瞬間。ゴジラファンとして、この貴重なファースト・コンタクトの感覚を体験できただけでも、『シン・ゴジラ』を劇場で観る価値があったと私は思っている。
次に、この映画を形成する重要な要素、VFXについても触れておきたい。
私は日本の怪獣映画が大好きだが、いわゆる“特撮”は、目的ではなく手段であるべきだと思っている(ここでいう“特撮”は、着ぐるみ+ミニチュアによる狭義の意味での特撮)。着ぐるみでの撮影に盲目的にこだわるのはまったくのナンセンスで、迫真性をもって怪獣を描けるなら、着ぐるみでもギニョールでもCGでもミニチュアでも実景合成でも、最適な方法を選んでくれという考えだ。 今回、ついに着ぐるみという楔から完全に解き放たれたゴジラがどう描かれるのか期待していたのだが、その部分は大いに肩透かしをくらった。ゴジラはだいたいビルの向こうにいるか遠景空撮の街中にいるかで、非現実の存在が現実の「今、ここ」とインタラクションを果たすという映画的快感に乏しい。「これこれ!こういうのが観たかったんだよ!」というシーンはいくつかあるものの、大半の描写は昔ながらの怪獣演出をCGで踏襲する形であり、なおかつCG表現としても質感や動きは相当に厳しかった。このVFXクオリティの限界が、せっかく“人知を圧倒する異形”として蘇ったゴジラの迫真性を大いに減じていたのは非常に残念なところだ。 (とはいえ日本の映画制作費で言えば、このへんが限界点なのかも・・・がく)
さて、続いて映画全体の構成について。
この映画には致命的な欠点があると思っている。現場の人々の痛みを描いていないところだ。 群像劇ではあるものの、主要メンバーは全員、会議室の中にいる制服組。1、2シーンを除き、実際にゴジラに焼き殺された膨大な被害者は数字として扱われるのみで、個々の死が具体的に描かれない。もっとも弱い被害者たちの苦難を描かずに、「国中みんなで頑張れば乗り越えられる!」というテーマを描くのはさすがに無理があるのではないか。 主人公の矢口チームにも、安全な会議室から出て、市井の人々とともに死に向き合う試練が与えられるべきだったろう。東京脱出の際に圧倒的なゴジラ災害に巻き込まれ、チームの誰かが失われるシーンを具体的に描けば、再集結したチームが団結する流れをハッキリ作れたし、喪失を乗り越えて戦い続ける彼らの姿は、観客の心をより強く打ったはずだ。 この「現場の人々の痛みを描いていない」という点は、ヤシオリ作戦のシーンで顕著になる。主人公・矢口が「現場」の力を称賛する割に、実行部隊の人間は顔の見えない無名のモブでしかないので、「官・民 & 在日米軍志願者が1つになってゴジラに挑む」という最高に燃えるはずの構造がくっきり浮き上がらない。東京消滅を防ぐため一番命を張ってゴジラに立ち向かう、現場のプロフェッショナルたちが人間として描かれないため、「小さな人間たちの勇気がゴジラを止めた」ではなく、「矢口の巧みな政治手腕がゴジラを止めた」になってしまっている。群像劇として、被災した人々と、ヤシオリ作戦実行部隊のメンバーも描けば、もっと誠実に作品テーマに向き合い、なおかつ作劇上もスリルと感動を上乗せできる内容になっただろう。 そのほかにもこの映画には欠けている描写がたくさんある。特に気になった部分を3つほど挙げてみる。 ■ヤシオリ作戦、「数十種類つくった凝固剤の1つでポジティブな結果が出た」とセリフだけで説明され、いつの間にか人間側の最後の希望みたいになってしまうが、観客にしてみたらそこまで決定的な作戦という印象をもてない(この映画は特にセリフが多いため、その他大量の情報の中に埋没してしまう)。例えばゴジラの肉片サンプルに凝固剤を投与すると一瞬で活動が停止して「これならいけるぞ・・・!」と主人公たちが確信する場面など、視覚的に観客を納得させるシーンがあれば、作戦の存在感が段違いになっただろう。 ■中盤の東京大破壊で最高に盛り上がってからのゴジラ急停止。15日後に目覚めるという推測データが提示されるおかげで、時間との戦いというサスペンスは発生するものの、予測不能な破壊神ゴジラの存在感は大きく減退する。人間側のほうで「東京が核兵器で消滅!?」という大きなドラマが動いてしまうこともあり、ストーリー上、ゴジラの存在が矮小化してしまう。 例えば、ゴジラの活動を停止させつづけるためには人間側が何らかのアクションを取りつづけることが必要で(膨大なエネルギーを費やして冷却するとか過熱し続けるとか)、動き出さんとするゴジラを制止しようと四苦八苦するなど、最後までゴジラの存在感を維持する設定が必要だったのではないか。 ■ヤシオリ作戦の映像的な迫力不足も痛い。ゴジラの暴れ方も、中盤の東京大破壊シーンより明らかにスケールダウンするし、人間の思惑通りに2回も転んで目を回すオトボケぶりも相まって、ゴジラの恐怖感が急速に減退する。 中盤に放射熱線を吐いたのと同じスケールでゴジラを暴れさせてしまうと、脚本的にヤシオリ作戦が実行できない(ゴジラに近づけない)というジレンマは分かるが、それならゴジラが矢口のいる指揮所に向かって予想外の進行をはじめるとか、指揮所が背びれビーム(仮称)の流れ弾に被弾して作戦行動にタイムリミットが設けられるとか、別種のサスペンスを平行して走らせることで最後までスリルを維持すべきだったろう。 ・・・などなど、特に後半戦で気になる部分が多々ある。で、この映画がなんでこんなに色々欠けてしまっているのか原因はものすごくハッキリしていて、それはもう「庵野監督の趣味で会議シーンに時間を使いまくっているから」に尽きる。たしかに『シン・ゴジラ』は会議シーンがメチャクチャおもしろくて、文句なしにこの映画の一番魅力的な部分ではあるのだが、そうは言っても会議の描写に時間を割きすぎた分、物語として重要なほかの要素を描く時間が足りなくなっている。 会議シーン以外に作り手の嗜好が前に出すぎて作品バランスを壊している要素といえば、要所要所で流れる伊福部楽曲もそうだ。純粋にこの作品の雰囲気に合っていないので、曲がかかっても映像と乖離するばかりで観客のテンションも上がらない。 このへんのイビツぶりを、クリエイターの信念と取るか、オタクの自己満足と取るか・・・。私個人は後者の印象を強くもってしまった。
とはいえ、冒頭にも述べたとおり、欠点を並べ立てるだけなら簡単にできる。この映画は、そういう大小の欠点をはらみつつ、作品全体として異様なエネルギーとテンション、奇形の楽しさに満ちている。開始1分からフルスロットルで走り始める物語のスピード感。主人公・矢口をはじめ、全員が超いいキャラのチームメンバー。そして何より、「ゴジラとのファースト・コンタクト」という素晴らしい体験を与えてくれたこの映画を、私はどうしても嫌いになることができない。いやー、本当に楽しい2時間だった。
あ、最後にこの映画の興行収入予想について。 私は前回のブログ記事で、「『シン・ゴジラ』はプロモーションの仕方さえ間違えなければ興収50億円は行くのでは?」と書いた。樋口監督で、スターを揃えて、VFX大作映画で、夏公開で、40~50代の客層も狙えるという点から、リメイク版『日本沈没』の53億をベンチマークとして予想した(庵野監督はエヴェの実績はあるが実写映画の成績は今ひとつなので要素としてプラマイゼロ)。『るろうに剣心 京都大火編』が52億稼いでるのでそのぐらいは行くだろう、という思いもあった。その上で、『シン・ゴジラ』はオタク向けよりも一般向けのプロモーションをすべきだ、と勝手な提言をした。 が、実際に観てみたら、この映画はカップルや一般層にいきなりゴリ押ししてもしょうがない。作品自体も予想以上にエヴァだ。ゴジラはめっちゃ使徒で、映画としては要するにヤシマ作戦だ。なので東宝としては、まずはエヴァのファン層に火を付けてブームになってる感を創出し、俳優を安心材料に周辺の一般層を引き込む、というエヴァ「序」的な客層拡大の流れを狙ったプロモーション戦略だった・・・・のかな。大丈夫かそれ。 あ、もう1つ蛇足! 放射熱線を吐く時にゴジラの眼を瞬膜が覆って鬼神みたいな顔になるってアイディア、私も15年ぐらい前に思い付いてたんですよ!まじで!!!! ああ、語ることが尽きない。なにせ12年ぶりの国産ゴジラ映画だ。これから賛否含めてたくさん出てくるであろう他の人達の感想を読むのも楽しみだ。今月は、ゴジラのことだけ考えて生きていこう。 |
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