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ミュージシャン

2007年12月下旬。19時を少し回った頃、仕事から自宅に戻ろうとしていた時に、ママから電話が入りました。

 

ASKAちゃん! 鳴瀬よ。パパが、パパが危篤なの!!」

「今、どこ!?病院!?」

 

「○○病院。もうダメかもしれない。」

「分かった!直ぐ行く!」

 

なるパパは、鼻に管をとおされ、人形のように眠っていました。

 

「ありがとう、ASKAちゃん。もう、声をかけても動かないの・・。」

「なるパパ!ASKAだよ!」

 

静かに眠っていました。左斜め横には心電図モニターがありました。70~80の間を数字が動いています。

 

「つい、この間まではお元気だったのに。なぜ?」

「肝臓癌・・。こうなるの、もう3回目なの。」

 

病室は静寂に包まれていました。ママは何度も、何度も、なるパパの顔を撫でています。声がかけられませんでした。2時間ほど、この状態が続いた後、モニターの数字が落ちて行きました。30、20、10と。そして、数字は2〜4となりました。それを確認した医者はママの肩に手を当てました。

 

「残念ですが、ご臨終です。」

 

医者が、気を遣うような声で語りかけました。

 

「人間の身体には電気が走っていますので、0がご臨終というわけではないのです。しばらく数字は動きます。しかし、数字が動いてる以上、ご家族も死を受け止めることはできないでしょう。私は、少しこの場を離れますね。」

 

そう言うと、医者は病室を出て行きました。人の死に目に遇ったのは初めてのことでした。そのまま5分ほど、言葉をかけられなかったのです。僕は思いました。「なるパパは、本当に死んだのだろうか?身体を動かそうにも、動かせないのではないだろうか?」

 

ふと、思いつきました。僕は、携帯で「背中で聞こえるユーモレスク」を探したのです。配信サイトです。ありました。直ぐに、それをダウンロードし、なるパパの耳元で鳴らしたのです。曲が始まった時でした。動き出したのです。

心臓が鼓動を始めたのです。

 

「なるパパ!聞こえてるよね!一緒にやった曲だよ!」

 

モニターの数字は50、60と上がり続けます。曲が終わると、モニターの数字は一桁に戻ってしまいます。もう一度、流します。すると、また心臓が動き始めます。

 

「なるパパ!こっちだよ!こっち!そっちに行っちゃいけないよ!」

 

何度も曲を再生し続けました。死んではいません。身体が動かないだけなのです。120台まで回復した瞬間もありました。きっと、プレイをしている夢を見ているのでしょう。思いつく限りの言葉を投げかけて、こちらに戻しました。

 

「パパ!パパ! 早く用意をして!お客さん、もう待ってるわよ! お客さん、満杯よ!」

 

ママがそう叫ぶと、止まった心臓が、また動き出しました。

 

「なるパパ!約束でしょう!一緒にライブやるって約束したでしょう!」

 

なるパパの目から涙がこぼれ始めました。そのような状態が2時間半ほど続いたのです。もしかしたら、戻って来るのではないかと何度も思いました。生きる方へ一生懸命のように見えました。しかし、顔はだんだんと黒ずんで行きます。精神は生きていても、身体が死へと向かっているのです。僕は、心の中で言葉を投げかけました。

 

「なるパパ。もう十分だよ。あなたに出会えたことを感謝します。僕も、いつかそっちに行きます。その時に、必ず一緒にやりましょう。本当にお疲れ様でした。」

 

心で語りかけたその瞬間に、数値は一気に落ちて行き、0になってしまいました。人は、臨終を迎えた後も、耳だけは聞こえているのです。戻って来ようと頑張っているのです。ちゃんと、お見送りができました。それから数分後、医者が病室にやって来ました。

 

「こんな体験は初めてです。我々は死に対して考え直さなければなりません。」

 

なるパパはミュージシャンのままで、逝きました。素晴らしかった。幸だったでしょう。

 

それから、数ヶ月後、ママから電話がありました。

 

「何かねぇ。家に楽器があると想い出すばかりでね。処分しようと思ってるの。倉庫の奥からアコースティックギターが出てきてね。楽器屋さんに電話をしたら、20万円で引き取ってくれると言うのよ。」

「どんなギター?」

「読めないわぁ。Gi・・までは分かるんだけど。黒とベージュが混ざり合ったやつで、ボディに丸いボリュームスイッチがあるわよ。」

「ママ、それ、ギブソンって書いてない?」

「ああ、本当だ。ギブソンって読める。」

「それ、ビンテージでね。ジョンレノンが作らせた特別なギターだよ。20

万円なんてものじゃないよ。オレが買うから、絶対に売らないで。」

 

鳴瀬昭平さん、僕はあなたが残してくれたギターを、今もステージで使っていますよ。あなたが残してくれた、僕への贈り物です。ありがとう。

ASKA

時代を超える

ママの家は、僕の自宅から歩いて3分のところにありました(現在は、成田に住居を構えてる)。いつも、その家を見るとき、素敵な家だなと思い、眺めていたのです。日本では、あまり見かけない壁の色をしていました。ママの家におよばれした時に、ママのご主人を紹介されました。僕は、そのご主人を「なるパパ」と、呼ぶようになりました。なるパパは、当時の自分が弾いていたウッドベースを見せてくれました。

 

「これはドイツのウッドベースでね。1000万くらいしたかなぁ。」

 

触れるのが怖い。

昔、僕が幼かった頃「シャボン玉ホリデー」という番組がありました。クレイジーキャッツ(ドリフターズの師匠)の番組です。その番組のエンディングでは、切なくなるような音楽が流れました。とても印象的な終わり方でした。その音楽のベースを弾いていたのが、なるパパだったのです。強く記憶にすり込まれています。幼い頃に、なるパパの演奏を聴いていたのですね。

 

「なるパパは、もう弾かないんですか?」

「もう、指が動かないよ。ほら。」

 

指は、ベースの弾き過ぎで人差し指が90度近くに折れ曲がっていました。

 

「これじゃ、もうダメなんだよ。」

「それでも、それなりに弾けるんじゃないですか?」

「どうだろう?もう、昔のことだから。」

 

なるパパは、ウッドベースでしたが、アメリカではエレキベースが主流になってきているとういう話を聞いて、いち早く日本に取り寄せ、エレキベースの練習をしました。当時、日本でエレキベースを弾けるのは、なるパパだけだったのです。

 

間もなく、エレキベースが日本でも認められ出した頃の、なるパパのスタジオでの仕事は、一気に増えました。その頃、譜面はアレンジャーが細かく書き上げたものを忠実に弾くだけだったのですが、なるパパのセンスに脱帽したアレンジャーたちは、なるパパにはコード譜だけを渡しました。自由に、思いどおりに弾いてくれとのことだったのです。キメのフレーズ以外は、すべてなるパパのアドリブによって楽曲は纏まって行きました。現在の、スタジオミュージシャンの走りです。仕事は、多いときで一日に6つも7つもスタジオで演奏していたそうです。考えられない仕事量です。その後、なるパパは僕たちのライブに来てくれました。

 

ASKAさん、触発されちゃったよ。引退は引退と認めた自分のできごとだね。もう一度、ベースに戻ろうかな。」

「そうですよ。その気になれば死ぬ前までが現役ですよ。いつか、一緒にやれることがあればいいですね。」

 

なるパパは、音楽に戻りました。毎日の練習が始まったのです。胸が熱くなりました。

 

ASKAさん、今はコンピューターでの打ち込みの時代だね。どうだろ。僕に打ち込みを教えてくれないだろうか?」

 

もう、80歳になろうとしているミュージシャンがコンピューターを覚えようとしている。

 

「もちろんですよ。僕で良かったら、いつでもお家に行きます。」

 

なるパパとの深いお付き合いが始まりました。目の前で、プレイも見せてもらいました。素晴らしかったです。目を閉じながら、時にはメロディを歌いながら、演奏するのです。格好よかったですねぇ。

 

「なるパパ、現役プレイヤー顔負けですよ。それだけ指が動くんです。もったいないですよ。死ぬまで弾いて下さい。いつか、一緒にスタジオに入りましょう。僕の曲を弾いて下さい。」

「スタジオかぁ。懐かしいなぁ。」

 

それから、僕の頭の中には、いつもなるパパのプレイが鳴っていました。一生、音楽に向き合って欲しいと思ったのです。

 

数年後、僕はひとつの楽曲を完成させました。4ビートのジャズ曲です。プロデューサーの山里と、これをどういう風に仕上げようかと話し合いました。僕は、ためらいながら、なるパパの話をしました。出会いから、現在に至るまでの話です。ダメ元で話をしてみたのです。

 

「美しい話は、美しい話にしよう。現役のプレイヤーには敵わないよ。ASKAの胸にしまっておきな。」

 

そう言われると、思ったのです。しかし、そうではありませんでした。

 

ASKA、なるパパをスタジオに戻してあげよう。現役では敵わない味が出るかもしれないよ。ASKAの親戚の水野純交さんにも参加してもらおうじゃないか。」

 

レコーディングは、ビクタースタジオで行われました。なるパパは、さっそうとウッドベースを抱えて来ました。ミキシングルームに入って来て、まず最初に発した言葉は、

 

「これが今のスタジオですか。」

「そうです。すべてコンピューターで動いています。」

「やれるかなぁ。ご迷惑をおかけすることになるのではないですか?」

 

山里は言いました。

 

「僕たちは、なるパパと仕事がしたいんですよ。シャボン玉ホリデーのあの素晴らしい演奏をされていた方です。とても光栄です。」

 

数分後、水野純交さんがスタジオに着きました。なるパパと純交さんは、大きな声を上げ、握手をし、抱き合いました。そして、なるパパは譜面に目をとおすと、それを持って、そのままブースに入って行きました。誰よりも先に行動したのです。

 

マイクをとおして、なるパパが語りかけてきます。

 

「夢のようです。今から、弾かせていただきます。」

 

一度、楽曲を聴いてもらってから、プレイをしてもらおうと思っていたのですが、なるパパは、もう2番からプレイを始めました。僕たちは、これを逃してはならないと、直ぐにレコーディングボタンを入れました。

 

「なるパパ、カッコいい!素晴らしいじゃないですか。まだまだ、現役ですよ。」

 

譜面が小さすぎて、コードが追えないとのことでしたので、直ぐに譜面を拡大し、それを渡しました。何度も、何度もやり直します。もう、僕たちのなかでは、十分にOKテイクなのですが、なるパパは妥協しませんでした。ママは、涙を流しながら、その光景を見つめていました。

 

ASKAちゃん、ありがとう。ありがとう。また、再びパパのプレイを見れるなんて・・。」

「何、言ってるんですか。僕たちは光栄ですよ。」

 

そうして、なるパパのプレイが終わりました。

 

「僕は、こんな日がやって来るなんて夢にも思っていませんでした。勇気くれてありがとう。」

 

皆、涙腺が緩みました。世代を超えてひとつの音楽が生まれようとしているのです。音楽は素晴らしい。純交さんも同じでした。なるパパのプレイに刺激されたのでしょう。

 

「純交さん。この曲は純交さんの思うがままに吹いて下さい。決まりごとは、何にもありません。すべてアドリブでお願いいたします。」

 

まだ、歌詞のついていない僕のボーカルの隙間を縫いながら、目を閉じて吹いています。どのメロディも楽曲を持ち上げてくれるものでした。完成までに、時間はかかりませんでした。山里が言います。

 

「水野さん、素晴らしい。メロディの宝庫ですね。すべて使わせてもらいます。」

 

ふたりの心の中に生まれたものは、どんなものだったのでしょう。パパのプレイを見守るママの後ろ姿。これにやられた僕は、間もなく「背中で聞こえるユーモレスク」という詞を書き上げました。

 

「なるパパ、純交さん。いつかステージでこの曲を一緒にやりましょう。」

 

ふたりは握手を交わし、連絡先を教え合い、スタジオを後にしました。

これが、音楽なんです。すべての交わりです。心に残る日となりました。

つづく・・。

ASKA

奇跡的な出会い

あれは、いつのことだったかなぁ。はっきり覚えておりません。この話は、ステージでも語ったことがあるので、覚えてられる方は多いと思います。

大阪でした。ライブが終わった夜に、メンバーと外人クラブに行ったのです。

外国人さんの女性たちは、僕の顔を知らないので、とてもリラックスして楽しめました。そのクラブで、当時「近鉄バファロース」の野球選手と会ったのです。レイノルズと言います。レイノルズは、僕の顔も、歌も知ってくれていました。車の中では「いつもCHAGE&ASKAの曲を聴いてるんだよ」と。

30分くらい話をしたかなぁ。その時、レイノルズが言ったんです。

 

ASKAは東京でカサノバには行ってないの?」

カサノバって何?」

「ここと同じような外人クラブだよ。ぜひ、お勧めするから、行ってごらんよ。ママには、僕から伝えておくから。レイノルズの紹介だと言って。」

 

それから、数週間後、当時「ASKAバンド」の松本晃彦(踊る大捜査線の音楽を担当したミュージシャン。現在ロサンジェルスに拠点を移し、ハリウッド映画などを手がけている)と、松本のマニピュレーターの森下晃、それと僕の三人で六本木のカサノバに足を運びました。そこは、六本木の中心部から歩いて5分のところにありました。ビルの地下一階でした。

 

「こんばんは。レイノルズに紹介されて来たのですが。」

「あー!ASKAちゃん。連絡あったわよ。」

 

ママ(推定65歳前後)とは初めてお会いしたのに、そんな感じはしませんでした。懐かしい人に会ったような気持ちになりました。そして、4人掛けのテーブルに座って話をすることになるのです。会話の中で、ママが音楽の話をし出しました。日本に訪れる様々な外タレが、この店に寄るのだと。

 

「松本さんのご家族で、音楽をやってらっしゃる方はいるの?」

 

松本は答えました。

 

「僕には姉がいて、アメリカに住んでいるのですが、ハリウッド音楽を制作しています。それと、叔父に『松本英彦』(世界的なテナーサックスプレイヤー)というのがいます。」

「えっ!? ひでちゃん?あなた、ひでちゃんの甥っ子さんなの?」

「知ってるんですか?」

「知ってるもなにも、私の主人と同じバンドでやってたのよ。」

 

ママのご主人は、ベーシストで、その昔『なるちゃん』と呼ばれていた有名なベーシストだったのです。現在は、引退して昔を懐かしむ生活をしているとのことでした。僕は言いました。

 

「へぇ。凄いねぇ。いきなり繋がったね。」

「あらま、ビックリ。ASKAちゃんはどう?ご家族に音楽やってる方がいるの?」

「ウチは、オヤジが自衛官で剣道をやっていまして、僕も剣道づけだったし、音楽とは無縁だったですねぇ。あ、でもひとり親戚に『水野純交』というクラリネットプレイヤーがおりまして・・。」

 

空気が変わりました。

 

「純交ちゃん!?」

「え?知ってますか?」

「だって、ウチの主人と英ちゃんと、純交ちゃん。同じバンドだったのよ。よーく、知ってるわよ。」

 

奇跡です。こんな繋がりってありますか?ママはもちろん、松本との縁を感じました。叔父さんが、同じバンドだったなんて。それが時を超えて現在一緒にやってるわけですから。更に、話は森下に振られました。

 

「森下さんは?」

 

森下は、こんな奇跡の出会いが自分で止まってしまうのを嫌い、躊躇したのです。

 

「いや、僕のオヤジはしがないカントリー歌手なんで、有名ではありませんから。」

「何言ってるの。カントリーって素敵なのよ。私は、お店を数軒持ってたことがあってね、その時に店で歌ってくれていたカントリーシンガーが、本当に素敵で素敵で。あの人、日本で一番のカントリーシンガーだと思うわ・・。」

 

遠くを見るような目で優しく語りました。その時です。

 

「あら!?その人、森下さんって言うんだけど・・。」

 

まさか・・。胸が高鳴ります。

 

「あなた、まさかあの森下さんの息子さんじゃないの?」

 

森下は、戸惑いました。せっかく三人が運命的な出会いをしているのに、自分で途切れることが怖かったのだと思います。

 

「ママさん、森下違いですよ。オヤジからはそんな話は聞いたことがありませんし・・。」

「でもねぇ、どこかあなた、その森下さんに似てるわよ。」

 

僕は、言いました。

 

「森下、電話してみろよ。」

「いやぁ、もう寝てると思いますし。」

「電話、してみろって。」

 

森下は、しぶしぶ携帯を取り出し、電話しました。電話は、すぐに繋がりました。会話をしています。僕たち三人は、それを見守りました。

 

「えーっ!?本当に!?信じられない。そうなんだ?」

 

やはり、森下のお父さんでした。ママの店で歌っていたことがあったのです。こんな偶然、奇跡ってあるのでしょうか?その後、僕たちは、ママの店に通いました。僕たち三人は、見えない力によって出会ったのだと思っています。その後、ママは六本木の店をたたみ、現在では、僕の家に遊びに来たり、時には泊まったりしています。

つづく・・。

もとい、ASKA

六季

六季

 

 

この暑さは

夏らしい夏とは言いません

夏は夏であるべきです

 

その昔

九州福岡でも

30度を超えた日は話題になっていました

ところがいまは

車のボンネットで目玉焼きが作れてしまいます

砂浜で足の裏が火傷してしまいます

空から鳥が落ちてきます

日々のニュースになる熱中症

 

夏をとうに通り越した季節

これはすでに別の季節です

 

この国が四季で現されたのはもう遠い話

 

春 夏 梅雨 焼夏 秋 冬

 

これからは

六季で表さなくてはなりません

 

これに賛成をした人

あなたも暑さにやられています

 

 

ブルネイ王国

1996年頃だったかなぁ。当時、アジアツアーを敢行していた僕らに、ブルネイ王国からライブの依頼があったのです。ブルネイは、天然ガス資源で成り立っている国であり、国民は税金がないという裕福な国です、興味が沸きました。

 

早速、スタッフはブルネイと連絡を取ることになるのですが、特殊な環境でのライブのようでした。オーディエンスが50人程だというのです。内容は、こうでした。ブルネイ王国の王族がオーディエンスであると。つまり、王族親戚一同だけの前でパフォーマンスするのだということが分かりました。

スタッフは、強力にライブを勧めて来ました。ギャラが破格なのです。記憶は少し曖昧なのですが、一昨年はマイケルジャクソンが60億円でやったと。前年は、ティナターナが48億円で。本当に、驚きました。そこに呼ばれるということは、大変名誉なことなのです。スタッフは、熱く語ってきました。どうしてもやりたかったようです。僕たちは、言いました。

 

「では、50億円くらいいただきますよ」

 

返事は、すぐに帰って来ました。

 

「いいですよ」。

 

迷いますよねぇ。2時間半ほどのパフォーマンスで50億円ですから。ライブにかかる費用。ステージセットなども含めて、全て王国が持つというのです。少なくとも、そんな条件は、過去経験したことがありません。

しかし、僕たちはお断りいたしました。

 

「お金を基準にライブをやるようなことはしたくない」と。

 

カッコいいでしょう?

今、思うんです。

 

 

 

 

 

「あのー、そろそろいいですよ・・」と。

ASKA

 

 

遭遇

ただいま。今、部屋に戻りました。音楽仲間と久しぶりに会って、近況を報告し合いました。なんと、そこに、あの焼酎があったのです。僕が、知り合いの酒屋に頼まれて、命名した焼酎です。氣心(きごころ)

お酒の好きな方は、どうぞ、一度試し飲みをしてみて下さい。

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今から、みなさんのコメントを読ませていただきます。

時間ですか?大丈夫です。昼近くまで眠られますから。

たくさんのコメント、どうもありがとう。みなさんは、おやすんでいてください。

ASKA

悟り

悟り

 

 

こうやって詩を書いていると

何世紀も前から詩を綴っていた気がする

 

人間の脳は30%しか使っていないと言われているが

それは間違っていると思う。

 

残された70%の要領域は過去生で埋められている

生まれる前のことが

圧縮されたファイルのようになって詰まっている

 

なので

それらが基になって

生まれたときには性格が備わっている

 

性格は親に似ると言うが

そうではない

 

生まれて来るときに

自分と同じ色の出口を用意され

その中から出口を選んで生まれて来る

つまり親を選んで来る

 

生まれ来るこの世では

自分がどうありたいかという目標を持って生まれて来る

 

その目標にいちばん近づけると思ったところに生まれ落ちる

目標は様々だ

 

過去生で失敗したこの改め

謝らなくてはならない人との出会い

結ばれなかった恋の実り

親として子としての家族の契り

助けてもらった人への感謝

傷つけられたことへの憎しみ

 

生まれ来る理由は様々だ

決して生まれてきたことを悔やんではいけない

生まれ出たことを有り難いと思わなくてはならない

 

「有り難う」とは

「有りることが難しい」ということ

 

生まれてくることは

それほど難しいことだとされている

 

釈迦は

「この世には答えの出るものと出ないものがある

この世は答えの出ないものがほとんどだ」と説いた

そして

「生まれてきた理由を問うてはならない」と言った

釈迦がこの世を離れてから2千5百年が経った

 

「答えのないものを問うてはならない」という悟りは本当だろう

しかし

僕は思うのだ

「釈迦のたどりつかなかった悟り」を悟りたいと

なぜ生まれてきたかの理由はかならずある

 

僕は自分の人生をこう思う

やがて生まれ来る自分のために

生きたいと