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第三話 少年の受難 書籍化該当部分
「気に入らないね」
マゴットはミダス川を隔てたセルヴィー侯爵領から吹く東風に銀に煌めく髪を抑えた。
このところマゴットの第六感は、かの国に対してしきりと警鐘を鳴らしていた。
だからこそ先月から数度にわたり自ら国境の偵察に乗り出していたのだ。
しかしセルヴィー侯爵領から発せられる空気は間違いなく不穏であり、兵を集めている気配はあるにもかかわらず攻撃を開始する軍にあるはずの殺気がない。
城下にあがる炊煙の様子で、マゴットはその数が百かそこらであると睨んでいたが、不思議なことにその後もマゴットの目に捉えられる変化は何一つなかった。
あるいは偽装なのか、はたまた自分一人を狙った暗殺でも企んでいるのか?
予定を一日遅らせて、マゴットは信頼のおける馬回りとともに偵察を続けた。
「………しばらく戦場から離れて、私の鼻も鈍ったもんだね」
そう遠くない未来にマゴットは予想外の成り行きに天を仰いで嘆息することになる。
森から上がった警笛は斥候に出ているグリムルかセルによるものだろう。
予想より完全に早い襲撃にバルドが歯噛みしたい思いに囚われる。
(よりにもよってセリーナとセイルーンがいるときに―――――)
「ミランダ、ジャムカ、ミストル、こっちからうってでるぞ!大将は早く餓鬼を逃しな!」
「時間を稼いでくれ、頼む」
「任せな」
短い言葉を交わすと3人は短い口笛を吹き鳴らした。
すると森のほうからピピピピ、と短いスタッカートをつけて同じく口笛がもたらされる。
ジルコが仲間たちと事前に打ち合わせていた暗号だった。
「ふん……たったの12人かい………舐められたもんだね」
実はこれほどトーラスたちが早く到着したのには理由がある。
その原因は実はマゴットの前線偵察だ。コルネリアスの最強戦力が城下を離れているということは、潜入する兵士にとってまたとない朗報であった。
なんといってもマゴットはセルヴィー侯爵領に住む者にとっては、最悪の厄神のようなものである。
彼女がいるといないとでは、兵士の精神的抑圧の度合いが全く違うと言ってよかった。
マゴットが帰らぬうちに侵入を果たすべく、トーラスたちは昼夜兼行で国境を横断し、北部森林地帯へ侵入を果たしたのである。
とはいえ森林地帯の行軍は正規の騎士であるトーラスたちには困難を極めた。
土地勘のない森林で東西南北を迷わずに、目的地へ辿りつくことは、騎士としては優秀なトーラスをもってしても至難の業であった。
装備や食糧を十分に整えたつもりではあってもなお、日一日と減っていく食糧と野宿による体力の消耗がもたらすストレスはトーラスたちに重い重圧となってのしかかっていた。
「もうすぐ目的地だ。がんばれ」
半ば自分にも言い聞かせるように叱咤するトーラスは、次第に森が開けて太陽の差しこむ光が増していくのに気づいた。
やはり間違いはなかった。もうすぐ近くに目標の農場はある。
それではこのまま襲撃を開始するか、それとも休息をとって万を持して行動を開始するか。
もとより逃亡する都合上、夕刻に近い時間に行動を開始するつもりであったが、太陽が西に傾くまであと半刻ほどといったところだろうか。
疲労に重くなった身体を休ませるほうへ思考が傾きかけたそのとき、耳障りな警笛が静かな森の眠りを破ったのだった。
最初にトーラスたちを発見したのは樹上から警戒に当たっていたセルである。
姿かたちはいくら野盗にみせかけていても、かつて厭と言うほど戦ったハウレリア騎士特有の身ごなしは完全には消えない。
間違いなく奴らがバルドのいうセルヴィー侯爵家の尖兵なのだろう。
「それじゃちょいと稼がしてもらおうかい」
生死を問わずに金貨10枚、悪くない金額だ。
仲間より先に美味しいところを頂いておくとするか。
突然吹き鳴らされた警笛に動揺する兵士たちの背中に、セルは腰から引き抜いたナイフを狙い澄まして投げつけた。
キン!
乾いた音を立てて同時に放たれた3本のナイフのうち2本が叩き落とされる。
反射的に剣を抜き放って迎撃したトーラスの仕業だった。
「そこか!」
「ちぃ!思ったよりやりやがる!」
木々の枝から枝へと飛び移りセルはひとまず身を隠すことを選択する。
ナイフ使いのセルにとって身の隠しようのない平野での集団戦闘は苦手だが、こうした森林での不期遭遇戦はもっとも得意とするところだ。
「―――――それにとりあえず金貨10枚はいただいた」
敵が姿を隠したと思うまもなく、ナイフを肩口に受けた騎士のひとりが膝から崩れるようにして倒れた。
ナイフには即効性の麻痺毒が塗られていたのである。
「くそっ!」
呪詛にも似た言葉を吐き捨てると、一瞬の躊躇もなくトーラスは倒れた騎士に向かって剣を振りおろした。
この任務に捕虜になるということは許されない。戦闘不能になったものには必ず味方がとどめを刺す。それが事前に決められた誓いであった。
肉を断ち切る鈍い音とともに喉を切り裂かれた男はゴフッと口元から鮮血をほとばしらせて絶命した。
「行くぞ。今さら退く理由は何もない」
無言で頷いた兵士たちはトーラスの後を追うように農場へと飛ぶように駆ける。
身体強化された彼らは一陣の風となって、森の木の葉を嵐のように一斉に巻きあげた。
おそらくは不正規戦の傭兵が身を潜めた森からは一刻も早く出る必要があった。
「おいでなすった!」
最初の笛が鳴り響いた時点で子供たちは休憩小屋へ一斉に避難を開始している。
このところおやつの合図を笛にしていたこともあって、驚くべきスピードで避難は完了しつつある。
しかし唯一の誤算がセリーナとセイルーンの存在である。
農場の作業者の収容は事前にそれと知られぬように訓練を施していたが、二人はこの非常時に自分が何をすべきかの判断がつかない。
しかもセイルーンがバルドから離れることを嫌がったために、彼女を避難させるための貴重な時間が失われた。
バルドは前もってセイルーンに説明をしておかなかったことと、自分の想定が甘すぎたことを呪った。
「ミランダ!援護頼む!」
「任せて!」
目にもとまらぬ速さでミランダから矢が雨のように撃ち出されていく。
弓に特化した身体強化のなせる技であり、これほどの速度で威力を両立させた矢を放てる人間は王国中にも5人とはいない。
本来の戦い方であれば騎士として全身鎧を身にまとうトーラスたちにとって、皮鎧しかつけていない現状この間接攻撃は非常に処理に困る厄介な攻撃である。
通常であれば鎧の装甲の厚い部分で弾き返すのだが、野盗を装った軽装ではそれができない。
もちろん鎧なしでも水準以上の戦闘が出来るだけの訓練をトーラスたちは積んでいるが今回ばかりは相手が悪かった。
慣れない回避で一瞬の判断を誤った一人が重傷を負い、一人が軽傷を負う。
トーラスにとって痛すぎる損害であったが、ジルコのほうもミランダほどの弓士を相手に実質一人の損害しか与えられなかったことに舌打ちしたい思いであった。
(…………思っていた以上にやり手だね。姉御のような化け物でないのが救いだが)
「ジャムカ!ミストル!ここで止めるよ!森の連中と挟み撃ちにするまで踏みとどまりな!」
わざと聞こえるように援軍の存在を誇張してみるが、トーラスたちが動揺する様子は全くなかった。
それどころかバルドとセイルーンたちに狙いを定めたのか、さらに速度をあげていく。
確かに子供などいくら捕まえても何の情報源にもならない。彼らが見た目の身分の高そうなセイルーンやセリーナに注目するのは当然のことだった。
遅ればせながら背後からグリムルとセルが攻撃に参加するが6人対11人というハンデはジルコが考えていた以上に大きかった。
ヒットアンドアウェイで戦うならばいくらでも撹乱する自信はあるが、それをするにはバルドと二人の少女の距離が近すぎた。
「うわっ!」
騎士たちの一人が前につんのめるようにして倒れ込んだ。
踏み込んだ足が落とし穴に落ちたようにく脛まで地中に埋もれている。
咄嗟にトーラスはあらかじめ設置されていた落とし穴であると判断したが、ジルコはそれがバルドの魔法であることに気づいていた。
「よし!ここで押し返すよ!」
突風ジルコの名にふさわしい剛腕の一撃が襲いかかると、さすがに騎士たちも速度を落として防御に専念しなくてはならなかった。
それでも一撃を受け止めただけなのに全身に衝撃が残されるその重さは突風の名が伊達ではないことを告げていた。
さらにジャムカが双刀を煌めかせて同時に二人の騎士を射程に収める。
ミストルは膂力にものを言わせた連撃で一人の騎士を追い詰め、セルとミランダは撹乱するように正確無比な遠距離射撃を浴びせた。
体格に勝る剣士のグリムルが一人の騎士を蹴り倒して戦闘不能に追い込むと、完全に戦線は膠着したかに見えた。
「ご武運を」
「あの世でまた杯を交わそう戦友よ」
しかしそれが全くの幻想であったことをジルコは思い知る。
膠着を装って騎士たちはそれぞれがジルコたち6人を完全に抑えこみ、トーラスへの手出しを封じた。
包囲を抜け出し最大兵力であるトーラスがフリーハンドを得るのをジルコは止めることが出来なかった。
「ちいっ!最初からそれが狙いか!」
最悪トーラス一人が捕虜と情報を持ち帰ればよい。
捨て駒として異郷の地に果てる覚悟はとうに出来ている。
どこまでも冷徹な死兵の集団は今やバルドと二人の少女を完全に捉えようとしていた。
「すまねえ!大将!なんとか凌いでくれ!」
これほどに部下の心を掴んでいるトーラスが、それほど易しい敵でないことをジルコは誰よりも承知していたが、それでも祈る以外の手段はジルコには残されていなかった。
バルドはトーラスを一目見て彼が一流の戦士であることを感じ取った。
そこまでしてコルネリアスの裏を覗きたかったのか、とバルドは自分がセルヴィー侯爵の妄執を甘く見ていたことを悟った。
――――――失敗だった。全て僕の責任だ。
敵の戦力を甘く見積もり、その甘さのためにかけがえのない少女を危険にさらした。
許されざる失態である。
敵が本当に野犬であればセイルーンは素直に逃げただろう。
そして彼らがセルヴィー侯爵家の放った猟犬であると知れば、いかにバルド付きの侍女であろうと当主イグニスに注進したはずだった。
結局は現状をコントロールできるという自分の慢心が全ての元凶である。
無言のままにバルドは剣を抜く。
目立つために槍を携行することをためらったのも失点だった。
トーラスが槍を携行していない以上、武器の優位はバルドにとって心強い味方となったに違いない。
「そこの女を渡せ」
「ひっ!」
トーラスの言葉にセイルーンとセリーナの身体がブルリと震える。
問答無用にセイルーンとセリーナに襲いかからないのはトーラスの勘が、バルドを強敵だと見抜いたためだ。
理性はたかが餓鬼一人と訴えていたが、こと戦場では勘を優先させなければならない場合があることをトーラスは知っている。
それにまるで女の子に見紛うばかりの少年が、あの手練の傭兵一人一人に匹敵するだけの殺気を放っていることだけは間違いない。
油断なく間合いを詰めるト-ラスにバルドは舌打ちしたい思いであった。
子供だと思って油断する気配が微塵も感じられないからである。
獅子は兎を狩るにも全力を尽くすというが、トーラスもまた任務のために力を出し惜しむような男ではないということなのだろう。
「渡さない、この命賭けても」
バルドの一言でトーラスは少年が死すまで退くことのないのを知った。
これは驚くべきことだ。
死を恐れながらも死を覚悟することのできる人間は少ない。
トーラス自身、死ぬことを覚悟出来る人材を選抜した結果、危うく侵入部隊は10名を割り込むところであった。
かろうじてドルンの配下から3名ほどの応援をもらい、今の戦力を集めることが出来たのである。
それほどの誇るべき部下と同じ覚悟を10歳程度の少年から感じたことに、ト-ラスは新鮮な驚きを禁じ得ない。
同時にこうした覚悟を持つ兵士がどれだけ絶望的な状況下にあっても、決して諦めない不屈の戦士であることをトーラスは誰よりもよく承知していた。
「ならばよし」
たとえ子供であろうとも倒すべき雄敵。
トーラスは一気に加速してバルドとの距離を詰めた。
それを見越したかのように、目にもとまらぬ早業でバルドはトーラスに向かって石を投げつける。
通常であればいともあっさりと人を殺すに足りる一撃だが、トーラスほどの武人を相手にするには素直すぎる攻撃である。
余裕を持って回避しようとしたト-ラスの前で、子供の拳ほどの石塊は木っ端みじんに砕け散った。
「崩落」
「うぬっ!」
砂の粒子に変えられた石が目つぶしとなってトーラスの視界を塞ぐ。
まともな魔法なら一瞬で無効化したであろうが、トーラス自身ではなく、その前方の無機物に向かってかけられた魔法まではさすがに解除できない。
(この子供………やはり侮れん………!)
一瞬塞がれた視界を諦めてトーラスは神経を張り詰めさせた。
バルドは小さな身体を生かして地を這うような低空からトーラスの脛を狙う。
事実上セルヴィー侯爵領へ帰りつかねばならないトーラスは、足を怪我させられただけでも致命傷となる。
だが目に頼らずに気配を探っていたトーラスにはバルドの鋭い剣先が手に取るようにわかった。
剣で迎撃していては間に合わない。
なるほど素晴らしい一撃だ。あくまで少年にしては、だが。
トーラスは全く慌てずに、逆に足を薙ごうとしたバルドの剣を避けた足で踏みつけて無力化しようと図った。
最高のタイミングで放ったはずに斬撃を軽々と避けられたばかりか、そのまま剣を踏みつけられそうになったバルドはそこで一瞬の躊躇もなく剣を手放した。
かろうじてトーラスに対抗できる唯一の武器である剣をあっさり手放してしまうあたり、バルドのセンスはやはり水準を大きくはずれている。
トーラスほどの武人が、不覚にもこのバルドの判断には度肝を抜かれた。
少年の戦闘力を考えれば剣を失うということは戦闘そのものを失うことであるはずだからだ。
バルドの手から剣をはじき落とすつもりで勢いよく振りおろされた足は今さら止められるはずもない。
剣自体をへし折らんばかりの勢いでトーラスの足が大地に叩きつけらると同時に、バルドは懐から抜いたナイフをトーラスの足の甲に深々と突き刺した。
肉を斬らせて骨を断つという言葉がある。
トーラスは任務のために重傷を負えないということは厭と言うほどわかっていたが、避けることができないと判断した瞬間に、それは必要な犠牲であると割り切った。
そして決して致命傷ではない怪我を押させるために少年が払った犠牲を思った。
―――――おそらく、この少年は自分より強い人間と命ギリギリの戦いをしたことがない。
そしてむしろ一個の戦闘者としてより指揮官としての才が勝っているのだろう。
彼が味方の勝利を信頼する限り、ここでトーラスを負傷させておくという判断は完全に正しい。
だが、君は指揮官である前に戦士であり、君が相手をしているのはこの私だ―――――。
世界の全てがスローモーションに見えるような刹那の時の中で、トーラスはそんな思考をめぐらせていた。
そして尊敬すべき敵の首筋へと、ごく当然の作業として、容赦のない斬撃を叩きつけた。
ガキッ
バルドが右手をあげたのは、まさに奇跡的な偶然と勘によるものである。
右手で剣を離したためにナイフは左手に握られていた。
そのため手甲をはめていた右手の防御が間に合ったのである。これが左手であれば腕ごとバルドの首は宙に飛んでいただろう。
しかし膂力と体重の大きすぎるハンデは、防御ごとバルドの腕をへし折り、その小さな身体を10m以上彼方へと吹き飛ばした。
落下とともに2度3度とバルドの身体は地面をバウンドしてその肌に無数の小さな裂傷を刻み込んだ。
トーラスの剣を防御した右腕は手甲の反対側から骨が突き出しており、かろうじて生きてはいるがもはやバルドに立ちあがる力が残されていないのは明らかだった。
あの瞬間に防御したのは天運か?いずれにしろ将来恐るべき使い手よ―――――。
「バルド坊っちゃま!」
甲高い悲鳴をあげてバルドへ駆け寄ろうとするセイルーンとセリーナをトーラスは無言で左手に抱え込んだ。
セイルーンとセリーナの細い身体はトーラスが片手で抱えるのも十分な軽さだった。
「いやああっ!離して!バルド坊っちゃま!」
「はなしい!はなさんかい!このとうへんぼく!」
必死の力を振り絞って暴れる二人だが、歴戦の戦士の圧倒的な力を前にしてはあまりにその抵抗は空しい。
「ちいっ!」
トーラスにバルドが倒されるのを横目に目撃したジルコは思わず舌うちを禁じ得なかった。
優勢に戦闘を進めてはいるが、相手に手傷は増えても、まだ人数までは減っていない。
ここにトーラスが参戦すればこちらが劣勢に追い込まれるのは明白である。
それに―――――。
(姉御には遠く及ばんが、あいつも化け物のはしっこには引っ掛かってる……)
トーラスが自分たちの誰よりも戦闘力を持っていることを、ジルコはバルドとトーラスの戦闘から感じ取っていた。
自分はあいつには及ばない。世の中には一流と呼ばれる人間がどれだけ努力しようとも届かない領域の化け物がいるのだ。
戦場でそうした化け物に類する人間に出会ったときの傭兵の身の処し方は決まっていた。
味方が勝てそうなときは死なない程度に頑張る。そして負け戦の時は逃げる。
(大将、あんたいい指揮官だったが運がなかったよ)
半ばジルコは作戦を放棄して逃亡することを決意しかけていた。
報酬は惜しいが雇い主があの有様では、支払われる見込みは少ないだろう。
「お願い!助けて!坊っちゃま!坊っちゃまああ!」
「バルド!嘘やろ?動いてや!」
……二人の悲鳴がどこか遠くで聞こえるような気がする。
薄れていく意識のなかでバルドはかろうじてそんなことを考えていた。
かろうじて意識を繋ぎとめていられただけでも奇跡のような確率であった。
右腕から先の感覚がない。まるで根こそぎ斬り落とされてしまったかのようだ。
口の中は錆びた血の味が充満して、身体に力が入るならば今すぐ吐き出してしまいたかった。
(セイ姉、セリーナ………そんなに泣かないで)
――――自分が守るから。
そう言おうとしてバルドはその手段がないことに気づく。
腕の感覚もない。
足に力も入らない。
頭を打ったのか、三半規管を揺らされて、天と地が入れ替わっているような錯覚すら覚える。
セイルーンを失う?
セリーナを失う?
幼い日からの日常において、いつもバルドを見守り続けてきた二人が今連れ去られようとしている。
ほかならぬ自分の失態によって。
何を寝ている?
あの二人の声が聞こえたか?
バルド、お前は何をしているんだ?
(―――――力が―――力が欲しい)
それも今すぐ。
俺の大切な女を奪われようとしているときに。
恥も外聞もくそもあるものか。
犬とも畜生とも言え。
全ては勝つことが本分ではないか。
眠っていた凶暴な衝動がバルドの中で膨れ上がり、いつしかバルドの思考はその奔流のなかに飲み込まれようとしていた。
勇猛な戦士で知られながら生涯に幾度も負け戦を戦い抜いてきた一人の男が、長い沈黙から濃厚な死の匂いにつられて意識の底から浮かび上がってきたのである。
『戦場の作法も知らんこっぺ(子供)が。としょり(年寄り)においこつな(大変な)もん押しつけよる』
口調は辛らつそうだが、ほころぶ口元が男の愉悦を何より雄弁に物語っていた。
満身創痍の少年が幽鬼のように立ち上がる。
『ワエのめろ(女)返してもらおか?』
岡左内はもう自分の人生は、あの日蒲生家で死んだときに完結したものだと思っている。
死んだ人間がいつまでもうろついていては、生きているものの迷惑にしかならない。
まして岡左内という人物はあくまでも記憶の存在であり、今まさに生きていかなければならないのはバルド・コルネリアスという一人の少年である以上、黙って再び眠りにつくのが筋であると左内は考えていた。
その後自分の記憶がこの世界とは違う世界であることや、もう一人の記憶である岡雅晴が自分の子孫であるらしいこと。そして自分たちがバルドという少年の人生にとって、結局は異分子であることに納得した左内は、バルドの意識の深層で深い眠りについたのである。
そしてバルドの人生の終わりまで、眠り続ける覚悟だった。
しかし左内という人物はどうしようもなく戦が好きな戦人でもある。
もちろん金が好きで金を蓄えることで名を成した部分もあるが、金、すなわち戦に対する備えであるということを忘れたことはない。
たとえいかなる強豪であろうとも、自らの武は決してひけはとらないという自負、槍働きによって人生を切り開いてきたという圧倒的な自信は、左内にこのまま戦場の片隅で果てることを許さなかった。
(今日だけは特別に働いちゃる)
いかなる運命のいたずらか、こうして再び戦に巡り合えたことを喜ぶとしよう。
左内は犬歯をむき出しに凶悪な笑みを浮かべた。
それは戦場で獲物を狩る肉食獣にのみ許された狂気の笑みであった。
「………あれを食らって立ち上がるのか」
トーラスの全力の一撃を食らって生きているというだけでも驚きなのに、再び戦意を持って立ち上がったバルドにトーラスは感嘆にも似た思いを感じた。
「坊っちゃま!私に構わず逃げてください!」
「無理すなや!バルド」
お世辞にもバルドの状態は本調子とは言えない。
右手は骨が折れて皮膚を突き破っている有様だし、吹き飛ばされたときに額が切れたのか、バルドの美しい銀髪が血に染まって、顎の先まで血が滴っている。
むしろ何故立っていられるのか不思議なくらいだ。
『戦はええのう。若えの』
左内は笑った。
最後に自分が戦場に立ったのは、福島は松川で伊達政宗と戦ったときだったろうか。
あの傾き者と直接槍を交えることが出来たのは左内も生涯の誇りとするところである。
人間的に欠点の多い人物だったが、独眼竜と呼ばれるだけ長所も多い人物だった。
敗勢の軍にあって、己の武で強きものに抗う。
まさに戦人の本懐とするところだ。
『来や』
そう言うと左内はトーラスに向かって悠然と手招きをするのだった。
トーラスの理性は殺すにしろ、無視するにしろ少年に余力など残されていないと告げている。しかし本能の部分がしきりと警鐘を鳴らしていた。
今さらナイフしか持っていないあの少年がトーラスを倒せるとは思わないが、何か一矢報いる手段が残っているのかもしれなかった。
おそらく、手招いているのは接近するのもつらいほど体力を消耗しているからであろう。
このまま無視して故国への帰途につくという選択もあるが、これほどの命賭けの挑発を前にして何の返礼も施さないのはトーラスの騎士の誇りが許さなかった。
「………名を聞いておこうか」
『岡左内定俊』
「オカ、か。覚えておこう」
そしてトーラスはセイルーンとセリーナの意識を奪った。
さすがに二人を抱えたまま戦闘するわけにはいかないからである。
首筋を優しく撫でられただけのように見えるが、二人はたちまち頸動脈を圧迫されて何が起こったのかわからぬままに意識を失ったのだった。
「行くぞ」
トーラスは抜剣して走り出す。
あるいは先刻の石礫のような手妻を使われるかもしれないが、所詮手妻は手妻にすぎない。裏を返すならば正攻法では敵わないことを告白しているようなものとも言える。
そんな小手先の手妻に敗れるほどトーラスの武は安くはない。
対する左内は微動をだにしていなかった。
まともに身体能力を競えば勝負にならないほどトーラスが上である。
勝負になるとすれば、左内が圧倒的に勝る戦場経験とそこで培われた戦場技術以外にはありえなかった。
だからこそ、その勝負の時が訪れるまで、左内はトーラスの攻撃に耐えきらなければならなかった。
キン!
ナイフの刃を滑らせてかろうじてトーラスの斬撃をそらす。
そして間髪いれずに胴をめがけて薙ぎ払われる剣を、今度は後ろに回転することで避けた。
(まるで先ほどとは別人のようだ………)
つい先刻とはまるで違う洗練された動きを見せる左内にトーラスは戸惑いを禁じ得ない。
たったひとつの戦いが、戦士を一瞬で成長させるということは確かにあるが、戦うスタイルが完全に変わってしまうことなど聞いた事がない。
先ほどのバルドは言ってみれば考えすぎの典型であった。
味方が助けにくるまでどうして粘ろう、とか逃亡を阻止するために怪我を負わせなくてならない、とか、人質をどうやって救出しようとか、頭で考えすぎるために肉体の反応速度を低下させてしまっていた。
優秀だが武技がまだ成熟していない若者にありがちな悪癖だった。
ところが今の少年はどうだ。
もちろん頭では冷静に思考をめぐらせているであろうに、流れるようなナイフ捌きはあくまでも最速で理にかなっている。
右腕が使えぬハンデをものともせずトーラスの猛攻をしのぎきっているのが証拠であった。
もし彼が万全で剣をとっていたならば果してどうなっていたことか。
(――――だが勝負の結果は変わらん)
いかに見事な防戦を見せたとしても、左内がじり貧であるという事実に変わりはないのである。
得物のリーチ、膂力、スタミナそのすべてが大きくトーラスが上回っている以上この攻防がいつか左内の致命傷という形で決着するのは決まっていた。
(おもいで(気持ちいい)のう………)
一瞬の判断の間違いが即死に繋がるギリギリの戦闘にあって、左内は逆に心の檻が解放されてくのを感じていた。
起きあがることもできない老醜をさらし、全財産を処分して死んだときには何も後悔などないと思っていた。
太平の世を迎えた蒲生家に老兵の居場所はないことはわかっていた。
戦国の生き残りは、辻を追われる犬のように平和な街角から消えていく運命なのだ。
なるほど平和は尊い。
民からすれば徴兵と略奪の恐怖から逃れることが出来るなら、戦などないにこしたことはないのだろう。
しかし、戦のみが培うことのできる友情と忠誠、太平では感じることのできない生きていることの充足感があったのではなかったか。
そしてそれこそが戦人の作法ではなかったか。
『とっくり(たっぷり)楽しもや、わけもん(若者)』
そうだ。太平に生きるものにはわかるまい。
戦とは――――生きるとは――――死ぬこととは楽しきことぞ。
いつしかトーラスは自分が笑っていることに気づいた。
いつ以来だろう。これほどの昂揚、ほかの何にも例えがたい充実感を感じるのは。
初めての騎士の任官のときだったか。あるいは初めて戦場で敵を倒したときのことであったろうか。
剣を合わせてからずっと少年が楽しそうに笑っていることにトーラスは気づいていた。
おそらく彼も自分と一緒なのだ。
この命ギリギリのやりとりが何ともいえず楽しくてならない。
このまま永遠に戦い続けていられたらいいと思うほどに。
「こんなに戦いが楽しいと思ったのは初めてですよ――――勝ってしまうのが惜しいほどにね」
だがどんな楽しい時にも終焉は訪れる。
左内はナイフばかりか、折れた右腕の手甲まで使って必死に防戦に努めたが、遂に体勢が崩れた。身体を避けることもできない。軌道を逸らすことも出来ない不可避の斬撃が、左内の命を狩り取ろうと迫る。
しかし刃を横に寝かせたその水平の斬撃こそ、左内が待っていた瞬間であることをトーラスは知らなかった。
『波打ち』
いかに身体強化で速度があがっても、膂力が強くなっても、直接の武器である剣までは強化することはできない。
戦国期の武将には武器破壊もまた戦場で必要な武技のひとつであった。
左内はもっとも耐久力の低い剣の側面に、90度に近い角度で身体強化された平手を打ち込んだのである。
パキリと乾いた音を立ててトーラスの肉厚の太いかと思われた剣は根本からへし折られた。
「何っっ!」
剣同士を打ち合って折れることはあっても、素手で剣を折られるとは思ってもみなかったトーラスは根本から折れて武器として用をなさなくなった剣を前に迷った。
騎士としての修行はそのほとんどが槍と剣と鎧の使い方に費やされる。決して戦えないわけではないが、やはり徒手空拳は専門外と言わざるを得ない。
剣というアドバンテージなしに果して少年に勝つことが出来るか、トーラスは思わず自分を疑ってしまっていた。
『甘え』
左内はトーラスのために一瞬の戸惑いを惜しんだ。
戦人たるもの、武器なくして戦う手段は常に用意しておくか、ないならば迷うことなく逃げることを選択しなくてはならなかった。
折れた剣の先を素手で握りこんだ左内は、指から血が溢れるのをものともせず、満身の力で刃をトーラスの喉元に突きあげる。
左内の武器がナイフであると思い込んでいたトーラスはこれに対応するのが一瞬遅れた。
ゴポリ
頸動脈を断ち切られたトーラスの首筋から噴水のように血しぶきがあがった。
(そうか、彼は最初からこれを……武器を破壊する機会とそれによる動揺を待っていたのか……)
それを自分は武器のアドバンテージを信じるあまりに油断していた。
まさか敵の武器を利用しようとは―――――。
「み……見事だ。少年」
『やはり戦はええのう………』
左内の言葉を理解したわけではないが、トーラスはその思いを確かに感じ取って莞爾と笑った。
「…………楽しい、時間であった………」
『ワエもや』
糸の切れた人形のようにトーラスは大きな音をたてて大地に沈んだ。
同時に、ちぎれかかった指や骨折した右腕から、脳天までしびれるような激痛が、まるで今までの分を取り返すかの勢いで左内を襲った。
(こりゃいかん。あとはわけもんにお任せや)
実に楽しい死合いであった。
大きな満足感とともに、左内はバルドの意識の深層へと再び身を沈ませていった。
騎士団の支柱、メンバーの最大戦力であるトーラスの死は残された仲間たちの士気を決定的に打ち砕いた。
たとえ死んでも任務が達成されるならばよい。しかしトーラスが死んだ以上任務が達成される確率は皆無に等しいものとなったのである。
もはや彼らに残されたのは、故国の迷惑にならぬよう立派に戦って死ぬことだけであった。
「いやいや、驚いた。おみそれしやした」
ジルコはバルドのまさかの勝利に心底驚愕していた。
間違いなくトーラスは化け物の領域に達しようとしていた武人であった。すなわちそれはバルド自身が化け物の仲間入りを果たしたということにほかならない。
10歳の化け物とは、いかにマゴットとイグニスの血統を引いたことを差し引いても、空恐ろしいものと言わなければならなかった。
「悪いがこっちの勝ちだ。手柄を逃すなよ」
「おうとも。金貨10枚は俺がもらった!」
「冗談!誰がお前なんぞに渡すかよ!」
負け戦となれば真っ先に逃亡するが、勝ち戦となれば誰よりも勇敢に戦うのが傭兵という人種である。
トーラスという支柱を失い、退路を断たれた騎士たちはそう長くは粘れなかった。
それでも包囲を突破し森に逃げ込もうとあがいたものの、森に到達するまでに半数以上を失い、森に入ってからはセルの投擲術の前に為すすべもなかった。
彼らは一流の騎士ではあったが、トーラスのように限界を突破した存在ではなかったのだ。
結局夜の帳を待つことなく、侵入した騎士たちは全滅した。
ジルコたちに手加減する余裕がなかったこともあるが、結果は同じであったろう。生きて捕虜となったものは一人もなかった。
バルドが見るも無惨な重傷を負って運び込まれたことで伯爵邸は騒然となった。
ありったけの治癒師が呼ばれ、薬についてはセリーナのサバラン商会が最高級品を調達した。
息子の変わり果てた姿を見たイグニス伯爵は拳を震わせて絶句したという。
幸いなことに回復力の高い子供ということもあって、バルドは急速に回復していった。
しかしさすがに露出するほど激しく折れた右腕の骨や、ちぎれかけた左手の指は回復に一月程度の時間を必要とするようであった。
セイルーンは寝食を忘れてバルドの看病にあたった。
侍女長は本来休ませるべきところであるが、セイルーンの気持ちを慮ってそれを許した。
実際半日以上涙の止まらなかったセイルーンは看病でもしていなければ、精神の均衡を失うことにもなりかねなかったであろう。
「渡さない、この命賭けても」
そう言って背後にセイルーンたちをかばったバルドの小さな背中が今でも瞼の裏に焼きついて離れなかった。
頼もしいと思った。一人の女としてうれしいとさえ思った。
――――――バルドがまるで使い古されたボロ雑巾のように吹き飛ばされるまでは。
バルドでも斬られれば怪我もするし、戦えば死ぬこともあるのだ。
そんな当たり前のことに気づくと、途端にバルドを失うことが恐ろしくなった。
死なないで
死なないで
今度は私があなたを守るから
あなたを傷つけるくらいなら、私が死んで終わらせるから。
気になる男性として意識し始めたというだけではない。
いつの間にか何もかもがバルドを中心に回っている自分に気づいた。
だからこそ、バルドの重荷になってしまった自分が許せなかった。
「セイ姉、泣いてるの?」
治療から3日目の朝、ようやくバルドは目を覚ました。
いつもと変わらないバルドの優しい眼差し、綺麗なマリンブルーの瞳を覗きこんだセイルーンは破顔してバルドの首筋に飛びついた。
「坊っちゃま!バルド坊っちゃま!!」
「いてて………セイ姉、大丈夫、もう大丈夫だから……」
わんわんと泣きじゃくるセイルーンの茶金の髪を撫でながら、バルドは自分が生き残ったことを実感していた。
ぼんやりとだが、左内の人格が出てきて敵を倒したような記憶はある。
しかしそれは例えるならばTV番組の中継を見たような実感の伴わぬものでしかなかった。
セイルーンの柔らかな肢体と温かい体温を感じることで、あの死地から生きて帰ったことをようやくバルドは理解したのである。
すでに疲労の極に達していたのだろう。
抱きついて泣いていたセイルーンはすぐに安らかな寝息をたてはじめた。
「おやすみ、セイ姉」
このところ成長の著しい胸の感触が離れていくのを若干名残惜しく思いつつ、バルドは優しくセイルーンの腰に手を回すと彼女の細い身体をベッドに横たえた。
一方そのころ、コルネリアス伯爵家下屋敷ではジルコたち歴戦の傭兵が身を寄せ合って震えていた。
「久しぶりだねえ、ジルコ。いや、今は突風のジルコと呼んだ方がいいのかい?」
「い……いやだねえ姉御。ジルコでいいって………」
そう言いつつもジルコは全身が冷や汗に濡れるのを抑えることが出来なかった。
あの不遜なジャムカですら顔面を蒼白にして黙りこくっている。
余計な口をはさむにはマゴットのまとう殺気があまりに強すぎたのである。
銀光マゴット、同じ年代の傭兵の間ですら伝説の人物として語り継がれる女傑である。
普通噂というものは誇大に語られるものだが、彼女に関する場合噂のほうがおとなしいという事態が往々にして存在する。
類まれな美女である彼女には、下級貴族をはじめとして数多くの男たちが言いよったものだが、自分より強い男としか付き合わないと言った彼女は戦役の数年間の間に、実に百人以上の男から決闘を挑まれた。
その結果はもちろん無敗。なかには10人がかりで挑んだ貴族もいたが全く相手にもされずに一蹴されたという。
彼女一人で一個大隊に匹敵するとされた化け物中の化け物が、今にも食い殺さんばかりの殺気をまき散らしているのに怯えるなというほうが無理な話であった。
「それで?私の息子をあんな目にあわせた男はどこの何者だい?」
「…………大将はセルヴィー侯爵の手のものだと言っていたがね」
「奴ら本気で私に喧嘩を売るつもりなのかねえ?」
くつくつとマゴットはいかにもおかしそうに嗤った。
だがその笑顔をみせつけられたジルコたちはたまったものではない。下手をすればいますぐセルヴィー侯爵に殴りこみをかけそうな錯覚に襲われて思わず背筋が震える。
あの銀光マゴットであれば、あながち不可能ではないと思えてしまうところが恐ろしかった。
「あんな息子でも私が鍛えたからね。随分と張り込んでくれたようじゃないか……」
「ああ、大将が相手をした男は本当にやばかったね。十年も修行したら姉御ともいい勝負をしたかもしれないよ」
「へえ…………ジルコ。私の息子にそんな男を任せておいて随分と余裕があったようじゃないか」
(藪蛇だった―――――!)
(てめえ!余計なこと言ってんじゃねえよ!)
ジルコたちはバルドが死にかけた責任をいつ追及されるかと気が気ではなかった。
まさかとは思うがマゴットが息子可愛さのあまり、ジルコの不手際を責めてきた場合、ジルコたちにマゴットに対抗する術はない。
傭兵を引退して10年、少しはマゴットとの力の差は縮んだかと思ったが、現実はむしろ開いていたらしかった。
「いやっ……それは大将に残った連中の足止めを命じられていたからで……」
「雁首そろえて足止め?稽古からやりなおしたほうがいいかしら?」
「勘弁してください。死んでしまいます」
マゴットは手加減と言うものが苦手で、訓練を任せると半分以上の新兵が壊されたという逸話をジルコは知っている。
まして八つあたりまでかぶった日には本気で死んでしまいかねなかった。
「運が良かったねえ、ジルコ………」
その瞬間、マゴットの声が凍りつくように低くうなるような声に変わった。
10年を経過してもなお、戦場の死神としてまるで空気の密度が増したような濃厚な死の気配は健在であった。
「傭兵は生き残るのが第一だしそれについて私が言うことは何もないよ。でも、もし息子が死んでいたら地の果てまで追いかけても首をネジきっただろうからね」
「はは………冗談きついよ姉御…………」
ばれている!
バルドを見捨てて逃げようとしていたことを見抜かれている!
顔を痙攣させてジルコは背中ばかりか額から一斉に汗が顔を流れ落ちていくのを感じた。
冗談どころかマゴットはやると言ったら絶対にやる有言実行の人だし、その力も十分以上に備えた人である。
しかしそれを表だって認めてしまうのはさらに事態を悪化させる可能性しか感じなかった。
(よ、よかった!逃げないでおいて―――――!!)
バルドが立ち上がったあの瞬間まで、ジルコは九分九厘まで逃げる決心を固めつつあった。トーラスが参戦してきた場合こちらが全滅する未来しか描けなかったからだ。
雇い主が死んだのに命果てるまで戦い続ける傭兵はいない。
傭兵としてジルコの判断は決して間違っていなかったし、それはマゴットも認めていた。
しかしバルドの生命を失ったという結果責任はそれとは別に発生するのである。
復讐の決意も露わにした銀光マゴットに首を狙われるなど、想像するだに恐ろしい話であった。
「馬鹿息子にももちろんお仕置きが必要だが――――手下のあんたたちにもお仕置きをして悪いとは言うまいね。まだ契約は解除されてないだろう?」
マゴットの言葉にいい年をした歴戦の傭兵は顔色を真っ青にして口ぐちに抗議の声を上げた。
「待ってくれ!もう任務は終わりだろ?」
「ていうかお仕置きって何?」
「俺には国においてきた妻が………」
どさくさにまぎれて何やらカミングアウトしている男もいたが、マゴットは獰猛に嗤うと彼らに最後通告をくだした。
「―――――命があるだけありがたく思いな」
溺愛する息子を殺されかけてマゴットは静かに、深く激しく怒り狂っていた。
今はそのストレスを幾分でも発散しなくては本気でセルヴィー侯爵領に殴りこみに行ってしまいそうであった。
ベッドから解放されたバルドを待っていたのは父イグニスの呼び出しであった。
まだ本調子ではないが、心配そうに見守るセイルーンの手前、ここはやせ我慢でも元気なところを見せなければならなかった。
「本当に大丈夫ですか?バルド坊っちゃま。お屋形様もどうしてついてきちゃいけないなんて言うのかしら………」
「たまには親子で語り合う必要もあるんじゃないか?」
もっともそんな甘い理由ではないだろうけれど。
父の怒りを思うと暗澹たる思いに囚われるが、全ては自分が蒔いた種だ。
「お戻りになったらすぐに包帯を替えますからね?あととっておきのおやつも用意しておきますから!」
バルドが倒れて以来セイルーンが前にもまして過保護すぎる気がする。
冗談か本気かわからないが、昨夜「お背中を流しましょうか?」と言われたときには危うく下半身が反応しかけた。
雅晴の記憶にメイド萌えを刷り込まれたせいなのだろうか………。
これから先、セイルーンとの距離感を掴みにくくて不安を覚えるバルドであった。
「失礼します」
「バルドか。入るがいい」
イグニスの執務室は重厚なオーク材をふんだんにつかった無骨なもので、装飾品はほとんどなく端整に整えられた書類の山は、おそらくイグニスによるものではなく優秀な家臣団の血と汗と涙の賜物であろう。
生死の境を乗り越えて生還した息子を出迎えるにしては、イグニスの表情は硬く険しい。
バルドは自分の想像が正しかったことを知った。
むしろここで怒らないほど父の頭がお花畑であっては困ると思ったくらいであった。
ドガッ!
鈍い打撃音とともにバルドの身体が吹き飛ぶ。
わかってはいたが、さすがに目にもとまらぬ速さであった。
まったくノーガードでもらってしまったバルドはそのまま執務室を転がり、来たばかりのオーク材の扉にぶつかってようやく止まった。
鼻血が噴きだし、まだいくつか残っていた乳歯が折れて口腔内を血に濡らした。
「なぜ殴られたかはわかっているな?」
「―――――はい」
何も言い訳するつもりはない。
全ては自分の慢心が引き起こしたことである。
もしもここが戦場であれば首をはねられても文句は言えないところであった。
「いつからセルヴィーの干渉があると思っていた?」
「本格的に農場が稼働してセルヴィー侯爵に情報が届くまで、ふた月はかかるまいと思っていました。その後情報を収集して堪忍袋の緒が切れるまで………ころ合いだと思っていたのは確かです」
「それをなぜ報告しなかった?」
「ひとつにはあくまでも農場は、伯爵家ではなくサバラン商会のによる民間起業という体裁をとっておりましたので下手に内容をお教えしては逆に迷惑が及ぶのではないかと思ったこと。そしてもうひとつは………私が十分対処可能であると考えていたことです」
そう、たかがセルヴィー侯爵の配下程度に負けるはずがないと高をくくっていた。
厨二病にありがちな全能感に陥っていた昨日までの自分を思い出しただけで、死にたくなるほど恥ずかしい心地がする。あるいは黒歴史というのはこのことを差しているのかもしれない。
「大した自信だな。それでセルヴィーの犬はそれほど弱かったか?」
「いえ――――私が母以外で初めて敵わぬと思った立派な騎士でありました」
あのときセイルーンとセリーナが現場にいなければ、もう一度バルドが立ち上がれたかどうかははなはだ疑わしかった。
そう思えるほどにバルドはトーラスの技量に巨大な壁を感じていたのである。
訓練と言う名のストレス解消をマゴットにとられ、イグニスはまだバルドと剣を合わせたことがないが、父イグニスや将軍のラミリーズなどはあまりに実力がかけ離れ過ぎていて比較の対象にならない。
そうした意味でトーラスはバルドにとって初めて敗北感を与えられたライバルであったと言えるのかもしれなかった。
「もし敵わなければなんとした?」
「セイルーンとセリーナは連れ去られ傭兵たちは全滅したでありましょう」
あのまま負けていれば間違いなくセイルーン達は連れ去られただろう。
そして情報を得るだけ得た後、彼女たちが解放される可能性は皆無である。
誘拐犯の素性と目的を秘匿しなければならない以上、二人は絶対に殺されていたはずであった。
バルドはその慢心によって二人の女性の命を危険にさらしたのである。
「二人がいたのは偶然と聞いた。本来我が領内の子供たちがその危険を担うはずであったのだ。お前が死ねば何の罪もない子供たちが死んだ」
「その通りです」
守らなければならないはずの民を危険にさらした。
それこそが問題の本質である。
イグニスが領民をどれだけ大事にしているか知っているだけに、バルドは己の愚かさ加減に歯噛みする思いであった。
ちゃんと避難訓練をしているから。
子供にはどうせ情報価値がないだろうから。
ジルコたち腕の立つ傭兵と自分がいれば敵を制圧するのは簡単なことだから。
そんなたらればばかりで、実際に子供が命の危険にさらされることなど本当の意味で想像もしなかった。
「我々貴族は国と民を守るためにこそ存在する。民を逆に我々の都合で危険に遭わせるなどあってはならぬことだ。その誇りと覚悟がお前には足りなかった」
無言でバルドは頷く。
左内や雅晴の知識があるために勘違いしていたが、バルドの本質的な部分はやはり10歳の少年なのだ。
子供らしからぬ政治的な策略をめぐらし、大人顔負けの武力を誇ろうとも、責任を背負う覚悟や生死をかけた闘争の経験のない上っ面のものでしかなかった。
それが今回の襲撃で白日のもとにさらされたのである。
「頼りない父に思えるであろうがな………それでもお前は子供なのだ。少なくとも私はお前のように守るべきものの軽重を違えることはない」
イグニスにも政治的にも経済家としても自分が3流であるという自覚はある。
おそらくバルドが遠慮した理由に、自分のその方面に対する配慮があったであろうということもわかっていた。
何せ交流のある数少ない貴族仲間から尋ねられるまで、自分の領内で砂糖が作られているらしいということも知らなかったのだ。
命に代えても領民を守る自負はあるが、領民を富ませるということに関しては自分よりもバルドのほうが優秀であるのかもしれない。
しかしその引き換えとして領民の命を賭けのチップに乗せるという行為はイグニスの貴族としての禁忌に触れるものだ。
マウリシア王国の藩屏たる貴族であるからには踏み越えてはならない一線があり、守らなければならない誇りがあった。
そうでない貴族のほうが多いのかもしれないが、そんなことはイグニスの知ったことではない。
少なくとも武門のコルネリアス家はそうあらねばならない、と当主がそれを知っていれば良いことである。
今回の一件があって、イグニスは自分がその騎士としての誇りをどこで学んだかを思い出していた。
「才あれど覚悟のない者に領主は務まらん。バルド、本来12歳からではあったが来月より王立騎士学校に入学しろ」
王立騎士学校はその名の通り騎士を養成するための官営の学校である。
イグニスも14歳から18歳までの4年間をここで過ごして多感な少年時代を送った。
初めて女を知ったり、色街で遊びを覚えたのもこのころだというのは、もちろんマゴットには内緒である。
本来14歳からの入学であるところを、特例で12歳での入学を認めたのは誰あろうラミリーズ将軍であった。
戦役の終了から一線の任務をはずれたラミリーズは昨年から王立騎士学校の校長に任命されていたのである。
ラミリーズはバルドの入学をもろ手を挙げて歓迎した。
「二つほどお願いがあります」
「言ってみろ」
「農場の子供を危険にさらしたのは私の落ち度でありますが、彼らにとっては給金を得られる貴重な職場です。どうか引き続き働きの場を得られるよう保護をお与えください」
いつの世でも子供の労働力というのは安価で割に合わないものである。
子供にも出来る軽易な労働でまともな報酬が得られるバルドの農場は、子供たちの親にとっても貴重な収入源になっていた。
さらに農場はサバラン商会の収入源の一部であり、その利益の一部はコルネリアス領の税収となって還元されるものでもある。
ここで廃止してしまうには悪影響がありすぎた。
「衛兵にはまだ余力がある。セルヴィーづれに手出しはさせぬと約束しよう」
「ありがとうございます。二つ目は、今後サバラン商会に対する貴族からの介入があるでしょう。しかしあの商会はコルネリアス領の発展には欠かせぬもの。決して他家の介入を許さぬようお願いいたします」
サバラン商会は今や金の成る木である。
コルネリアスのような田舎より自分の領地に、税を優遇するから移転してくれないか?という勧誘から、砂糖の製法を教えなければ貴族の特権を利用して罪に問うぞ、と脅迫してくる可能性も十分にあった。
セリーナがバルドを裏切るとは思わないが、コルネリアス領の繁栄を妬んだ貴族から魔の手を伸ばされる可能性は高かった。
「あのセリーナという少女の商会か。彼女にはお前の治療に貴重な薬を調達してもらった借りがある。私の力の及ぶかぎり助けると誓おう」
この単純な割り切りと誠意こそがバルドの父の誇るべき美点であった。
同時に欠点でもあるが、そこはバルドが補ってやれば済むことだ。
これがほかの領主であれば、サバラン商会の秘密を聞き出し、自ら儲けの独占に走ったことであろう。
それがどれほどの富の源泉となるか、イグニスはわかっているのだろうか?おそらくはわかっていないだろうが、仮にわかっていたとしてもイグニスの答えは同じであることをバルドは確信していた。
「それでは最後になるが…………」
領主としての険しい顔から一転して、イグニスは笑顔になると、くしゃりとバルドの銀髪を撫でて腰を下ろしながらバルドを力一杯抱きしめた。
久しぶりの父の抱擁は、母と違ってごつごつと硬かったが例えようもなく頼もしい安心感に満ちたものだった。
「よく生きて戻った。心配させおって………」
「父さんっ!」
不意に堰を切ったようにあとからあとから涙が溢れてくるのをどこか他人事のように感じながらバルドは泣いた。
父に許してもらったこと。
本当は死ぬことが途轍もなく恐ろしかったこと。
もしもセイルーンやセリーナが死んでいたらと思うと夜も眠れなかったこと。
そんな不安とも安堵ともつかぬものが心から溢れて止まらなかった。
壊れたようにワンワンと泣いて、バルドは今こそ自分が12歳の餓鬼にすぎなかったという事実を受け入れていた。
騎士学校への入学が決まり、私室を整理していたバルドは悩んでいた。
懊悩していると言ってよい。
内から湧き上がる衝動に身を任せてよいものか、そうすることで何を得、何を失うのかについて長い思考をめぐらせてもなかなか答えが出ることはなかった。
バルドの目の前には金貨の山が積み上げられている。
金メッキ細工や砂糖の出荷は、バルドの投資分については仲介料の二割を除いてバルドの取り分となっている。
さらにマヨネーズのレシピ料やオセロの販売料なども順調に売り上げを伸ばしており、バルドの手元にはいつの間にか大量の金貨が蓄積されつつあった。
そう、金貨!
理性を狂わす黄金の眩い光が今、目の前にある!
いや待て待て、ちょっと待とう、お願いだから待ってください!
バルドのなかで融合している3つの人格が相反する感想をもたらした。
貴族としての教育を受けているバルドや、現代人としての良識を持つ雅晴はこの種の誘惑に対して抜き去りがたい忌避感がある。
しかし同一存在となった左内の欲求は、そんな忌避感を大きく上回っていた。
「こ、これは左内殿への感謝……!命の恩人である左内殿への感謝のしるしっ!圧倒的感謝!」
意を決したかのようにバルドは金貨を床に並べはじめる。
小判のように叩き伸ばされていないため、表面積は小さいが、金にしか発することのできない摩訶不思議なオーラは小判であろうと金貨であろうといささかも変わることはなかった。
その眩い輝きにバルドの瞳はみるみる蕩けて恍惚とした表情に変わっていった。
「この輝き………この無垢な輝きが僕を狂わせる!」
一枚、また一枚と金貨を並べはじめたバルドは見るも明らかな愉悦の笑みを浮かべて涎をこぼさんばかりであった。
蓄えられた金貨の数は実に800枚あまり。
たった半年で稼ぎ出したことを考えれば破格の金額である。
しかし床一面に金貨を敷き詰めるにはまだまだ数が足りなかった。
部屋いっぱいに金貨を敷き詰めるためにももっともっと金を稼がなければ、とバルドは思う。
父の執務室ほどの部屋が全て金貨で満たされたとしたらさぞや壮観な光景に違いない。
背に腹は代えられず、ある程度の隙間を置いて並べられた金貨はどうにか三畳ほどの広さになった。
(――――――やるのか?)
さすがにバルドの理性は躊躇する。しかし感情は興奮に高まり、今にも叫び出したいほどの焦燥すら覚えていた。
喉がカラカラに渇き、その渇きが癒されるためには、もはやそれを実行するしかないことをバルドは本能的に自覚した。
おもむろにバルドは服を脱ぎ捨てる。
健康的に日焼けした肌に、治癒したとはいえまだ生々しい蚯蚓腫れのような傷跡が残された肢体が露わとなった。
10歳も半ばを迎え、細いながらもつき始めた筋肉とまだ子供らしさを残したいかにも柔らかそうなバルドの肌肉はもし少年嗜好の者が見れば鼻血を噴きそうに美しいものだったが、当のバルド自身はまったく自己愛の趣味はない。
あるのは金銭に対する異常な執着と愛情である。
「I can fly!」
生まれたままの姿を空気にさらしてバルドは自分が並べた金貨の海へ恍惚とした笑みを浮かべて飛び込んだ。
ゴロゴロゴロゴロ………ドン!
ゴロゴロゴロゴロ………ドン!
ゴロゴロゴロゴロ………ドン!
「げええっひゃっひゃっひゃっひゃあああ!」
蒲生家家臣岡家の下屋敷では毎月恒例の秘密の行事が絶賛開催中であった。
「うちの殿もこれさえなければなあ………」
「確かに……まあ、金に興味がない殿というのも、もはや殿じゃない気もするが」
「別に金が好きなのは構わないさ。でもこれは……やりすぎだろ?」
その言葉に同僚は苦笑いしつつ頷く。
主君、岡左内定俊が毎月小判を部屋に敷き詰め、そこで全裸で転がりまわるという奇癖はいつの間にか噂として家中に広まり、岡家の家臣である彼らは非常に肩身の狭い思いを強いられていたのである。
「うひひひ………たまらんっ!たまらんぞおおおお!」
部屋の隅から隅まで転がりまわり、壁にぶつかっては方向転換する左内の姿は、傾き者の多い戦国の世にあってもはっきりと変態というほかはなかった。
この奇癖を左内はなんと寝たきりになる70歳過ぎまで欠かさずに続けたという。
岡左内定俊――――どこまでもブレない男であった。(本当に史実です)
「うほおおっ!来た!来た!来たああああ!!」
戦では比類なき勇敢で知略溢れる大将であり、平時においても民をよく治めいざという時の備えを怠らぬ、本当に尊敬すべき自慢の主君である。
ただ、この癖を除いては。
「自重して…………くださいませんよねえ」
互いに顔を見合わせた哀れな門番は深いため息とともに、何も聞かなかったことにすることを決めた。
そんな左内の記憶が蘇る。
背中で、胸で、頬で、指で、金貨の感触を感じたバルドの口から子供らしからぬ不気味な笑い声が漏れだした。
「ふへへへへへへへへへへへへ」
なんと楽しい!この世にはこんな素晴らしく感動的なことがあったのか!
くっ……もっと量があればさらに金の感触を味わうことが出来たであろうに。
ゴロゴロゴロゴロゴロ…………。
縦横無尽に部屋を転げ回りバルドは初めてでありながらとても懐かしい行為に夢中となっていた。
どれだけ感じても飽きそうにない。
艶めかしい金の地肌、かぐわしい金の香り、肌で感じる金にしか感じることのできないぬくもり。
左内に対する感謝の気持ちという建前はすでにどこかへ飛んでいた。
この至福の時を再び味わうために、もっともっと金を貯めなければならない、とバルドは深く心に誓ったのである。
丁度そのころ、イグニスじきじきにバルドの王立騎士学校入学を聞かされたセイルーンは、持ち前の笑顔も忘れたかのように生気の乏しい表情で虚空を見つめていた。
(バルド坊っちゃまがいなくなってしまう………)
そうなったら自分はいったい誰のために世話を焼けばよいのだろう。
朝起きてから夜就寝するに至るまで、セイルーンの全てはバルドに捧げられていたと言うのに。
たとえ何も出来なくてもバルドについて王都に行きたいと直訴しては見たものの、準軍事組織である騎士学校は寄宿舎で共同生活することも訓練のうちなのだという。
中にはもちろん貴族の子弟もいるが、侍女を同伴する貴族はありえないらしい。
「うっ………ぐすっ…………」
ふとしたはずみに涙が毀れてしまう。
あの惨劇の日からセイルーンはまるで自分が幼いころに戻ってしまったような錯覚すら覚えていた。
まさかこんなにも自分がバルドに依存していたなんて。
「坊っちゃま………バルド坊っちゃま………!!」
かくなる上はバルド自身に連れて行ってもらうほかはない。
たとえ寄宿舎で暮らすことになったとしても、学校の勉強だけで満足するバルドではないはずだ。
セリーナとの取引は継続するだろうし、その連絡役はやはり王都にいたほうが便利だろう。
いざとなれば寄宿舎でメイドとして働いても構わない。
そうだ!それがいい!
実に良い考えだと、小走りにバルドの部屋へ向かったセイルーンは逸る気持ちを抑えきれず、ノックもせずに扉へと手をかけた。
「バルド坊っちゃま!お願い………したいこと…………が…………」
ガチャリ
扉を開けたそこには、全裸で金貨に戯れ、あられもない部分を惜しげもなくセイルーンの視線にさらしたバルドの姿があった。
「坊…………ちゃま…………」
「セイ………姉…………」
時が止まったかのようとはまさにこのようなことを言うのだろう。
互いに自分がどれだけ重大な事態に遭遇してしまったのか、ということを脳が受け入れるまでにしばしの時間を必要とした。
「いやああああああああああああああああ!」
「うわああああああああああああああああ!」
呪縛から解かれたようにセイルーンが悲鳴をあげると慌ててバルドは股間を隠して乱雑に脱ぎ捨てていた服を引きよせる。
「はわわわ………バルド坊っちゃまのお○ん○んが、お○ん○んが…おっきしてパオーンって………」
「言わないでセイ姉!お願いだからそれ以上言わないでえええ!」
悲痛なバルドの魂の叫びもセイルーンには届かない。
壊れた人形のようにセイルーンは焦点の合わない目で呟き続けた。
「パオーン………坊っちゃまパオーン…………」
子供だとばかり思っていたバルドの予想以上に成長していた男性器は思春期を迎えたばかりのセイルーンにはあまりに刺激が強すぎた。
「お、終わった………時が………せめて時が戻せたらっっ!」
意識し始めていた女性に痴態を目撃されたバルドの精神的ダメージも並大抵のものではない。
何もかも終わった絶望の表情で頭をかきむしるバルドと、「パオーン、パオーン」と呟き続けるセイルーンを、呼びに来た侍女長が発見したのはそれから一刻ほど経過した後のことであった。
事情を問われた二人は黙して何一つ語ることはなかったという。
――――――その後、騎士学校へ出立する前日まで、バルドが部屋から出てくることはなかったのである。
(ワエのせいやないが)
左内がそうボソリと呟いたかどうかは定かではない。
コルネリアス伯爵家のイグニス伯爵とマゴット伯爵夫人は自他ともに認めるオシドリ夫婦である。
コルネリアスの夫婦狩りと世に呼ばれる劇的な結ばれ方をした二人だが、実生活では妻であるマゴットが夫のイグニスを尻に敷いているというもっぱらの噂であった。
それでも互いに愛し合っていることは確かであったし、少々女癖に難があったイグニス伯爵がようやく落ち着いてくれたと家臣団もほっと一息ついている様子である。
だが、伯爵家の嫡男として薫陶を受け王都で騎士の教育を受けたイグニスと、傭兵あがりのマゴットでは見解の異なることも数多く見受けられるのは当然である。
たいていの場合、貴族としての体面を慮ってマゴットが遠慮するケースが多かったが、(主にそのストレスの解消はバルドに向けられることになっていたが)譲れぬ問題も存在した。
特に、先日勃発した一件は二人の意見が正面から反発することになり、コルネリアス家に深い爪痕を刻むことになる。
「バルドを殴ったそうだね?」
マゴットの視線はまるで鋭利な刃物にように冷たかった。
彼女が大変立腹していることに気づいたイグニスだが、それでも毅然として言葉を返す。
「今回バルドが犯した失態に何の罰もなしに見逃すことはできない。バルドもそれはわかっていたよ」
「はっ!」
マゴットはイグニスの返答を鼻であざ笑った。
「いったい何をさして失態だと?女を庇い、農地を守り、一人残らず敵を返り討ちにした。報奨金を与えてもいい大戦果じゃないか!」
「それは結果だ」
「何よりも大事なのは結果さ。結果を伴なわない理想なんざ犬に食わせればいい。独断専行は失敗すれば斬首だが成功すれば大手柄だ。戦場で独断専行した経験がないとは言わせんぞ?イグニス」
もともと傭兵であるマゴットは現実主義者である。
結果に対する責任は取らなければならないが、今回のバルドはむしろ最上の結果を出した。危うく大事な息子が命を落とすところであったことに関しては大いに意見のあるマゴットであるが、ことバルドのとった行動に関してはとりたてて責めるべき個所はないと思う。
セイルーンを命賭けで守り、見事敵を討ち果たしたのだ。
むしろ我が息子ながら天晴れと賞賛したいところであった。
「あの子はまだ責任を負える立場ではないぞ?あれはバルドの背負える責任の範疇を超えている」
敵対する国からの侵略者を明確に予想しながら独力で撃退の策を練り、そのために領民の危険を許容する。そんな権限を息子に与えたつもりもないし与えるつもりもない。
イグニスとしても領主としてそこは譲れぬところであった。
「――――あの時点であの農場に領軍を投入するわけにはいかなかったんだよ。せっかくの砂糖の秘密を維持するためには人知れず連中を始末するのが最適だったんだ。下手に手を出せば砂糖とうちの繋がりを勘ぐられることになるしね。もうすでにあんたも社交界で何度も砂糖について質問されただろう?」
「ああ、でも別に誰が作ったっていいじゃないか。砂糖なんて」
こめかみに太い青筋を浮かび上がらせたマゴットはイグニスの右頬スレスレにナイフを投擲した。
ガスン
重々しい音を立ててナイフが柄のあたりまで壁に埋まるのをイグニスは青い顔で見つめるしかなかった。
「脳まで筋肉で出来てるのかい?あんたは。砂糖ってのはサトウキビが取れる南方でしかとれないんだよ。サトウキビの育たないこの辺ではそもそも砂糖なんて作れやしないのさ」
「じゃあなんで出来てるんだ?」
「だからそれを知るために国中がやっきになって調べてるんじゃないか!セルヴィーの連中もそれを確かめるために来たんだよ!」
「…………だったらなおさら兵を出して警護するべきなんじゃ………」
「この脳なし!まだわからないのかい!セルヴィーなんかよりもマウリシア国内の貴族どもの手出しを抑えるためさ!」
砂糖の生産地をコルネリアス家が兵を出して保護したということになればもはや知らぬ存ぜぬは通じない。
これまでは地元の一商会がやっていることでよくわからない(実際にそのとおりだったが)で押しとおしてきたのだが、それが通じないとなるとイグニスに秘密を守らせるのは不可能に近いということをマゴットも認めざるを得なかった。
というかこの男、味方の友軍となると途端にわきが甘くなる傾向がある。
戦場で共に戦うには頼もしい男だが、平時においてはもっとも身近な敵となるのが味方であるということをわかっていないのだ。
まだ釈然としない様子のイグニスにマゴットはため息をついて言い募った。
「国宝級の剣を打つ鍛冶師がいるとしよう。その技術は当然ほいほい誰にでも教えるものじゃない。どこで悪用されるかわからないからね。そうした鍛冶の家ではたいがい技術を門外不出として子供にだけ伝授するのさ。砂糖の技術も同じこと。発見した多大な労力や投資を考えれば、ただで教えてくれなんてのは論外だし失礼な話だと思わないか?」
「なるほど、そういうことなら話はわかる」
「と、いうわけで、だ」
実はここまでは前フリでマゴットにとって重要な話はこの先にある。
いつもはイグニスの決定には表立って反対しない彼女にとって、絶対に許容できないことがあるのだった。
「バルドは何も間違ったことはしていない。というわけで王立騎士学校への入学は中止ということにしようじゃないか」
「はっ??」
何を言ってるんだこいつ、という目をしてイグニスは瞬きをする。
突然マゴットが言いだしたことがあまりにイグニスの意表を突いたのである。
「だってそうだろ?バルドを再教育するために騎士学校にいれるんだろ?バルドが間違ったことをしてないとなれば入れる必要なんてどこにもないじゃないか」
要するにこのマゴット、大事なおもちゃ…もとい、大事な一人息子を手放すのが嫌で嫌でたまらないのであった。
「出来るわけないだろうそんなこと」
「なんでだい!」
今度は立場変わってイグニスがマゴットの非常識さを指摘し始めた。
結局のところ得意不得意はあっても根本的な部分で似たもの夫婦なのだろう。
「これは王立騎士学校校長のラミリーズ将軍の許可、ひいては国王陛下がお認めになったことなんだ。こちらの事情で勝手に止めてよいというものではない。それに騎士学校で学ぶのは何も騎士としての心得だけというわけではないんだぞ。バルドの将来にとって決して無駄になるようなことはないよ」
イグニスは少年の日をすごした王都の日々を思い出していた。
同い年の身分の壁を超えた親友たちと切磋琢磨した日々、休日の王都に繰り出して馬鹿をやって騒いだ楽しい時間、そのすべてがイグニスにとって大切な財産だった。
そして初めて抱いたあの女性との―――――。
「女だね?」
「うえっ?」
初めて付き合った思い出の女性をつい思い浮かべてしまったのがまずかった。
イグニスから過去の女の匂いをかぎとったマゴットは、たちまち戦場を支配する残酷な女神銀光のマゴットへと変貌した。
「…………そうかい……まさか童貞を捨てた思い出の場所に、私の大切なバルドを送り込もうとしたとはねえ?」
「いいいい、いや、そういうわけではなくてね?お願いだから冷静になって、マゴット」
「ふふふふふふふふふふ……こんな不愉快な気分にさせられたのは久しぶりだよ。どうだい?久しぶりに戦場舞踏と洒落こもうじゃないか………」
「ちょっ!過去の過ちは時効って言ったじゃん!」
「私のバルドを穢そうって馬鹿には罰が必要なんだよ!」
―――――一刻後、ボロボロに体中を内出血だらけにして転がされたイグニスは鉄壁イグニスの名に恥じず見事自らの命を守りきった。
そして肉体言語によるマゴットの懸命の説得にも関わらず、遂にイグニスはバルドの入学を強行することに成功したのである。
もっともそのために払った代償は甚大というほかはなく、しばらくコルネリアス家では夫婦の寝室から叩きだされて執務室で毛布にくるまるイグニスの姿が目撃されたという。
なお翌日。
「行きます!私、絶対に何があってもついていきます!」
「頼んだぞセイルーン。ラミリーズのじい様には私から話を通しておく。何があってもバルドに悪い虫をつけるんじゃないよ!」
「お任せください奥様!」
がっちりと握手する二人にイグニスは未来のバルドの苦労を幻視した。
どう見ても息子(夫)を心配する姑と嫁の姿にしか見えなかったからである。
まあセイルーンが嫁になること自体は構わないが。
「手に余ることがあったらすぐに私を呼ぶんだ。遠慮なんてするんじゃないよ?あの馬鹿旦那みたいにこの年頃の男なんてすぐに童貞を食われちまうんだから!」
「勿論です。坊っちゃまのパオーンに他の女を近づけるわけには参りません!」
「パオーン?」
「い、いえいえ、坊っちゃまの貞操はこのセイルーンが命に代えてお守りします!」
哀れな息子よ。この際だからセイルーンを早めにこまして味方に引きずりこんだほうが………。
「また私と舞踏を踊りたいのかしら?」
「息子をしっかりと頼む」
すまん息子よ。父も命が惜しいのだ。
旅立ちの時が来た。
馬車に乗ったバルドはイグニスとマゴットに深々と頭を下げる。
「それでは行って参ります。父さま、母さま」
当然のようにバルドの隣の席を確保したセイルーンは目的を達して満面の笑みである。
これでライバル、セリーナに一歩リードすることが可能となったのだ。
もっともあのセリーナのことだからすぐに王都まで追いかけてきてしまうとは思うけれど。
「しっかりと学んでくるのだぞ」
「もう一度自分を見つめなおしてみたいと思います………」
最近とみに虚ろな目で自分を卑下する傾向があるが、それほど先日の叱責がショックだったのだろうか。
先日などは生まれてきてすいませんなどと言っていたからな……。
しかし若いバルドのことだ。きっと立ち直りさらに大きな成長を見せてくれるに違いない。
「これまでありがとうございました、母さま。教えていただいた武がどこまで通用するか試して参ります」
「ふん……王都の稽古に飽きたらまたあたしがしごいてやるさ」
(意訳)
「いつでもうちに帰ってきていいのよ?」
「そうならないように精進いたします」
「くっくっくっ………まああまりぬるいようなら私が直接殴りこみに行くからね?」
(意訳)
「あまり母を一人にしているとこっちから会いに行っちゃんだから!」
御者がイグニスに向かって頭を下げると鞭を振り上げ、簡素な二頭立ての馬車は遂に王都へと動き出した。
座席から身を乗り出してバルドは見送りに来てくれたコルネリアス家の人々に大きく手を振った。
「みんな!今までありがとう!行ってきます!」
街道から馬車の姿が見えなくなるまで、バルドもイグニスもマゴットも手を振り続けた。
そして馬車が見えなくなると同時に、マゴットはイグニスの胸に抱きついてすすり泣きを漏らした。
「ううっ………バルド……バルドぉ………」
ぐしぐしと娘のように泣き続けるマゴットを優しく抱きしめて、イグニスはマゴットの耳元に囁いた。
「よく我慢したね。立派だったよ」
「ふええ………」
マゴット・コルネリアス、鬼教官が板につきすぎたのか、さびしがり屋なくせにどこまでも息子の前で素直になれない女であった。
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