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 太平洋戦争末期の1945年4月、空襲に備えた「建物強制疎開」で、舞鶴市中心部の多くの家屋が取り壊された。戦時中の証言を記録する活動を続ける市民団体「戦争・空襲メッセージ編さん委員会」が30日、同市浜の市商工観光センターで、その歴史を語る会を開く。

 委員会の関本長三郎事務局長(72)が、府立総合資料館(左京区)に残る府知事行政文書や疎開跡地計画図などから、舞鶴での建物疎開の全体像を明らかにした。幹線道路沿いを中心に空き地帯10カ所、小空き地9カ所を設けるため、10日ほどで1094棟が取り壊されたという。

 地区別では、上横町通り(西舞鶴)、広小路通り(同)、東舞鶴駅周辺、大手通り(西舞鶴)、三条通り(東舞鶴)で100戸以上が壊された。府は対象戸数を1500棟としていたが、最終的には内務省が1200戸と決めたこともわかった。作業には海軍や警防団が協力し、町内会や消防団は勤労奉仕隊を組織して後片付けなどを手伝ったという。

 関本さんは、当時を知る70~90代の市民ら20人に聞き取りも実施。語る会では、このうち3人が当時の様子を話す。当時国民学校5年生で、自宅が建物疎開で壊された畑中敏江さん(81)は「金属回収令で家業で使っていた印刷機を無念にも父が壊した。その後、建物疎開を命じられ、馬車につないだ荷車に家財道具を積み終え出発しようとするとき、住み慣れたわが家と工場がロープで倒された」と振り返る。

 関本さんは、舞鶴の建物疎開の全体像を説明する。「対象の家屋は抜き打ちで指定され5日以内の退去を求められたのに、市民から不満の声はあまり聞かれなかった。空襲時の退去・避難を禁止した防空法もあり、政府や軍の命令には逆らえない雰囲気が強かったのではないか」と話す。

 語る会は午後1時半から。資料代500円。問い合わせは関本さん(0773・62・5736)。

  ■建物強制疎開

 建物強制疎開 太平洋戦争末期、空襲による延焼の防止と避難場所確保を目的に、国の命令を受けた都道府県により実施され、約61万戸が解体された。府も1944年7月に疎開実行本部を設け、建物の所有者には知事から建物除去命令が出された。京都市でも約1万6千戸の解体が計画された。