障害者と社会 どんな命も輝いている
この世に生まれてきた命に価値のないものはない。理不尽な犯罪の犠牲になった障害者、あまりの悲劇にうちひしがれている家族のために、命の重さについて考えたい。
「どのような障害があっても一人一人は命を大切に、懸命に生きています。事件で無残にも奪われた一つ一つの命は、かけがえのない存在でした」
19人が死亡した相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件で、知的障害者の親たちがつくる「全国手をつなぐ育成会連合会」が声明文を発表した。障害者の家族や支援者の間で静かな共感が広がっている。
何をもって幸せと感じるのかは、その人固有の価値観に基づくもので、第三者が自分の考えに照らして幸不幸を判断できるようなものではない。重度の障害者を不幸だと決めつける人は、人間の尊厳に対する理解が不足しているのだろう。
「寝たきりの人をねらった」と植松聖容疑者は供述しているというが、寝たきりの障害者も人生を楽しんで生きようとしているのは私たちと一緒だ。友だちや支援者との交流、美しい音楽、おいしい食べ物に顔を輝かせ、光や風といった自然にふれる瞬間に喜びを表す人もいる。つつましい日々の営みの中にも幸せはあるのだ。
そして、重度の障害を持つ彼らのことを誰よりも大事に思っている家族がいる。警察が被害者を匿名で発表していることもあって、彼らがどれだけ愛されて生きていたのか、どんな人生を歩いてきたのかを私たちは知らない。
その一方で、「障害者は不幸をつくることしかできない」などという植松容疑者の身勝手で誤った主張ばかりが世間に流布されている。そんな状況に居たたまれなさを感じている人は多い。
「障害者は不幸をつくる」とは、障害者福祉に公的費用がかかり、ケアをする家族の負担が重いことを言っているのかもしれないが、あまりに一面的な見方だ。
障害者の日常生活のケアで疲れ、将来を不安に思っている家族はたしかに多い。しかし、それは社会的な無理解や偏見、福祉サービスの不足のために家族にばかり負担が掛かっているからでもある。
親が子どもに抱く愛情は障害の有無とはあまり関係がなく、むしろ障害があるからこそ強い愛情と信頼で結びついている親子もいる。重度の障害者から有形無形の恩恵を受けている家族がたくさんいることも知るべきだ。
どんな命も輝いている。もう一度、社会全体で確認したい。