高城と呼ばれる標高74.8mの小山塊が、元寇の勇士竹崎左兵衛尉季長の居城跡と伝えられる竹崎城跡です。
城跡の西側には標高59.7mの江上寺山(現清香園)が立ちふさがり、城の出丸的役割を果たしていたと思われます。城跡とそれとの間には、南北両側より2つの迫が入りこみ、その出会った面と南側斜面には20度近い帯曲輪があり、よく中世城郭の特徴を表しています。
しかし、県下の中世城の時代的変化にあてはめた場合、山城としては古い形態を備えた城ですが、その施行状況や形態から竹崎城の始原は南北朝から室町前期ころに求められます。すなわち、竹崎城を季長と結びつけることは可能性が低いのです。最も数代後の季長の子孫によって古代の交通の要所であった竹崎に築城された可能性は大きいし、豊福城との関連も問われています。
竹崎城を季長の居城とする伝承は、竹崎季長の出生地としての竹崎に古来から存在した中世城を関連づけた後生人(おそらく江戸時代中期)の付会の説と思われます。竹崎季長の出自については、従来阿蘇家臣と書かれているほか分かっていませんが、「蒙古襲来絵詞」の分析によって玉名郡旧竹崎村出身の菊池一族の竹崎氏であろうとする説が有力です。またその子孫には、名和氏家臣で豊福城主だった竹崎玄蕃允安清があります。
【詳細】
所在地 : 宇城市松橋町竹崎
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