原文:Mr. Lismore and The Widow (W. W. Collins)
https://ebooks.adelaide.edu.au/c/collins/wilkie/little_novels/chapter5.html
参考:英文を読み解き訳す(藤岡啓介)
1
ある秋の終わりのこと、それほど前ではないのだが、市長の主催でロンドンの市長官邸のマンションハウスで公開討論会が催されたのだった。
登壇者はふたつのねらいから選ばれた。みな有名人で、大衆の熱狂を呼び覚ますような弁士であり、そして貿易関連でなんらかのコネをもっている。そのため、討論会の趣旨の説明には都合がいいというわけだ。うまく経費を使って広報し客入りは上々といったところ、討論会開始前には満席だった。
遅れてきたひとのうち、立って見るか会場から出ていくかを余儀なくされた女性がふたりいた。ひとりはすぐに出ていくことにして、
「車に戻るわ。入口で待ってるから」
といった。
「そんなに長くかからないわ。かれは第二議案の支持演説で登壇するし、それを見て戻るから」
と、もうひとりの女性が答えた。
初老の紳士が客席の端に座っていて、かれは立ち上がると会場に残った女性にどうぞとじぶんの席をすすめた。彼女は老紳士の親切に甘えることをためらったけれど、ご友人とのお話を聞いてましたので、とかれがいった。第三議案になればまた座りますのでお気になさらずに。小さく礼をいって、彼女は老紳士が座っていた席についた。名の知れた登壇者が演台に立つたびに、かれは持っていたオペラグラスを何度も渡そうとしたのだけれど、彼女はシティの船主だと知られる登壇者が第二議案の支持演説で演台に上がるまで、オペラグラスを受け取らなかった。
広告にあったその男の名前はアーネスト・リズモアといった。
かれが立ち上がった瞬間、女性はオペラグラスをかしてといった。長い時間それを目にあてていて、あきらかなリズモア氏への関心は周囲のひとの興味をひいた。ぜったいにリズモア氏の知人でもないだろうに、なにか個人的に興味のあることでもいうのか? 演説には熱心にオペラグラスでかれを凝視しているこの女性の気をひくだろうものなどなにもなかった。かれはだれがみてもハンサムで、その出で立ちは人生でもっとも脂がのった時期にあることを物語っていて、おそらくは三十半ばといったところだろうか。しかし、なぜこの女性がここまでかれにこだわるのかということは、いっこうにわからなかった。
詫びをいれてオペラグラスをかえすと、彼女はどことなく深刻そうに老紳士にたずねた。
「なにか気づいたりしませんでしたか? リズモアさん、どことなくうわの空だったとか」
「いや、とくになにも」
「演説がおわってすぐに演台を離れたってことに違和感をお持ちになりませんでしたか?」
登壇者へのただならぬ関心のためについ口に出してしまったこのことばは、客席の端に座っていた女性にも聞こえてしまった。老紳士が口を開く前に、彼女はせきを切ったように語りはじめた。
「リズモアさんが心配なんです。どうやらお仕事のことでトラブルをかかえてらっしゃるようで。きのうシティにいた主人からきいたのですが、リズモアさんだいぶ気が滅入っていたらしいんです。その問題っていうのは――」
弾けるような大きな拍手が彼女のことばをかき消した。著名な国会議員が第三議案の提案のため立ち上がった。親切な老人は席について、そして女性は友人と落ち合うべくホールをあとにした。
「カレンダーさん、リズモアさんにはがっかりした?」
「まさか! でも気がかりなことを聞いていたの、資金関係のことでやっかいな問題があるって。かれの住所を知るにはどうしたらいい?」
「途中にある文具屋で住所録を見せてもらえばわかるんじゃないかしら。リズモアさんに会いにいくつもりなの?」
「そのつもりよ」
創作としての翻訳について
はじめて原文(英語)で海外の小説を読んだのは、いまから4年前、ぼくがアメリカに留学していたときだった。出国のときに帰国のことを考えると、日本からそう多くの本をもっていくことはできないし、電子書籍というのはどうも肌にあわない、というわけで現地で読む本というのは現地で調達しなくてはならなかったし、出国を前にして翻訳者でもある知人が母語とは違うことばで本を読み、文章を書くという経験をしてみるのはどうかと、それほど強くはない、お酒も飲んでいたしどっちかというとおもいつきみたいなものだったけれど、いちおうは提案してくれたのだった。
渡米して最初の一か月など、生きていくことにひたすら必死で、本を開く余裕なんてなかった。読み書きの英語ならひとなみにはできたけれど、聞くのと話すのはとにかく苦手で、とくに苦労したのは日常会話だった。むしろ、研究とかの専門的な話のほうが伝わるし、聞いていても理解できる。しかし日常会話というのはえてして知らないことばのオンパレードで、最近あったテレビドラマの話とか、Twitter上で流行ってるジョークや、音楽の細かな話になってくると、どうしてもラボの面々の会話についていけなかった。
一か月経って、すこしだけ余裕ができたときに読み始めたのがオーウェルの「動物農場」だった。
- 作者: ジョージ・オーウェル,George Orwell,高畠文夫
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毎晩1時間くらいはこれを読む時間にあてていて、おなじ家に住んでいた歴史学者のおじさんがリビングで会うたびにオーウェルはいいよね、といっていた。かれはロンドン出身で、一週間後に20年ぶりに祖国に帰っていった。読了にはすこし間に合わなかった。
翻訳についてはこれまでに何度か試みていて、じつはそういう同人誌をつくってみようと計画していたこともある。けっきょくは計画だけで終わってしまったのだけれど、そこでぼくが考えたかったのは、読む、という行為をどれだけ創作に近づけられるかということだった。たとえば亀山郁夫先生の新訳「カラマーゾフの兄弟」が出たとき、多くの批判が集まったという話をおぼえている。批判の詳細についてはいまとなっては憶えていなくえれど、もちろんロシア文学研究の第一人者であるかれにとって、19世紀ロシアの状況であり、語彙であり、そして作家理解というものはなによりも優先されねばならないというのはわかる、しかし、外大の後輩がmixiに
「翻訳というのは究極の読書であり、解釈の結晶だ。言語というものが完全に1対1対応しないという前提が、訳者に困難と自由を与える」
ということを書いていた。かれは原文でカフカを読みたいといっていた。
ぼくはあくまで個人的な読書のために、創作として翻訳をやってみようとおもった。読書をするときにぼくのなかでわずか、でもたしかにある「文章の表面とぼくのこれまでの経験」がまざりあうような運動を、なんとかしてひきずりだしたかった。だから今回の訳では「馬車」と訳すべきところをあえて「車」としたり、句読点の位置や叙述の順序を入れ替えたりもしている。
ただ、あまりにも技量がおいついていないので、いまはまだ原文と手持ちのことばの両方に振り回されてしまっているし、外国語を相手にしているという不自由さばかりが目立った訳しかできていない。その不自由さに言語的なおもしろさを見出している小説もあるのだけれど、もっと量をこなさないとそれは見えてこないとおもう。
ぜんぶで11章あるこのコリンズの短編のなかで、ちょっとはマシに英語を使えるようにはなりたい。
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