パキラの葉
その部屋は渋谷区神泉の交差点を
真っ直ぐ下ったところにあった
隣人の顔は知っていたが
大家の顔は知らなかった
初めての一人暮らし
六畳二間
未来予想図は描いていたが
それは当てのない約束
心の中には簡単に倒れてしまいそうな
口には出せないドミノがあった
僕は旅から帰ってくると
いつも「ただいま」と言ってドアを開け
直ぐにテレビを点けた
がらんどうとした部屋
人恋しかったのだ
真夏の太陽がビルに消されてゆく
友人宅へギター持って遊びに行った時だった
僕たちは夢を語りギターを鳴らし合った
その時だった
ふいに持ち上げたギターが
観葉植物にぶつかってしまったのだ
バサリと音を立て落ちた一枚の葉
床の上に手のひらのようになって動かない
僕はすまない気持ちでいっぱいになった
僕はその小さな葉をギターケースに入れ
部屋に連れて帰った
友人が飲んだビールの空き缶を
何度も丁寧に水で濯ぐ
僕は早速その葉をビール缶に挿してみた
毎日のように水を変えてあげた
葉を拭いてあげた
話しかけた
「ただいま」と言える相手ができたのだ
仕事の帰りを待っていてくれているようだった
僕と一枚の葉の生活が始まった
頑張って生きていてくれる
それだけで嬉しかった
1ヶ月を過ぎようとしていた
いつものように水を変えようとしていた時だった
茎に糸のような根が生え始めていたのだ
命を見た瞬間だった
その根が5センチくらいになったころ
僕は鉢を買ってきて
小さな命を土に植えた
葉は賢明に生きようとしているようだった
「僕がいなければこの葉は生きてゆけない」
そう思うと愛おしくて仕方がなかったのだ
しかし
間もなく僕は忙しくなった
旅が始まったのだ
旅は1週間10日とつづいた
そして
2週間の旅からか帰って来たある日
「ただいま」とドアを開けた時だった
葉が横たわっていたのだ
僕は「ごめんね、ごめんね」と水をあげ
お箸で当て木をしてあげたが
葉は元に戻らなかった
僕は葉を埋葬のように土に埋めた
それから間もなく
その土でポトスを栽培した
そのポトスは今もリビングで生きている
不思議にあの部屋の夢を未だに見る
あの頃の僕になって住んでいる夢なのだ
ステレオラックの上には
缶ビールに挿さったパキラの葉があった